三、コハクの依頼
片影を伺わせるような丁寧な立ち居振る舞いで、紳士は店に入ってきた。
旭が椅子を勧めると、優雅なお辞儀をしてから座る。
完璧に人の姿をしているので、焔からあやかしだと教えられなければ人だと疑わなかっただろう。旭が出した粗茶を飲む所作も美しく、凜とした姿勢はあやかしであることを感じさせない。けれどその表情だけは、落ち着いた静けさの中にわずかに疲弊した陰りをにじませているように感じられた。
焔は同じテーブルで日誌をめくりながら淹れ直したお茶を啜っている。初めての客が旭や焔を狙う輩ではないことをその寛いだ態度で示している。
「アサヒといいます」
あやかしに本名をフルネームで名乗ってはならないと、子供の頃より叩き込まれた妖怪退治屋のルールに従う。調べれば名前くらい簡単にわかるだろうが、自分から名乗るという行為があやかしに心を操られる糸口となるのだと母から教わった。
「こちらは焔です」
焔の名を出すと紳士は驚いた表情をみせた。あやかしたちの世界では焔という名が知れ渡っていることを旭も知っている。それほどの大物なのだ。
「ただの用心棒ですよ」
紹介された焔はいつもと変わらないへらりとした態度で応える。紳士は焔については何も問わず小さく頷いた。
「私はコハクといいます。人間に紛れて生きていくためにいくつか名を持ってはおりますが、最後に世話になった人に付けてもらったこの名が一番自分らしく思えるのでこう名乗っております」
「コハクさん」
旭は確かめるように彼の名をゆっくりと繰り返し、次の言葉を躊躇うかのように口を開いては止める。鳩時計の音よりも自分の心音の方が大きいのではないかと思うほど心臓の鼓動の早さが増していく。
来るとは思わなかった客が突然、現れ、願いを叶えて欲しいと依頼された。おそらく祖父目当てで訪問したのだろうが、店にいるのは昨日、受け取ったハガキ一葉で店を譲り受けたばかりの、しかも自分には何もできないことを嫌と言うほど自覚している人間の若造である。
話くらいは聞かなければ失礼に当たってしまう、どうしよう。お客さんの対応の仕方とか、できないことの断り方とか、どうしてそういうことを書き残してくれなかったんだろう。
旭の中にあふれる葛藤と祖父への不満はそばにいる焔にも伝わったのか、業務日誌のノートの陰で笑っている。
コハクはそんな旭をせかすこと無く、自然な仕草でお茶を飲み「美味しいですね」と言った。その優しげな笑みにつられて旭の口元が緩む。まだ肩の力はバリバリに入ったままだが、ようやく止まっていた息を吐き出すことができた。
正直に話すしかない。
誰が見ても紳士に見えるコハクならば、自分が店主ではなく何もできないと話しても、怒って襲ってくるようなことはないだろうと、旭は腹をくくった。
「最初に謝らなければならないことがあります」
「伺います」
コハクは穏やかな表情のまま応えた。
「僕はこの店の主ではありません。ごめんなさい」
「とおっしゃいますと?」
「実は昨日、祖父よりこの店を預けるといきなり手紙で言われたばかりで、今日、初めてこの店に来たのです。何を営んでいるかも知りませんでした。祖父の残した日誌を読んで店を五時に開けると書かれていたので、その通りにしてみただけでして」
「まさかすぐに客が来るとは思わなかったと?」
「はいそうですすいませんごめんなさい」
コハクは映画の中に出てきそうな英国紳士風にふぉっふぉっと笑った。
「ならば私は幸運なのかもしれません」
旭はぺこぺこと下げていた頭を持ち上げた。私が知っていることをお話しましょうと、コハクは説明を始めた。
「この店は主がいなければ灯火は点らず誰も店を認識できません」
どういう意味かわからず、うつむき加減のまま、旭はコハクを見上げる。
「この商店街にはたくさんの店があり人通りも多く活気があります。けれどこの店に用のない者にこの店は見えません。確かに存在しており、視角に入っているはずなのですが気づかないのです。さらに、ただ行きたいと願うだけでは店に行くことはできません。ここへ行く意味がその者の本当に心からの願いにならなければだめなのです。意識して願っていなくても、心の奥底に何かを抱えている場合も同じです。それはこの店に呼ばれるということなのです。そしてそこに店主がいて、初めてこの店に灯火が点り、私共は灯火に吸い寄せられるようにここにたどり着くのです」
