泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 二
二
「まぁ、ご飯をお代わりしなさいよ」
「あぁ……ご飯も今、お代わりをするんだが……」
で、客は今の言葉で話の口が解けたと思ったような面持ちで、中休みに一口、猪口の酒を口に運んだ。……
「……姐さん、ここの前を右に出て、大きな絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑やかな所を通り抜けると、旧街道のようで、町家の揃った所があるが、あれはどこへ行く道だね」
「それはね、旦那さん、那谷から片山津の方へ行く道だよ」
「そうか――そこの中ほどに、先が古道具屋、手前が桐油菅笠屋という間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何という家だい」
「白粉や香水も売っていて、缶詰だの、石鹸箱はぴかぴかする(*1)けど、じめじめとした、陰気な、あれかぁね」
「まったくだ。陰気な内だ」
と言って、客はその店をもう一度思い返した。
「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出かかってるけれども」
と、給仕盆を鞠のように、とんとんと膝で揺すって、
「治兵衛坊主の家ですだよ」
「冗談ではない。紙屋で治兵衛なんて(*2)、洒落ではないのか」
「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主と言や直ぐに分かるよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を」
客はこれよりも前、ちょっと買い物に出たのであった。――実は旅行をしていて、半紙が入り用だったので、帳場に頼んで取り寄せようか、買ってきてもらおうかと思ったのだが、言ったように、大まかで、のんびりしている旅館だから、北国一の電話で、呼び寄せて、言いつけて、買いにやって取り寄せる暇に、自分で買ってくる方が手っ取り早い。……膳の来るのにも間があるだろう。そう思ったので、帽子も被らないで、黙って、ふいと出たのである。
直ぐにあった角の煙草屋も見たし、絵はがき屋も覗いたが、どうもその類いのものが見当たらない。小半町行き、一町行き……山の温泉の町の様子の珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見つけたのが、その陰気な雑貨店であった。奥行きの浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包みは色も褪せていたが、戸棚の中の僅かばかり重なっている半紙は白かった。
「ごめんなさいよ、今日は」と、二、三度声を掛けたが返事がない。しかし、こんなことは、金沢の目貫の町の商店でも、経験済みなので、気忙しげに、
「誰かいませんか」と、もう一度呼ぶと、
「はい」と、その時、媚かしい優しい声がして、
「はい」と、すぐに重ね返事があった。ただ、何となく声に張りがなく、弱々しい。が、間を置かず、素早い挙動で、褄を軽く取り、急ぎながら、裾をはらりと、長襦袢の艶なのが、狭い通路をすらすらと横歩きで、納戸から出て来た。半襟も、色白な横顔も、少し俯向くようにしていて、明るみへ立つと、肩から袖が悄れて見えて、店中の温度とは違う、冷たい穴蔵から出て来たかのようにも思えた。
で、その顔を背けたまま、
「はい、何を差し上げましょう」と言ったが、声が沈んで、泣いていたらしい片方の目を俯向けて、紅入友染の、裏が色浅葱色の袖口で、ひったり圧えた。
中背で、もの柔らかな女の、房り結った島田が縺れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、何となく可哀で気の毒であった。しかし、用件を言うと、
「はい」と、背後向きに戸棚へ立った時は、目を押さえていた手を離して、姿はすらりとなったが、半紙を抽斗して、立ち返り、頭髪も重そうに褄先の運びと共に、またうなだれた時、堪えかねた涙が、白く咲いた山茶花に霜の白粉が溶けるように、はらはらと落ちた。それをうっかり紙に受けて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔を隠すと、なお濡れた。
うっかり渡そうとして、
「まあ」と気づいたらしく、
「あれ、取り換えますから」
――「いや、このままでよろしい……」
懐中へ入れて、ずっと店を出た。が、店を立ち離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂に受けよう。口紅の色は残らないが、瞳の影と一緒に涙の玉を包んだ半紙がここにある。――直ぐに返事をしなかったのもこのせいだろう。不思議な所へ行き合わせた、と思う内に、いや、しかし、白い山茶花のその花片に、片方だけ日が淡くさすように、目が腫れぼったく、特に圧えた方の瞼が赤かったのは、患っているのかも知れない。あるいは急に埃などが飛び込んで、その痛みで泣いていたのかも知れない。――そうでなければ、どれほど辛いことがあったとしても、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほどの涙を流すのは、ちと情が過ぎるというものだ。大方は目の患いだろう。
