落下星
「―――、 !」
――――誰かが、オレを呼んでいる。
今何時だ?
そろそろ起きないとまずい?
よく寝たような気もするし、徹夜明けでさっき眠りについたような気もする。
徐々に意識が覚醒していく。
水中から浮かび上がるような感覚があって、そして消毒液の匂いが鼻をついた。
目を開けると、白い天井が眼前に迫ってきた。
天井に設置されている蛍光灯がやけに眩しく感じる。
足元に人の気配があることに気づいた。
不思議に思い、そちらに視線をやる。
四十代くらいだろうか。女性が憂鬱そうに顔を伏せている。
何か悲しいことがあったのだろうか。
もしかするとオレのせいなんだろうか。
そうだったら申し訳ないと思う。
ややあって、その女性がオレの視線に気づいたのかこちらを見た。
その人は驚いたように立ち上がり、オレの顔を覗き、オレの名前らしきものを二、三回度呼んだかと思えば、慌てて部屋の外へと出て行った。
そして数人を引き連れて戻ってきた。
看護師と思しき人に気分はどうかと尋ねられ、なんと言えばいいか悩んでいると、初老の男性がオレの目の前に椅子を置いて座った。
体温や脈拍などを調べ終わると、真剣な面持ちでこう言うのだった。
「君はおよそ一か月前に事故に遭ってそれ以来、目を覚ますことなく今日に至っていますが、気分はどうですか?」
状況は分かったような、分からないような……だ。
何より全ての言葉が滑っていくほどに、冷静ではいられない理由があった。
「状況は分かりました…。でも、オレ……まったく覚えていないというか……
そもそも、オレって誰なんですか?」
周囲の人々が息をのみ、そして狼狽えているのがわかった。
「あおば……母さんのことも分からないの……?」
先ほどの女性が母親のようだ。
涙をこらえているのが窺われる。
この女性にそういう顔をさせてしまうのは本意ではないが、今は仕方がないのだ。
それと、「あおば」というのがオレの名前のようだ。
遠くから廊下を走って来る音が聞こえる。
看護師に注意されて謝っている声も聞こえた。
そして部屋にセーラー服を着た女の子が息を切らしながら入ってきた。
「お母さん!お兄ちゃん、目を覚ました……って」
一瞬で異様な雰囲気を感じ取ったのか勢いが尻すぼみになっていく。
目の前の初老の男性が咳払いをする。
「ご家族が揃われたようですので、これから検査しなければ確定できませんが……
彼、湯浅青羽さんは「解離性健忘症」。つまり事故で頭を強く打ったために「記憶喪失」になったものと思われます」
〇〇〇
湯浅青羽。十九歳。七月生まれ
地方の大学に通っている。ちなみに生まれも育ちもこのY市である。
父、母、二つ下の妹の四人暮らしであるが、現在父は長期の海外赴任中である。
おいそれと戻れない仕事をしている。
好きな食べ物はうどん、天ぷら
嫌いな食べ物は癖の強いもの(香草など)
以上が記憶を失う前のオレの基本的な情報だ。
しかしどれもピンと来ない。
妹も母も毎日アルバムを持ってきて、思い出話をしてから帰っていく。
目覚めて一週間が経った頃に脳の検査をしたが、これといった異常は特に見受けられず、時間だけが薬と言ったところだそうだ。
今後は定期的に検査を行うことになり、一度帰宅することになった。
病院からタクシーを使って、家へ戻ると母と妹が荷物を自室に運んでくれた。
扉を開けて真正面の壁にはサッカー選手とわかるポスターが一枚貼ってあるが、やはりわからなかった。
過去のオレはサッカーが好きだったのだろう。
右手、窓の下にはシングルサイズのベッド、そして左手に五段構成の本棚が設置されており、いくつかメダルが一番上の段へ飾られていた。
その下には教科書や専門書類、そして残りの段には漫画や小説、それからライトノベルと呼ばれるものが丁寧に並べられていた。
中々几帳面な性格だったのか、母が整えていてくれていたのかは分からないが、きちんとした部屋だという印象だった。
自室と言われても、しっくりこない。
他人の部屋のようだと感じた。
以前のオレは何をこの部屋で何を思い、何を考えていたのだろうか、とベッドに腰かけて物思いに耽ったが何も像を結ぶことはなかった。
下の階から母の声がする。
少し早いが、夕食だそうだ。
