9話 新しい出会い
イベントが終わり二階の自宅に帰った龍彦は、雑にバックを床に落とし、勢いよくソファーに座り込んだ。
「はぁー、どうしよー!バレてないよね!?あぁ、もう何であんな寝込みを襲うような事しちまったんだ!中学生か俺は!」
どうやら寝ている景子の唇を奪った事を後悔しているらしく、龍彦は両手で顔を覆いゴロゴロとのたうち回っている。
「トカゲちゃん、絶対ファーストキスだよな。あぁ!大事な初めてが寝てる時なんて!」
「ん、待てよ。俺が黙ってればいい話じゃねぇか!トカゲちゃんの初めてはもっと特別なもんじゃねぇとな」
「よし!いつも通り、いつも通りにな」
彼の情緒は不安定だ。
この事を景子に知られてはならない。龍彦はキスの件を無かった事にしようと心に誓うのであった。
「あっははは!凄くよく似合うよアゴノスケ。どう?暖かいでしょ?」
(おいおい、なんだこれは。背中がほかほかしてきやがる。まぁ悪くはねぇけどよ)
次の日、景子は早速手に入れたフトアゴ用の服をアゴノスケに着せて楽しんでいた。
犬用の服は犬種によって必要な場合もあるだろうが、爬虫類のアゴノスケにとってそれは完全に不必要と思われる。しかし、なぜか着せたくなる。それは爬虫類に魅せられた者の性なのかもしれない。
そんな事を考えながら、景子は夢中でシャッターを切る。
(なんだなんだ?そんなに俺様の写真が撮りたいのか?仕方ないなぁ、ほれ、どうだ!……次はこんなのはどうだ!)
アゴノスケも満更ではないようで、次々とポージングを決めている。景子はまるでカメラマンになった気分で、ポーズを決めるアゴノスケの爬虫類らしからぬ行動に何の疑問も抱いていなかった。
「お、アゴノスケが服着てる」
SNSの投稿を見つけ、龍彦はニヤリと笑う。
「平戸さんすか?どれ、見せてくださいよ。……ブハッ、木に片手ついて、人間みてぇ!……ん?なんかちょっと、ポーズ決めすぎじゃないっすか?」
さすがに違和感を感じたのか、渋谷が怪しむように写真を見つめる。
「うーん、まぁそう言われちゃあ、ちょっと人間らしすぎるな。もしかして、人の言葉がわかってたりして……」
二人はしばらく真剣に考え込む。
「いやいや、流石にそんなわけないでしょ。タツさん、アニメの見すぎじゃないっすか?」
「はは、だよなぁ。そりゃないか、ってお前が変なこと言うからだろが!」
「イテッ」
幸いあまり怪しまれずに済んだが、渋谷はゲンコツを喰らい、痛い目を見るはめになった。
ご機嫌な景子とは対象的に、高橋はだいふくのケージの前でため息をついていた。イベントで龍彦と景子のキスを目撃してから、高橋はモヤモヤとした気持ちが治まらなかった。
「はぁ。あの二人って、やっぱり付き合ってるのかな……」
(なーにさっきからこっちに向かってため息ばっかついてるのよ。……はっ!その伏し目がちな切ない表情。あんた、さては恋、だね)
だいふく姉さんは乙女の勘をフルに働かせ、見事に高橋の悩みを的中させていた。
「ごめんな、だいふく。ため息ばっかりで」
(ふん、仕方ない坊やね。もっと男らしくならなきゃモテないわよ!)
真っ黒な瞳をキリッとさせて、だいふくはケージの中から熱い視線を送る。
「だいふく、もしかして励ましてくれてるのか?」
(今日は特別よ。だいふく様の美しい体を見て元気だしなさいな!)
