泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 八
八
ここの温泉の廓は柳がいい。まして今宵は月夜である。五株、六株、七株と、すらすらと立ち並び、長く靡いて、しっとりと、番所を巡って向かい合う湯宿が皆、この柳の葉越しに窺われる。どれも赤い柱、白い壁が、十五間間口、十間間口、八間間口と、さながら大きな『舎』という字を、湯煙の薄い胡粉（*1）でぼかしたように、月影に浮いていて、甍の露もただただ紫となるばかり。中空には冴えた月がかかっているが、気の暖かさに朧である。そして、裏に立つ山から湧いた霧が、所々透いて、細い町に流れ、電燈の蒼い砂子を鏤めた景色は、広重がピラミッドの夢を描いたようである。
柳の下には、二つ三つ、石で亀甲形に囲われた消火用の水溜まりの池がある。が、涸れて、寂しく、雲も星も宿らず、一面に散り込んだ柳の葉に、山谷の落葉を誘って、塚を築いたように見える。時として月が覗く。……覗くと、光がちらちらとさすので、水があるのを知って、影が光る。柳も化粧をするのである。取り分け今年の暖かさに枝垂れた黒髪は一層濃やかで、中でも真ん中で、月光を浴びて漆のように高く立った火の見梯子に、袖を掛けたような柳の一本は、瑠璃天井の階子段に、遊女が凭れている風情がある。
この辺りは、ちらほらと、そぞろ歩行きの人通りがある。番所正面の総湯（*2）の門には、浅葱色に、紺色に、茶の旗（*3）が納手拭（*4）のように立って、湯の中は祭礼かと思うほど、女の声も混じって賑やかである。――だぶだぶと、湯の動く音。軒前には、駄菓子店、甘酒の店、飴の湯、水菓子の夜店が並んで、客も集まれば、湯女（*5）もやって来る。髯が啜る甘酒には、歌の心など露ほども感じられないが、白い手が剥く柿の皮の色は、あたかも蜘蛛の糸を染めたようで風情がある。
立ち上る湯気に包まれて、綿入れも浴衣の色に見えた。
人の出入りも一盛りで、仕出し屋の提灯も二つ、三つ。紅い提灯はおでん、白いのは蕎麦。しかし、横路地を衝と出て、門を閉ざしている湯宿が多くなる軒を伝う頃になると、ひとしきり静かになった。が、十夜を当て込んだ夜興行の小芝居から戻った女房、娘、若衆たちで、また盛り上がる。とある横町の土塀の小路から、そういった連中がぞろぞろと湧いて出た。が、陸軍病院の慰安のための催しの見物帰りの四、五十人の一行が、白い装いでよぎったのを見れば、霜の使者が通るようで、宵過ぎのうそ寒い春に再び返り、更に寂寞としたのであった。
月夜鴉が水を潜るように低く飛んで、柳から柳へ流れた。
「鬱陶しい、厭な――お兄さん……」
芝居帰りの連中が過ぎ去った後、土塀際の引っ込んだ軒下の、細めた潜り戸を背にした門口に、月が照らす青い袖。帯は黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待ち顔に袖を合わせて、肩付きも寒く佇んだ、影のような婦がいる。と、裏の小路からふらりと出て、横合いからむずと寄って肩を抱いた。その押しつぶしたような帽子の中の男の顔を熟と透かし見て――婦はそう言ったのである。
「お門が違うやろね、早う小春さんのとこへ行くことや」と、格子の方へくるりと背を向ける。
紙屋は黙って、ふいと離れて、すぐ軒並びの隣家の柱へ、腕で目を押さえるように、帽子ごとくっ付いた。
何の真似やら、同じような、頭から羽織を引っ被った若い衆が、溝を伝って、二、三人うろうろする。
この時であった。
夜も既に十一時過ぎ。子の刻か。――柳の真ん前に、正面も閉ざし、戸を閉めて、屋根も、軒も、霧の上に、筵を掛けた大船のように静まり返った近江屋がある。梟でも演戯をしそうな板歌舞伎の趣きのある、その近江屋の台所口。その板戸が、からからからと響いて、軽く辷ると、帳場が見えた。勝手は明るい――そこへ、真っ黒な外套が現れた。
その背後から、長襦袢をするすると、伊達巻きだけの上に羽織という、しどけない寝乱れ姿で、しかも湯上がりの化粧の香が、月に脈打って、ぽっと霧へ移る。……と見送るのに、出ようとする相手の肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔と比目魚があるのを、うっかり跨いでしまい、怯えたような脛も白く映して、莞爾とした女が見える。
「くそったれめ」
紙屋はその様子を熟と見ていたのである。外套が外へ出たその後、戸を閉める時、もう一度細りと見送るのを、外套が振り返って、頬ずりしようとした。
「あれ、人が見る」と、島田を揺って、おくれ毛と一緒に顔を背けた。が、直ぐに弱々となって、顔を寄せた。
これを見た治兵衛はどうする。血は火のように鱗を立てて、逆さまに尖って燃えた。
途端に小春の姿は隠れた。
小春が隠れた後の大戸を、金の額縁でも背負っているように感じつつ、意気揚々と大得意の様子で、美女との逢瀬の名残を楽しむように一散歩。高価な黒外套が、悠然と柳を眺め、池を覗き、火の見櫓を仰いで、移り香を惜し気もなく振りまく。酔い覚ましに、月の景色を見ながら行く所には、時季外れの桜が咲き、柑子（*6）も色づいている。……他の旅館の庭の前や垣根などをぶらつき、やがて総湯の前に近づいて、今、店を開きかけて、屋台に鍋を掛けようとする、夜鳴き饂飩屋の前に来た。
獺橋の婆さんと、土地では呼ぶのだが――この婆さんが店を出すというのだから……もう、十二時を過ぎているのである。
犬ほどの蜥蜴が、修羅を燃やして、煙のように颯と襲った。
「おどれめ！」
と、呻くが早いか、治兵衛坊主がその外套の背後から、ナイフを鋭く、柄に届くまでグサと刺した。
「うーん」と言うと、ドンと倒れる。
獺橋の婆さんが、まだ火のない屋台から顔を出して、ニヤリとした。冗談だと思ったのだろう。
「北国一だ――」
と高く叫ぶと、その外套の袖が煽られ、紅い裾がはらはらと乱れたのである。
*1 胡粉……日本画の白の顔料。
*2 総湯……旅館外の共同浴場。
*3 茶の旗……茶会の開催時に出す旗。
*4 納手拭……神社、仏閣に奉納する手拭。
*5 湯女……浴客の世話をする女性。
*6 柑子……蜜柑の一種
次回、最終です。
