表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 二

 二


「まぁ、ご飯をお代わりしなさいよ」

「あぁ……ご飯も今、お代わりをするんだが……」

 で、客は今の言葉で話の口が解けたと思ったような面持(おもも)ちで、中休みに一口、猪口の酒を口に運んだ。……

「……(ねえ)さん、ここの前を右に出て、大きな絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑やかな所を通り抜けると、旧街道のようで、町家(まちや)の揃った所があるが、あれはどこへ行く道だね」

「それはね、旦那さん、()()から片山津(かたやまづ)の方へ行く道だよ」

「そうか――そこの中ほどに、先が古道具屋、手前が桐油(とうゆ)菅笠屋(すげがさや)という間に、ちょっとした紙屋があるね。雑貨も商っている……あれは何という(うち)だい」

白粉(おしろい)や香水も売っていて、缶詰だの、石鹸箱はぴかぴかする(*1)けど、じめじめとした、陰気な、あれかぁね」

「まったくだ。陰気な(うち)だ」

 と言って、客はその店をもう一度思い返した。

「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出かかってるけれども」

 と、給仕盆を鞠のように、とんとんと膝で揺すって、

()兵衛(へえ)坊主(ぼうず)(うち)ですだよ」

「冗談ではない。紙屋で治兵衛なんて(*2)、洒落ではないのか」

「何、人が皆そう言うでね。本当の名だか何だか知らないけど、治兵衛坊主と言や直ぐに分かるよ。旦那さん、知っていなさるのかね、あの家を」


 客はこれよりも前、ちょっと買い物に出たのであった。――実は旅行をしていて、半紙が入り用だったので、帳場に頼んで取り寄せようか、買ってきてもらおうかと思ったのだが、言ったように、大まかで、のんびりしている旅館だから、北国一の電話で、呼び寄せて、言いつけて、買いにやって取り寄せる暇に、自分で買ってくる方が手っ取り早い。……膳の来るのにも間があるだろう。そう思ったので、帽子も被らないで、黙って、ふいと出たのである。

 直ぐにあった(かど)の煙草屋も見たし、絵はがき屋も覗いたが、どうもその類いのものが見当たらない。小半町行き、一町行き……山の温泉(いでゆ)の町の様子の珍しさに、古道具屋の前に立ったり、松茸の香を聞いたり、やがて一軒見つけたのが、その陰気な雑貨店であった。奥行きの浅い店で、横口の奥が山のかぶさったように暗い。並べた巻紙の上包みは色も()せていたが、戸棚の中の僅かばかり重なっている半紙は白かった。

「ごめんなさいよ、今日は」と、二、三度声を掛けたが返事がない。しかし、こんなことは、金沢の目貫(めぬき)の町の商店でも、経験済みなので、気忙(きぜわ)しげに、

「誰かいませんか」と、もう一度呼ぶと、

「はい」と、その時、(なまめ)かしい優しい声がして、

「はい」と、すぐに重ね返事があった。ただ、何となく声に張りがなく、弱々しい。が、間を置かず、素早い挙動(こなし)で、褄を軽く取り、急ぎながら、裾をはらりと、長襦袢の艶なのが、狭い通路をすらすらと横歩きで、納戸から出て来た。半襟も、色白な横顔も、少し俯向(うつむ)くようにしていて、明るみへ立つと、肩から袖が(しお)れて見えて、店中の温度とは違う、冷たい穴蔵から出て来たかのようにも思えた。

 で、その顔を背けたまま、

「はい、何を差し上げましょう」と言ったが、声が沈んで、泣いていたらしい片方の目を俯向(うつむ)けて、紅入(べにいり)友染(ゆうぜん)の、裏が色浅葱(あさぎ)色の袖口で、ひったり(おさ)えた。

 中背で、もの柔らかな女の、(ふっさ)()った島田が(もつ)れて、おっとりした下ぶくれの頬にかかったのも、何となく可哀(あわれ)で気の毒であった。しかし、用件を言うと、

「はい」と、背後(うしろ)向きに戸棚へ立った時は、目を押さえていた手を離して、姿はすらりとなったが、半紙を抽斗(ひきだ)して、立ち返り、頭髪(かみ)も重そうに褄先の運びと共に、またうなだれた時、()えかねた涙が、白く咲いた山茶花(さざんか)に霜の白粉(おしろい)が溶けるように、はらはらと落ちた。それをうっかり紙に受けて、……はっと思ったらしい。……その拍子に、顔を隠すと、なお濡れた。

 うっかり渡そうとして、

「まあ」と気づいたらしく、

「あれ、取り換えますから」

 ――「いや、このままでよろしい……」

 懐中(ふところ)へ入れて、ずっと店を出た。が、店を立ち離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この(たもと)に受けよう。口紅の色は残らないが、瞳の影と一緒に涙の玉を包んだ半紙がここにある。――直ぐに返事をしなかったのもこのせいだろう。不思議な所へ行き合わせた、と思う(うち)に、いや、しかし、白い山茶花(さざんか)のその花片(はなびら)に、片方だけ日が淡くさすように、目が()れぼったく、特に(おさ)えた方の(まぶた)が赤かったのは、(わずら)っているのかも知れない。あるいは急に(ほこり)などが飛び込んで、その痛みで泣いていたのかも知れない。――そうでなければ、どれほど辛いことがあったとしても、若い女が商いに出てまで、客の前で紙を絞るほどの涙を流すのは、ちと(じょう)が過ぎるというものだ。大方は目の患いだろう。

