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春ともし  作者: 時幸空
2/4

二、アサヒヤの開店

 花冷えの昼下がりは、桜の花弁も白さを増して大抵どこの町も重く沈む。が、この町は明らかに様子が違っていた。あちらこちらの家々の庭先には桜に混じって、何故か梅や桃が節操なく咲き、風景が桃色に染まっている。道行く人も多く、人々は明るく挨拶を交わし、時に立ち話に花を咲かせている。

「なんかやけに元気な町だね」

 それが旭が抱いたこの町の最初の印象だった。

「ショッピングモールがあるとか、おしゃれなカフェがあるとか、そういう都会的な騒がしさじゃないところがいいな。昔に戻ったみたいだ。昭和の世界というか」

 隣を歩く焔は、井戸端会議を開いていたおばちゃん達に手を振っては黄色い歓声を浴びている。相変わらず、どこでも人目を引くあやかしだ。

 祖父からのハガキが届いた翌日、旭と焔は記された住所を目指していた。

 店は商店街の中程にあるようだった。その商店街はなぜか便利そうな駅前ではなく、駅の東口から徒歩十分くらいの住宅街の奥にあった。昨日、ハガキを受け取ってから地図アプリで調べてみたのだ。商店街を進むと突き当たりには小さな山があって、その入り口に古い神社があった。神社を起点に参道のように商店街がまっすぐに伸びている。明らかに町よりも後にできただろう駅に向かって、古い住宅街が広がっている。ストリートビューで平屋や二階建てくらいの古くて大きめな家が多いことは確認していたが、実際に来てみると高いビルがないので空がぽかんと開けて開放感がある。

 一方、駅の反対側である西口側は新興住宅地のようで、大きなショッピングモールがあり、広い県道が走り、バスが走り、マンションが建ち並ぶ。いかにも駅の開通とともに発展しましたという今風の賑やかさがある。

 駅の東側と西側でここまで両極端の街を旭は初めて見た。

「あれ見てよ」

 旭が指し示したのは、商店街の入り口に設置されたアーチ型の看板だ。白地に赤い文字で書かれた看板の周囲には、丸い黄色い電球が取り付けられている。昭和を感じさせるデザインだ。

 焔がそれを読み上げる。

「乙葉商店街」

「さっきから乙葉って名前をやたら見かけるけど、うちに関係あると思う?」

 乙葉家の者として、自分の名前があちこちの看板に書かれているのはかなり微妙な気分だ。

 私鉄の通る最寄り駅は別の名前だったが、その東口を出ると町名は乙葉町となり、乙葉病院やら乙葉郵便局、乙葉小学校といった文字が目につくようになった。

「関係ないわけないだろ。東の乙葉の管轄下の一つなんだろうよ」

「おじいちゃんって紫葉家出身だけど」

「おまえのばあちゃんと結婚した時点で乙葉になったろ。まあ実家の紫葉どころか、乙葉の本家にも居着いたことなんかねえけどな」

 けけっと笑う焔に旭は眉をひそめた。

 乙葉の家とは距離を置いたつもりなのに、何の因果かしっかりと舞い戻っている。実家のある東京の城南は普通の住宅地で、家も少し古くて庭が広いだけでいたって普通で、乙葉町なんて名前はなかった。もしかしたら、ここはかつて乙葉家の本拠地があった古巣のような場所なのかもしれない。

 旭の心がざわつく。

「やめるか?」

 心を読んだかのように焔が問う。焔の紫の瞳が旭の心の奥底にまで入り込んでくる。

 祖父・流星に会いたいという一心で、その跡ばかりを追いかけてきたこの八年間、わざとらしく残された痕跡からは流星がお茶目で自由奔放な人であること以外、ほとんど何も見えてこなかった。

 けれど今度は違う。

 この道の先には流星の営んだ店があり、そこには手記が残されているという。祖父が暮らした場所ならばきっと祖父に近づけるはずだ、と旭は店を引き受けるつもりでここまで来た。入り口で帰ったら、この八年間のすべてが無駄になる。

