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桜に攫われた少年が与える選択肢 

作者: 浅海 景

――子供と大人の境界線はどこだろう?

新藤茉那(しんどうまな)はゆっくりと住み慣れた街を歩きながら考えていた。

土手沿いに色鮮やかな菜の花が点々と色づいている。春が近い。少しずつ日が落ちるのもゆっくりになって、日差しが柔らかくなった。


民家の塀の上では、猫が気持ちよさそうに日向ぼっこしている。脅かさないように遠くから眺めて通り過ぎた。ちょっと前なら喜んで駆け寄っていたところだが、もうそんなこともしない。制服に毛がつくのが嫌だし、何だか子供っぽいから。


小学校に差し掛かり、あと10分足らずで家に着く。歩調を更に緩ませて校庭に目を向けるとブランコが風を受けてわずかに揺れている。2年前まで通っていた母校なのに、何の感慨もわかなかった。懐かしいと思えるほど昔でもない。それなのにどことなくよそよそしさを感じさせる。


ちょうど大人と子供の間、今の自分のような中途半端な状態だからだろうか。中学生は子供というカテゴリーに属しているはずなのに、その状態はひどく不安定だ。小学生より大人で高校生より子供。自分はどちら側にいるべきか。


視界の端で揺れるブランコの動きが、先ほどより大きくなった気がした。

顔を向けるといつの間に現れたのだろうか、一人の男の子がブランコを漕いでいた。長袖の白いシャツは男の子が外で遊ぶのに適した格好とは思えない。周囲に他の子どもの姿はなく、すらりと半ズボンから伸びる足も遠目から分かるほど真っ白で、あまり外で遊ぶような子ではないのかもしれない。


少年が不意にこちらを見て、ブランコを漕ぐのをやめた。不審者と思われたのかもしれない。いや、遠くからでも制服を着ているのだから中学生と分かるだろう。それでも居心地の悪さを覚え、その場を去ろうとしたが、少年が視線を逸らすことなく、まっすぐに茉那を見ているようだった。にわかに立ち去りがたくなって、通用口から少年の元に向かった。


近づくにつれてきれいな顔立ちの子だと分かった。でもすぐに違和感を覚えた。静かすぎるのだ。雰囲気も動作もそして何よりその瞳が子供らしくない。何かを見通すような透明すぎる瞳に後ずさりかけて、自分を叱咤する。

――子供相手に何を怯えているんだろう。


「……こんにちは?」

少年は微かに頷いて、再び茉那の目をじっと見つめた。

もしかして知らない人とは口をきいてはいけない、と躾けられているのかもしれない。

「私もこの学校に通っていたの。君は何年生?」

今度は無言で首を振った。


ここの小学生ではないという意味なのだろうか。だが近隣に他に小学校はない。ひょっとしてこの近くに住んでいる子ではないのかもしれない。

あまり深い詮索をする気にもなれず、茉那は隣のブランコに座った。

視線が低いし、足を伸ばさないと座りにくい。さすがに小学校、サイズがコンパクトだ。自分も二年前より確実に成長している。だがこの成長はまだ途中。中途半端な状態だ。


「困っているの?」

どこからともなく聞こえた涼やかな声に、心臓が跳ねた。速くなった鼓動をなだめながら顔を上げると、少年がこちらを見ていた。先ほどの声の主はこの少年のようだ。

「困っているって私が? あ、君がもしかして困っているの? 帰り道が分からなくなったとか?」

思いつくままに言葉を並べたが、少年は黙って首を振った。


「君が困っているように見えた」

また鼓動が早くなった。少年から目を逸らす。見透かされるような瞳と大人びた口調が怖い。

「…大丈夫だよ。私、茉那っていうの。君の名前は?」

「…(れい)

「怜くんね。心配してくれてありがとう。あ、そうだ。これ、食べる?」


茉那はサコッシュから一粒のチョコレートを取り出した。先ほどコンビニで買ったものだ。

怜はチョコレートを受け取ると、小さな声で「ありがとう」と言った。

すぐさま口に入れるのを見て、茉那は安堵した。


どこにでもいる普通の男の子だ。人の目を見て話す癖があるのと言葉遣いがちょっと変なだけだ。

自分は最近人の言動に過敏になっているのだろう。そう考えると胸が軽くなった。そう、きっと全部気のせいなんだ。思春期は自意識過剰になりがちだってこの前テレビでも言っていたじゃないか。


