1-2 桜花隊救出へ
永井兵曹の零戦は、無線電話の調子が悪くて、ほとんど使い物にならなかった。だから、「桜花」が投棄される段になって、初めて敵戦闘機の出現を知った。
「くそ!見張り能力が落ちているかもしれない」
永井兵曹は、長い転戦によって低下した体力を、なんとか気力でカバーしながら戦い続けている。以前ならば、どこの誰よりも早く敵を発見したものだが、ここに来ての体力の低下は隠しようがない。指揮官機が増槽(落下式燃料タンク)を投棄するのに続いて、全戦闘機が増槽を投棄。戦闘準備に入る。邪魔な抵抗を無くし身軽になった零戦は、これで自由自在の存在となった。
接敵運動に移る指揮官機。三十機に少し欠ける零戦隊は、戦闘隊形を取って、少し緩やかな編隊に移行している。
「こりゃあ、編隊空戦の上手な指揮官でよかった。これがヘタだと、無駄死にしかねないからなあ」
敵戦闘機群を左目の隅の視界に納めながら、永井兵曹は、そうつぶやいた。だが、どう考えても、生きて帰るのは難しいかもしれない。ただでさえ圧倒的劣勢下での空戦になるのに、中攻隊を見捨ててトンズラはできない。最後まで踏みとどまって闘うんじゃ、これは今回が年貢の納め時かもなあ。
列機が、ちゃんと付いて来ているかどうか、後ろをチラッと確認した永井兵曹の眼に飛び込んできたのは、列機の搭乗員が、必死の形相で編隊を維持している姿であった。
「初陣がこれじゃなあ。オマエら、しっかり付いてこいよ!」
中攻隊、第二中隊第三小隊の二番機の搭乗整備員である、楠田二等整備兵曹は、左側の副操縦席に座っていた。最近では操縦員は一機に一人だけが配置されているので、副操の席に塔整の楠田兵曹が腰掛けているのだ。
「機長!指揮官機から通信!『攻撃中止「桜花」ヲ投棄シテ避退セヨ』です!」
通信の郡司飛行兵長が叫んだ。指揮官機を見やると、確かに「桜花」が投棄されたところだった。
「『桜花』に搭乗します!打ち出してください!」
特攻隊員の「桜花」搭乗員である岡井飛長(飛行兵長)が、思いつめた表情で、機長の山戸一飛曹に詰め寄った。
「バカなことを云うな!まだ敵空母までは100キロあるぞ! ここで打ち出したって『桜花』は届かない。無駄死にするだけだ」
「でも機長!敵戦闘機から逃げ切れるんですか?どうせダメなら打ち出してください!」
「可能性はゼロじゃないだろうが!とにかく『桜花』は投棄する!」
山戸一飛曹の命令で「桜花」を投棄し、すぐさま総員が戦闘用意にかかった。各旋廻機銃の配置に付き、中攻隊は、さらに緊密に編隊を組んだ。
空戦に突入したのは、それからすぐのことだった。零戦隊の頭を抑えた米戦闘機隊は、高度の優位を利して突っ込んできた。中攻隊を攻撃させないように、何とか少しでも多くのグラマンを引きつけようと、必死の防御戦闘をする零戦隊だが、敵があまりにも多すぎる。統制の取れた「編隊空戦」は一瞬で消滅してしまい、零戦隊はバラバラの単機で闘うことになってしまっている。
米海軍の新鋭戦闘機、グラマンF6Fの登場は、すでに零戦の無敵神話を打ち砕いている。エンジンの馬力は零戦の二倍、高い防御力、そして12.7ミリ機銃六丁という重武装は、新人搭乗員に操られる零戦には、敵しようのない強敵だ。開戦劈頭の名人ぞろいの搭乗員ならば抗しようもあろうが、ベテランは激戦の中で数を減らし、今残っているのはほんの少数だけとなった。零戦には、もう昔日の面影はないのだ。