 そんな気がした旭が看板をにらみ挙げる。

「やめないよ」

「上出来」

 一歩を踏み出した旭たちを迎えるように、アーチの向こうから花冷えを拭うような暖かな風が吹いた。



「逃げ足の速い人だったよ」

 流星の手紙に記されていた不動産屋を探し、三森さんを訪ねた。旭が尋ねるまでもなく、三森さんはヒッヒと可笑しそうに笑いながら祖父のことを教えてくれた。

 三森さんは小柄な人だった。旭の祖母くらいの年齢に見えたが、おかっぱ頭には白髪の一本も見えない。綺麗な黒髪だ。旭たちが来ることは承知していたらしく、不動産屋の店番を息子に頼むと、すぐに流星の店まで案内してくれた。

 白い前掛けに木製のつっかけ姿の三森さんからは、いろんな音がする。カラコロというつっかけの音、白い前換えのポケットあたりから鈴の音、こちらの相づちを待つまでもなく続くお喋り。普段なら旭の苦手とするタイプであるが、なぜか三森さんに嫌悪感を感じることはなかった。嫌悪感どころか、一緒にいるとほっとするような、暖かくエネルギーに溢れた波動のようなものを感じた。

 元気のいい人だな、と旭はクスッと笑う。

 昼下がりの商店街は、まるでランチ時のオフィス街の飲食店のごとく賑わっている。

 それほど道幅の広くない商店街の両側には小さな店が軒先を連ねるが、シャッターの閉まった店は一つもない。食堂や喫茶店にはひっきりなしに人が出入りしている。買い物かごを下げた客も多い。肉屋の店先に揚げたてのコロッケとメンチカツが並ぶと、待ってましたとばかりにおばちゃんたちが列を作る。八百屋の店先では、旭と同じくらいの年齢の男性がおばちゃんと楽しそうに話している。魚屋の前にはバケツから逃げ出したと思われるザリガニがのっそりとはさみを持ち上げる。

「ここに来たのはもう五十年くらい前になるかねえ。ものすごい色男でね、そりゃもう女子たちが目の色変えて奴の周りに群がってたよ。あいつが商店街を歩くと女子どもが後をくっついていくんだけど、いつの間にかおらんのよ。まるで忍者みたいだったよ」

 三森さんも五十年くらい前はその女子の一人だったんじゃないのかと焔がからかうように問うと「あたしはうちのじいさん一筋だよ。あんたこそ気をつけるんだね。この町の女子がほっとかない顔してるよ。最近はストーカーとか流行ってんだから刺されないよう気をつけるんだね」と釘を刺された。

「祖父はいつ頃までここにいたんですか?」

「先週だよ。以前からふらりと姿を消してはいつの間にか戻ってくるってのを繰り返していたんだけどね。孫に店を譲るからよろしくって鍵を置いてったんだよ。うちで貸してる店じゃないけど、昔のよしみってやつだからね。いない時は管理とかしてるんだよ」

「え? 先週までいたんですか?」

 衝撃の事実に旭の足が止まる。

「おや、知らなかったのかい?」

「はい。祖父はとても謎の人なので」

 実はまだ直に会ったこともないという言葉は飲み込んだ。祖父と孫という関係なのに一度も会ったことがないのは常識的にはおかしいと思ったからだ。

「別にあんたのじいさんだけじゃないさ。この町もこの世もぜんぶ謎だらけだ。あんたもね」

 にやりと三森さんが笑う。その全身からただならぬ気配がにじみ出てくる気がする。

 この人、もしかして妖怪なんじゃ・・・?

