泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 四
四
ここに、第九師団衛戍病院の白い分院がある。――薬師寺、万松園、春日山などと共に、療養院は、山代の名勝に入っている。絵はがきがある。ご覧なさい。
病院で、名勝の絵になったのは、全国でここだけかも知れない。
この日当たりで暖かそうなのが、その青白い建物の門の前で、そこには枯葉半ばというくらいに色づいた桜の木が七、八株、一列に植わっており、それを境に、もう温泉の町も場末のはずれとなる。道が一坂小高くなって、三方は見通しのいい原で、東にはずっと薬師山が望まれ、その下には幅の広い一本道がある。桂谷と言うのへ通じる街道である。病院の背後を割って、うねうねと続く松混じりの雑木山が、畠を隔てただけの、すぐ目の前にあるので、遠い山も、嶮しい嶺も遮られて、そのため、景色が穏やかで、空も優しい。真綿のように所々白い雲を刷いたおっとりとした青空に、やや斜めの陽が、どことなく立ち渡る初冬の霧に包まれて、ほんのりと輝き、光は弱いが、まともに照らされると、のぼせるほどの暖かさである。が、陰になっている袖はやたらと冷たい。
その近山の裾は半ば陰っているが、病院とは向かい合わせになっている、この一本道から少し低く、下り目になっている所には、陽の一杯当たる枯草の路がちょろちょろとついている。その小径と、一本道の交差点がゆるく三角になって、十坪ほどの畑が一枚、見晴らしのいい野山の中にある。一方の広々とした刈田との境には、垣根もあったらしいが、竹も塀も壊れ壊れで、朽ちた杭だけが一本、かろうじて案山子にでも化けたそうに灰色に残っている。そして、芒がぼうと消えそうに、しかし陽を満々と吸って、『あ、あ~ぁ』と、長閑な欠伸でもしそうにしながら、その杭に凭れている。藁が散り、木の葉が乱れた畑には、ここらあたりで盛んに植える杓子菜といって、株の白いところが似ているから、蓮華菜とも言うのを、もう散々に引き棄てた後にも、陽気が暖かいので、乾いた土が、ほかほかと盛り上がった所に、復び細く芽を吹いている。
畑の裾は、町裏のごみごみした町家や農家が入り乱れて、樹立隠れに、小流れを包み、そこからずっと遠く続くのは、山中道で、そこは雲の加減によって、陽が薄赤く颯と射す。
色も空も一淀みするこの日溜まりの三角畑の上にだけ、雲の瀬に紅の葉が柵むように夥多しく赤蜻蛉が群れていて、互いに出会ったり、別れたり、上下にスッと飛んだりしている。あの、紅あるいは薄紅の美しい小さな天女の水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、もう冬で……、遊びも闌となって、恍惚したらしく、夢を彷徨うように、ふわふわと浮かんだり、沈んだり、漂ったり……。で、時々、目が覚めたように、パッと羽を光らせるが、またぼうとなって、暖かに霞んで飛び交う。
日南の虹の姫たちである。
この風情に見惚れて、近江屋の客はただ一人、三角畑の角に立って、山を背に、彳んでいるのであった。
四辺は長閑である。昼飯を済ませてから、買い物に出た時とは反対の方に、そぞろ歩行きでぶらりと出て、温泉の廓を一巡りし、店先のきらびやかな九谷焼や、奥深く彩った漆器店を覗いた。すべては静かなたたずまいの中にあった。両側の商店が、徐々に片側だけになって、媚かしい紅柄格子を五、六軒見た後は、細流が流れるようになり、薬師山を一方に見て、呉羽神社の大鳥居前を過ぎたあたりからは、往来う人も、来る人もなくなった。古ぼけた酒店の杉玉の下で、茶と黒の、鞠が伸びたほどの子犬が、上になり下になり、おっとりと耳を噛んだり、ちょっと鼻面を引っ掻き合ったりしている。……これを見て、羨ましいのか、桶の陰から、むくと起きて、脚をひろげ、もう一匹よちよちと、同じような子犬が出て来たけれど、村は寂寞としていて、棒切れを持った小児も居ない。
で、ここに来た時、前途の山の下から、頬被りをした背の高い草鞋ばきの親仁が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄をからげた一升瓶をぶら下げて、てくりてくりと、一本道を真っ直ぐに、松茸の香りを芬とさせて、蛇の茣蓙とも言われる裏白の葉を堆く盛った大籠を背負い、それを一ツ揺すって通り過ぎた。一升瓶と鎌とで調子を取り、大手を振って歩行く、その意気揚々とも見える後ろ姿は、山の幸を得た誇りを示すようであった。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰のような、小鮒のような、頭の大きな茸がびちびち跳ねていそうなのが、温泉の町の方へずッと入って行った。この間、人に会ったのはそれだけであった。
客は陽の赤蜻蛉に見惚れた瞳を、ふと、畑際の芒に映すと、蔭になった片袖が慄然とした。一度、しっかりと組んでいた腕を解いて、少し震える手先を、小鬢に密と触れると、ため息を吐いて表情を暗くしたのであった。