オレはそれに従って、ダイニングへ向かうことにした。
退院から一週間。
家族との会話も程よく慣れてきて、打ち解けてきたように感じる。
以前の話をするわけでもなく、何というか自然体だ。
こういう環境に生まれたオレは恵まれているんだと思う。
リビングで母と談笑しながら寛いでいるところに、スマートフォンに一件の通知が入った。
当然誰だかわからない。
母に確認すると、大学の同級生だということだった。
オレが入院している間、心配して毎日来てくれていたという。
そういう人物なのに覚えていなくて申し訳なく思った。
通知を開くとメッセージが表示される。
差出人は木村慶人と書かれている。
『意識戻ったんだってな。大丈夫か? いつから大学に出て来れそうなんだ?』
大学……と思い母を見遣ると、一年間は休学の手続きをしてくれているとのことだった。
その旨を入力して、あとは……
『ごめん、オレ記憶ないみたいだから、君のことが誰だか分からないんだ。』
と添えた。
暫くして木村慶人から着信が入る。
ただでさえ他人の携帯電話を扱っている気分なのに、電話に出るのは更に気が引けた。
それに会話した内容をまた忘れたら嫌だな、と何となく思った。
仕方がないので、通話をこちらから切ってメッセージを送る。
『まだ、他人のものを扱っている気持ちになって、電話に出るのは気が引けるというか、まだ家族以外と話していないので、怖いのが正直なところだ。悪いけどメールで会話をお願いしたい』
そう送ると、スマートフォンは暫く沈黙した。
母がどこか不安そうにこちらを見ている。
私が説明しなくていいの?ということだろう。
自分で説明したことを伝え、自分の部屋に戻る。
本棚から適当に本を取り出し、読んでいるとまたメッセージの通知が画面に現れた。
『それは、本当なのか? えっと、大丈夫なのか?……っていうのもおかしいか。
来週の水曜日にどこかで会えないか? どうしても確認したいことがあるんだ』
少し躊躇ったが、時間はあるし記憶を取り戻すきっかけになると思い、それを了承した。
やり取りの中で、オレの住んでいる場所からほど近い駅に入っているカフェで落ち合うことになった。
再びリビングへ向かい、コーヒー豆を挽いている母に来週の水曜日に出かけることを伝えた。
「記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれないし、その可能性に賭けてみたいんだ」
母は手を止めて、心配そうにオレを見た。
何か言ってはいけないことを言ってしまっただろうかと心配になる。
「青羽。そんなに焦らなくていいのよ……。記憶がないと知ってショックだったのは否定しないけど、貴方に負担もかけたくないの。じっくりでいいの。
最悪、記憶が戻らなくても青羽がわたしの子供であることには違いないからね。
大学も貴方が復学を望むまで休学でいいし、好きなようにゆったり過ごしてほしいわ」
少し微笑んで言う。
“湯浅青羽”は本当に恵まれた環境で育っていたことを思い知る。
礼を述べて再び部屋へ戻った。
〇〇〇
水曜日。
母に最寄り駅への行き方を教わって、徒歩で駅へと向かった。
記憶を失う前は日常だったこの風景を、オレは何を思いながら送っていたのだろう。
考えてみても何も分からなかった。
歩いていると駅のロータリー部分が見えて来た。
道にある標識にも駅名が書かれているので間違いない。
信号を渡り、待ち合わせ場所に指定された駅前広場にある小ぶりな造りの噴水を背に立った。
駅に電車が入る音が聞こえ、やがて降りて来た人々が一斉に駅舎を出て来た。
どの人も忙しそうに去っていく。
そんな人々の間を縫って手を振りながら現れた人物は親しそうに笑顔を浮かべている。
憶えていないがこの人が『木村慶人』なのだろう。
オレより少し身長が低く、栗色のふわふわの髪の毛が特徴的だ。
顔の作りもどこか子犬を想起させるもので、有名アイドルグループに所属していそうな雰囲気だ。
おそらくモテるタイプの男である。
そんなことを考えていると、息を切らせて彼はオレの目の前に立った。
「ごめん、少し電車遅れてて。待ったよな?」
先ほど到着したことを伝えると、愛らしい笑顔を浮かべる。
