泉 鏡花「みさごの鮨」現代語勝手訳 一
泉鏡花「みさごの鮨」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を付け加えたり、削ったり、また、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
読みやすさを考慮して、原文にはない段落スペースを設けています。
この現代語勝手訳を行うにあたり、「泉鏡花集成7」(筑摩書房)を底本としました。
全9回。
一
「旦那さん、旦那さん」
目と鼻の前に居ながら、大きな声で女中が呼ぶので、浴衣の上に貸広袖を重ねた、年配で痩形の品のいい客は、つい箸の手を止めた。
「ああ、何だい」
「どうだね、おいしいかね」
と、額で顔を見て、女中はきょろりとしている。
客はあまり唐突なので、驚いたようだった。――旅籠でも料理屋でも、その経験の多少に関わらず、給仕をしてくれる者から、こんな素朴で、実直な、しかも要するに直球の質問を受けたことは今まで一度もなかったのである。
まあ、しかし、決して不味くはないから、
「ああ、おいしいよ」
と言って、また箸を付けた。
「そりゃ可い、北国一だろ」
と、冗談でもなさそうで、平然と真顔で言う。
「むむ、……まあ、そうでもないがね」
と、今度は客の方から相手を見た。目鼻立ちは十人並み……と言うが、人間並みで、色が赤黒く、いかにも壮健そうで、口許の締まったのは可いが、その唇が少し尖った所が、化け損なった狐のようで、しかし、不気味ではなく、愛嬌がある。手織縞のごつごつした綿入れに、よれよれの半纏を着て、唐縮緬の帯を不様に鳩胸に高く締め、髪は平凡な束髪に結っている。
これを更めて見て、客は気がついた。先刻も一度その『北国一』を大声で称えて、裾短な脛を太く、尻を振って、ひょいと踊るようにして、次の室の入り口を隔てる古い金屏風の陰へ飛び出して行ったのがいたが、それがこの女中らしい。
ところで、その金屏風の絵というのが、極彩色で、狩野何某の銘があり、玄宗皇帝が同じ椅子に、楊貴妃と凭れ合って、笛を吹いている図だから、かなり可笑しい。
これまでの経緯を話そう。
客が加賀国山代温泉のこの近江屋に着いたのは、当日の昼を少し過ぎた頃だった。玄関へ立つと、面長で柔和かな、ちっとも気取りっ気のない四十くらいの――後で聞くと主人だそうだ――質素な男が出迎えて、揉み手をしながら、
「ご逗留でございますか、それともちょっとご入浴で?」と訊いたのだが、客が、
「一晩お世話に」と言うと、腰をかがめながら畏まって、
「どうぞこちらへ」と自ら荷物を捌いて、案内をしたのが、この奥の上段の間(*1)であった。他に部屋が二つついている。
「生憎、宅はただ今普請中でございますので、何かと不行き届きがあるかも知れませんが、どうかご容赦下さいませ。まずはごゆっくりと……」と、丁寧に挨拶をして立つと、そこへ茶を運んで来たのが、今思うとこの女中らしい。
実は小春日の明るい街道から、衝と入ったので、人の顔も容子も何も分からない。縁を広く、張り出しを深く取った、古風で落ち着いた旅館だけに、十畳へ敷き詰めた絨毯の模様も、谷へ落葉を積んだように見えて、薄暗い。大きな床の間の三幅対も、濃い霧の中に、山を遥かに船が描かれているが、朦朧として小さな仙人の影が映すばかりで、何の景色だか、これは燈が点いても判然分からなかったくらいである。が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠に、古びた苔の真っ青な色がうかがえる。ここに一本の立樹があって、思うままに伸びた松の枝振りが、飛び石に影を沈めて、颯と渡る風に静寂な水の響きを流す。庭の正面がすぐに切立の崖になっていて、自然の雑木林に萩、躑躅の株、もみじを交ぜて、片隅の山笹の中を、細くうねりうねりしながら、自然の大巌を削った小径が通じている。その高く梢を上がったところに、増築をした二階、三階のはなれ家の座敷があって、客のいる室からは、廊下が桟のように覗かれる。そのあたりからもみじ葉越しに、駒鳥が囀るような、芸妓らしい女の声がしたのであったが――
それから、入れ替わって、お歯黒をした、陰気な大年増が襖際へ来て、火鉢に炭を継ぎ、茶道具を揃えて、銀瓶(*2)を掛けた。そこは水屋のような造りになっていて、銀瓶は可いけれども、そこから大廊下との出入り口に立てたのが例の金屏風。すなわち玄宗と楊貴妃である。……次にまた浴衣に広袖を重ねて持ってきた婦は、と見ると、赤ら顔で、丸々と肥った乳母どんである。大縞のねんね子半纏に、四つくらいの男の児を負ぶり、どしりと絨毯に、坊主頭ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児の顔を客の方へ揉み出して、
「それ、小父さんに『今日は』をなさい」と、顔と一緒に引傾げた。
学士が驚いた――客は京都の某大学の仏語の教授で、榊三吉という学者なのだが、無心の小児に向かっては、盗賊もあやすと言うくらいだから……教授でも学者でも同じことで、これには莞爾々々として、