 妖怪退治屋の力を意識的に閉じている旭に判別は付かなかったけれど、その素質は十分にありそうだ。

「さ、ここだよ」

 三森さんが立ち止まらなければうっかり通り過ごしてしまうところだった。周囲を気にしながら歩いていたはずなのに、視界に入っていなかったというか、今、突然、目の前に現れたような気がして思わず辺りを見回した。

 周囲と比べても一段と古い店構えの、小さな一軒家だった。

 曇りガラスがはめ込まれた木戸は横に引いて開けるタイプで、その上部には電灯と呼ぶにふさわしい丸く白いガラスの灯りがついた小さな庇がある。木戸の左側にはゆがんだガラスがはめ込まれた窓があり、その下に小さな木製のベンチが置いてある。店の看板はない。木戸の横に何かをひっかける金具が付いているので、そこに看板をかけていたのかもしれない。

 左隣は本屋で、右隣は眼科の医院だ。

 正面には薬局のような店がある。こちらも年季の入った立派な店構えの建物で、その外見から時代劇に出てくる薬問屋が思い浮かんだ。大きな木製の看板は日光や雨にさらされて店名が見えない。祖父の店と同じようなガラスがはめ込まれた引き戸が開いたままになっている。入り口から大小様々な薬瓶が並ぶ木棚が見えるので薬局かと思ったが、今時、古くさい薬瓶が並ぶ薬局などない。一般的なドラッグストアの蛍光灯に照らされ白くてさわやかな内装とは真逆だ。雰囲気は暗くどっしりしている。かといって不潔ではない。魔女みたいなおばあさんが漢方の調合とかをやっていそうだ。ちょうど、白衣を着た女性が手にほうきとちりとりを持って店内から出てきた。想像と違って若くて綺麗な女性だ。なぜかお団子にした髪に理科の実験で使うピペットが刺さっている。

「な〜に見みてんだ?」

 旭の背中を焔が軽く押した。

「お向かいの薬剤師さん? でいいのかな? 彼女の頭にピペットが刺さってるんだけど危なくないかな」

「あ〜一流堂の跡継ぎか。薬屋であってるぞ。あいつはまあ変人なだけだ」

「知り合い?」

「少しな。ほら行くぞ」

 促されるように前を向けば、三森さんが鍵を開けて流星の店に入っていくところだった。なぜ知っているのかと焔に問いただしたい気持ちを押さえて、旭は三森さんの後を追う。

 店の中は薄暗かった。

 三森さんが入ってすぐ右側の壁を探り電灯のスイッチをパチパチしている。

「おかしいねえ。点かないよ」

「電気は止めていったのではないですか?」

「孫が来たらすぐに使えるようにそのままにしておくって言ってたんだけどねえ。ちょっと奥のブレーカーを見てくるよ」

 三森さんが勝手知ったるという感じで店の奥へとつっかけの音を立てながら歩いて行く。

「旭、おまえがやってみろよ」

 焔が旭の耳元でささやいた。

「誰がやっても同じでしょうが」

「まあまあそう言わずに」

 旭が焔の顔を見上げると、意味ありげな笑顔を貼りつけている。

「何か知ってるって顔だよね」

「まあまあ」

「言う気はなしってことだね」

 小さくため息をついて、旭は三森さんがいじっていた辺りに視線を送る。漆喰の壁に白くて丸い陶器の小物入れみたいなものがついておりその真ん中に真鍮の鈍い色のスイッチがある。店の雰囲気そのままのレトロなスイッチだ。

 手を伸ばし、スイッチを下から上に押し上げる。思ったよりも重い。少しだけ力を込めるとカチっと音がして、店内の電灯が点いた。

 その瞬間、スイッチに触れている旭の指先から何かが流れ出て店の隅々まで広がっていく感覚が走った。

「え?」

 それは一瞬のことだった。

 思わず手を引っ込めて指先を見つめる。何事もない。

 隣に立つ焔を見れば、満足げなというよりはなぜか得意げなどや顔をしていた。

「知ってたね、焔」

「さあな」

「ああ、点いたね。接触が悪かったのかねえ。点検しといた方がいいかもねえ」

 ブレーカーに行き着く前だった三森さんがUターンして戻ってくる。

 旭は店の中を見回した。

 中はだだっぴろい土間作りの一間だった。土間といっても土ではなくモルタル仕上げだ。壁は白い漆喰で、経年による汚れが多少あるものの古いというイメージはない。土間の真ん中には十人が座れそうな大きくどっしりとした木のテーブルがあり、その周囲にはデザインや素材、大きさの違う椅子が六脚ほど適当に置かれている。いつでもここに集まって宴会でもできそうな感じだ。