 トラホームなんかだと困るな、と考えながら、その涙をとにかく懐中(ふところ)深く折り込んだ。が、――やがて近江屋へ帰って、敷石を奥へ入ると、酒の空樽、漬物桶などがはみ出した物置の戸口に、石屋が居て、コトコトと石を切る音が、先ほど期待した小鳥の骨を叩くのと同一(おなじ)であった。

「自分の都合の()いように解釈するものだな――おそらく涙もこれだ」

 と、教授は思わず苦笑して、

「しかし、その方が僥倖(しあわせ)だ。……」


 今度は座敷に入って、まだ坐るか坐らないかのうちに、金屏風の上から、ひょいと顔が出て、

(おなか)が空いたろがね」と言うと、つかつかと、入って来たのが、ここに居るこの女中で、小脇に威勢よく(ひっ)(かか)えた黒塗りの飯櫃(めしびつ)を客の前にストンと置くと、一歩(ひとあし)すさったままで、突っ立って、(じっ)と顔を見下ろすから、この時も吃驚(びっくり)した目を向けると、両手を引っ込めた綿入れの袖を上下に、ひょこひょこと揺さぶりながら、

「給仕をするかね」と言ったのである。

 教授はもう(あきら)めたという表情をして、落ち着いて、

「おいおい、どうしてくれるんだ――給仕も何も、まだ膳が来ないではないか」

「あッそうだ」

 と、慌てて片足を挙げたと思うと、下ろして、片足をまた上げたり、下げたり。

「腹が空いたろで、早くお(まんま)を食わせようと思うたでね。()いたわいな、旦那さん」

 と、そのまま跳ねて、くるりと(まわ)ったかと思うと、

「北国一だ」

 と、投げるように言って、駈け出した。


 ――酒は手酌が習慣(くせ)だと言って、やっと御免を蒙った。酒量は少ないが、やがて、はじめて落ち着いて一銚子を静かに傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。

 話が前後したが、この時、涙の半紙の店のことを尋ねたのであった。客は何となく折を見て聞いたのである。


「今さっき、ちょっと買い物をして来たんだが」と言い継いで、

彼家(あそこ)に、嫁さんか、娘さんか、綺麗な女が居るだろう」

「北国一だ。あはははは」

 と、大声でいきなり笑った。

「まあまあ、北国一としておいて、何だあれかい、娘かい、嫁さんかい」

 また大声で、

押惚(おっぽ)れたか、旦那さん」

「驚かしなさんな」

吃驚(びっくり)しただろ、あの別嬪(べっぴん)に。……それだよ、それが小春さんだ。この土地の芸妓(げいしゃ)でね、それだで、雑貨店の若旦那を治兵衛坊主と言うだでば」

「なるほど、紙屋――あの雑貨店の亭主だな」

「若い人だが、生きるわ、死ぬるわという評判ものだよ」

「それで治兵衛……は分かったが、坊主とはどういう訳だね」

「何、旦那さん、癇癪(かんしゃく)持ちの、嫉妬(やきもち)やきで、とてつもない逆気性(のぼせしょう)でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ」

「何?……」

隠元(いんげん)(まめ)田螺(たにし)さぁね」

「分からないな」

「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば」

「乱暴だなぁ」

「この山代(やましろ)の湯ぐらいでは(らち)あかねぇさ。脚気(かっけ)山中(やまなか)とか、(かさ)粟津(あわづ)の湯みたいな所へ七日湯治(*3)をしねぇことには、半月、十日は寝られねぇで、身体中掻き(むし)って、目が引釣り上がる若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子(かね)も、店も田地までも()ち込んでね、一時(いっとき)三月(みつき)ほども、家へ入れて、かみさんにしておいたこともあったがね」

 ――あそこにいた、初女房(ういにょうぼう)、花嫁ぶりの商いはこれで分かった――

「ちゃんと金子(かね)を納めたでねぇから、抱え主の方では承知しねぇだよ。すったもんだの挙げ句が、小春さんはまた(つま)を取っているだがね、一度女房にした女が、客商売で出るもんだで、夜が()けてでも見なさいよ、いらいらして、逆気(のぼせ)(あが)って、痛痒い所を引っ掻いたくらいでは済まねぇで、田螺も隠元豆も地団駄を踏んで()(かじ)るだよ。血は上ずっても、(しょう)は陰気で、(ちり)蓮華(れんげ)(*4)みたいな長い顔が青しょびれて、しゃくれてさ、それで負けじ魂で、張り立てる治兵衛だから、人にものさ言う時は、頭も唇も横町へつん曲がるだ。のぼせて、頭ばっかり赫々(かっか)とするもんだで、小春さんのいい人ぶって、色男がるくせに、頭髪(かみのけ)さ、すべりと一分刈りにしている所で、治兵衛坊主、治兵衛坊主だ、なぁ、旦那」

 こう聞けば、トラホーム、目の患いと思ったのが恥ずかしい。袂に包んだ半紙の雫は、まさに山茶花(さざんか)の露である。

「旦那さん、何を考えていなさるだね」


 *1 石鹸箱はぴかぴかする……セルロイド製の石鹸箱なのだろう。


 *2 紙屋で治兵衛なんて……治兵衛は近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」に登場する人物。大阪天満の紙問屋の治兵衛と曾根崎新地の遊女小春が心中する物語。


 *3 七日湯治……湯治は、「七日一回りにして、これを三回繰り返す」と言われている。


 *4 (ちり)蓮華(れんげ)……中華料理などを食べる時に使う陶製のスプーン。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