「はい、今日は」と言った。この調子で、薄暗い広間には、思ってもみないものが現れるから、女中も一々どれが何だか、一向にまとまりがつかなかったのである。
昼飯の支度は、この乳母どのに頼んで、それから浴室へ下りて一浴した。……なるほど、屋の内は大がかりな工事らしい。大工や左官があちこちを、真っ昼間から夜討ちのように忙しなく働く。……手斧、鋸、金槌の賑やかな音。また遠く離れて、トントントントンと俎を打つのが、ひっそりと聞こえて谺する。……と、ご馳走に鶫を叩いているな、と、さもしい話だが、金沢の四高にしばらく居たことがあって、土地の旬のものには予備知識のある学者なので、内々ご馳走を期待しながら、門から敷石を細く引き込んだもとの大玄関を横に抜けた。広い廊下を渡り、一段ぐっと高く上ると、座敷の入り口に、まさしく『上段の間』と札に記してある。で、金屏風の背後から謹んで座敷へ帰り、上段の室の客としてはちと不釣り合いな格好で、脇息を横倒しに枕にして、ごろんと横になった。火鉢の火が、もみじを焚いたように赫と赤く、銀瓶の湯気が、すらすらと楊貴妃を霞ませる。枕許に湯の煮えたぎる音を快く聞きながら、しばらくは理屈も学問もなくなった。が、ふと、昼飯の膳に、銚子を一本添えさせるのを言い忘れたのに気づいて、そこで起上った。
けれど、どこを探しても呼び鈴が見当たらない。
二、三度手を叩いてみたが――これは初めから見込みがなかった。勝手の場所が大分遠い。で、座敷の入り口に出て、叩いて、叩きながら廊下をまた一段下りた。
「……参ったな」
まったく応じる者がいなかったのである。
だいたいにおいて、山代の温泉のこの近江屋は、大まかで、何かにつけ、おっとりとしていて、今風とは違い、余りに商売に焦らない旅館なのだと聞いて、大いにうれしくなって来たのであるが、これでは余りにも大まか過ぎる。
どこか、蕈に酔った坊さんが、山奥から里へ迷い出たといった風で、手を叩き、叩き、例の玄関の所へ出て、これなら聞こえるだろうと、また手を叩こうとする足許へ、衝立の陰から、ちょろり出たのは、今したが乳母どのに負ぶわれていた男の児で、人なつッこく顔を見て莞爾々々する。
いやはや、この坊やの鼻尖で、ポンポンと手を叩くのは出来ることではない。
仕方なく、笑って見せて、すごすごと座敷へ戻って、
「諦めるか……」
で、仕方なく、金屏風の前へ畏まって、急須に銀瓶の湯を注ぎ、茶でも一杯と思った時、あの小児にしてはと思う、大きな足音が響いたので、顔を出して、向こうを見ると、小児と一緒に玄関先で、ひょいひょい跳ねている女がいた。
「おぉい、姉さん、姉さん」呼べば、どかどかと来て、
「旦那さんか、呼んだか」
「ああ、呼んだよ」と、息を吐いて、
「どうにかしてくれ。――どこを探しても呼び鈴はなし、手を叩いても聞こえないし、――弱ったよ」
「あれ」
と、首も肩も、客を圧して、突っ込むように入って来て、
「こんな大い内で、手を叩いたって何が聞こえるかね。電話があるでねぇか。それでお帳場を呼びなさいよ」
「どこにある?」
「そら、そこにあるがね、見えねぇかね」
と、客の前を、遠慮も何もなく、突然座敷へ飛び込んで、突っ立ったまま指したのは、床の間傍の櫺子に据えた黒檀の机の上の立派な卓上電話であった。
「ああ、それかい」
「これだぁね」
「私はまた本当の電話かと思っていた」
「おお」と、目を丸くして、きょろりと見て、
「ほんとの電話ですがね。どこか間違ったとこでもあるのかよ」
「いや、相済まん、……間違ったのは私の方だ。――なるほど、これで呼ぶんだな。――分かりました」
「立派な仕掛けだろがねぇ」
「立派な仕掛けだ」
「北国一だろ」
――それ、そこでそう言って、ひょいひょいと浮き足で出て行くところを、背後から呼んで、銚子を一本頼んだ。
「可いのを頼むよ」
と、追いかけるように言うと、
「分かった、分かった」
と、振り向きざま、掌を握り拳で叩いて、合点々々をして、
「北国一」
と、屏風の陰で腰を振って、ひょいと出た。
――話を最初に戻して――その『北国一』を、ここでまた聞いたのであった。
*1 上段の間……高貴な人を迎えるための場所で、下段の間に続いて、床が一段高くなっている部屋。
*2 銀瓶……銀製の薬罐。
この物語は、内容的に現在と少し前の話が行きつ戻りつして進行します。
初回でもそうですが、次回以降も、話が前後することも多いので、注意が必要です。馴れてしまえば、どうということもないのでしょうが、当時は「随分と読み悪いものだ」と酷評されたこともあるようです。
なお、「みさご……鶚」というのは鳥の名。英語で「オスプレイ Osprey」。例の軍用機の名前にもなっているものです。
「みさごの鮨」という題名については、鏡花研究の第一人者である松村定孝氏によれば、
「鶚が岩陰などに貯えておく魚類に潮水がかかって自然に鮨の味となったものをいう。鮨にあらざるものが鮨に似るというたとえ……略」と解説されていいますが、ここでは、これ以上は書きません。
その意味は最後の結末で、何となく明らかになります。