オレが女子なら惚れない自信がない。
じゃあ行こうか、と先を進む木村に付いていく。
駅の真向かいにある喫茶店へと入る。
白い塗り壁とダークブラウンの木材が印象的な店内だった。
時間帯もあるのか程よく空いていた。
一番奥の四人掛けの席に通される。
男二人にこの席は贅沢なような気もするが、革張りのソファの座り心地はふっくらとしていてかなり良かった。
アイスコーヒー二杯とお昼をまだ食べていないという木村がナポリタンを注文した。
「えっと、『初めまして』っていうべきなのかな。
木村慶人です。同じ学科で大体の授業が一緒で、仲良くなったっていう間柄です……一応。
青……湯浅君が記憶を失うなんて思わなかった。あのメッセージを信じられなくて、何度も読み返してしまったほどだよ。
何か思い出せる手助けとかできたらって思うけど、お節介かな」
木村の自己紹介と心の裡を明かしてくれた。
とても良い奴だと思った。
見た目だけでなく心も美しいのかと思った。
注文したものが運ばれてきて、注文した覚えのないクッキーが添えられていた。
その旨を運んできた女性の店員さんに伝えると、なぜか赤面して「サービスです」と言って足早に去っていった。
「ははん、木村の顔が良いからか」と何となく思った。
木村はオレに断ってナポリタンを食べ始めた。
ここのコーヒーは、母の淹れてくれるコーヒーと同じくらい美味しかった。
母の技術がお店並みだということを思い知る。
昔はカフェで働いた母を父が見初めて、時間をかけて口説いたという馴れ初めを妹から教えてもらったことを思い出した。
「……オレが入院している間も来てくれていたことを母から聞いている。ありがとう。
でも、記憶はゆっくり取り戻すし、取り戻せなかったとしてもこのままでも良いか、とも思っているんだ。
だから、大学に復帰して困ったら助けてくれるとありがたい……かな。
そうだ、オレが大学に通っていた時の話を聞かせてくれよ。何か思い出すかもしれない」
そういうと木村は照れ臭そうに微笑んだ。
ぺろりとナポリタンを平らげて、「そうだなぁ」と話し始めた。
気づけば外は夕闇に染まっていた。
かなり長居をしてしまった。
そろそろ帰ろうと財布を取り出すと、木村がそれを押しとどめた。
「退院祝いってことで奢らせてくれよ。
……どうしても気になるなら次回奢ってくれたらいいからさ」
そういうことならと甘えることにして、外に出て会計が終わるのを待った。
実は先ほどから何となく頭が痛い。
退院してから初めてのことだった。
一人で初めて出歩いたからだろうか、とか考える。
来週の通院時に相談してみよう。
家に帰り着くと心配そうに母と妹が出迎えてくれた。
少し体調を崩してしまったことを伝えると、すぐに母が病院の先生に電話してくれた。
診察日時が明日に変更されたことを伝えられ、母の対応の早さに感心した。
食事を摂っている最中に妹が何か聞きたそうな顔をしていたので、「どうしたの?」と尋ねると、暫く悩んでいたようだったが口を開いた。
「今日会ったのって、木村慶人さん……?だよね。何度か病院で会ったけど、わたしあの人何となく嫌な感じがするんだよね」
「えっと……それはどういう……」
母もオレも妹を注視した。
妹は照れたように赤面してうつむいた。
「よくわかんないけど……! ……わかんないけど何となく嫌な感じがするの……」
その顔が冗談を言っているようにも見えず、母によると妹の直感は外れたことがないということもあって、妹の言葉を心に留めた。
母とオレで妹を宥めるとやがて落ち着いて食事を摂り始めた。
部屋の明かりを点けて、ベッドに寝転がる。
母もお墨付きの妹の直感、そして偶然かもしれないが木村に会った時の体調不良。
何か関係があるのだろうか。
そう考えていると気づけば眠りに落ちていた。
夢を見た。
湯浅青羽が誰かと諍っている。
埒が明かずその場を後にするのだが、追い付かれて……
そこで目が覚めた。
息が荒く、汗もびっしょりとかいていた。
これまでもかつての記憶と思わしき夢は見ていたのだが、こんなにホラーな夢は初めてである。
手の甲で額の汗を拭う。
充電中のスマートフォンを手に取り、画面を見ると深夜の三時だった。
喉の渇きを感じたので部屋を出て、キッチンへ向かい水を飲む。