トラホームなんかだと困るな、と考えながら、その涙をとにかく懐中深く折り込んだ。が、――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽、漬物桶などがはみ出した物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先ほど期待した小鳥の骨を叩くのと同一であった。
「自分の都合の好いように解釈するものだな――おそらく涙もこれだ」
と、教授は思わず苦笑して、
「しかし、その方が僥倖だ。……」
今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないかのうちに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、
「腹が空いたろがね」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で、小脇に威勢よく引抱えた黒塗りの飯櫃を客の前にストンと置くと、一歩すさったままで、突っ立って、熟と顔を見下ろすから、この時も吃驚した目を向けると、両手を引っ込めた綿入れの袖を上下に、ひょこひょこと揺さぶりながら、
「給仕をするかね」と言ったのである。
教授はもう諦めたという表情をして、落ち着いて、
「おいおい、どうしてくれるんだ――給仕も何も、まだ膳が来ないではないか」
「あッそうだ」
と、慌てて片足を挙げたと思うと、下ろして、片足をまた上げたり、下げたり。
「腹が空いたろで、早くお飯を食わせようと思うたでね。急いたわいな、旦那さん」
と、そのまま跳ねて、くるりと廻ったかと思うと、
「北国一だ」
と、投げるように言って、駈け出した。
――酒は手酌が習慣だと言って、やっと御免を蒙った。酒量は少ないが、やがて、はじめて落ち着いて一銚子を静かに傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
話が前後したが、この時、涙の半紙の店のことを尋ねたのであった。客は何となく折を見て聞いたのである。
「今さっき、ちょっと買い物をして来たんだが」と言い継いで、
「彼家に、嫁さんか、娘さんか、綺麗な女が居るだろう」
「北国一だ。あはははは」
と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だあれかい、娘かい、嫁さんかい」
また大声で、
「押惚れたか、旦那さん」
「驚かしなさんな」
「吃驚しただろ、あの別嬪に。……それだよ、それが小春さんだ。この土地の芸妓でね、それだで、雑貨店の若旦那を治兵衛坊主と言うだでば」
「なるほど、紙屋――あの雑貨店の亭主だな」
「若い人だが、生きるわ、死ぬるわという評判ものだよ」
「それで治兵衛……は分かったが、坊主とはどういう訳だね」
「何、旦那さん、癇癪持ちの、嫉妬やきで、とてつもない逆気性でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ」
「何?……」
「隠元豆、田螺さぁね」
「分からないな」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば」
「乱暴だなぁ」
「この山代の湯ぐらいでは埒あかねぇさ。脚気の山中とか、瘡の粟津の湯みたいな所へ七日湯治(*3)をしねぇことには、半月、十日は寝られねぇで、身体中掻き毟って、目が引釣り上がる若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子も、店も田地までも打ち込んでね、一時は三月ほども、家へ入れて、かみさんにしておいたこともあったがね」
――あそこにいた、初女房、花嫁ぶりの商いはこれで分かった――
「ちゃんと金子を納めたでねぇから、抱え主の方では承知しねぇだよ。すったもんだの挙げ句が、小春さんはまた褄を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜が更けてでも見なさいよ、いらいらして、逆気上って、痛痒い所を引っ掻いたくらいでは済まねぇで、田螺も隠元豆も地団駄を踏んで喰い齧るだよ。血は上ずっても、性は陰気で、散蓮華(*4)みたいな長い顔が青しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張り立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲がるだ。のぼせて、頭ばっかり赫々とするもんだで、小春さんのいい人ぶって、色男がるくせに、頭髪さ、すべりと一分刈りにしている所で、治兵衛坊主、治兵衛坊主だ、なぁ、旦那」
こう聞けば、トラホーム、目の患いと思ったのが恥ずかしい。袂に包んだ半紙の雫は、まさに山茶花の露である。
「旦那さん、何を考えていなさるだね」
*1 石鹸箱はぴかぴかする……セルロイド製の石鹸箱なのだろう。
*2 紙屋で治兵衛なんて……治兵衛は近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」に登場する人物。大阪天満の紙問屋の治兵衛と曾根崎新地の遊女小春が心中する物語。
*3 七日湯治……湯治は、「七日一回りにして、これを三回繰り返す」と言われている。
*4 散蓮華……中華料理などを食べる時に使う陶製のスプーン。
つづく