「茉那ちゃんは、間違ってない」

静かに断定する声に茉那はびくりと肩を震わせた。

この子は人の心が読めるのだろうか。またじわじわと恐怖が忍び寄ってくる。校庭は静まりかえり、さっきまで眩しく感じていた夕焼けもゆっくり遠ざかりつつあった。


「…私、そろそろ帰らなきゃ。怜くん、お家はどこ?」

「ここにいるように言われているから」

「お家の人が迎えに来るの? もう少し一緒にいようか?」

少年に怖さを感じつつも、小さな子供を置き去りにしていくことは気が引けた。


怜は黙って首を振った。

「じゃあ、気を付けてね。知らない大人に話しかけられても付いていっちゃだめだよ」

きっとこの少年には不要な忠告だとは思いつつも、言葉を付け足した。

「大丈夫。茉那ちゃんみたいな子にしか、話しかけられないから」

「え…?」

立ち去りかけた足が止まった。


「私みたいな子って、どういうこと?」

「茉那ちゃんも気を付けて」

怜は茉那の問いには答えずにそう告げると、黙ってブランコを漕ぎ始めた。

釈然としない気持ちを抱きながらも、茉那は家に向かうことにした。校庭を出て振り返ると、怜は最初に見たときのようにブランコを漕いでいた。


日が落ちる前に家に帰りついた。ドアを開ける前に深呼吸をする。

「ただいま」

声は小さかったが、ドアを開閉する音で気づいたのだろう。

「おかえり。遅かったじゃない。早く着替えて手伝ってちょうだい」

キッチンから母親が顔をのぞかせ、茉那を急かす。お醤油とお肉を炒めたときの匂いがする。

大きめのパーカーにジーンズに着替えて洗面所で手を洗ったあと、キッチンに向かおうとすると母が出てきた。


「茉那、ちょっと続きお願い。ウスターソースを切らしてたの、すっかり忘れてたわ。あ、今日あんたの好きなコロッケよ。具材は混ぜてるし、お父さんもすぐ帰ってくるはずだから揚げといていいわ」

そういうと母は足早に出て行ってしまった。


コロッケは昔から母の手伝いをしていたので、茉那も得意だ。味付けは何度作っても母には敵わないが。

さっさと終わらせてしまおうと、キッチンに足を踏み入れてぎくりとした。

「おかえり、茉那」

「…ただいま。お兄ちゃん、どうしたの?」

兄の浩紀(ひろき)がエプロン姿で立っていた。

「もうすぐ一人暮らしだろ。自炊しなきゃと思ってお母さんに教えてもらってたんだ」

曖昧に頷いて支度に取り掛かる。


「続きは茉那が教えてくれよ」

「あ、うん。普通に小判型に丸めるだけだよ。そのあと小麦粉、卵、パン粉の順につけていくだけ。お兄ちゃん、卵2個割ってかき混ぜといて」

「了解です」

バットに詰められたコロッケのタネを木べらで等分にしながら、俯いたまま答えた。

お兄ちゃんと顔を合わせたくない、と思うようになったのはいつからだろう。

そんな茉那の態度を気にする様子もなく、浩紀は楽しそうに冷蔵庫から卵を取り出す。

――嫌な子だ、私。


「今日はどこに行ってたんだ」

何気ない質問なのに、茉那は自分が緊張していくのが分かった。正しい答えを返さなくては。

「学校。部活の先輩を送る会の練習」

「そっか。朝から大変だな」

嘘ではない。ただ練習自体は昼過ぎに終わり、友人たちとお昼を食べて解散したのは15時頃。帰りが遅くなったのは別の理由からだ。


「私丸めるから、お兄ちゃん衣つけて」

「え、嫌だよ。俺そっちもやってみたい」

そう言って既に丸めようと手にとっていたタネを茉那の手から奪う。

「……!」

「どうした?」

「…なんでも、ない」

柔らかく笑うお兄ちゃんからは何の意図も感じられない、ように思う。


黙って浩紀が作ったやや歪な形のコロッケに小麦粉をまぶす。

少年の言葉が頭をよぎる。

『茉那ちゃんは間違っていない』

――そんなはずがない。私が間違っているんだよ、怜くん。

心の中でそっと呟いた。


成型作業はあっという間に終わり、あとは揚げるだけだ。お父さんはまだ帰宅していないが、揚がるのに少し時間がかかるし、何より一度にできないのでさっさと終わらせておくことにした。