日南に霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛が見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅なのが思い出したようにスッと下りて、芒の下にある杭の先に留まった。……一度伏せた羽を、衝と張って、きらりと輝かせた時、あの緑の目を、ちょっとこちらへ振り動かした。
子犬の戯れにも可懐かしんだ、先程の幼心がまた返ったのである。
教授は、ふやけたような笑顔になった。が、きりりと唇を締めると、真っ黒な厚い大きな外套を着込んだ、背と腰を屁っ放り腰に屈めて、及び腰に右の片手を伸ばしながら、密と狙って寄った。が、どうしてどうして、小児のように簡単には行かない。
ぎくり、しゃくりと近づいて……『よし、今だ!』……よちりと飛っつくが……残念! 赤蜻蛉は颯と外れた。
はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは」
花々しく声高に、若い女の笑い声が響いた。
向こうには犬児の姿も、もう見えない。四辺に誰も居ないのを、一瞬のうちに見渡して、これは自分を笑っているのだと気づいた時、咄嗟に不機嫌な顔を造って、身体を捻るように振り向くと……。
この三角畑の裾の樹立から、広野の中に、もう一条、一本道と傾斜面になっている広い刈田を隔てて、突き当たりの山裾へ続く畦道があるのだが、屏風のように連なった、長くて丈の高い、掛稲がずらりと続いたのに蔽われているため、半ばで消えるので気づかなかった。掛稲の切れ目を見ると、遠くの山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈けるようである。下も水のように、芒の波が白く敷かれ、刈り残した粟の穂の黄色とで段々になっていて、立ち蔽う青い霧に浮いていた。
と、そちらを見向いた時、畦の嫁菜を褄にして、その掛稲のこちらに、目も遙かな野原、刈田を背にして、距離が離れてきちんと見えないけれど、薄藍の浅葱の襟をして、髪の艶やかな、色の白い女が居て、今、見合わせた顔を急に背けるや否や、叩きつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄み切った空の下、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほ、おほほほほほ」
『おや? 自分の顔に何か付いているのか?』と、額を扱いて、思わず撫でると、これがまた、狐に化かされた者がするような、眉毛に唾を付ける仕草に見えたのだろう。
金切り声で、
「ほほほほほほ」
女の十歩ほど先に、一人男の連れが居た。縞の柄は分からないが、くすんだ装で、青磁色の中折れ帽を、目深に被った小造りな、痩せた、形の粘々とした男であった。これが、その晴れやかな大笑いの笑い声に驚いたように立ち止まって、斜め睨みに女を見ている。
何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑しいのであろうと思った……言うまでもない。――途中で、誰を見ても、若い者も、老人も、外套を着た者は一人も居なかった。湯の町の廓では皆、柳の中を広袖で出歩行く。勢いのいいのになると、浴衣一枚、いや、裸だって居る。もっとも、宿を出る時、外套は……と気にはなったのだが、借りて着込んだ浴衣の糊がごわごわして突っ張って、広袖が膚につかないので、変に風を通して、ぞくぞくするため、すっぽりと着込んだのである。なるほど、ただ一人、帽子も外套も真っ黒で、畑に、つッくりと立ったところは、影法師に狐が憑いたようで、褌をぶら下げて裸で陸に立ったよりも若い女には可笑しいのだろう。……
いや、蜻蛉釣りのせいか。
ああ、それだ。
小鬢に霜のような白髪のある自分がと、たちまち気づいて、思わずどうしようもない苦笑を洩らすと、その顔がまた合った。
「ぷッ」と噴き出すように更に笑った女が、堪らないといった具合に、裾をぱッぱッと、乱しながらもとの方へ、五、六歩駈け戻って、捻じたように胸を折って、
「おほほほほ」
胸を反らして、仰向けに、
「あはははは」
たちまちくるりと後ろ向きに、何か、もみじの散りかかる小紋の羽織の背筋を見せて、向こうむきに、雪の遠山へ、やたらと叩頭をする格好で、うつむいて、
「おほほ、あはは、あははははは、あははははは」
やがて、朱鷺色の手巾で、口を蔽って、肩で呼吸をして、向かい直って、ツンと澄ました横顔で歩行こうとした。が、何と、自然と目がこっちに向くではないか。手巾を二回、三回、空に振りながら、手に叩きつけて、また笑った。
「おほほほ、あははは、あははははは」
八ツ口から洩れる紅に、腕の白さがちらめくのを、振って揉んで身悶えする。