 奥には上がり框があり、黒々と磨かれた板床が艶を放っている。壁いっぱいの小さな引き出しのついた箪笥が薬種問屋をうかがわせる。左奥の土間には、薪をくべるタイプのだるまストーブが置かれ、煙突が天井へ繋がっている。

「右奥に暖簾があるだろ。あそこが住居への入り口だよ。台所とトイレは一階。風呂はないから乙葉さんは商店街の銭湯を使っていたよ。二階には六畳の部屋が二間ある」

 三森さんはざっくりと説明すると鍵をテーブルの上に置いた。銀色の鈴が付いている。

「わかんないことがあったらいつでもうちに来なさいね。じゃあね」

 自分の役目は終わったとばかり、三森さんは店の入り口辺りで棒立ちになっている二人を置き去りに出て行ってしまった。

「何の店なのかまったく説明がなかったね」

 焔は知っているんでしょ? という視線を投げかけてみれば、再び笑顔で躱された。

「日誌を探そうぜ。それに書いてあるんだろ?」

「……そうだね」

 全く言う気がないらしい焔のことは諦めて、旭は改めて店内を見回した。

「俺、あの薬棚担当な」

 ゲームのクエストを始めたばかりの初心者ゲーマーのように、焔がウキウキと靴を脱ぎ、薬棚のある框にあがる。時代劇に出てくる店ならば番頭さんが座っていそうな場所だ。焔は薬棚を片っ端から開けている。楽しそうだ。

 お宝でも入っているのだろうか。

 店内は薬棚以外の収納は何もないので焔に任せ、旭は濃紺の暖簾をくぐって住居部分へと足を踏みれた。

 曇り空とはいえまだ昼時、台所の窓の外が明るいため、電気が点いていなくても部屋の中の様子は見えた。二口のガス台のついた小さな台所、冷蔵庫、背の低い食器棚と赤いちゃぶ台と座布団が一つあるだけの質素な部屋だ。

 座布団に座り、傷だらけのちゃぶ台に触れてみる。

「ここに住んでたんだ」

 口にしてみると、写真でしか見たことのない祖父の気配が感じられるような気がした。写真の中の祖父はいつでも着物姿で、微笑を浮かべながらも、飄々とした雰囲気だった。彼はここで、何を見て、何を聞き、何をしようとしていたのだろう。ここで店を開けていれば、いつか祖父は顔を出してくれるだろうか。