油を天ぷら鍋に入れて火をつける。

油が温まる時間を使って洗い物をしていると、お皿の準備をしていた浩紀がくすりと笑った。


「茉那、ほっぺたに小麦粉がついてる」

「え、どこ?」

笑われるぐらいだから、さぞかし間抜け面なのだろうと慌てて腕で拭おうとする。

「取ってあげる」

言葉とともに浩紀の指が顔に触れた。思わず硬直した。


「自分でできるよ!」

押しのけようにも両手は洗剤の泡で塞がれている。

「何で? ほら、取れた」

左のほっぺたを二度親指で拭われて、浩紀はあっさりと茉那から離れた。


心臓が早鐘を打っている。

――落ち着け。大丈夫だから。

必死に自分に言い聞かせていると、無機質な声が油の設定温度に達したことを告げた。


「今日の夕飯は、茉那ちゃんが作ったの? 美味しそうだね」

「あら、味付けまでは私がしたのよ。それに茉那だけじゃなくてヒロくんも手伝ってくれたのよ。自炊が出来るようになりたいって」


ちょうどコロッケを揚げ終わるタイミングでほぼ同時に両親が帰ってきた。

お父さんは急いで部屋着に着替えると、嬉しそうにコロッケにかぶりつく。

「手始めにコロッケとは、なかなかハードル高くないか? 一人暮らしで揚げ物なんか俺はしたことないけどな」

「お母さんのコロッケが好きだから、どういう風に作ってるのか興味があったんだよ。食べたくなっても知っておけば自分で作ればいいと思って」

「食べたくなったら帰ってきたらいいじゃない。そんなに遠くないんだから。そんな理由だったら教えなきゃよかったわ」

食卓に笑い声が響く。茉那も同じように笑みを浮かべている、はずだ。


「茉那、どっか悪いのか?」

箸がほとんど進んでいないのを見て、浩紀が声を掛けた。

「…別に」

「どうせまた友達とお菓子でも食べすぎたんでしょ。最近帰りも遅いし、もうすぐ3年生になるんだから、もっと勉強しないといい高校に行けないわよ」

茉那は込み上げそうになる言葉を冷めたお茶と一緒に飲み込んだ。


「今からそんなに心配しなくても、大丈夫だろう」

「だって茉那はのんびりしているし、ヒロくんみたいに文武両道タイプじゃないでしょう」

両親の会話に苛立ちが込み上げ、思わず不貞腐れたような声を出してしまった。

「だって私、頭良くないもん」


「そんなことないよ。茉那ちゃんは頑張り屋さんだから大丈夫。お母さんも浩紀がこの前まで受験生だったからちょっと過敏になってるんじゃないか」

お父さんの取り成しによって、微妙な雰囲気からまた普段の状態に戻ろうとしていた。

だけど苛立った茉那の気持ちは戻らない。

「私はお父さんに似たから仕方ないよね」


「茉那!」

お母さんが甲高い声で咎めると同時に席を立った。

言ってはいけない言葉だと分かっていたけど、抑えることなど出来なかった。


しばらくしてドアをノックする音が聞こえた。

ベッドの上に突っ伏していたが、感情が昂っていたのと自己嫌悪でふて寝することもできなかった。

「茉那、入るぞ」

お兄ちゃんの声だと分かるや否や、飛び起きた。


片手におにぎりとお茶が載ったお盆をもって、いつもと変わらない表情で入ってきた。

「お腹空いてるだろ」

夕飯は結局ほとんど食べていない。食欲もなかったが断るのも悪い気がした。

茉那の逡巡を察したのか、サイドテーブルの上にお盆を置くと茉那の隣に腰を下ろした。


「お母さんが作ってくれた。自分も言い過ぎたって反省していたよ」

黙り込んでしまう茉那を見て、浩紀は困ったように笑った。

「お母さんはちょっと心配症なんだよ。俺の受験の時もそうだった。茉那は悪くないけど、あんな言い方しない方がいいな」

ぽんぽんと軽く頭を叩かれる。

「…ごめんなさい」

「俺には謝らなくていい」

言外に謝るべき相手をほのめかされて、頷いた。


浩紀は立ち上がる素振りを見せたが、急に茉那に身体を寄せてきた。

「茉那はいい子だね」

耳元で囁くような声が聞こえた。浩紀の手が茉那の肩に触れているのが分かって、自然に体が強張った。