「もしかして、今日は手に乗せたり出来るかな。だいふく、ほら、こっちにおいで」
高橋はケージに手を入れ、だいふくに手のひらに乗るように誘う。
しかし、だいふくはその手をじっと見ると、のそのそとシェルターに戻っていった。
(ふ、あまり調子に乗りすぎないことね)
「はぁ、だいふくぅ。そっけない……でもそんな所も良いんだよねぇ」
だいふくのツンデレ具合に、高橋も少しは元気を取り戻したようだ。
「あ、高橋さん、お疲れさまです。この前はいいシェルター見つかったんですか?」
一人休憩をとる高橋を見かけ、景子は話しかける。高橋は一瞬ビクッとしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「ひ、平戸さん、お疲れさま。うん、パンダの顔したシェルターがあってね、一目惚れして買っちゃった」
スマホの写真を見せてもらい、景子は嬉しそうに微笑む。
「わ、可愛いですね!白い体のだいふくちゃんにピッタリですよ」
「でしょ?あ、平戸さんも、アゴノスケ君の服、買ったんですよね?」
「そうなんです。暖かいからか、アゴノスケも喜んでました。似合いすぎて、写真撮りすぎちゃいましたよ」
普段より少し興奮気味の景子に、高橋はクスッと笑いがこぼれる。心の隅にはあの時の光景がぼんやりと残っていたが、景子と話していると、自然といつもの自分でいられる気がした。
「あ、そういえば。来月から新しい人が入ってくるらしいですよ。定年退職された方の代わりみたいです」
「そうなんですか。しばらく新人さん来なかったですもんね。どんな人でしょう」
「そこまではわかりませんけど。いい感じの人だといいですね」
暖かな空気は分厚い雲に隠れ、冬の空気に入れ替わる。
ある日の通勤時間帯、ひんやりと乾いた風が吹く並木道を、一人の女が走っていた。
「ヤバッ!初日から遅刻はヤバイって!」
なんとかギリギリ間に合ったようで、女は額の汗を拭い、弾んだ息を整える。
「遅くなって申し訳ありません。今日から入社になる蒼井美鈴です」
「あ、蒼井さんだね。今日からよろしくお願いしますね」
蒼井は部長に挨拶を済ませると、景子達が働く部署に案内される。
「おはようございます。えっと、今日から入社された蒼井美鈴さんです。皆さんよろしくお願いしますね。デスクは高橋くんの隣でいいかな。では、高橋くん、色々教えてあげてくださいね」
「え?は、はい」
高橋は緊張した面持ちで返事をする。
「よろしくお願いします」
明るい髪色でショートカットのその女は、深く頭を下げると明るい笑顔で微笑んだ。
「先輩!このラフ画、確認してもらっていいですか?」
「は、はい。えっと……」
蒼井は高橋の横にピッタリくっつくように座る。
「あ、あの、蒼井さん?ちょっと、近いような……」
女性と話すだけでも緊張してしまう高橋は、背中に胸がくっつくほど接近され、だらだらと冷や汗を流していた。
「えぇ?そんなこと無いですよぉ。それより先輩、確認できましたぁ?」
蒼井はなんとなく上目使いで甘えるように話す。
(こ、こんなの平戸さんに見られちゃったら)
気になって景子の方をチラリと覗いたが、景子は気にする様子もなく自分の作業に没頭していた。
(だよねぇ。わかってたけどぉ……)
見られていなくて良かったと思う反面、少しは気にしてもらいたい高橋だった。
休憩時間になり、やっと蒼井に解放された高橋は逃げるようにお昼に向かう。
しかし、すかさず後ろから小悪魔が声をかけてきた。
「せんぱーい、休憩一緒にいいですか?」
「うっ、蒼井さん。休憩時間まで僕と一緒にいなくてもいいんだよ。ほら、気を遣うでしょ?」
遠回しに断ろうと頑張るが、コミュニケーション能力は確実に相手の方が格上だった。
「そんなことないですよ!私、入社したばかりで、一人だと不安なんです。それとも、私がいたらお邪魔、ですか?」
潤んだ瞳で訴えられ、高橋はもう断ることは出来ず、諦めて一緒に休憩に行くことにした。
社員食堂で食事をしている最中、高橋は常に蒼井からの質問攻撃を受けていた。
「へぇ、平戸さんと同期なんですね。やっぱり結構仲良いんですか?」
「い、いやぁ、そんなに話すこともないし」
「うーん、平戸さんも大人しそうな感じですもんね。でも、もったいないですね。この職場、同年代の人も少ないですし、私だったらガンガンアタックしちゃいますけど」
「確かに、君なら変な気遣いしなさそうかも……あ、ご、ごめん!失礼なことを」
変なことを言ってしまったと、高橋は慌てて口を塞ぐ。すると蒼井は少し意地悪な表情でにんまり笑った。
「ねぇ、高橋さんて、彼女とか好きな人っているんですか?」
「い、いないです、けど、好きな人は……」
高橋を下を向いてモジモジと答える。そして頭の中にはぼんやりと景子の顔が浮かんだ。
「えぇ!好きな人いるんですか!あ、もしかして平戸さんなんじゃ」
「ちょ、ちょっと声大きいって!静かに」
なかなかの声のボリュームに、高橋は慌てて制止しようとするが、なかなか蒼井の口は止まらない。
「私、恋ばなって大好物なんですよ!よかったら協力しますんで、また色々教えてくださいね。あ、もうこんな時間!」
ふと時計の時刻を見ると蒼井は急いで席を立つ。
「じゃ、私一服してきまーす!」
まるで台風が過ぎ去った後のようにあたりは急に静かになり、高橋は頭を抱えて机に伏せた。
「勘弁してよぉ」
深夜、蒼井はベッドに大の字に寝転び、じっと天井を見つめる。
「はぁ、疲れた。でも、面白い人がいて良かったかも」
そう呟くと、蒼井は思い出したように吹き出して笑いだす。
「あはは、あの女慣れしてない感じ、サイコーだわ。明日もからかっちゃお」
どうやらとんでもない新人が入社してきたようだ。
その頃、高橋は悪夢にうなされ、寝苦しい夜を送っているのだった。
「うーん、来るなぁ……悪魔、悪魔だぁ」
(なぁにブツブツ言ってるのかしら。寝るときぐらい、黙って寝なさい!)
夜行性のだいふくは、うなされる高橋を冷ややかな目で観察していた。