「旭、あったか?」

「え?」

「えじゃねえよ。何ぼーっとしてんだよ。日誌はあったのか?」

「そうだった。日誌ね、日誌っと」

 辺りには何もない。普通の家ならどこにもでありそうなカレンダーや絵、置物や本の類いがまるでない。

「食器棚にはねえな。後は冷蔵庫か」

「冷蔵庫にあるわけないよ。二階見てくる」

「待て」

 部屋の奥の階段へ足をかけた旭を焔が呼び止める。

「あったぞ」

 冷蔵庫の前で焔が笑っている。

 いろいろな装丁のノートが何十冊も、空っぽの冷蔵庫の中に鎮座している。

「おじいちゃんってほんとにどんな人なんだろう」

「ふつーの人間じゃないわな」

 焔から冷え切ったノートを一冊、受け取って最初のページを開く。

「業務日誌、昭和六十一年三月三十日より。三月三十日にお店を開いたってことかな」

 万年筆で書かれたその文字は、流星の手に間違いなかった。

「案件一号、四月二日、道に迷った狸を案内した」

「なんだ? それ」

 焔もノートをのぞき込む。

「案件二号、四月七日、本に取り憑いたあやかしを取り除いた。案件三号、四月十日、三森さんの家の煤払いをした」

「おまえの父ちゃんみたいな仕事だな」

 旭の父、信乃しのは彼の実家である神路が本拠地を構える東北の田舎で貸本屋を営んでいる。町の人から頼まれたあやかしがらみの問題を解決したり、時にはあやかしから頼み事をされたりもする。昔ながらの退治屋の仕事の仕方を継いでいる。乙葉家に婿入りした形だが、東京の乙葉家には年に一、二度しか帰ってこない。旭が実家を出てからは乙葉家で会うことはなく、旭の方から父の貸本屋に何度か足を運んだことがある程度だった。

「同じようなことしてるね。そういえば昨日、父さんにメールしたよ。この店のこと」

「信乃さん、なんか言ってたか?」

 焔は旭の生まれるかなり前から信乃の家に居着いており、仕事の手伝いなどもしていた。大妖怪と畏れられる焔も、信乃には一目置いており「さん」付けだ。

「羨ましがられた」

「ははっ太郎さんらしいや。大方、じいちゃんのお宝でも狙ってたんじゃねえの? 店の薬棚の中、ヤバ目のも含めて貴重品ばっかりだったぞ」

 よほどすごいものが入っていたのだろう。

「よくわかるね。欲しいものリストを送ってきたよ」

 ポケットからスマホを取り出して父からのメッセージを焔に見せると「あ〜いくつかはあそこに入ってたな。高く売りつけてやろうぜ。ここは店だしな」と笑う。

「一番最近のノートも見てみよう」

 冷蔵庫に積まれたノートの一番下を抜き出す。まだノートは新しい。

「案件一〇九二五、三月二十八日、眼医者の息子が河原で拾ったという石を持ってくる。よく笑う。未決」

「笑う石なら見たぞ。店の引き出しの中に入ってた。開けた途端に飛び出してきやがったから捕まえて戻しといた」

「動くんだ!」

「何かが宿ってんだろ。あの引き出しの中身はそんなもんばっかりだったよ。迂闊に開けるなよ」

 旭は手にしたノートをパラパラとめくる。

 知った名のあやかしもある。そのうちいくつかは「未決」と書いてあった。

「つまりおじいちゃんはここで人間とあやかしからの頼み事を解決する仕事をしていたってことでいいのかな」

「そうだろうな」

「そしてその仕事を僕に引き継いだと」

「おめでとう、今日から旭は店主だ」

「おめでたくないよ!」

 旭は思わず声を荒げた。

「僕には無理だよ。いくらおじいちゃんの頼みでも自分からあやかしに関わっていくのはやっぱり嫌だ」

「自分から関わらなきゃいいじゃないか。店を開けてるだけなら自分からは関わらないことになるだろ?」

「客として来たら関わらざるを得ない」

 あやかしを見る力を持っている、それだけでも店など開かなくてもあやかしは寄ってくる。喰らおうとする輩もいないではないが、大抵は何かに困っていることが多い。頼まれれば旭はそれを拒めない。家業を離れていたこの八年間でも、何度もそういうことがあったのだ。