浩紀はそのまま立ち上がり部屋から出て行くと、ようやく体から力が抜けた。いつの間にか息も止めていたため、呼吸が速い。

お兄ちゃんが自分を()()()()()()に見ているはずがない。何度否定してもその考えがずっと頭から離れない。


「おはよう」

声を掛けると同級生たちが会話を中断し、口々に挨拶を返してきた。

朝早くから何をそんなに盛り上がっているのだろう。

「ねえ、茉那は知ってた? 武藤が女子高生と付き合ってるって話」

「えっ! 武藤ってあの体育教師の?」

「そう! マジきもいよね、あいつ。 確か24とか25でしょ? 超おっさんじゃん」

「だから援交だって、絶対。結構可愛かったんでしょ、ねえ」

確認を求める声に皆が一斉に麗奈に顔を向けた。


「うーん、まあまあかな。でも武藤の相手にしたら、上出来ってぐらいの顔だったよ」

キャーともギャーとも聞こえる叫び声が上がった。

話を聞くうちに、麗奈が昨日繁華街で武藤と女子高生が歩いているのを見かけた、ということだった。


時計を見るともうすぐ朝練が始まる時間だった。慌ててジャージに着替えて更衣室を出ようとすると吉井から声を掛けられる。

「新藤、待ってよ。置いて行かないで」

吉井とは部活内では一番仲が良くいつも一緒に行動しているが、さっきまで麗奈たちと一緒に盛り上がっていたので、邪魔をしないように配慮したつもりだった。

すぐに支度を整えると、並んで体育館に向かう。更衣室が外にあるので、ちょっと不便だ。


「新藤は恋愛とかってあんまり興味ないの?」

先ほど麗奈たちの会話に積極的に参加していなかったから、そう思われたようだ。

「そういう訳じゃないよ。ただ純粋に気持ち悪いなって」

「新藤、何気に一番ひどいわ」

「だってそんなに年が離れてるって、ロリコンじゃん。気持ち悪いよ」

「確かにそうだけど。やけに言い方きつくない? あ、やばい。集合かかってる!」

吉井の発言にひやりとしたが、その後話が蒸し返されることはなかった。


「疲れたー。ねえ、コンビニでアイス食べて帰ろうよ」

三木ちゃんの声に周りにいた子達が賛同の声を上げる。もちろん茉那も同様だ。運動後のアイスは美味しいし、家になるべく遅く帰りたい。

更衣室を出ると男子メンバーが水をかけあっていた。まだまだ子供だ。


「おい、尾崎」

思わず振り返って声がした方向を見ると、尾崎謙二が茉那と同じように振り返っていた。一年間同じクラスだったが、ほとんど話したことがない。もともと男子と話す機会などないが。

「茉那、行くよ」

声を掛けられ、友人たちの元へ急いだ。


「ねえ、茉那は尾崎のことが好きなの?」

更衣室から校庭に出るとすぐに、三木ちゃんからそんな質問を投げられた。たちまち周りから歓声が上がる。

「なっ、違うよ!」

「本当に?さっき尾崎が呼ばれて振り向いたの、見てたよ。気になってんじゃないの?」

「マジで?」「 いつから?」「 きっかけは?」

たちまち質問攻めに遭う。反応したのは彼にではなく名前にだった。でもあまり皆に話したくない。もうずっと昔のことだから。


「茉那の初恋かあ。うちらで出来ることなら協力するよ」

もう既に確定事項になりつつある。どう説明しようかと困っていると自分の名前を呼ぶ声がした。

一瞬ざわめきが止まった。


「近くに用事があったからついでに迎えに来たんだけど、お友達と一緒に帰る?」

頷こうとすると袖を引かれた。

友人たちの顔には大きく興味津々と書かれている。

「えっと、お兄ちゃん」

「茉那の兄です。いつも妹がお世話になってます」

爽やかな笑顔に皆のテンションが上がったのが分かった。


結局三木ちゃんから、せっかく迎えに来てくれたんだから、と送りだされる形でお兄ちゃんと一緒に帰ることになった。そのまま残っていても、尾崎のこととお兄ちゃんのことで色々詮索されることは間違いなかった。先送りにされただけとはいえ、三木ちゃんの気遣いには感謝すべきだろう。