冷たい感触が喉を伝っていくのが分かる。
再び部屋に戻り、ベッドに身を投げた。
今度は夢を見なかった。
次の日。
急遽決まった通院の日だ。
総合病院なので待ち時間がとても長い。
家から持ってきた小説を一冊読み終えるほどだ。
かつての湯浅青羽が読んだものであっても、今のオレにとっては全て新鮮で一気に読み終えてしまった。
以前の自分と趣味が変わっていないようで安心した。
やっと中待合に呼ばれる。
中では看護師たちが忙しなく働いていた。
主治医の部屋からオレを呼ぶ声がしたので、扉を開けて中に入ると椅子を勧められたので、そこに座った。
「最近どうですか? お母さまから連絡がありましたが、どこか不調が?」
心配そうに尋ねてくる。
オレは包み隠さず昨日のことを話した。
医師はしばらく考えたのちにとある可能性を口にした。
「何か、以前のことを思い出しそうなときにその体調不良……頭痛が起こるのでは、という仮説を立てておきましょう。
また何かあれば気軽に話してみてください。
記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれません」
そこで一息つくとパソコンにオレの話した内容を入力する。
「貴方が事故に遭った原因も分かるかもしれませんし……。
目撃者がいないので事件化できていませんが、貴方は故意でないと起こりえない落ち方をしていました。
だから、真実を訴求するためにも一日も早い回復を望むばかりです」
これは、聞かなかったふりをするべきだろうか。
オレがそんな事情で記憶喪失になっていたことを初めて知った。
いや、初めてではない。
目が覚めた瞬間に聞かされているはずなのに今の今まで忘れていた。
そのことが顔に出ていたのか医師は、慌てて次の言葉を探していた。
「……もしかして、お母さまも妹さんもこのことを黙っておられましたか?
それだったら申し訳ないことをしたな……。
でも、これが事実です。私も君を救いたいし、記憶を取り戻してほしいとも思っています。
時間が掛かっても治しますからね」
と心強い言葉をくれた。
少しほっとした。
家族もそうだが、主治医にも恵まれている。
礼を述べて診察室を後にした。
〇〇〇
それから母の手伝いをしながら普段通りの生活をした。
普段通りと言っても、湯浅青羽にとっては長期休暇の過ごし方になるのだろうか。
母のお使いをしても、母に促されて出かけた博物館や美術館などへ行っても頭痛は起こらない。
木村とも何度か会ったが、決まって彼と居る時だけ頭痛がするのだ。
妹の直感は正しそうだ。
だが、記憶を取り戻す手立てだと信じて、会うことを止めなかった。
その日も木村はナポリタンを食べていた。
今日のお店のものは、鉄板に目玉焼きと一緒に載せられていておいしそうだ。
オレは決まって珈琲だけを飲む。
元々、外ではあまり食べない質だったらしいと木村から聞いた。
変わらないねぇ……、なんてしみじみと言われる。
湯浅青羽には他にも交友している同級生が居るようだが、退院した時にちらほらとメッセージをもらったくらいで、それ以降連絡を取っていない。
きっとオレと接しにくいのだと思う。
それは仕方がないことだが、湯浅青羽に申し訳なく思う。
姿形は“湯浅青羽”だが、オレが彼を名乗るのはなんだか違う気がしていた。
そうすると、オレは何者なんだろう?という疑問が頭をもたげる。
アイデンティティがない状況なのだ。
どうしても母や妹、それから木村に言われたこと、アルバムや部屋に置かれているものから“湯浅青羽”を演じているような感覚だった。
きっとオレは彼の記憶を取り戻してしまえば消えてしまう人格だろう。
そうなってもどこかにオレが湯浅青羽の中に残ってくれれば、なんて思ってしまう。
ぼんやりとしていたようで、目の前で木村が手を振っていた。
「どうした? 体調悪いのか?」
木村が心配そうに覗き込んでくる。
ふと妹の言葉が脳裏を過る。
思い出したかのように頭が痛む。
中二病かよ……とセルフ突っ込みしてしまった。
しかしこれまでで一番ひどい痛みだ。
「無理させたかな……。今日は帰るか?」
木村がオレを気遣ってくれている。
妹が言うような悪い奴には見えないのだが……。