「客ならいいんだ?」

「そんなこと言ってないし。とにかくあやかしは嫌だ」

「人間の客もいるみたいだけど?」

「もっと無理でしょ。自分のコミュニケーション能力は自分が一番良く知ってるし」

「自分のことは自分が一番見えてないっていう場合もあるぜ?」

「僕のコミュ障は焔が一番良く知ってるくせに」

「じゃあ、おまえはどうしたいんだ?」

「どうって、おじいちゃんの代わりに店をやるのは無理なんだから……」

「このまま帰るのか? おまえが知りたかったじいちゃんの過去がここにこんなにあるのに?」

 焔がちゃぶ台の上に積まれたノートの束を指でとんとんと叩く。

 そう言われると返事に詰まる。

 祖父・流星のことを知りたくて、ここまで来た。祖父を知るという意味では、このノートは宝の山だ。

「とりあえず日誌は読みたい……と、思う」

 流星のことを出されると、心が揺れてしまう。

 流星は、あやかし側についたと噂される元妖怪退治屋だ。旭は自分が退治屋としてどうすべきかわからなかったとき、祖父なら答えをくれるかもしれないと細い彼との繋がりに縋った。この八年間、祖父の軌跡だけを追う旅を重ね、ここまで来た。

 目の前にそれがあるなら、知りたい。

 それは強い欲求となって旭の体に熱を生む。目の前の日誌の束を見据える。

 この中は、あやかしだらけだ。

 それがこの店の現実だ。

 手を伸ばせば、それが旭の現実となる。

 あやかしと関わり、祖父を知るか。

 あやかしとも、祖父とも、縁を切るか。

 祖父が築いてきた店を背負うか。

 ここから逃げ出すか。

 岐路に立っている。

 岐路に立ちながら、もうとっくに出ている答えから目を背けている。

 あやかしと関わらずに祖父のことは知り得ない。

 旭は膝に顔を埋めた。長い息を吐く。

「自分に都合のいいことしか考えてなかった。覚悟なんてなかった」

「おまえが何を考えてんのか知らないけど、とりあえず覚悟なんていらないだろ」

「いや、いるでしょ。店を継ぐ覚悟が」

「あいからわずおまえの頭はガチガチだな。石でも詰まってんのか?」

 焔の手が旭の頭をコンコンと叩く。

「おまえはあのじいちゃんが、困っているあやかしは助けなければならんとか、人間も助けてやらんとな〜とか、そんな正義の覚悟でこの店を開いたと思うか?」

 旭が顔をあげる。

「思わない……というか思えない。あのおじいちゃんだし」

 家にも家族にも寄りつかずに、旅と酒を愛し、自由奔放に生きている流星にそんな覚悟があったとは思えない。かといって、あやかしや人間たちとどんな風に接してきたのかは知らない。本当は正義の気持ちで困っているあやかしや人間を助けて来たのかもしれない。自分はまだ祖父の外側の、それもほんの少しのことしか知らない。

「あ、そっか」

「ん?」

「おじいちゃんの放浪癖とか写真の飄々とした雰囲気からそういう人だって思い込んでたけど、本当にそうなのかなって。おじいちゃんがあやかしや人間とどんな風に会話していたのかとか、何をやってきたのかとか、なんにも知らない。いままでおじいちゃんに会いたいだけで跡を追いかけてきたけど、そうじゃない。僕はおじいちゃんのことが知りたい。何を考えてあやかしについたのか。あやかしに何を思うのか。ぜんぶ知りたい」

 目の前に光が点ったような気がした。

 店の中の電灯がぱっと点いたときのように、狭かった視野がぐぐっと広がったような気さえする。

 卓袱台の上の日誌を一冊、手に取る。表紙の端っこがよれよれになっていたり、シミが付いていたりする古いノートだ。

「この日誌と、このお店が教えてくれるのかもしれない」

「その覚悟はいいけどさ。何かの拍子にたまたまこの町に流れ着いて、成り行きで人やあやかしから頼まれ事をして、暇だったらから相手にしているうちにそれが店になったってだけかもしれないぞ」

「それでもいいよ。それもおじいちゃんだ」

「わかった。なら協力するしかないな」

「焔が知っているおじいちゃんのこととかこの店のこととか教えてくれるってこと?」

「それは教えな〜い。おまえが自分で探さなきゃ意味ないしな。まあアドバイスくらいはしてやるよ。あとボディガードな」

「わかってたよ。わかってたけど!」

 旭が机に突っ伏した。

 焔はニヤニヤと笑いながら旭の頭をぽんぽん叩く。

 その優しい手は、あやかしのものだ。自分が誰よりも信頼する焔の手だ。その手を頼りに、祖父を探してここまで来た。旅好きの祖父ならば、これもまた旅だと言うかもしれない。