しばらく黙って歩いた。


「急に来てごめんな。つい懐かしくて寄ってみたらちょうど茉那が出てきたから」

迎えに来たのではなかったのか、と思いながらもどうでもよいことなので聞かずにおいた。

二人でこんな風に歩くのはいつぶりだろう。最後に一緒に歩いたのは多分茉那がまだ小学生の頃だ。


「好きな人、出来たのか」

唐突な質問に驚いて兄の顔を見た。

「さっき友達と話してるのが聞こえて」

浩紀は少し気まずそうに付け足した。


「…違うよ。男子の名前に反応してからかわれただけ。その子の名字、尾崎だから」

ああ、と浩紀は納得したように頷いた。

尾崎は母方の名字だ。茉那が七年前まで名乗っていた名字。

母が浩紀の父と結婚したのは茉那が七歳、浩紀が十一歳の時だ。茉那が尾崎と名乗っていたのは母がシングルマザーだったから。

本当の父には会ったことがない。母の妊娠が分かると逃げ出したそうだ。祖父は悪い人ではなかったが、お酒が入るといつもそのことに不満を漏らしていたため、誰に聞くともなく茉那は父がいない理由を知っていた。


そのため浩紀の父は茉那にとって初めての父親だった。いつも優しくて穏やかな父としっかり者で頼りがいのある兄が出来て、茉那は初めて家族を知った気がする。運動会も授業参観も心細く思う必要がなくなった。風邪を引いてもお母さんがそばにいてくれるようになった。悲しいことがあっても、お兄ちゃんが話を聞いてくれた。大切な家族なのだ。だから絶対に失いたくない。ましてや自分が理由で家族が壊れてしまうことがあってはならない。


ざあっと風が吹いて、校庭の桜の木が目に留まった。いつの間にか小学校までたどり着いていた。ブランコの方を見るが無人だ。怜くんのことを思い出した。

「この桜、小学校の時は怖かったな」

「どうして?」

「茉那は知らないか? 神隠しの話。この桜がもっと山の方に植えられていたとき、一人の子供が神隠しにあったんだ。その時桜に攫われたっていう噂が立ったんだって。そんな噂があったのに小学校にわざわざ移植するなんて、変な話だけど。でもその少年が時折姿を現すんだそうだ。困っている子を助けるために」

だから怖がることはないのかもしれないけどな、と安心させるような笑みを浮かべて言った。


『困っているの?』

あの時怜くんは、そう言った。大人びた口調と達観したような瞳。もし彼がその少年だったなら私を助けてくれるのだろうか。


翌朝、ぼんやりしたままリビングに向かうと、両親がそろってコーヒーを飲んでいた。

この時間にいるのは珍しいと思ったがすぐに思い出した。


「お母さん、旅行って今日からだっけ?」

「もう、今頃そんなこと言って。ずっと前から話していたでしょう。食事代はお兄ちゃんに渡してるから」

毎年結婚記念日の週に両親は一泊二日の旅行に出かける。すっかり忘れていた。

「お土産欲しいものあったら、メールしてね」

お父さんがにこにこしながら声を掛けてくれるので笑顔を返したが、胸の奥が重くなった。

――大丈夫、なはずだ。


夕方部活の前にから浩紀メッセージが入っていた。

寄り道しようにも雨だと立ち寄る場所が限られている。暗くなるのも早いので仕方なくまっすぐ帰ることにした。

小学校の前を通るが、校庭に人の姿は見えず職員室から煌々とした明かりが漏れているだけだった。


「ただいま」

声をかけるとすぐに浩紀が出迎えてくれた。

「おかえり。ごはんの準備できているけど、先にお風呂入る?」

頷いて部屋に戻って、鏡を見ると肩の辺りが少し透けていた。ブレザーを教室に忘れて帰ったせいだ。小さくため息をついて、浴室へ向かった。


リビングに入ると食欲を誘う匂いがした。

「ちょっと待ってな。あと盛り付けるだけだから」

机の上には既にサラダとパン、フォークなどが設置されていた。茉那の前に深皿にソースがたっぷりかかったハンバーグが置かれる。

「料理って面白いな。サイトに載ってたんだけど美味しそうで、作ってみたんだ。多分失敗はしてないと思うけど」


浩紀は楽しそうに言いながら茉那の前に腰かけた。

いつもは隣に座るが、二人だけなのに横並びも変だし距離感が遠くなったことにほっとした。

「いただきます」

手を合わせてから、まずハンバーグを口にいれる。柔らかい食感と濃厚なデミグラスソースの味が広がる。

「美味しいね」

そう言うと浩紀は嬉しそうな笑みを浮かべて、滔々と作り方を話し出した。浩紀が喋ってくれる分には楽だ。茉那はそんなに自分から話すのが得意ではない。自分の発言で人を不快にさせるのが嫌だからだ。


