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泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 六

 六


 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃は、廊下を歩行(ある)き馴れたこの女が、教授の手を取ったほど早くも暗くなっていて、座敷も辛うじて黒白が分かるくらいであった。

 金屏風と向き合った、客の脱ぎ捨てを掛けた衣桁(いこう)(もと)で何をしていたのか、黙り込んでいて、道陸神(どうろくじん)(*1)のような影をふらふらと動かして、ぬいと出た者があった。

「あれ!」と言った小春と、ぎょっとした教授に、

北国一(ほっこくいち)」と浴びせかけて、またたく間に廊下をすっ飛んでいったのは、あのお光であった……。


 直ぐに小春が、教授の意を得て、例の卓上電話で、二人の膳を帳場に通すと、今回註文を受けに出たのは、以前の、歯を染めた寂し()(おんな)であった。しょんぼりとした起居(たちい)をするのが、何だか産女鳥(うぶめ)(*2)のように見えたほどで――時間はそれほどでもなかったが、とりわけこの座敷は陰気だった。

 一方、頼もしいほど、陽気に賑やかなのは、(ひさし)はずれに欄干の見える、崖の上の張り出しの座敷で、客も大勢らしい。四、五人の芸妓(げいしゃ)の色々な声に、客の声が交じって、唄ったり、()いたりで、踊ってもいるようだった。

 船の舳先(へさき)が出たように、もう一座敷(ひとざしき)重なって、そこにも三味線の音がして、時々(どっ)と笑う声は、天狗が(こだま)を返すようであった。こんな風に崖下の庭は暮れるものの、いつまでも電燈がつかない。

 小春が(あい)の淡い襟、冷たい島田で、何度も(えん)を覗いたりするのを、教授も一緒になって(あかり)を待ちもした。

 この縁の突き当たりに、上敷きを板で敷き込んだ便所があって、前に入った時は、機械口から出る水も爽やかだったのに、その暗紛れに、教授が入った時には一滴の手水(ちょうず)も出なかった。それを小春に言うと、電話をするまでもなく、帳場へ急いで、しばらくして真鍮の水差しを持って来た。小春の言うには、手水は発動機で汲み上げているのだが、発電池に故障があって、電燈もそのために(おく)れているのだと、帳場で言っているそうであった。そこで中縁(なかえん)の土間の大きな石の手水鉢、――ただし落葉が二、三枚、不思議に燈籠に火を(とも)したように見えて、からからに乾いて水はない――へ誘って、突き膝で、(えん)になまめかしく(さっ)と流してくれていたが、

「あれ、はんけちを田圃(たんぼ)(みち)で落として来たみたい……」

「それも死神の風呂敷だったよ」

可恐(こわ)いわ、旦那さん」


 その水差しが、さて……今やっぱり、手水鉢の端に置かれているのが幽かに見える。つい先刻(さっき)までの夕暮れには、長い(くちばし)(さぎ)が留まっているようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、今では水差しはもう木菟(みみずく)のように見えるほどに、とっぷりと暮れて真っ暗になった。


「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……どうすれば」

「ああれ、旦那さん」

 と、(かわや)の板戸を内から細めに開けて、小春の姿が消えそうになりながら、

「私、つい、うっかりして、あのお恥ずかしくって泣くんですわ……ここには水がありませんでした」

「そうか」

 と、教授が自分の手で、その戸を開けてやりながら、

「こっちへおいで、掛けてやろう。さ」

「は」

()いか、十分に……」

「あれ、どうしましょう。もったいない、私は罰が当たります」

 懐紙に二階の影が散る。……高い廊下のちらちらとした燭台の火が、その高楼(たかどの)欄干(てすり)を流れた。

「罰が当たったのはこの私だ。――しかし、婦人(おんな)の手に水を掛けたのは生まれてこの方、初めてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お蔭で白髪が皆消えて、真っ黒になったろう」

 確かに髪が黒かった。それに、教授の顔の明るさ。

「この手水鉢は、(さね)(もり)の首洗いの池(*3)と一緒だね」

「えぇ、縁起でもない、旦那さん」


「ま、姦通(まおとこ)め、ううむ、おどれ()

「北国一だ。……危ねぇよ」

 押し殺した声と、(うめ)く声で、どたばた、どしんと音がしたのと、「万歳!」と向こう二階で一斉に喝采(やんや)(わめ)き声が上がったのと、ほとんど同時に、赤い電燈が、蒟蒻(こんにゃく)のようにぶるぶると震えて()いた。



 *1 道陸神(どうろくじん)……道祖神(どうそじん)


 *2 産女鳥(うぶめ)……妊娠中に死んだ女性が化けたとされる妖怪。


 *3 (さね)(もり)の首洗いの池……斎藤別当実盛は年齢を隠すため、白髪を黒く染めて篠原の合戦で木曽義仲軍と戦ったが、討たれて首を取られた。池でその首を洗ったところ、白髪が(あら)わになったという話がある。


つづく

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