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春ともし  作者: 時幸空
4/4

四、見つけた光

「知恵熱だろ。昨日今日といろんなことがあったからな。とりあえず横になってろ。白金たちが喉に通りやすい食事を用意してるから食べたら熱冷ましの薬を飲めよ」

 焔は冷えピタを貼った旭の額に手をあてて、ベッドから立ち上がった。そのシャツの裾を旭が捕まえる。

「なんだよ」

 旭は出かかった言葉を慌てて飲み込む。

「……なんでもない」

 子供のような旭の振る舞いに焔が笑う。

「俺も飯食ってくる。すぐ戻るから」

「ごめん、お腹空いてるよね。ゆっくり食べてきて」

 焔はもう一度、すぐ戻るよと言って部屋を出た。

 ベッドサイドの時計を見ると午後九時を回っていた。

 どうやって家まで帰ってきたのかはっきりとした記憶がない。

 コハクが店を訪れたのは七時頃だ。

 それからしばらく彼の話を聞いて送り出したのは八時を過ぎていたと思う。

 店からこの家まで、電車ならば一時間はかかる。おそらく本来の姿に戻った焔の背に乗せられて空を駆けてきたのだろう。耳の奥にまだ風を切る音がわずかに残っている気がする。

 見慣れた自分の部屋で、旭は四肢の力を抜いた。全身がだるく、頭の奥の方がじんじんと痛みを放っている。

 昨日の朝、祖父からのハガキが届いてから続く祖父がらみの一連のイベントで、旭の脳みそは完全にキャパオーバーしたようだ。そのトドメがコハクの依頼であることは間違いない。


『大切な誰かを亡くしたことはありますか?』


 コハクは、衝撃的な依頼を告げられ言葉を失ったままの旭に、ゆっくりと話を始めた。

 ある人間の元で暮らしていたとき、コハクは伴侶となる相手に出会ったという。

 毎年のように子をなし、育て、子等と別れることを幾度か繰り返した。人間は安全な住処と十分な食事を与えてくれた。代わりに、時折、人間の手伝いをした。その寒い朝も、いつもと同じように人間の手伝いをするために広い草原へと来ていた。最初は妻の番だった。コハクは人間のそばで妻の活躍を見ていた。

『よし!』

 人間が走りだした。いつもならば人間は妻を連れてすぐに戻って来るのだが、その朝は中々、戻ってこなかった。

 やがて戻ってきた人間は「すまない」と言った。その両手は赤く濡れており、動かなくなった妻の体を抱いていた。

 その朝なにが起こったのか理解したのはだいぶ後だった、とコハクは言った。

 最初は妻がいないことに気づき、住処の中を探した。何度も妻を呼んでみたが、どこからも返事はなかった。

 日に日に妻を求める想いが膨らんでしまうので、それを吐き出すように大きな声で呼び続けた。そのたびに人間は「ごめんな」と繰り返すばかりだった。

 夜が短くなり、空気も緩んできた頃、ふと気づいた。

 自分という存在が黒い朧気な形のないものに変容を始めていた。

 コハクは住処を飛び出した。

 妻を見つけなければならない。

 一心で、探した。

 どこまでも大空を羽ばたいて探した。

 地を這ってまで探した。


『妻はどこにもいませんでした。あの寒い朝、妻は死んでしまったのだとやっと理解しました。そのときにはすでにあやかしの身となっておりました。何故か理性は残っておりました。妻を探すという強い希求があったからかもしれません』


 アサヒヤの店内は、鳩時計の時を刻む音と、コハクの静かな張りのある声だけがその空間を埋めていた。


『人語を理解し姿を変えられるようになってから、以前、私と共にいた人間の元へ行ってみました。けれど、もうその人間はおらず彼の息子が跡を継いでいました。私はまたしばらくそこに身を寄せました。人の姿になって初めて、私が人間と共に何をしていたのか理解しました。その息子とは波長が合うのか、彼の仕事を手伝うのが楽しくなりました。けれどどんなに楽しくても忘れられなかったのです』