相槌を打ちながら食事を進めていると、浩紀が不意に手を伸ばす。

「ソース、ついてる」

茉那の口の端をぬぐうと、そのままぺろりと舐めた。

まるで恋人同士のしぐさだ。いや、違う。親だって子供に対してするかもしれない。まだ自分は子供なのだから。


浩紀は何事もなかったかのように再び会話を始めたが、茉那は相槌を打つのも忘れて自分の考えに没頭した。片づけを終えるとすぐに部屋に閉じこもることにした。一緒にいるから変な風に意識してしまうのだ。明日も学校なのだから、早く休めばいい。


嫌な夢を見た。夢だと分かっていても、逃げられない。必死で走っているのに追いつかれた。高いビルの屋上で逃げ場はない。捕まるのが嫌なら落ちるしかない。早くしなきゃと思うのに足がすくむ。決断しなければ。

がくんと足場が崩れたと同時に目が覚めた。


「茉那、大丈夫か」

すぐそばに浩紀の顔があった。

叫びそうになったが、声が出ない。

―どうしてここにいるの?

「雷が鳴ってたから。怖がってないか気になって見にきたら、うなされていたから起こしたんだ」

疑問が顔に出たのか、浩紀はすぐに説明した。

「…ありがと。もう大丈夫」

心臓がまだ大きく鳴っていたが、気持ちを押さえて返事をした。


だが浩紀は動かない。薄暗い部屋の中、どんな表情をしているのかよく見えない。

咄嗟に毛布を手繰り寄せようとしたが、何故か手元に見つからない。先ほどから体がスース―する。どうして毛布が側にないのか。


頭の中に警告音が響く。怖いのは暗いからだ。電気をつければきっと大丈夫。そう思って枕元に置いたリモコンに手を伸ばそうとするが、浩紀の方が早かった。

腕をつかまれ茉那の上にのしかかってきた。

「茉那、好きだ」

顔が近づいて思わず目を閉じると、唇に湿ったものを押し当てられた。悲鳴を上げるがくぐもった音が聞こえるだけで、ぬるぬるしたものが口の中に入ってきた。それは茉那の舌に絡みつき、口内を這いずり回った。

気持ち悪さを堪えながら、必死に抵抗するがびくともしない。

ようやく解放されると、浩紀と目があった。ぎらぎらとした瞳が薄暗い部屋の中でもはっきりと見て取れた。


「茉那、かわいい。ずっとこうしたかった」

パジャマのボタンを片手で外しながら浩紀は耳元で囁く。

「やめて、嫌だ」

口がからからに乾いている。ようやく掠れた声で拒否したが、浩紀は止めてくれない。

「大丈夫。怖くないよ。本当はもっと茉那が大人になるまで待つつもりだったけど、俺がそばにいない間に茉那に彼氏ができるかもしれない。そう思ったら我慢できなくなった」

浩紀の手が茉那の胸に伸びる。

「やだっ! お兄ちゃんおかしいよ」

「そうかな。父さんがお母さんを好きになったんだから、親子で好みが似てもおかしくないだろう」

そう言うと浩紀は茉那の首筋に吸い付いた。


――こんなの嫌だ! 誰か助けて!!

「助けてあげる」

静かな声がして目を開けるとすぐそばに怜くんが立っていた。

「怜くん、…どうして」

茉那はいまだに浩紀から押し倒された状態だが、浩紀はぴくりとも動かない。まるで時間が止まったかのようだ。茉那も顔だけは動せるが、体は金縛りにあったかのように動かすことができない。


「ただし一度だけ。どちらか選んで」

「…選ぶ?」

「この男の人を消すか、時間を戻すか」

「消すって、…殺すってこと」

「茉那ちゃんがいる世界からなくなるから、同じことかもしれない。こっちの世界ではきっと生きていけないから」

――こっちの世界。それは怜くんがいる世界のことなのか。


「時間を戻したら、いつに戻れるの?」

「僕と会ったとき」

――怜くんと会ったのは三日前だ。もし時間が戻っても同じ目に遭う可能性が高いのではないか。

「茉那ちゃんの選択次第ではそうなる」

彼には茉那の考えていることが分かる。もう何の不思議もなかった。


「どうすればいいの? お兄ちゃんにこんなことされるのなんて、絶対に嫌。でもお兄ちゃんがいないと家族がばらばらになっちゃう」

「それは茉那ちゃんが決めること」

突き放された気分になって、茉那は必死で頭を動かした。


両親にたとえ告げ口しても信じてもらえないだろう。それどころか、逆に茉那がお兄ちゃんのことを意識しているように捉えられるかもしれない。誰にも頼ることが出来ないから、今まで悩んでいたのだ。あの時怜くんに困っていると告げたら、何か変わったのだろうか。


