泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 五
五
「旦那さん、そんなら、あの、私、……死ななくても大事ございませんか……」
「――言うまでもないよ。――仮に全部、お前さんが慾だけで欺したとしても……こっちは芸妓だ。罪も報いもあるものか。それに聞けば、今まで出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽くしているんだ。……勝手な極道とか、遊蕩とかで行き止まりになった男の、名だけは体のいい心中だが、死んでいく道連れにされては堪ったものではない。――その上、お前さんは独り身ではないみたいだ。――ここに来る途中で、目が見えなくなってしまった爺さんに会って、同じように目の悪い父親がいると言って泣いたじゃないか」――
掛稲と嫁菜の畦に倒れて、この榊という一人の男に縋って立った、山代の小春を、近江屋へ連れて戻ったことは、直ぐに頷かれよう。芸妓であるから、そのまま一緒に来るのに、何の問題もなかったことも、また断るに及ぶまい。
なおも聞けば、心中は相談だけではない。こうした温泉地という場所と、身の上では、夜中よりも人目に付かない、静かな日南の隙を計った方が可いと、岐路をあれからすぐ桂谷へ行くと、浄行寺という、男が門徒宗の寺があって……そこで宵の間に死ぬつもりで、対手の袂には、商売用の『何とかいらず』と、懐中には小刀さえ用意していたというのである。
着物の上前が摺り下がり、腰帯の弛んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少し後へさがってついて来る小春の姿は、道行きから遁げたというよりは、山奥の人身御供から助け出された者のようであった。
左・山中道、右・桂谷道と、道程標の立った、道が二つに別れる所へ来ると、――その山中道の方から、背のひょろひょろとした、頤の尖った、痩せこけた爺さんが、菅の一文字笠を真っ直ぐに首に据えて、腰に風呂敷包みをぐらつかせてやって来た。素足に破れ脚絆、草鞋穿きで、とぼとぼと竹の杖に曳かれている。
この竹の杖を宙に取って、先を握り、前へも立たず、横添いについて、くたびれた脚を引き摺っているのは、目も耳も隠れるような古くて、大きな鳥打ち帽を被った、八つくらいの男の児である。これも風呂敷包みを前で中結わえして、西行背負い(*1)に背負っていたが、道中へ弱々と出て来たので、横に引っ張り合った杖が通せん坊になってしまい、道程標の辻の所で、教授は足を留めて前へ通らせたのであった。ちょうど、細流はこの辺りから流れ始め、呉羽神社の大鳥居はここから見え、町もこれから賑やかとなる。爺さんは生まれつきの盲人ではないようで、突っ立った足を、ふくらはぎに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差し出して、手探りで、茄子ほどの小児に杖を引かれて進む有様。今、生命びろいをした女でなければ、『あの手を曳いてやれ』と小春に言ってみたいほどであった。山家の冬は、こうした彼らの影から、そして、段々と町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏れた。
そんなところへ……
駒下駄のちょこちょこ歩行きで、呉羽神社の石段の下にある鳥居の蔭から、結い立ての艶々した桃割れで、緋鹿子の角絞りに、簪をまだ挿さず、黒繻子の襟の白粉も冷たそうな、かすりの普段着をもの寂しく着て、……前垂れと帯の間へ、古風に手拭いを細かく挟んだ雛妓(*2)が、殊勝にも、お参詣りの戻りらしく……急ぎ足に、つつっと出た。が、盲目の爺さんとすれ違って、前へ出たと思うと、空から抱き留められたように、ひたりと立ち止まって振り向いた。
「や、姉ちゃん」――と小児が飛びつく。
見る見るうちに、雛妓の水晶のような睜った目は涙で一杯になった。
小春は傍に密と寄り添った。
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから……ちょっとでも姉ちゃんを見てえってなぁ。……」
西行背負いの風呂敷包みを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大好きな豆の餡餅を持って来た」
ものも言えず、姉さんは、弟のその頭を撫でると、仰いで笠の裡を熟と見た。その笠を被って立っている状は、こんな苦界にいる娘には、哀れな、惨めな、みすぼらしい盲人には見えず、萎びた地蔵菩薩のようであった。
親仁は抱きしめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷をしたかのように慌てて引いて、その手を片手拝みに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭をして、
「ご免下され、ご免くだされ」
と言った。
「正念寺様にお参詣りをして、それから木賃宿へ行くそうです。今、参りましたのは、あの妓がちょっと……館へ連れて行きましたの」
館は突き当たりらしいが、横町を、その三人が曲がる時、小春が行きすがりに、雛妓と囁いて、
「後にえ」と言って別れたのだと、小春は教授にそう言ったのである。
――先ほど、来る途中で盲人と出会ったというのはこのことである。
やがて、近江屋の座敷では、小春を客のように扱って、膳を並べ、教授が懇ろに説得したのであった。
「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね」
「死んで堪るものか、死ぬ方が間違っているんだ」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われないかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言葉通り、どんなにあの人から責められましても、私はきっぱりと心中なんか厭だと言います。お陰様で助かりました。またこれで、親兄弟の愛しい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかた、朝に晩に泣いてばかりで、生きる意欲さえ喪失していたのです。――その苦しみも今、抜けました。貴方は神様です。仏様です」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の姿をしているのだ」
「おほほ」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう可し、決して死ぬんじゃないよ」
「たとえ間違っておりましても、貴方のお言葉通りに生きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉だからと、安心をいたします」
「あえて構わない。この俺が、私というものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん」
「いいえ、もったいない。お名刺もおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まぁ嬉しい。……嬉しゅうございますわ。……旦那さん」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、気落ちがして、力が抜けて。何ですか、あまり身体に張りがなくなって、心細くなりました。お側へ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり暗くて見えはしませんわ」
と、膝に密と手を置いて、振り仰いだらしい顔が仄白い。艶の濃い髪の薫りよりも、眉がほんのりと香いそうなくらい、すぐ近くにいながら、上段の間は、今、ほとんど真っ暗である。
*1 西行背負い……風呂敷包みなどを肩から斜めに背負い、胸の前に結ぶこと。
*2 雛妓……まだ一人前になっていない芸妓。半玉。
つづく