 妻の記憶だけが、体のあちこちに染みついていてどうしても消えないのだと言った。時折あふれ出してひどく暴れるので、忘れたくても忘れられないのだと寂しそうに笑った。


『もうどこにもいない妻を忘れることもできないまま生き続けるには、あやかしの生は長すぎるのです』


 だから消して欲しいと、彼は願った。

 旭が妖怪退治屋の家業を離れたことをコハクは知らない。あやかしを退治したくないと強く願う旭に、その依頼を受けることはできない。

 けれど、断るための言葉も見つけられなかった。

 混乱する頭で助けを求めるように旭は隣に座る焔に視線を移した。

 焔はリクライニングの効く椅子に深々と背を預け、腹の上で指を組み合わせたまま動かない。彼の紫の瞳は、客も旭も目の前のコーヒーカップでさえ捉えていなかった。どこか遠くの、もう二度と手の届かない何かを見ているような気がした。

 汗ばむ手をぎゅっと握りしめ、旭は『二日、考えさせてください』と声を絞り出した。

 快く了承してくれたコハクを店先で見送ったあと、その場に崩れるように倒れ込んだのだった。


 ベッドの上で、閉じた瞼の上を腕で覆う。

 たった一人の妻を忘れられないために死を願うコハクに、何故か焔の姿が重なった。コハクの話を聞きながら、そこではないどこか遠くに思いを馳せていた焔の眼差しが忘れられない。

 旭は焔の生きた五百年という年月を知らない。

 そもそもどうしてあやかしになったのかも聞いたことはなかった。

 今から五百年前といえば、武士の世の中のはずだ。旭はわずかな記憶を引っ張り出す。教科書で勉強したことしか知らず、まったく未知の世界だ。

 そこで焔は誰と出会い、どんな風に生きていたのだろう。

 何を食べ、何に笑ったのだろう。

 コハクのように、長すぎる生を終わりにしたいと願ったことはあったのだろうか。

 焔なら、コハクの願いを理解できるのだろうか。


「大丈夫か?」

 ふいに呼びかけられて手を除けた。部屋の灯りが付いており、まぶしくて瞬きを繰り返す。

「旭様、どこか痛いですか?」

 折りたたみ脚が付いたベッドトレイテーブルを手に、焔と子銀がベッドの脇から旭をのぞき込んでいる。

「大丈夫。ご飯、持ってきてくれたんだね。ありがとう」

 のろのろと起き上がると、布団の上に二つのテーブルが置かれた。旭の前には小さな土鍋に入った玉子粥と梅干しとお茶の入った湯飲みが、もう一つにはカツカレーとサラダと麦茶の入ったグラスが載っている。

「焔もここで食べるの?」

「いいだろどこで食ったって」

 返事をしながらもうすでにカツカレーを頬張っている。

 さっき思わず引き留めたからだろう。口は悪くぶっきらぼうだけれど、どんなときでもそばにいてくれる存在に、旭は安堵で満たされるのを感じた。

「食事が済みましたらお呼びください。デザートとお薬をお持ちするのです」

「ありがとう、子銀ちゃん」

「ほら冷めないうちに早く食え」

「うん」

 いただきますと一礼してかられんげを手に取る。玉子粥は出汁が利いていて、熱っぽい体にも食べやすかった。焔はというと、少しでも早く空腹を満たすためか、ものすごい勢いでカレーを口に運んでいる。一方、旭の手は止まりがちだ。今日の店でのことを思い出しては、考えに沈み込み、焔を見て何か口を開きかけては紡ぐ。