「茉那ちゃんはずっと選択していた。親に相談しないのも、お兄さんに触れられても拒絶しなかったのも全部茉那ちゃんが選んだこと」

「だって、それは家族のためだもん! 私が我慢すればよかったから―」

「家族のためであっても、茉那ちゃんの意思で決めたことだよ」

「原因を取り除くか、それとも別の選択肢を取ることで起こりうる未来を変えるか、茉那ちゃん次第」


浩紀の顔を見る。いつもの優しい笑顔ではなくて、欲望が剥き出しになった醜い顔。触れられるのは気持ち悪い。でも―

『茉那ちゃん、一緒に遊ぼう』

初めて会った時、緊張して喋れなかった茉那の手をとって一緒に遊んでくれた浩紀の姿がよぎった。いつも優しくて頼りがいがあって守ってくれた。

「……時間を、戻してほしい」

「忘れないでね。茉那ちゃんはいつだって選べるんだよ」


気づいた時には小学校のブランコに腰かけていた。隣は空のブランコが揺れていて、周囲に人の姿はない。

――夢を見たんだろうか。

スマホの日付を確認すると、怜くんと会った日付だった。


家に帰るとお母さんから手伝うように言われ、キッチンに向かおうとするとウスターソースを買うため出かけてしまった。全く同じ光景に、茉那は夢でなかったことを確信した。覚悟を決めてキッチンのドアに手を掛けた。


前回と同じながら慎重に行動した結果、浩紀と接触することはなかった。この調子で行けば未来は変わるのだろうか。食卓の会話もご飯の味もよく分からないまま、部屋に戻った。

同じ結果にならないためには二人きりにならないことだろう。だが結婚記念日の旅行は既に決まっている。その日だけはどうしても二人きりになってしまう。友人の家に泊まろうにも平日の外泊など両親が許してくれないだろう。そもそもお兄ちゃんが豹変した原因はそれだけなのか。


茉那はノートを広げると、この三日間のうちに起こった出来事と会話を詳細に書きだすことにした。


部活はほとんど上の空で過ごした。これからすべき手順と会話を間違えないように何度も確認する。

更衣室を出るとすぐに三木ちゃんに話しかけた。万が一にも反応しないように尾崎という名前に反応しないためだ。その甲斐あって、尾崎についてからかわれることなく、他愛のない話をしながら校門にたどり着く。


みんなに兄を紹介し、同じやり取りの後、一緒に帰ることになった。それから思い出したかのように話題を振った。

「今日、気持ち悪い話、聞いちゃった」

「どんな話?」

尋ねる浩紀の声は平常と変わらない。


「卒業する先輩がね、ちょっと前から大学生と付き合ってたっていう噂なの」

「そっか。その子はちょっと早熟なんだね」

「お兄ちゃん通じてる? 気持ち悪いのは先輩じゃなくて、大学生だよ」

やっぱり通じてなかったようだ。怪訝な顔をしたお兄ちゃんの顔を見て、茉那はそう思った。


「えっと、その彼氏はいくつなの?」

「確か二十歳だって言ってた」

「じゃあ五歳差か。そんなに離れてないじゃないか。俺と茉那だって―」

浩紀の言葉が終わらないうちに、茉那は大きな声で遮った。

「ええー! 離れてるし。だって彼氏が高校生の時、先輩は小学生なんだよ。ロリコンでしょ。みんなもドン引きしてた」

「……でも大人になればそれくらいの年の差は、気にならないんじゃないか」

「大人だったらそうかもしれないけど、私たちまだ子供だもん。絶対ムリ!」

きっぱり断言すると、浩紀はそうか、と言って視線を逸らした。


――上手くいっただろうか。

あの時、浩紀は言っていた、「彼氏ができるかもしれないと思ったら、我慢できなくなった」と。

尾崎のことで彼氏ができる可能性を邪推されたのかもしれない。だから体育教師と高校生の話を脚色して、まだ子供であること、それから遠回しに兄と同じぐらいの年齢の人に興味がないことを伝えた。