「ほんとう、ですか?」
信じられないという旭の顔にコハクは「本当ですよ」と柔らかに答える。
「現に私は一週間も前からこの店を探していました。場所もちゃんと聞いていました。乙葉商店街の真ん中にあると。けれどこの一週間、何度往復してもこの店を見つけることはできなかった。そして今日、ようやく店の灯火を見つけることができたのです。つまり」
コハクが息を継ぐ。旭はコハクの言葉に全身を傾ける。
「それはあなたがこの店の正真正銘の主になったということではないでしょうか」
店を継げと言われて、それが祖父へと続く道であるならばと一度は覚悟したものの、祖父の残した日誌によってこの店が何を商いとしているかを知り、旭は大きな不安に取り憑かれていた。日誌を読めば読むほどに、祖父がどれほどの知恵と知識とそれらを実行する力を持っていたのかを思い知った。祖父が持っている十分の一も自分が持っているだろうか。そう問うては、自分など祖父の足下にも及ばないとすぐに否定した。
本当は午後五時を前に、店を開けるべきか迷ったのだ。本心では開けたくなかった。祖父の代わりにはなれない。祖父のようにはできない。自分には無理だと自分が一番よくわかっていた。
けれど、不安に駆られながらも店を開けたのは、祖父に繋がりたい一心だったからだった。それは店や店の客のことなど何も考えていない自分勝手な望みだとわかっていた。
それなのにコハクは幸運だと言った。
旭が店主なのだと、言ってくれた。
ようやくこの店の灯りを見つけたときのコハクの気持ちが旭の中に流れ込んで来る。探し求めていた希望の光を手にした喜びがそこにあった。
コハクの感情が旭の中にシンクロする。
最初に店を訪れたとき、三森さんが点けられなかった室内灯を旭は点けることができた。店と、そして目の前にいる旭の最初の客であるコハクに、店主と認められたという喜びを確かに感じた。
胸の辺りを押さえて息を吐き出した。
ゴツっと堅いものが旭の頭に当たり視界に店の光景が戻ってくる。
「寝んな」
焔が業務日誌ノートで旭の頭をゴツゴツと叩いている。
「寝てないって。ちょっといろいろ考えてただけだからノートの角で叩くのやめて。地味にい痛いし!」
「このおっさんの言ってることは本当だ。俺たちが三森さんに連れられて来たときも周りの人間のほとんどはこっちを見ていなかったろ。まるで視界に入っていないみたいにな。ここはそういう場所なんだよ。じいさんの術だ」
「目の前の薬局の女の人は挨拶してくれたよ」
「あいつは特別だ」
「僕と同じような血を引いているってこと?」
「まあそんなところだ」
「焔はもっと知っていることを教えてくれてもいいと思う」
「おまえが気づけよ。血の繋がったじいさんの術だろうがよ」
「そうだけど」
紳士は旭と焔を見つめて笑っている。
「お二人はよい番いのようですな」
「は?」
「番いじゃねえよ! こんなドチビのコミュ障とセットにすんな。それにこいつは男だ! こんな顔だけどな!」
焔が勢いよく立ち上がったので机が揺れてお茶がこぼれた。旭はようやくコハクの言った番いの意味を理解し顔を赤くしたまま取り繕うように立ち上がる。
「え、えとお茶、煎れ直してきますね。コーヒーにしましょうか。インスタントしかないみたいですが」
「ありがとうございます。インスタントコーヒーはとても美味しいと思います」
灯光は柔らかくテーブルの上を照らし、焔が煎れてきてくれたコーヒーの香りがぽかりと店内に浮かぶ。時計の音がゆっくりと秒を刻む。外からは商店街の賑わいが聞こえる。夜になっても活気が続いている。匂いや音が、店の中にしっとりと降り積もる。
店の中が本題に入れる空気になった、そう感じた。旭はまっすぐに背骨を伸ばした。
「では改めまして、コハクさん。あなたのお話を聞かせてください」
「はい。退治屋の血を受け継ぐご店主にとっては簡単なことです」
コハクは穏やかに微笑み、こう言った。
「私を退治して欲しいのです」
金曜日にアップ予定でしたが、バタバタしてしまい日曜日になってしまいました。
やってきたお客に店のことを教えてもらう旭です。
まだもう少し続きます。
次回は2021年10月29日(金)の夜あたりにアップ予定です。
よろしくお願いします。