テラ、ギガ、メガ、ネ眼鏡
6/27 1 レフティー眼鏡
電車には人の多様さが広がっている。座席に腰を下ろしている人は女性が多い。優先座席は余っていたが誰も座りたがらない。あぶれた三人はドア付近で立っている。彼らのうち二人は大学生らしい服を着ている男性で、メガネをかけていた。一人はスーツを着ている中年の男だった。
まどろんで視野の上下が狭まる。後頭部を壁に預けて眠気に耐えた。一瞬寝落ちて、カクンと頭が揺れる。メガネが鼻先までズレたので、左手で眉間まで持ち上げる。寝不足時の電車は巨大なゆりかごと化す。また眠気が襲ってきた。
ぼやけた景色は、はじめメガネをかけていないからなのか、ただ寝起きだからなのか分からない。メガネの煩わしさを感じるたびにコンタクトにしようか考える。くしゃみをする時なんてブリッジを抑えないといけないのだ。
最近伊達メガネが流行している。弱視だから購入した俺のと同じようなデザインを、機能性以外での用途で使われている。外見上では弱視でも、いざ視力検査をしてみると⒈5なんてザラということだった。
『次は四天王寺前夕陽ヶ丘。右側の扉が開きます。ご注意ください』
社内にアナウンスが流れる。まずいな。キャンパスのある東梅田まで五駅も空いている。今だってアナウンスで目を覚ました。ここどこだと慌てるまでがセットだ。眠気に溺れそうだった。もう睡眠の浅瀬まで浸かっている。
いけない。このままだと乗り過ごす。水筒に入れたコーヒーを飲んだ。水分補給としてコーヒーは向いていないらしい。食堂ではお茶が無料なので、登校してお茶を二杯飲む。あとは帰るまで飲まない。こまめに摂るべきだから、もう一本水筒の購入を検討した方がいいかもしれない。
コーヒーを飲むと頭がスッとする。怒りのイライラも悩みのモヤモヤも、ひとまず後回しにできる。カフェイン効果だろうか。
眠気も引いたのでスマホを開いてワイヤレスイヤホンをBluetoothで繋いだ。YouTubeを表示したが、自分がチャンネル登録している投稿者は誰も動画を更新していなかった。LINEを開いたが誰からも連絡はない。Twitterを開いて動画をスワイプしていった。雄二の投稿に目が止まった。
起
沖野雄二は小学生の頃の付き合いだった。自分の苗字が小川だけあって席も近かった。当時は男女が両隣になるよう配置されていたが、隣の大森さんは後席の岡さんという女子と話していた。話し相手のいない同士で雄二との親交は始まった。
雄二と俺は派手な部類の性格ではなかったから、とても馬が合った。休憩時間になると話すのは定例だったし、トイレも一緒に行った回数の方が多い。小学生の成績なんてピンキリの真逆で、クラスのほとんどが簡単に満点を取っていた。その例に漏れずに雄二と俺も百点が普通だった。
よく似ていたし、「普通の小学生」の特徴の大半を押さえていた。新たな交友関係を広げれば、代用のきく相手だとぼんやりと自覚していた気がする。
漢字を原稿用紙に写してくる宿題だった。お互いに今日提出だと忘れていて、朝休憩の二十分で終わらせる必要があった。黙々と書き続けて完成した。
つい癖でティッシュを左手のひらに当てた。そこは鉛筆の炭素が付着して、毎回汚れてしまう部位だった。けれど原稿用紙は左に書くので、今回は汚れていない。
「え、小川って左利きなの」
雄二はティッシュをポケットにしまう俺を見て言った。右利きじゃないことの恥ずかしさと、間違えてティッシュを出してしまった恥ずかしさで顔が熱くなった。
「実は俺もなんだよね」
汚れていない左手を見せて雄二は言った。自分は左利きであることに疎外感を感じることもなければ特別に思ったこともなかった。ハサミなどは使いにくいと不便に思うことはあったが。