「悪い……。埋め合わせは必ずするから、今日は帰らせてもらう。
なぁ……木村、オレに何か隠していることはないか?」
そう言うと、木村は一瞬たじろいだがすぐにアイドル顔負けの笑顔を浮かべて、
「何を言っているんだよ。……ま、気を付けて帰れよ」
そう言って見送ってくれた。
オレは、お代をテーブルに置いて店を後にした。
家にやっとの思いでたどり着き、リビングの戸棚から病院で処方された鎮痛薬を取り出して、服用した。
家の中にはオレだけのようだった。
今日は水曜日だ。
妹は学校、母は以前勤めていたカフェのお手伝いに行っている。
部屋に行き、ベッドに身を横たえる。
頭の中を泳ぐような痛みが支配していたのが、少し楽になった。
目を瞑っていると、玄関から何かをひっかくような音が聞こえた。
鍵を開けようとしてなかなか鍵穴に入らないときのような音だ。
妹が帰って来るには早いし、母も今日は十六時までだと言っていた。
これはもしや空き巣……、と思い痛む頭を押さえながらスマートフォンと、少し心許ないが玄関に立てかけてある箒を手に、気配を消しながら近づいた。
息を殺して相手の出方を窺う。
やがて、カチャリと鍵の開けられる音がした。
箒を持つ手に力がこもる。
扉の隙間から黒いフードを被った人物が垣間見えた。
ドアノブを掴んだ手を握りこちらに引っ張る。
その人物は驚いたようによろめいて、オレの方に倒れ掛かって来たので咄嗟にフードを掴んで脱がそうとしたが、寸でのところでフードを抑えられ、正体に迫れなかった。
その人物はオレを突き飛ばして、去っていった。
尻もちをついて暫く玄関でぼんやりしていると、そこに母が帰って来た。
驚いたようにオレを見ている。
「……青羽、どうしたの?」
「何というか……空き巣?を撃退したところ……?」
オレがそう言い終わらないうちに母は慌てて携帯を取り出し警察に通報した。
電話が終わると、腕をつかんで立たせてくれた。
「そういえば、下のエントランスでフードを被った人とすれ違ったけど、あの人かしら?」
とりあえず、母が被害に遭わなくて安心した。
下層階がそういったものに遭いやすいイメージがあるし、それにこの周辺は治安が良いはずなのだ。
あまり想像したくないが、我が家に何か目的があって狙って来たとしか思えなかった。
しかし、なぜマンションの十階にある我が家をわざわざ狙ったのだろう。
少しすると警察官が我が家のインターホンを鳴らした。
そこから事情聴取などを受けて、連絡先を交換し巡回を強めてもらうことで話がまとまった。
色々とあってくたくたになっていたところに、母が小さなエッグタルトと珈琲を出してくれた。
「夕食前だけど、疲れたでしょ? 少しなら大丈夫よ。萌黄には内緒ね」
母は悪戯っぽく微笑んだ。
ちなみに萌黄とは妹の名前である。
オレもだが、湯浅家は子供に色の名前に沿った名付けを行うそうだ。
父の名前も色に因んだものである。
「でも、あの空き巣。何が目的だったのかしらね。青羽に何もなくて本当に良かったわ」
「……また来ないとも限らないから、何とか早めに解決すると良いけどね」
“解決”というのはもちろん、あの人物が捕まることを示している。
エッグタルトをすべて平らげた瞬間に玄関が開く音がした。
ただいまぁ、と間延びした妹の声が聞こえる。
萌黄にも気を付けてもらうために母が、先ほどあったことを掻い摘んで説明すると、妹は顔面蒼白になった。
「おにいちゃん、何ともなかった!? ……そう、よかった。次に何かあったらわたし耐えられないから、本当に気を付けて」
中々男気のあるセリフだ。
それだけ事故に遭った時に心配をかけてしまったのだろう。
何も言葉が思いつかなかったので、立ち上がって妹の頭を撫でた。
〇〇〇
その夜も夢を見た。
この間と同じ内容だ。
唯一違うことは、宙に浮いた状態で俯瞰してその状況を見ていることだ。
会話がよく聞こえる。
湯浅青羽は、相手に何かを言っている。
余程、湯浅青葉が記憶から消したい内容なのか、相手の姿が不鮮明だ。
「———だから、オレは“男”で、お前の想いに応えてやることはできない。それに何でオレなんだ? お前くらいだったら、オレなんかに拘る必要なんてないだろう?
