表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 五

 五


「旦那さん、そんなら、あの、私、……死ななくても大事ございませんか……」

「――言うまでもないよ。――仮に全部(まるっきり)、お前さんが慾だけで(だま)したとしても……こっちは芸妓(げいしゃ)だ。罪も(むく)いもあるものか。それに聞けば、今まで出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽くしているんだ。……勝手な極道(ごくどう)とか、遊蕩(ゆうとう)とかで行き止まりになった男の、名だけは(てい)のいい心中だが、死んでいく道連れにされては(たま)ったものではない。――その上、お前さんは独り身ではないみたいだ。――ここに来る途中で、目が見えなくなってしまった(とっ)さんに会って、同じように目の悪い父親がいると言って泣いたじゃないか」――


 掛稲と嫁菜の(あぜ)に倒れて、この(さかき)という一人の男に(すが)って立った、山代の小春を、近江屋へ連れて戻ったことは、直ぐに(うなず)かれよう。芸妓(げいしゃ)であるから、そのまま一緒に来るのに、何の問題もなかったことも、また断るに及ぶまい。


 なおも聞けば、心中は相談だけではない。こうした温泉地という場所と、身の上では、夜中よりも人目に付かない、静かな日南(ひなた)の隙を計った方が()いと、岐路(えだみち)をあれからすぐ桂谷へ行くと、(じょう)行寺(ぎょうじ)という、男が門徒宗の寺があって……そこで(よい)の間に死ぬつもりで、対手(あいて)(たもと)には、商売用の『何とかいらず』と、懐中(ふところ)には小刀(ナイフ)さえ用意していたというのである。

 着物の上前(うわまえ)()り下がり、腰帯の(ゆる)んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少し(あと)へさがってついて来る小春の姿は、道行(みちゆ)きから()げたというよりは、山奥の人身御供(ひとみごくう)から助け出された者のようであった。


 左・山中(やまなか)(みち)、右・桂谷道と、道程標(みちしるべ)の立った、道が二つに別れる所へ来ると、――その山中道の方から、背のひょろひょろとした、(あご)の尖った、痩せこけた爺さんが、(すげ)の一文字笠を真っ直ぐに首に据えて、腰に風呂敷包みをぐらつかせてやって来た。素足に破れ(きゃ)(はん)草鞋(わらじ)穿()きで、とぼとぼと竹の杖に()かれている。

 この竹の杖を宙に取って、先を握り、前へも立たず、横添いについて、くたびれた脚を引き摺っているのは、目も耳も隠れるような古くて、大きな鳥打ち帽を被った、八つくらいの男の()である。これも風呂敷包みを前で(なか)()わえして、西行(さいぎょう)背負(じょ)い(*1)に背負っていたが、道中(みちなか)へ弱々と出て来たので、横に引っ張り合った杖が通せん坊になってしまい、道程標(みちしるべ)の辻の所で、教授は足を留めて前へ通らせたのであった。ちょうど、細流(せせらぎ)はこの辺りから流れ始め、呉羽(くれは)神社の大鳥居はここから見え、町もこれから賑やかとなる。爺さんは生まれつきの盲人ではないようで、突っ立った足を、ふくらはぎに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差し出して、手探りで、茄子(なすび)ほどの小児(こども)に杖を引かれて進む有様。今、生命(いのち)びろいをした女でなければ、『あの手を曳いてやれ』と小春に言ってみたいほどであった。山家(やまが)の冬は、こうした彼らの影から、そして、段々と町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏(たそが)れた。


 そんなところへ……

 駒下駄のちょこちょこ歩行(ある)きで、呉羽神社の石段の下にある鳥居の蔭から、結い立ての艶々(つやつや)した桃割れで、()鹿子(がのこ)角絞(つのしぼ)りに、(かんざし)をまだ()さず、黒繻子(くろじゅす)の襟の白粉(おしろい)も冷たそうな、かすりの普段着をもの寂しく着て、……前垂れと帯の間へ、古風に手拭いを細かく挟んだ雛妓(おしゃく)(*2)が、殊勝にも、お参詣(まい)りの戻りらしく……急ぎ足に、つつっと出た。が、盲目の(とっ)さんとすれ違って、前へ出たと思うと、空から抱き留められたように、ひたりと立ち止まって振り向いた。

「や、姉ちゃん」――と小児(こども)が飛びつく。

 見る見るうちに、雛妓(おしゃく)の水晶のような(みは)った目は涙で一杯になった。

 小春は(そば)(そっ)と寄り添った。

「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから……ちょっとでも姉ちゃんを見てえってなぁ。……」

 西行背負いの風呂敷包みを、肩の方から、いじけたように見せながら、

「姉ちゃん、大好きな豆の(あん)(もち)を持って来た」

 ものも言えず、姉さんは、弟のその頭を撫でると、仰いで笠の(うち)(じっ)と見た。その笠を(かぶ)って立っている(さま)は、こんな苦界(くがい)にいる娘には、哀れな、惨めな、みすぼらしい盲人には見えず、(しな)びた地蔵菩薩のようであった。

 親仁(おやじ)は抱きしめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷(やけど)をしたかのように慌てて引いて、その手を片手拝みに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭(おじぎ)をして、

「ご免下され、ご免くだされ」

 と言った。


「正念寺様にお参詣(まい)りをして、それから木賃宿へ行くそうです。今、参りましたのは、あの()がちょっと……(やかた)へ連れて行きましたの」

 (やかた)は突き当たりらしいが、横町を、その三人が曲がる時、小春が行きすがりに、雛妓(おしゃく)と囁いて、

(のち)にえ」と言って別れたのだと、小春は教授にそう言ったのである。

 ――先ほど、来る途中で盲人と出会ったというのはこのことである。

 やがて、近江屋の座敷では、小春を客のように扱って、膳を並べ、教授が(ねんご)ろに説得したのであった。


「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね」

「死んで堪るものか、死ぬ方が間違っているんだ」

「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われないかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言葉通り、どんなにあの人から責められましても、私はきっぱりと心中なんか厭だと言います。お陰様で助かりました。またこれで、親兄弟の(いと)しい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかた、朝に晩に泣いてばかりで、生きる意欲さえ喪失(なく)していたのです。――その苦しみも今、抜けました。貴方は神様です。仏様です」

「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の姿をしているのだ」

「おほほ」

「ああ、ほんとに笑ったな――もう()し、決して死ぬんじゃないよ」

「たとえ間違っておりましても、貴方のお言葉通りに生きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女(ばいた)だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉だからと、安心をいたします」

「あえて(かま)わない。この俺が、私というものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん」

「いいえ、もったいない。お名刺もおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まぁ嬉しい。……嬉しゅうございますわ。……旦那さん」

「…………」

「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、気落ちがして、力が抜けて。何ですか、あまり身体に張りがなくなって、心細くなりました。お(そば)へ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり暗くて見えはしませんわ」

 と、膝に(そっ)と手を置いて、振り仰いだらしい顔が(ほの)(じろ)い。(つや)の濃い髪の(かお)りよりも、眉がほんのりと(にお)いそうなくらい、すぐ近くにいながら、上段の間は、今、ほとんど真っ暗である。



 *1 西行背負(さいぎょうじょ)い……風呂敷包みなどを肩から斜めに背負い、胸の前に結ぶこと。


 *2 雛妓(おしゃく)……まだ一人前になっていない芸妓。半玉(はんぎょく)


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