翌日予定通り両親は旅行に出かけた。夕食のメニューは同じだったが、触れられることもなく当たり障りのない会話を交わし食事を終えた。

それから茉那は部屋に閉じこもって、何度も時計を見つめていた。

――あれは何時ごろの出来事だったんだろう。


眠ることもできず、部屋を片付けることにした。押し入れに放り込んだままの荷物を全て取り出して、分別する。適当にしまい込んでいた小物入れの中からは子供の頃に集めた雑貨や小物なども出てきた。懐かしさを感じるも使い道はない。箱ごと捨ててしまおうとゴミ袋の横に置いておく。時折手を止めながら進めていたため、気づけば十二時を回っていた。そろそろ寝ようかと思った時、ノックの音が聞こえた。


身体が硬直した。

――違う選択をしたはずなのに、どうして…?

ドアが開いて浩紀が顔をのぞかせた。

「明かりがついてると思ったら、まだ起きてたのか」

「…もう寝るつもり。片付けしてたら遅くなっちゃった」

心臓が早鐘を打っている。

「茉那、ちょっといいか」

「え、でももう寝なきゃ」

「すぐ済むよ」

そう言って浩紀は部屋のドアを閉めて、茉那の前に腰を下ろした。


「最近俺のこと避けてないか」

喉がからからに乾いている。どう返事をしたら良いのだろう。浩紀の気持ちを知っていることは気づかれてはいけない。そうすればきっと前回と同じになる。子供らしく振舞うには、子供らしい返事はどうすればいい。

視線を合わせないよう俯きながら、必死で考える。

「茉那はもしかして、俺の気持ちに―」

「だって!」


つい、大きな声がでた。

「…だって、お兄ちゃんがもうすぐいなくなるから、今のうちに慣れておこうと思ったの。……もうお兄ちゃんに宿題教えてもらったりできないし」

この返答は正しいのか分からない。兄がいなくなる寂しさの裏返しの行動とすれば子供じみている。果たしてこれをどう受け止めるのだろうか。


「茉那」

呼び掛けに顔が上げられない。もうこれ以上どうしていいか、分からない。

かたり、と音がして目を向けると立ち上がろうとした浩紀の足に先ほど捨てようとした小物入れがあった。どうやらぶつけてしまったらしい。ふたがずれて、中身が覗いている。

「懐かしいな、これ」


浩紀が手に取ったのはお子様ランチの景品だった。もうお子様ランチを頼むような年ではなかったのに、茉那が景品を欲しがったため、一緒に頼んでくれたものだ。

その途端雰囲気が変わった気がした。子供の頃の思い出は兄を思いとどまらせてくれるかもしれない。

「お兄ちゃんが引っ越す前に、また一緒にあそこのファミレスに行きたい」


よく晴れた青空が広がっていた。

茉那は浩紀と一緒にファミリーレストランに行くために歩いていた。

あれから浩紀が茉那に不穏な眼差しを向けることも、触れてくることもなくなった。妹であることを再認識したのか、まだ子供であると判断されたのかは分からない。だけど最悪の結末は回避されたことだけは分かった。今では何であんなに怯えていたのかと不思議なぐらいだ。


土曜日の小学校には、人の姿が見当たらない。怜くんにお礼を言いたかったが、きっともう会えないだろう。助けてくれるのは一度だけだと言っていたから。

知っているということはそれだけで有利なのだ、と思った。だったらそれを使うこともできるんじゃないか。ふとそんな考えが浮かんだ。


「茉那、行くよ?」

小学校の前で足を止めてしまった茉那を見て浩紀が不思議そうに声を掛ける。

茉那は浩紀の元に駆け寄ると、腕に抱きつく。

狼狽えたように表情が変わったのを見て、茉那は言った。


「ねえ、やっぱりパフェも食べたいな」

「…パフェでもチーズケーキでも頼めばいい」

その言葉を聞いて、やったーとガッツポーズをして見せた。

「太っても知らないぞ」

背後から浩紀の声が聞こえた。

―なんだ。簡単じゃん。


先ほど抱きついた時に、浩紀の喉が上下したのを茉那は見逃さなかった。浩紀はまだ自分を異性として見ている。好きな子からの好意を得るには、物で釣るのは常套手段だ。浩紀の引っ越し先はここと違って都会だし、楽しいことも美味しいものもたくさんあるだろう。お兄ちゃんには妹のお願いを聞いてもらうことにしよう。


―ねえ、怜くん。私は奪われる側じゃなくて奪う側になることを選んだよ。

心の中でそっと告げる。

校庭では無人のブランコが微かに揺れていた。


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