ストーカー染みたことは止めてくれないか。いずれ、オレの家族や友達に危害を加えるつもりだろう?」
何とオレは相手から告白をされていたのだ。
セクシュアリティに偏見はないが、自分自身がそうではないため断ったことを切掛けにストーカーをされていたのだということが分かった。
「どうして……わかってくれないの。こんなに想っているのに! それにぼくたちは相思相愛でしょう?」
相手の声はエコーが掛かったようになっている。
姿が不鮮明だから仕方がないのだろう。
「だって、だって……あの時、ぼくにプリントを渡してくれたでしょう? ゼミで一緒になってからは、すれ違う度に挨拶してくれるじゃんか! だから、青羽もぼくのこと好きなんでしょう?」
湯浅青羽は参ったように頭を抑える。
「そんなこと、知り合いだったらやるだろ? そんなことでそう思われるのは心外だ。
だから、これからお前と関わり合いになるのを止めるから、お前も二度と近づくんじゃないぞ」
そう言って、青羽は逃げるように走り去った。
しかし、相手も負けじと追いかけてくる。
階段に差し掛かったところで、相手は青羽……オレを突き飛ばした。
俯瞰していた視線から一気に青羽自身の視点に変わる。
当然階段から転げるように落下する。
頭の打ちどころが悪かったようで、血だまりがリノリウムの床を染めていく。
青羽は意識を失ったようだ。
だが、オレは意識を持ってその状況を冷静に分析している。
そこに、相手が近づいてきて、オレを覗き込む。
「ぼくのものにならないなら、ここでいっそのこと死んで……ずっとぼくのことを忘れないで居て欲しいな」
そう言って走り去った。
そこに入れ替わるように走り去った別の方向から運よく教員が通りかかり、慌てて救急車が呼ばれる。
そこで、暗転して夢から目が覚める。
何度見ても嫌な夢である。
しかし、オレが記憶を取り戻しつつあることを感じていた。
そして、しばらく考えて、あることに思い至る。
「あいつだ……オレを突き飛ばしたのは……」
何ともいたたまれなくなり顔を覆った。
記憶を失う前のオレに申し訳なく思った。
次の日。
木村を呼び出すと二つ返事で、最初に会った喫茶店に来てくれた。
喫茶店の奥で、本を読みながら待っていると、木村がひょっこりと現れた。
相変わらず華のある笑顔を浮かべている。
「どうしたんだ? ぼくとしては嬉しいけど、二日連続何て珍しいじゃないか。
体調も良くなったのか?」
オレは何も言わず、薄く微笑むに留めた。
木村は席に着くと、相変わらずナポリタンを注文していた。
そのあとは大学であったことや、授業で面白かったことを話してくれた。
答え合わせのために呼び出したのに、なかなか会話の糸口が掴めないで、じっとそれらの話を聞いていたが、内容は頭の中に留まらず滑っていく。
木村がわざとそうしているとしか思えなかった。
ナポリタンが運ばれてきて店員が去っていくと、とあることを確認してからオレはようやく話を切り出した。
「なあ、木村。やっぱり、お前隠していることがあるだろう」
それを聞いた木村は食事の手を止めた。瞳の色が深くなったように感じた。
「……なんでそう思うの?」
「オレが、記憶を取り戻した……と言っても?」
そう言うと目を見開いて、オレを見ていた。
まだ完全には取り戻していないものの、鎌をかける。
「なんで……取り戻したの。このまま忘れてくれていたら、青羽はぼくのものにできたはずなんだけどな」
あっさりと、それを認めた。
今まで親しく話していた木村慶人はどこにもおらず、ただ気味の悪い人物に映った。
「本当はあの時死ぬ予定だったでしょう?