 小さな灯りが心の内で瞬く。

 背中を押す風が優しく吹く。

 この店が祖父を知るためのクエストだというならば、トライしてみよう。その先に待つ祖父の背を目指して、歩き出してみよう。

 昨日の朝、仕事を探してみようと思ったのは自分なのだから。

 勢いを付けて顔をあげると、紫の優しい瞳が旭を迎えてくれた。



 仄明かりの電灯が照らす中、旭は小さな看板を入り口の横の金具にかけた。

 商店街の文具店で小型の黒板を買ってきて、チョークで「アサヒヤ」と記して紐を結んだだけの簡単なものだ。

「これでいいかな」

 店の鳩時計が五時を告げる。

 腹をくくってから数時間、祖父の残した業務日誌を読みふけっていたとき、店の運営方法について記されているページを見つけた。祖父がここに店を構えてから一年ほど経った頃の日誌であったことから、祖父も試行錯誤の日々だったと窺える。

 営業は夕方五時から十時までの五時間。日曜は休み。五時になったら入り口の電灯を点け、外に看板をかける。客がくればお茶を出し、テーブルでゆっくりと話を聞く。お代は必要経費と見合った対価をもらい受ける。

 日誌を読む限り、対価はお金だけではないようだ。海山の珍味、珍しい薬草、秘蔵の酒、いつでも清水が絶えない椀や、なんでも包める風呂敷、何に使うのかわからない怪しげな呪術の道具などを受け取ったと記されている。この店の仕事の対価だけでは暮らしていくことはできそうもない。おそらく祖父はお金には困っていなかったのだろう。

 旭もまた、生きていく上で金銭的に困っていないので、対価がモノでも問題はなさそうだ。実家を離れてはいるが、祖父の実家でもある紫葉家が全面的に援助してくれているからだ。

 紫葉家の一つ年上の従姉妹・栞子しおりことは、家が決めた婚約者同士という関係にある。互いに結婚する意思がないことを確かめ合って久しいが、彼女はことある毎に手土産をもって訪ねてくれたり、同じ高校・大学に通った間も学校という社会の中で、なにかと旭を助けてくれた。今では頼りになる姉と弟のような関係を築いている。

「そうだ。栞子さんにもこの店のこと報告しないと。昨日からいろいろあって忘れてた」

 旭がスマホを取り出すと、テーブルを挟んで反対側に座っていた焔が「栞子ならもう知ってるぞ」と日誌から目を離さずに焔が言う。

「え? なんで? 焔が連絡したの?」

「白金から報告済み。旭のことはすべて白金から毎晩、報告が入るようになってる。白金のやつ、栞子からスマホ渡されてるんだよ。報告専用の」

「なにそれ! 知らないんですけど! いつから?!」

「いつって、栞子んところのあの家に越してすぐ」

「それって八年前!」

「あの女、おまえのストーカーだからな。おまえのことはぜんぶ筒抜けだ。食べたものからその日に着ている服、起きた時間や寝る時間までぜんぶな」

 焔がニヤリと笑う。

「なにそれコワいんだけど」

「栞子なりの愛情だろ」

「愛って……栞子さんとはそんな関係じゃないよ」

「家族同然だろ」

「それはそうだけど」

 従姉妹であり婚約者であることを除いても、旭にとって栞子は学生時代から一番近しい人間であることは確かである。

 栞子は大学在学中から家業である妖怪退治屋として日本全国を飛び回る生活をしている。仕事から戻ってくると必ず旭たちを訪れ、土産を手渡し、旅の話をおもしろおかしく話してくれる。メールもマメに送ってくる。誕生日には必ず祝いを述べにやってくる。

