6話 気持ちの変化
「ここ、俺の行きつけなんだ。遠慮せず入っちゃって」
龍彦に促されるまま、りゅうちゃんの向かいにある小さなBARに入っていく。
店内はカウンターだけで他に客はおらず、薄暗い中でリクガメがいるケージがぼんやりとライトで照らされていた。
「いらっしゃい。って珍しいね、お前が誰か連れてくんの」
「うるせぇ、いいだろ別に。さ、トカゲちゃん隣座ってぇ」
「あ、ありがとうございます」
龍彦は椅子を引いて、景子を隣に座らせる。
「お飲み物、何にしますか?」
「え、えっと」
普段ほとんどお酒を飲まない景子は、何を注文すればいいのかわからずキョロキョロとメニューを探す。
しかしメニューなどは無いようで、それに気づいた龍彦が適当に注文をする。
「諒、何か甘めの飲みやすいやつ。あとウーロンハイ」
「はいはい。お姉さんは、お酒大丈夫なの?」
「えっと、全くダメでもないんですけど、普段はあまり飲みません」
「おっけ、じゃアルコール弱いのにしとくね」
「ありがとうございます」
しばらく落ち着きなく座っていると、龍彦がクスクス笑い出す。
「ふふ、トカゲちゃんそんな緊張しないでよ。俺の事、そんなに怖い?」
「いえ、怖いとかじゃないんですけど、こういうお店初めてで」
飲みの席は会社の忘年会くらいしかなく、こういったBARに男性と二人で入るシチュエーションもなかったため、景子は変に意識してしまっていた。
「そ?なら良かった。ねぇ、今日はアゴノスケにご飯あげてきたの?」
「はい!出勤前に。今日もモリモリ食べてました」
アゴノスケの話題になり、景子は朝の様子を思い出して笑顔で答える。
「あ、やっと笑った。俺、トカゲちゃんの笑った顔好きなんだー」
目を細め、龍彦は嬉しそうに笑っている。そのストレートな言葉に、景子は頬を赤らめた。
そんななんとも照れ臭い空気の中、注文の飲み物がカウンターに置かれる。
「ほい、ウーロンハイに、カルアミルクね」
「なんだよ諒、タイミング悪いぞ」
「へへ、一人だけいい思いさせてたまるか」
言い争う二人を気にもせず、景子は丸いコロンとしたグラスとカフェオレのような飲み物に興味津々だ。
「なんか、コーヒーみたいで美味しそう」
「あたり!コーヒーのリキュールだよ。度数も低めで飲みやすけど、念のためゆっくり飲んでね」
「結局シェイカー使わなかったのな。せっかくまたとないチャンスだったのに」
「あのねぇ、シェイカー使うやつは度数の高いのが多いんだから、悪酔いしちゃったら大変でしょーが」
まるで説教をするように言い聞かせるているが、龍彦は全く聞いていなかった。
「さ、トカゲちゃん、乾杯しよ。カンパーイ!」
「はぁ、お前さぁ」
呆れるマスターが少し不憫に思えたが、景子も早く美味しそうなお酒を飲んでみたくなり龍彦とグラスを合わせた。
「はぁ、甘くて美味しいです」
ミルクがまろやかで、本当に甘いカフェオレのようだ。景子は幸せそうな顔で味わっていた。
「でしょ?この店、客はほとんどいねぇけど、酒とメシは美味いんだよね。あ、マスターは水島諒って言って、俺とタメなんだ」
「同い年なんですね。そう言えばタツさんていくつなんですか?」
「えへ!今年で30だよー」
龍彦は三本指をピョコピョコ折り曲げはしゃいでいる。
「ほんと、ちょっとは落ち着けよお前はよぉ。お姉さん、面倒くさかったら無視していいから」
「あっはは、はぁ」
「トカゲちゃんは無視なんかしないの!ほら、さっさと仕事しろ」
「へいへい」
龍彦に追い払われ、呆れた水島は少し離れた場所で仕込み作業をする。
「あの、今日はどうして……」
景子は何故飲みに誘われたのか気になり、思い切って龍彦に尋ねた。
「んん?うーん、別に。ただトカゲちゃんとゆっくり話したいなって思っただけ」
龍彦はポリポリとナッツを食べながら軽く答える。
景子は自分なんかと話をして楽しいのかと不思議に思ったが、はぁと気の抜けた相槌を打った。
「ね、トカゲちゃんて彼氏とかいんの?」
唐突な質問に、景子は思わず吹き出した。