それくらい血を流して、体温が奪われていたのに。
あの時、青羽をぼくのものにできたと思ったのに……なんで?
でも、記憶を失ったって聞いて、これは『好機だ』と思った。
居るのか分からないけど、この時ばかりは神様に感謝したくらいだ。
以前から、青羽と親しかったふりをして接触すれば、ぼくのものにできると思ったのに。
ここで取り戻すなんて……失敗しちゃったな」
いつもの笑顔がどこか狂気じみたように見えるのは気のせいだろうか。
「青羽の家に行った時もさぁ、青羽が家に一人だって言うから知らない人のふりをして襲って、既成事実を作る予定だったのに、思ったより力強いんだね。青羽」
あの空き巣?が木村だったことを自白する。
……既成事実ってなんだ。
あまり考えたくはないが、そういう性的なことだろう。
「木村が同性愛者でも別に構わないけど、オレにそれを向け続けても報われない。
それに、それらは犯罪だぞ。そこまでして、いよいよオレに嫌われるなんて考えなかったのか?」
木村は嘲笑うかのように、オレを見る。
悪意しか感じられないのだが、どこか見惚れる笑顔である。
そんな奴がオレに執着する必要もないだろうに。
「そんなこと考えるわけがない。青羽はぼくのことが好きなんだから。
ただ、……いろんなことに騙されているだけなんだ」
もう言っていることが支離滅裂だ。
言葉が通用しない相手と言うのはこんなに恐怖心めいたものを感じるのかと、頭を抱えたくなるのをこらえて、毅然と対峙する。
「なぁ、木村。冷静になれ。どれだけ君が支離滅裂なことを言っているかわからないのか?」
説得を試みるが、勝算は少なさそうだ。
おもむろに木村は鞄からナイフを取り出した。
いつも持ち歩いているのだろうか。
人が居る店内でならそんなことを行わないと高を括っていたのだが、それが間違いだと気付くことになる。
「どうして、ぼくの気持ちは受け入れてもらえないの? ぼくの思い通りにならないなら、青羽を殺してぼくも死ぬ」
ドラマや小説で聞くようなセリフだ。
現実でそんな言葉を向けられるとは思いもよらなかった。
もう少し時間を稼がなければ。
そう思っているときに店員さんがお冷のお替りを尋ねに来た。
しかしそこにいるのは、テーブル越しに座っているオレにナイフを突きつけている木村だ。
声にならない叫びをあげると、持っていたお盆と水を取り落とし、床を水でびしょ濡れにしてしまった。
飛沫がオレ達の足にも掛かるが、気にしている場合はない。
「店員さん……オレは大丈夫ですから、離れてください」
視線を木村から逸らさずにそう言うと店員さんは慌てて、立ち去った。
警察を呼んでくれることを期待する。
しかし、他人にこの場を見られたにも拘らず、木村は周りが見えないかのように振る舞っている。
「何で……何で、ぼくじゃなくて、他の奴の気を遣うんだ! 何で、ぼくだけを見てくれないの!?」
このままでは他の人に危害を加えるに違いなかった。
それだけはどうしても避けなければならない。
オレが仕掛けたことはまだ起こらない。
息を吸い込んで一か八かに賭ける。
オレは席を立って、木村に近づいた。
突然のことに木村は驚いているようだった。
しかし、ナイフはオレに向けたままだ。
「本当に刺してしまうよ? あ、そっかぁ。ぼくのモノになる覚悟ができたってことなんだね……嬉しいな」
またにっこりと微笑む。
狂ったことを言っていなければ、本当に芸能人のように万人に好かれる笑顔なのだが。
「……オレが死んだらな」
そして木村の腕を掴んで、自分自身の脇腹にナイフを刺した。
冷たく感じたと同時に強烈な痛みが伴った。
頭を打った時より、覚悟があったので幾分か楽なように思えた。