きょろんと立った連れの男が、一歩引き返して、圧えるように、握り拳をぬっと突き出すと、今度はその男の顔を屈み腰になって、仰向いて見て、それにもしたたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた。
教授も堪えられず、ひとり寂しくニヤニヤとしながら、半ば茫然として立っていたが、余りのことに、そこで、うっかり、『あかんべぇ』をやったと思え。
「きゃっ、ひいッ」と逆に半身を折って、更に前に折り曲げて、脇腹を腕で圧えた。が、追着かない。身を悶え、肩を揉み揉み、へとへとになったらしい。……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。藍色の半襟に嫁菜が咲いたようだった。
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ」
そこを両脇はおろか、乳も、胸も、もぞもぞと芒が擽る! はだけた白い襟元を隠そうとして合わすと、それを合わす隙に、雪の白さのしどけない膝小僧が露出し、島田髷も切れて、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほ、あははははは」
と、手を振る弾みに、鳴子縄に食い付くほどに触れて、ひしと縋ると、刈田の鳴子が山に響いて、からからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ」
勃然とした表情で、島田の上で、握り拳の両手を、一度打ち叩くような振りを見せて、むっとして男が行くので、はぁはぁと膝を摺らし、腰を引いて、背中に波を打たせながら、身をうねらせて、やっと立って、女は褄を引き合わせざまに振り向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが早いか、
「きゃぁ――」と笑って、衝と駈けながら、男の後を追い、掛稲の背後に隠れた。
その掛稲は、一杯の陽の光と、溢れるばかりの雀を吸って、むくむくとして、
音がするほどに膨れ上がって、なお堪えられずに、おほほほと、笑い声を吸い込むと、やりきれなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたかと思うと、女の顔がぽっと出て、髪を黒く、唇を紅く、
「おほほほほほほほ、あはははははは」
「馬鹿奴、汝!」
激しく、怒った声が響くと同時に、ハッとして、元の道へ逃げ出した女の背に、つかみかかる男の手が伸びた。その届きそうになった手を躱そうとして、女は真横にばったりと倒れ込んだ。
男はそこへのしかかると、二ツ三ツ、ものも言わずに、頬と言わず、肩と言わず、芒の穂がへし折れて見えるほどに拳で打ち据えた。
顔も、髪も土まみれになりながら、真っ白な手を袖口から出し、ひしと合わせて、おがんで縋って、起きようとするが、その腕を払い、男は足を上げ、一蹴りした。
ほんの一瞬のことである。
「何をする、何をする」
たかが、山家の恋の一場面である。男女の痴話のとばっちりではあるが、今は高い天を仰ぎ、広い世を知る、学士榊三吉も、昔、一高で骨を鍛えた向陵(*1)男児で、その心意気はまだ衰えてはおらず、
「何をする、何をするんだ」
と、草の径ももどかしく、畦と言わず、刈田と言わず、真っ直ぐに突っ切って、颯と寄った。
この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫うようにして、鳥と共に飛んで遁げた。
「おお!」
「あ、あれ! 先刻の旦那さん」
遁げた男は治兵衛坊主で、女は――お光に聞いた――小春であった。
「外套を被って、帽子を召して……見違えて、おほほほ、失礼な、どうしましょう」
と、小春は襟も帯も乱れた胸を、か弱く手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白な顔をして、涙の眼でなおも笑った。
「おほほほほ、堪忍、ごめんなすって、あははははは」
妙齢だ。この箸が転んでも笑う者をどうして……、と憮然としながら、駒下駄が飛んだ裸足も清らかに、肩も膝も紅の長襦袢の乱れた婦の、半ば起き上がろうとする肩を抱いた。
「ごめんなすって、旦那さん。赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方の、貴方の姿が余りに……余りにも……おほほほほ」
「いや、我ながら、思えば可笑しい。笑うのは当たり前だ。が、気の毒に。連れの男は何と乱暴なんだ」
「ええ、家ではかえって人目に立つって、あの、おほほ、心中の相談をしに来たところだものですから、あはははは」
小春は榊の胸にひたと顔を埋めて、泣きながら、
「おほほほほほ……」
*1 向陵……旧制第一高等学校。
つづく