「ゴホ、きゅ、急にどうしたんですか?」
「えぇ?だって気になるじゃん。まさか、あの高橋って野郎と……」
穏やかだった表情が急に鬼の形相になり、景子は大慌てで否定する。
「違いますよ!高橋さんはただの同僚です。それに私、彼氏なんていたこと無いですし……」
自分で暴露しておいてだんだんと恥ずかしくなった景子はモゴモゴと口ごもってしまった。
すると龍彦は急に真剣な表情で景子の顔を覗き込む。
「それって、ほんと?」
暗がりで妙な迫力があり、景子は何も言えずただただ頷いた。
「はぁー、良かったぁ」
龍彦は心底ホッとしたようにカウンターにうなだれている。景子は何か話題を逸らそうとして、ふとリクガメが目に入った。
「あ、あぁ、そう言えば、このリクガメさんはタツさんのお店の子なんですか?」
「ん?あぁ、そうだよ。諒が店出した時にウチに挨拶に来て、その時に一目惚れして買っていったんだよ。こいつも結構な爬虫類好きでさ」
「そうなんですね。亀さん見てるとのんびり出来るし、お店にも合ってますね」
リクガメはゆっくりとエサの野菜に噛りついている。薄暗い店内でそれを眺めていると、気分が落ち着くような気がした。
ふと視線を感じて振り向くと、龍彦がカウンターに頬杖をついて笑顔で景子を見つめていた。
「トカゲちゃんも、すっかり爬虫類が好きになっちゃったね」
「そういえば、そうかも。最近はフトアゴヒゲトカゲの事ばかり調べちゃってますし」
景子は照れ臭そうに笑いながら答える。以前は犬や猫などの動画ばかり見ていたと言うのに、不思議なものだ。
「わかる。俺も昔はネットでずっと調べてた。特に飼い始めは心配でさ、何かと気になっちゃうよね」
「そうですね。タツさんも昔、何か生き物飼ってたんですか?」
「蛇。ボールパイソンってヤツで、柄がカッコよくてさ。バイト代貯めて初めて買った爬虫類なんだ。もう十年くらいだけど、今も一緒に住んでるよ」
龍彦はそう言うとスマホの写真を見せてあげた。
写真には1メートル以上はあると思われる蛇が、笑顔の龍彦の首に巻かれている。柄はくっきりと綺麗な網目のような模様だ。
「なんだか、すごい写真ですね。蛇さんの柄はとっても綺麗ですけど、危なくないんですか?」
「全然。大人しい良い子だよ、毒もないし。最初はビビリでさ、すぐ丸くなってたなぁ。ちなみに、ボールみたいに丸くなるから、ボールパイソンって言うんだよ」
「へぇ、なるほど。タツさんて、爬虫類の事なんでも知ってるんですね」
「まぁ一応、爬虫類ショップやってるからね。まだまだ知らないこともあるけど、結構楽しいよ」
景子は、ニっと歯を見せて笑う龍彦の姿が眩しく見えた。いつまでも好きなことを楽しいと思える事が、少し羨ましかったのかもしれない。
「でも、客は全然来ねぇけどな」
ぼんやりと龍彦を見つめていると、水島が会話に入ってくる。
「うるせぇ。客がいねぇのはお前もだろ」
「はは、まぁそうだな。それより、ほい、オムライスどうぞ」
水島はオムライスをポンと二つカウンターに置いた。
「お、気が利くじゃん!トカゲちゃん、遠慮なく食べちゃって。諒のサービスだから」
「いいんですか?とっても美味しそうですけど」
半熟の卵とデミグラスソースと生クリームがかかったオムライスは、見た目も綺麗でいい匂いだ。景子は仕事終わりで空腹だった事を思い出し、思わず唾を飲み込んだ。
「気にしなくていいよ、ちゃんとタツに請求いくから」
「なんだよ、ケチ」
龍彦には悪い気がしたが、空腹の景子は目の前のオムライスを我慢する事など出来なかった。
「タツさん、有難くご馳走になります!」
まるで侍の様な口調に、龍彦は思わず吹き出した。
「ぶふぅ!あっははは、トカゲちゃん、大袈裟だって。でもまぁ、冷めないうちに食べよ!」
お互いお腹が空いていたのだろう。二人はあっという間にオムライスを完食してしまった。
「ふぁー、やっぱうめぇ!こんなうまいのに客いねぇのもったいないわ」
龍彦はカランと勢い良くスプーンを置いて、満足気に腹鼓をうつ。