 互いに特殊な家で生まれ育ったという共通点から、あやかしがらみの悩みも栞子なら気兼ねなく話せた。

 時には本気のけんかをすることもある、栞子は旭にとって焔と同じように家族同然の存在だった。

「いいんじゃないの? そういうのも。人間同士の恋愛感情なんてもんは俺にはよくわかんないけど、家族同然ってのはなんとなくわかる。おまえにとって必要なんだってこともな。だからおまえは甘えておけばいいんだよ。昨日の段階ですでに店のことを知っていながら、栞子からなんの連絡もないだろ? それっておまえを信用してるってことじゃねえの? ほんとに口うるさいやつだったら、とっくに押しかけて来てるさ。つまり、栞子は好きにさせといて大丈夫ってこと。あいつは見境ないけど、節度はある。まあその節度の度合いはおまえが絡むと普通よりハイレベルになるけどな」

 焔に言われなくてもわかっている。

 栞子はいて欲しいときにいてくれて、独りになりたいときには放っておいてくれる。助けが必要なときは、どんなことをしても助けてくれる。

 そんな人間は旭の周囲にはいない。栞子だけだ。

 旭にとって栞子は、たった一つの存在なのだ。

「それでもぜんぶ筒抜けってのはどうかと思うけど」

「今に始まったことじゃねえんだから、気にすんな」

 なんとなく焔に丸め込まれたような気がするのはなぜだろう。焔も白金と同様に、栞子に懐柔されているのかもしれない。見返りは焔の好物のプリンか?

 そんなことを考えながらも、旭は栞子に簡単に報告のメールを送信した。すぐに返事が返ってくる。

「お祖父様がお店を営んでいたとは紫葉家の者は誰も知りませんでした。あのお祖父様のことですから、貴方にお店を譲ったのでしたら何か意味があるかもしれませんね。何かお手伝いできることがございましたらいつでもお申し付けくださいね。落ち着いた頃にお訪ねしたいと思います」

 いつもながらの丁寧語と気遣いに、旭は栞子に背中を押してもらえた気がした。

 入り口を見る。

 客はまだ来ない。

 このまま日誌を読みながら夜十時までゆっくりと過ごすのもいいだろうと、台所で湯を沸かし自分たちのためにお茶を入れる。店の大きなテーブルで、それぞれ好きな椅子に座って、業務日誌を読み続ける。

 コツコツと戸を叩く小さな音がしたのは、七時を回った頃だった。二人は同時に顔をあげ互いの顔を見合った。

「もしかしてお客さんだったりして」

「もしかしなくても客だな。それもこっち側の」

 焔が自分を指さす。つまりはあやかしの客ということだ。

「どうしよう。なんの準備もしてないんだけど」

「この店に準備なんているか? おまえがいればいいだけだろうが。店を開けたんだから客だって来る。いつか店を継ぐなら今継いだっていい。観念するんだな。ここにいてやるから早く出ろよ」

 すでに引き気味の旭に、焔は容赦ない。

 旭はゆっくりと木戸へ向かい、そこで大きく深呼吸した。三森さんは軽々と開けていたが店の木戸は立て付けが悪いのかひどく開けにくい。ガタガタ鳴らしながらようやく三十センチほど開いた先に、鳶色のスーツを着てステッキを手にした背の高い男性が立っていた。まるで十九世紀の英国紳士のような装いだ。

「願いを叶えてくれる店はこちらでしょうか」

 英国紳士の肩の向こうに、弦月が沈んでいくところだった。

第二話です。ちょっと長めです。

祖父の店は、乙葉商店街という自分の名字と同じ名前の街にありました。

祖父の残した日誌を読み、とりあえず祖父がやっていたとおりに店を開けてみました。

そして現れた初めての客は英国紳士風の男でした。


次回、第三話は来週2021年10月22日(金)にアップします。

Twitterでは、不定期に三森さん日記なるものをちょこっと書いております。

ぜひご覧ください。

よろしくお願いします。

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