武士の死
秋の頃、甲斐の国から遥々博多の戦いに参加するため参上した図体と比例していないはた目から見ればただただ、みすぼらしい見栄えばかり立派な甲冑と位に会っていないの刀を身に着けた十八ほどの若い武士は鎌倉の本陣が置かれたという小高い丘に立つこの武士と同じような外見の寺社の正門から灰色の荒廃した博多の町を見た武士は愕然とした。
貿易で栄えていたあの博多の町が滅ぶ。これがとてつもなく万人にとってそして武士にとっても気味の悪いものだったのである。
また、更に晴々とした空と日本海の波の青、これらの凛とした美しい自然とこの博多の町の灰色の荒廃とが色彩的に対極的であり、その衝撃がこの若い武士の心のスクリーンにこの者の感じた所謂、虚無感を色鮮やかに鮮明に映写した。
そして、武士はこの複雑な情景を見て「戦いに参加しなくてよかった」という感情が心の隅の隅で胎動し始めたのだ。
だが、この若い武士にはこの感情が生まれてはいけないものだと確信していた。蒙古との戦いに参加するために鬼神の如く死の覚悟を決めて遥々甲斐の国から博多までやってきたのにも拘らず、この憎くも心に産み落とされてしまった臆病とも言える感情はこの者にとっては蒙古と同じように憎むべき敵であったからである。また、それは武士にとってあり得ない感情でもあったからである。
こうして、この若い武士の中には他人から理解できないであろう矛盾を抱えてしまった。
この矛盾に対し深い葛藤している中、枝垂れ柳の落ち葉を先日の戦いを思わせないほどゆったりとした動きで掃除をしていた痩せ細った紫色の法衣を着た猿のような体の小さい衰えた住職がその細く鳥のような、しかし鳥ほどのハリもない弱々しい喉から出たしわがれた声で話しかけた。
「おい、そこの若い侍さん何をしてなさるのだ」
この問いはこの武士の心を苛立たせた。なぜなら、この武士にとっては自分の目的が終わっておりここまで遠路遥々来た苦労が全て水泡に帰したことを再確認させられたからである。それに加えて、鬼神のような覚悟を決めていた自分とは驚くほど正反対なこの住職の安堵が自分と周りとの矛盾が決定的であることをありありと示されたからである。
しかし、話しかけられたからには、(しかもまだ色濃く年上を敬う風習が残っている時代だったこともあるため)何か言葉を返さなければならないのでこの者は心の苛立ちと葛藤を深層上の岩戸に隠し、穏やかな声で返答した。
「いえ、ただ蒙古と戦うために甲斐の国からやってきたのですよ。しかしもう戦いが終わってしまっていたのでここで少し戦場となった町を傍観していたのですよ」
「なるほど、道理で出陣前の武士の身のこなししていたのじゃな。だけど良かったな戦いに参加しなくて。なんせ敵は訳の分からない爆破する玉を使ったりして、鎌倉の軍は蒙古の軍に連敗していったからな」
この返答を聞いてこの者は驚愕した。何せあの伊勢平家一門と奥州藤原氏を滅亡させた一族の末裔がまさか敗北するとは思ってもいなかったからである。
だが、何処かにこの事実を認めたくない気持ちも同居した。あの大和の民の軍勢が海の向こうから渡ってきた民族に負けるわけが無いという一種のナショナリズム的な観点から来るものがこの気持ちを生み出したのだ。
なのでこの若い侍は隠していた苛立ちを大々的に表面上に出し、さっきまでの態度とは真逆な怒気をはらませた声でこの住職を問い質した。
「おい、住職それは事実であるか!何か証拠はあるのか!」
「おやおや若い人よ事実を認めたくない気持ちは分かる、しかしな今この目の前に広がっている景色こそが証拠ぞよ。何せ古今東西どんな負けた国の町は犯され滅せられるのが常だからな。」
「では、なぜ今ここに蒙古の軍が居ないのだ!」
「それはな、その戦いの夜に大きな台風が来たからじゃよ。」
この住職の答えには正当性があった。百万の敵を恐れないかのローマ帝国を脅かしたカルタゴという国が現にそうであったということと人類は今までたったの一度も自然に勝てたという事実が無いからである。
しかし、この冷静な理性を確かに持った返答を聞いてもこの者にはその事実が信じられなかった。それはこの者がその時物事を理解できる心の平穏が保てていなかったというものと、この住職の見てくれを馬鹿にしていたせいでもあった。
このときこの住職はこのまだ未来のある若者を見て「哀れなり」と思った。
その問答から、1分くらいの間が空き唐突に若者は叫んだ。その叫びはまた住職には到底叶えようのない願望を含んだものだと感じた。
「ならば、俺がこの目で見てくる!見ればわかる、本当に負けたということを!」
そう叫ぶとこの若者は一心不乱に丘を駆け下り焦土と化した博多の町へ向かった。
「ああ。哀れなり」
そうして、この若者が町に着くとその光景は遠目から見るよりもより悲惨なものだった。路上にはまだ湿り気のある片腕のない若い男の遺骸やよく見えないが、いや正確に言うとこの若者が目をそらしただけなので見えていないというには語弊があるが、実際にはこの世の残酷をすべて表した傷の付いたような裸の女とも子供とも捉えられる死体がそこらじゅうに転がっていた。西からは死体を焼いた時に発生する嫌な臭いを含む煙、それに加え遺骸には蠅がたかっていた、それもこれもこの残酷で惨めな光景を鮮明に映した。
だが、この光景の中にもある一筋のこの若者が望んだ願望を孕んだおぼろげな光が差していた。その光とは生存者の事である。これはこの光景に対する唯一の反逆である他ないとこの若者は感じた。
そうして若者はあの煙がもくもくと絶えず、滞りなく吹いている西の方向から俯きながらとぼとぼやってきてた、自分よりも頭一つ身長の高く図体の良い筋肉質のよく焼けた肌と山椒魚のような顔つきのひどく汚れた着物を身に着けた男に今の博多の町の現状を尋ねた。
「すいません、いったいどれほどの被害があったのですか」
「なんだ、侍じゃねえか何を今さらそんなに着込んで何しに来てんだ。何、被害がどんなもんかってか、そいつは見ての通りさ。壊滅的って言うのがいい塩梅だ」
この男は自分もつらいはずなのにも拘らず、無理に笑顔を作り爽やかな声で答えてくれた。この気丈な返答はこの若者の願望を含んでいるものであったためこの者の心のどよめきを少し落ち着かせた。
しかし、同時に以下のようなことを思った。
ああ、何ということかこれは事実だったのだと確信した。
私は何と愚かだったのか。
こんなところに来るんじゃなかった。
戦いに参加しなくてよかった。
心底そう思う。
ああ、何とむなしい。
ひたすらに悔しい。
哀れにも最初に感じたあの矛盾は、感じてはいけないほうに傾いたのだ。
ここに武士は死んだ。
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