完全に零戦隊はグラマンの大群の中に飲み込まれてしまい、押される一方となった。こうなるともう中攻隊の直衛どころではない。零戦隊が生き残るための戦いとなってしまった。やがて、兵力差によって零戦隊を圧倒した米戦闘機隊は、その多くが、すり抜けて中攻隊に襲い掛かったのである。
楠田一等整備兵曹は、左舷側の側方銃座に取り付いて必死の応戦をしていた。息もつかせずに連続して襲撃してくるのは、グラマンF6F艦上戦闘機だ。楠田一整曹の足下には、留式7.7ミリ旋回機銃の、真鍮製の薬莢が散乱している。突っ込んできたグラマンが切り返す瞬間に、楠田一整曹は旋回銃で射撃を浴びせ、確かに命中弾を出しているのだが、しかし全く効果は認められない。敵は戦闘機でも防弾防火が徹底しているから、7,7ミリの豆鉄砲では、目立った被害が与えられないのだ。一撃で火を噴く一式陸攻とは、えらい違いだ。
その時、また新手のグラマンが、射弾を一連射あびせて下方に突き抜けていった。その射撃は、右どなりに編隊を組んでいる列機に集中した。どうやら右の主翼に被弾した模様だ。一式陸上攻撃機の主翼内のインテグラルタンクには有効な防弾は施されていない。被弾した燃料タンクからはガソリンが噴出して、滝のように漏れ出して、翼から尾を引いたようである。
「火災にならなければいいが・・・」
しかし、いつもそうであるように、漏れ出した燃料に火がついて、炎がチロチロと見え出し、やがてその炎は翼全体を覆っていく。翼の主桁が炎で折れて空中分解するか、タンクに火が入って空中爆発を起こすか、どちらかの最期に到るのだ。これでもう助けようがない。列機の操縦席に眼をやると、先方の搭乗員と目が合った。同年兵の「桜花」特攻隊員だ。ニッコリと笑みを浮かべて敬礼をしてくる。「さようなら」という最期の挨拶である。そしてこちらも敬礼を返す、「了解」と。これまで幾たび、こうした別れをしてきたことだろうか。列機が火災を起こして、編隊から脱落していくこの瞬間が一番つらい。ロープを掛けて引いていけるならばと、どれだけ思ったことだろうか。
その決別の挨拶が終わると、炎の翼になった機体は、機首を下げて編隊から離れていった。空中爆発で編隊に損害を与えないようにするのだ。やがて炎がタンクに回り、その一式陸上攻撃機は、大きな爆発を起こして四散した。
「ばかやろう。アイツ、こんな時にニッコリ笑いやがって・・・」
「楠田兵曹!グラマン、突っ込んでくる!」
その叫び声に、我に返った楠田一整曹は、留式機銃を構えなおした。突っ込んでくるグラマンの鼻先めがけて引き金を引く。ところが、数発撃っただけで射撃が止まってしまった。弾倉の弾を撃ち尽くしてしまったのだ。
「くそ!大事な時に!」
百発入りの弾倉など、夢中になって撃っていれば、すぐに撃ち尽くしてしまう。壁に架かっている予備弾倉を交換しようとするが、もうこのグラマンを撃つには間に合わない。
ガンガンガンとドラム缶を叩くような音を立てて、射弾は左主翼に連続して命中する。
「左主翼被弾!燃料漏洩!」
楠田一整曹が大声で報告する。くそ!発火するぞ・・・
チョロチョロと炎が見え始めると、「炎の翼」になるのに時間はかからなかった。
「左一番タンク火災! 消火不能!」
報告する声に、操縦員が答えて叫ぶ。
「機長!自爆します!」
声の主、操縦員の戸田二等飛行兵曹は、ピンチヒッターとして搭乗している。この機のクルー(海軍ではペアと呼ぶ)の通常の操縦員は、河本一飛曹なのだが、出撃直前にマラリアの発作を起こして高熱を発し、出撃取止めになってしまったのだった。そこで急遽、戸田二飛曹を操縦員にして、出撃を果したのだった。