「ありがとな。まぁ、一言余計なんだけど」
「本当に、今までで一番美味しかったです!」
ふと景子の頬に目をやると、米粒が1粒くっついていた。龍彦は自分の頬をちょんと指で触り、景子に伝える。
「ふふ。トカゲちゃん、ほっぺに付いてるよん」
景子ははっと目を丸くし、慌てて頬を触る。
「あっはは!ありがと、美味しく食べてくれて。ところで、なんでトカゲちゃんて呼ばれてんの?」
「あ、えっと……」
「ふふん!平戸景子ちゃんだから。真ん中にトカゲって入ってるでしょ?」
景子が困惑していると、龍彦はなぜか自慢気に語り始めた。
「なるほどね。ってタツ、お前女の子にトカゲなんてあだ名付けんなよ」
「え、ダメ?めっちゃ可愛いじゃん。ねぇ?」
初めは戸惑ったが、景子は龍彦からそう呼ばれることは嫌ではなかった。むしろあだ名で呼ばれることを嬉しく思っていたくらいである。
「はい、私も気に入ってます」
「だよねー」
「はぁ、まぁいいけどよ」
嬉しそうに微笑む景子に、水島も呆れたように笑った。
そんなこんなで、龍彦とのサシ飲みは意外にも平和で楽しいものだった。
別れ際、龍彦は思い出したように切り出す。
「そだ、トカゲちゃん、良かったら連絡先教えて?……ってダメかな?」
急なことにぼんやりとしていると、龍彦は不安そうな顔をする。
「あ、いえ、全然大丈夫です!」
「ほんと!?えへへ、やったね!」
龍彦は子供のように嬉しそうに笑う。景子はそんな彼の表情が可愛く思えた。始めて出会った時はピアスもたくさん付いて怖い印象だったのだが、龍彦の内面を知った今、以前のような恐ろしさは全く感じなくなっていた。
「今日は俺の事ばっか話してた気がするし、次はトカゲちゃんの事、いっぱい教えてね!」
「はい!」
次も龍彦とこうやって会えるのかと思うと、景子は自然と明るい笑顔になり、元気に返事を返すのだった。
その頃、高橋は新しく迎えたヒョウモントカゲモドキの可愛さに夢中になっていた。
「はぁ、かわいすぎるよー。白い肌に真ん丸の黒目!……はっ、名前は、だいふくなんてどうかな?」
高橋はラックの上に置かれたケージをうっとりと眺め、だいふくの可愛さを堪能している。
(ちょっと、あんまりじろじろ見ないでくれる?ま、わたしの美しさに魅了されるのはしかたないけどね!……だいふく?ちょっと変わった名前だけど、まぁいいとしましょ)
だいふくは呆れたように高橋を見返すと、のそのそとシェルターに隠れた。
「あ、部屋に帰っちゃった。でも、お引っ越ししたばっかだし、しばらくそっとしないとね」
ふと何かを思い出した高橋は、渋谷に渡された店の名刺のQRコードをスマホで読み取った。
「これ、平戸さんもフォローしてたアカウントか。そうだ、僕もSNSでだいふくの可愛い写真アップしよ!」
テンションが上がっていた高橋は、ついさっき撮影しただいふくの写真を早速SNSに載せる。
「念願のヒョウモントカゲモドキ、お迎えしました。名前はだいふくちゃんです!」
帰宅した景子がふとスマホを見ると、以前コメントをくれたフォロワーが初投稿をしていた。気になって見てみると、つい先ほど見たヒョウモントカゲモドキの写真が写っている。景子はしばらく頭を悩ませるが、突然はっと閃いた。
「……wataru、わたる。あ!これ、高橋さんだ!」
同じ頃、2階の自宅でソファーに座っていた龍彦も、SNSの通知を受けとる。
「新しいフォロワー?あぁ、高橋の野郎か。……んん!?」
そのアカウントは見覚えがあった。景子の投稿に何度かコメントを残し、あんなに苛立ったのだから忘れるはずはない。
龍彦は徐々に恐ろしい鬼のような表情になっていく。
「わたる、高橋航!?……ってあいつかよぉ!くそが!」
龍彦は怒りのあまり、またしてもスマホをベッドに放り投げる。頭の中ではのほほんとした高橋の顔がグルグルと回っていた。
(あぁ、ご主人、今日もご乱心だな)
ケージの中のボールパイソンは、可愛そうな物でも見るように呟いた。