 訊きたいことは沢山あった。

 焔はあの店のことをどれくらい知っているのだろうか。

 そもそも祖父の流星と付き合いはあったのだろうか。

 コハクが死に別れた家族のことを語ったとき、何を考えていたのだろうか。

 焔なら、コハクの願いを叶えるだろうか。

 半分くらいまで食べたところで、どうにも我慢できなくなり旭は手を止めた。

「訊いていいかな」

「なんだよ」

 キッチンからお替わりをよそってきた焔が二枚目のカツを口に入れる。

「焔は死にたいなと思ったことはある?」

「おまえにしてはダイレクトな質問だな。あのオッサンめ、面倒なことを持ち込みやがって」

 カツを頬張った状態でモゴモゴと言う。

「俺たちは人間よりも動物や植物に近いから自分で命を絶つことはできない。死にたいと思ったところで死ねないのがあやかしだ」

「それは質問の答えじゃないと思う」

 旭は焔をまっすぐに見つめた。

 焔はそんな旭の視線を一瞬だけ受け止めて小さくため息をついた。

「俺はないよ」

「一度も?」

「一度もない。もう一度おまえに会うために生きてきたんだから」

 旭の視線を外しカレーを口に運びながらさらりとそう言った。

 口調が強いわけではないのに、その言葉は旭の心の深いところを揺るがした。

「もう一度ってどういう意味?」

「そのまんまの意味だよ」

「僕と焔は過去に会ったことがあるってこと? 僕が生まれる前に?」

「そう。俺があやかしになる前に。正しくはおまえの魂に会った。そん時に感じた。また未来で会えるって。そして本当に会えた。きっと何度でも会える。だから俺は死にたいなんて思ったことは一度もない。以上、終わり!」

 食器がカチャンと鳴る。旭の手かられんげが土鍋の中に滑り落ちていた。

「そんな話、初めて聞いたんだけど」

「話したことなかったからな」

「なんで教えてくれなかったんだよ」

「おまえには関係ないことだし」

「関係なくないよ」

 声が震えた。

 悔しいのか、腹立たしいのか、それとも嬉しいのか。

 まったく意味不明の感情だった。

 生まれたときからそばにいて、家族同然なのだから、いるのが当たり前だと思っていた。焔が生きる意味なんて考えたこともなかった。

 そうだ。

 僕が知ろうともしなかった。

 なぜ? と思うことすらなかった。

 気づいてしまったけれど、詫びればいいのか、感謝すればいいのかわからない。

「関係なくないよ」

 旭には同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。

「輪廻転生なんて途方もない話を信じるのか?」

「信じるに決まってるよ。だって焔はここにいるんだから」

 思わず焔の手を掴んでいた。

 そしてそんな自分に驚いて、焔の手を掴んだまま動きを止める。

 今、僕はなんて言った?

 口からするりと出た自分の言葉に、旭は戸惑う。

 焔はここにいるんだから。

 それは、再び会えたという意味では?

 心臓がバクバクと音を立てている。

 そこから小さな光が飛び出してくる。 

 激しく爆ぜる白い光が旭の視界を満たすと、そこに何かが浮かび上がってきた。

 それは、黄金に輝く野っ原だった。

 日を浴びて金に光る芒野の中を、同じくらい金色のふさふさした尾が進んでいく。狐のような尾だ。その先に小さな祠がある。小さな男の子が花を供えていた。芒野から姿を現した金色の狐を見つけると、男の子が嬉しそうに笑った。そしてまっすぐに駆け寄っていく。狐を恐れる様子はまるでない。狐は逃げない。男の子は狐の体に細い腕を回してぎゅっとしがみつく。金色の狐が細めていた目を開く。

 それは水晶のように美しい紫の目だった。

 あの狐は焔?

 一緒にいるのは……。

 旭がその光景に既視感を覚えたそのとき、甲高い鳴き声とともに彼らの上を素早く影がよぎった。二人が空を仰ぐ。旭も追うように空を見上げる。

 二羽の鷹が飛んでいる。時に寄り添い、時にじゃれ合いながら、自由に楽しそうに舞っている。

 仲の良い二羽の姿は、生涯の伴侶と互いを認め合った美しい形だ。

 旭には強く想う相手の思念に共感してしまうという力がある。今見えているものは、コハクの世界なのだろうと、すぐに理解した。

 来世でもう一度会いたいと願うのは、人間だけではない。

 あやかしも、動物も、もしかしたら植物も同じかもしれない。たった独りに出会えたら、何度でも出会いたいと切望するのかもしれない。

 旭の中の魂が叫んでいる。

 また会えた。

 また焔と会えた。

 生まれ変わって、やっと会えた。

 きっと何度生まれ変わっても、また会える。

 だって、焔は今ここにいるんだから。

 会いたいと願い続ければ、次も、その次も、必ず会える。

 旭の魂にそう刻み込まれている。

 では、コハクは?