そのことは流石に予想していなかったようで、目を見開いてオレを見ている。
「何して……!」
ナイフを抜こうとして腕を引っ張るが、オレの握力が強くビクともしない。
少しナイフが動いて痛い思いをしているが、刺した瞬間に比べればマシだ。
さっきまでの雰囲気はどこにいったのか。
慌てている木村を見ながらどこか愉快な気持ちになった。
しかし、出血もひどくて意識が霞んできた。
そこで喫茶店へ入って来る人影が見えた。
待ちに待った人物だ。
空き巣事件でお世話になった警察官だ。
「そこまでだ! 木村慶人、現行犯で逮捕する!」
『本当にそのセリフを言うのか、ドラマの世界のようだな』と思った瞬間に意識が途絶えた。
〇〇〇
目を覚ますと目の前に白い天井があった。
周りを見渡すと周りは淡いピンク色の仕切りで囲まれていた。
腕に針が刺されており、隣で何かの機械が電子音を規則正しく発していた。
体を起こすと腹部が痛んだ。
それもそのはずだ。
我ながら捨て身の賭けだった。
そこへちょうど見回りの看護師がやって来て、慌てたようにどこかへ行ってしまった。
どこかで見た展開だなと思い、体を横たえた。
暫くするとお世話になっている医師と母と先日の警察官が現れた。
一先ず、傷の具合を確認されて、看護師の手によって包帯を取り換えられる。
ちらりと見たところ、縫合の痕が痛々しかった。
やがて腕に刺されていた針を外されて、医師の説明が始まった。
後ろで母と警察官がはらはらと見守っているのが見て取れた。
「本当に無茶しましたね……もう、二度としないでください。
あと数センチずれていたら大事な内臓を傷つけて、この世にいないところでしたよ。
でも……犯人が捕まって一安心です。あとは残りの記憶をゆっくり取り戻しましょう」
完璧にオレの状況を把握されている。
さすが主治医である。
「もう……本当に、心配したんだから。青羽、もう無茶はしないで……」
母が涙ながらにオレの手を握りしめて来た。
オレは母の涙にはとことん弱いのだ。
「もうしないから……。泣かないで、母さん」
警察官に促されて、主治医と母は病室を出て行った。
しばらく沈黙があって、警察官は口を開いた。
「今回は本当に申し訳なかった。先に作戦を伝えてくれていたのに、君に無茶をさせたのは我々の落ち度だ。だけど、無事で何よりだ。
現行犯で木村を捕まえられたのは大きかった。
一度だけでなく、何度も君に危害を加えるなんて、中々恐ろしい男だな。
……彼は、未遂とは言え殺人を二度も犯した。これだと実刑は免れないだろう。
しかし、刑期を終えた後君に再び執着しないとも限らない。
大学の卒業までは大丈夫だろうが、そのあとは遠方に逃れるなどして身を守ってほしい。
私から言えるのはそれだけだ。
また証言をお願いすることもあるかもしれないから、その時はよろしく頼むよ」
そう言って、お土産のこの界隈で有名な洋菓子店のシュークリームを置いて出て行った。
木村はどうして、オレにあれだけの執着を見せたのか。
今となっては木村だけにしか分からない。
オレの退院は一か月後と言うことだった。
ゆっくり記憶を取り戻すのにはいいかもしれない。
大学を卒業するのは、同年の人より遅くなってしまうが、その後は父について行くのもいいかもしれない。
そして、オレは再び目を瞑った。
終
お読みいただきありがとうございました。
ミステリっぽいものです。
若干BL要素もあるのは、以前のプロットを変更した名残です。
サイコパスと言うか狂った人を書くのは楽しいですが、暫くお休みします。
※以前、Pixivさんに投稿させていただいたものを少し弄りました。