泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 三
三
「そうか――先刻、買い物に寄った時、その芸妓は泣いていたよ」
「あれ、小春さんが坊主の店に居ただかね。好いても嫌うても、気立ての優しいお妓だから、内緒で逢いに行っただろさ。――ほんに、もうお十夜(*1)だ。――気難しい治兵衛の媼も、やかましい芸妓屋の親方たちも、ここ一日二日は講中(*2)で出入りもがやがやしておるで、その隙に密と会いに行ったでしょ」
「お安くない間柄なんだな」
「何、愛しゅうて泣いているだか、しつこくされて泣かされるだか、知れたものではないのだよ」
「同じ泣くなら……愛しい方にしておくがいい」
と、客はしめやかに言った。
「厭なことだ」
「大層嫌うな。……その執拗い、嫉妬深いのに口説かれたら、お前さんはどうする」
「横びんた撲りこくるだ」
「これは驚いた」
「北国一だ。山代の巴(*3)、板額(*4)だよ。四斗八升の米俵、両手で二俵提げるだよ」
「偉い!……その勢いで、小春の味方をしておやり」
「ああ、すべいよ。旦那さんが言わっしゃるなら。……」
「お世辞だろうけど、うれしいね。……これ、ほんの少しだけれど、ご祝儀だ」
肩を振って、拗ねたように、
「要らねぇよ。――私こんなもの。……旦那さん。――旅行さきで無駄な銭を遣わねぇがいいだ。そして……」
と顔を向け直すと、ちょっと上まぶたで客を見て、
「旦那さん、いつ帰るかね」
「いや、親切は有り難いが、今来たばかりの者に、いつ出立かは少し酷かろう」
「それでも、先刻来た時に、一晩泊だと言ったでねぇかね」
「その通りだ、明日は山中へ行くつもりだ。忙しい観光団さ」
「ゆっくり居なされば可いに――では、またじきに来なさいよ」
と、真顔で言った。
客はその言に感じたように、
「もちろん来ようが、その時、姐さんは居なかろう」
「あれ、何でぇ?……」
「お嫁に行くから」
したたか頭を振って、
「ううむ、行かねぇ」
「治兵衛坊主が、たって欲しいと言うそうだ」
「馬鹿を言うもんでねぇ。――治兵衛だろうが、忠兵衛(*5)だろうが、……一生嫁に行かねぇで待ってるだよ」
「じゃぁ、いっそどこにも行かないで、いつまでもここに居ようか。私をお婿さんにしてくれるのなら。……」
「するともさ」
「私は働きがないのだから、婿と言っても養子と同じだ。お前さん養ってくれるかい」
「ああ、養うよ。朝から晩まで好きな時に湯に入れて、御飯を食べさして、遊ばしておけば、それでよかろうがね」
「もったいないくらい、結構だな」
「そのくらいなら……私が働く給金でして進ぜるだ」
「ほんとかい」
「それだがね、旦那さん」
「ご覧、それ、すぐに心変わりだ」
「ううむ、本当だ、が、こんな上段の室ではやりきれねぇだ。――裏座敷の四畳半か六畳で我慢してくださんせ。お膳のご馳走も、こんなにはつかねぇが、私が内緒で、どうともするだよ」
客は赤黒く、口の尖った、にきびで肥った顔を見ながら、
「姐さん、名前は何と言う」
と、笑って訊いた。
「ふ、ふ、ふ」と、首を振っている。
「何と言うよ」
「措きなさい、そんなこと」
と、耳朶まで真っ赤にした。
「よ、ほんとに何と言うよ」
「お光だ」
と、飯櫃に太い両手を突っ張って、ぴょいと尻を持立てる。遁げる構えでいるのである。
「お光さんか、歳は」
「知らない」
「まぁ、幾歳だい」
「顔だ」
「何?」
「私の顔だよ、猿だてば」
「すると、幾歳だっけな」
「桃栗三年、三歳だよ、ははは」
と、笑いながら駈け出した。この顔が――くどいようだが――楊貴妃の上へ押し並んで、振り向いて、
「二十だ……鼬だ……べべべべ、べい――」
*1 お十夜……陰暦十月六日から十五日の十日間、浄土宗寺院で行われる念仏行事。
*2 講中……講を作って神仏に詣でる信仰者の集まり。
*3 巴……巴御前。平安後期~鎌倉時代の女武者。
*4 板額……板額御前。平安後期~鎌倉時代の女武者。弓矢を得意とする。
*5 忠兵衛……近松門左衛門の浄瑠璃「冥途の飛脚」での主人公。作品は遊女梅川との情話を描いた物語。
つづく