 もう手の届かないところに行ってしまったのだと解っていても、愛する家族を探し続けて、どこまでも飛び続けて、それでも見つからなくて、彼は諦めた。

 潰えた希望を背負って、闇に沈む前にあの店にやってきた。

 もう終わりにしようという悲しい覚悟を、優しい瞳に宿らせ、旭と焔のところにやってきた。

 コハクもまた会えるのではないだろうか。

 彼の覚悟を解くことはできるだろうか。

 体半分まで闇に浸かった彼を引きずり出すことはできるだろうか。

 旭の中の魂がぶわりと新たな熱を生み出した。

 焔の手を強く握る。

 その旭の手に焔の手がそっと重なった。

 冷たい手が心地良い。

「おまえはここにいる。俺の手の届くところで元気に熱を出している。それがすべてだ」

「なにそれ。熱出てるんだから元気じゃないよ」

 口にしたら笑えてきた。

 旭は笑いながら、胸の辺りからこみ上げてくるものを必死でこらえる。

 また会えたね。

 嬉しいよ。

 体の中で誰かが幸せそうに笑っている。

 自分の感情とは別のところで、体の奥底から湧いてくる喜びをはっきりと感じた。

 止めどなく溢れてくる幸せが、旭の感情を揺るがす。

「焔ってバカなんじゃないの?」

「バカっていうおまえがバカなんです〜」

 泣いてしまいそうになるのを隠すように、焔の手をぎゅっと抓った。



 燐光のような青白い鬼火が食事の終わりを告げにゆらゆらとキッチンへ降りていくと、すぐに白金と子銀がやってきてデザートと薬を置いていった。

「コハクさんってもしかしてワシとかタカだったんじゃないかな」

 二人で食後のバニラアイスクリームを食べながら、旭はそう切り出した。

「どうしてそう思う?」

 さっき見えたから、とは言わなかった。

 代わりの言葉を探していたら、昔、読んだ本を思い出した。

「前に動物園の飼育員さんが書いた本を読んだことがあるんだけど。タカって一度、番いになるとずっと同じ相手と添い続けるんだって。片割れが先に死んでしまっても別の相手とは番いにならないこともあるって」

「確かあのオッサン、番いとか口にしてたな。黒目がちな目はハヤブサっぽい」

「コハクさんは片割れを失った悲しみが強すぎてあやかしになってしまったのかもしれないね」

「そういう理由であやかしになる動物は稀だけどな」

「普通の動物は添い遂げるみたいな本能はないっぽいよね。本で読んだときはそうなんだってくらいにしか思わなかったけど、コハクさんの話を聴いた今ならわかるよ」

 コハクの静かで優しげな表情の中に見え隠れした陰りは、彼の伴侶への行き場のない想いだ。

 その想いがどうかこれ以上、黒く染まってしまわぬよう、少しでも光へと導くことはでくことができれば、彼の覚悟を変えられるかもしれない。

 祖父の言葉が旭に光を与えてくれたように。

 焔がいつとも知れぬ遠い未来の再会を信じ続けることができたように。

 その役目が自分にできるだろうか。

「で、おまえはどうしたい? おまえはあのあやかしを消したりはしないだろう?」

「調べたいことがある。手伝ってくれるよね? 焔」

 頬を火照らせて、旭が笑った。


バタバタしているうちに、更新が一週間遅れてしまいました。

コハクからの依頼を受けた旭は、あまりにも悩みすぎて熱を出して倒れてしまうという軟弱ぶりを発揮しています。

コハクに返事をするまであと二日。

旭は答えを出せるのでしょうか・・・?

まだ少し続きます。

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