俺は家族以外が踏み入れたことのない領域まで、すんなりと雄二が入るのを感じた。友達は複数人いたが、一番仲が良かったのは雄二だった。左利きという共通点が通じ合ったとき、無線の波長がピッタリと合ったような感動があった。
「今まで気づかなかった」
と俺が言うと
「な、俺も」
と雄二は答えた。
小学生の頃はほとんど雄二とつるんでいた。他の絡んだ友達とは別種のような? 一層濃い? 一段深い? そういう関係だった。
中学校に上がると他の小学校からの人間との付き合いを余儀なくされる。そういう付き合いをこなしていくと、友人が増えていく。数が増えるといくら容量を占めていても薄まる記憶や関係もある。小学校以来、それから雄二とは大学で再会した。
承
「やべえ…なんでレポート手書きなんだよ」
雄二は一限の講義には出席しないようだった。図書室では対面の二席を確保し、三限のレポート提出までには終わらせると意気込んでいる。代返した一限と二限の空きコマと昼休憩も込みで、ようやく終了する重たいレポートだった。早めに片付けておいた俺がサポートするという形だったが、雄二とはテーマの差異があったので大した参考にはならない。
「打ち込んで印刷したら?」
「どこでできんのそれ」
「教務課」
「俺、あそこの職員嫌いなんだよ」
「なんで?」
「サークル立ち上げたけど申請通ってないって言われて。それでメンバーみんな冷めてさ。自然解散した」
雄二の服装は寒色系でまとめられている。昨日見かけた同じゼミの男子がほとんど同じファッションだった。その男子はメガネをかけていたが雄二は裸眼だった。小学生の頃から俺の目は悪かったが、雄二は視力検査で常に⒈5だった。
俺は本を読みながら、雄二が話したらそれに合わせた。雄二は右手で文字を書いては消してをしている。一限の終了をチャイムが知らせた。雄二はスマホを開いてフリック入力をした。代返をした友人へお礼のメールをしているのだろう。
「これ食堂行けないな。今日の日替わり揚げ物セットだったのに」
右手に持ったスマホを置いて、またペンを持ち直した。俺は食堂に一人で行くと窮屈な思いをするので、朝にコンビニで買ったパンを食べる。食堂はいくつかのグループが席を離して座るので、いかにも充実している学生を両隣に置いて食べることになる。その経験から食堂に昼時は近づかない。惨めな思いは勘弁だった。
雄二は代返を頼まれてくれる友人も、一緒に食堂に行く友人もいる。俺はなんとなく気まずくなって、左手でスマホを持って指紋認証させた。LINEを開いたが誰からも連絡はない。Twitterを開いて動画をスワイプしていった。雄二の投稿に目が止まった。
『俺コンタクトだったんだけど、おしゃれメガネやってみようかなって。なんかオススメある?』
雄二の投稿に10くらいの返信がついていた。今朝はゼロだったツイートだった。学科内での相互フォローによって形成されたネットワークは、雄二の投稿に返答する。世界中が閲覧できる文言は狭いネットワークの網にしかかからない。
確認できないが今も雄二はコンタクトを角膜に貼り付けているらしい。行を稼いでレポート用紙を埋めていく。横書きのレポート用紙だった。雄二の手は汚れていない。字はとても綺麗だった。書道を齧っていた自分よりも上手に字を書いていた。
彼は右手でペンを持つ。階段も右足からしか登らない。意識的にそうしている。徹底ぶりだけが明け透けだった。
「ごめん、ちょっとトイレ」
俺は席を離れてトイレに行った。朝に飲んだコーヒーの利尿作用が続いていたが、今はそこまで尿意が弾んでいるわけではなかった。トイレの前にある自動販売機が見えた。財布を出して迷わずコーヒーを選んだ。眠気があるわけではなかった。
中毒レベルに常飲はしていないが、平均以上に飲んでいる自覚はある。けれどコーヒーを飲むと頭がスッとする。カフェイン効果だろうか。