灰に謳うミグランテス
その日も、変わらずエディスは目を覚ました。
いつものように周囲を見回し、異常が無いことを確かめると、体を横たえていた組木細工のようなベッドから出る。パソコン端末の置かれた机を通過し、台所へと向かった。
歩くたびに軋む床板の音が響くそこは、木造の家屋の中。薄暗く、ぬるい気温の部屋の中で、エディスは体を伸ばし、格闘技のような動きを行なうストレッチをこなした。腕の曲げ伸ばし、拳を握る指の曲げ伸ばし、それを柔軟に支える胴や足回りの動き、全てに問題ないことを確かめていく。当然、それを主導する頭脳の働きにも。
「さて…」
その後、彼女は取って付けたような水回りで顔を洗い、保存庫から密封パック詰めされたパンに見える食料を二個取り出す。一つを食べ、もう一つは外出用と見られる頑丈そうな作りのバッグに入れた。ついで金属製の水筒を取り出して同じようにバッグに入れる。
「これで良し」
今度は近くに置かれていた長袖、長裾の衣服を確認して纏い始める。全て洒落気の無いデザインで、丈夫な生地で作られていることが一目で分かるようになっている。
「下着よし。上着よし。ズボンよし…」
最後にバッグから拳銃とサバイバルナイフを取り出し、いつでも使えるよう所定の位置に差し込み、吊った。
「よし、行こう」
全てを確認し終えたエディスは、玄関から外へと出ていく。
自宅を構えている森を、いつも使っている山道の一つを通って抜けていく。ただ、道は半ば獣道と化しており、時たま草や蔦を払わなければまともに進めない所もあったが、身を隠しつつ進むという目的を同時に果たすことが出来る環境は、彼女にとっては絶好の条件と言えた。
(誰も居ない、と。問題なさそうだ)
途中、脇道に成人男性のようなものが倒れていたが、エディスは障害物を退けるが如く、その動かない人間を藪の中に運ぶと、それ以後は無視して先へと進んでいった。
しばらく進んで森を抜けると、元々公園だったことが分かる広場へと出た。錆びた遊具や、草に囲まれた休憩所、公共トイレの家屋が放置されている。さらに木々を切り開いて人工的に眺望を好くした場所には展望台が設置され、景色を一望することが出来るようになっていた。
「少し見ておこうか。状況確認も兼ねて」
展望台の階段を上がり、設置されている遠望鏡を覗いた。幸いにもレンズは曇っておらず、視界の拡大に何の支障もないようだった。
ただ、見える景色は、人々の姿を殆ど失った街ばかり。当然、道行く人の姿は疎らで、認めるだけの光景では建物だけが健全な状態。もはや街の体を為していない有様だった。
遠く街の外を見れば、そこには機械的な機能を果たす壁が築かれており、そこに向かう僅かな人間たちを遮っているように見える。
時たま、街中で人間が、体躯に優れた四足歩行のオオカミのような生物に襲われている光景が見える。しかし、それを助けようとする人間はいない。その場に居合わせても、目をそらし、すぐさまその場を去っていく。
仮に襲う側が獣から人間に変わっても、それは変わらない。老若男女とも為すままに蹂躙し、為されるままに蹂躙されていく。
「見える景色はいつも通り、と」
特に何かの感慨を口にするでもなく、至って平常の事であると言わんばかりに、遠望鏡での観察を続けた。そして、一つの建物が見えたところで動きを止めた。
「お、あれかな?」
そこでいったん遠望鏡から離れ、バッグの中に入れてあったプラスチック製ファイルを取り出し、中に入っている紙束の中から、一枚の紙きれを見た。
(間違いない。最後の仕事は、あのビルまでね。取り敢えず行ってみようか)
もう一度だけ遠望鏡で建物の位置と目印となる物を確認すると、エディスはすぐにその場を離れた。
山道を抜け、街に入ると、ものの十数分で襲撃を受けた。
最初は男一人が遠巻きから見て尾行するだけだったが、直ぐに鉄パイプやスポーツ用プロテクターで武装した他の三人と合流。行く手を塞ぐように姿を現した。
敵対者は武装した若年の男四人。そして、近くの物陰から妖しい笑みを浮かべて見ている成人女性が一人。成人女性の方は明確な敵対行為をしているわけではないが、状況や様子から見て、恐らく男四人を統制しているものと考えられた。
「へへ…。わりぃな、おネエちゃん。そいつ置いて行ってもらおうか」
「ついでに、俺たちについて来てもらうぜ。聞かなかったら、分かってんだろうなぁ?」
つまらない悪漢に、お定まりの台詞。まるでディストピア映画のようだ。
「おいおい見ろよ。こいつ滅茶苦茶美人だぜ?ヒョー!堪んねぇ!」
一人がそう言って、じりじりと近付いてくる。まさにテンプレートのようなやり取りだ。
どこからか悲鳴が聞こえる。声は若い女性の物。
「聞こえただろぅ?言う事聞かないと、あの悲鳴の女みたいになるぜぇ…?けけけ」
眩暈がしそうなほどに完璧なお膳立てだと、エディスは胸中でため息を吐いた。
もしもこれが映画のオーディションや撮影なら、その迫真の演技と迫力で、文句なく合格点が貰えるだろう。
だがこれは映画ではない。殴られれば怪我をするし、下手を打てば死ぬよりも辛い傷を負う。この街は、いわばそう言う場所だ。
「やれやれ…」
エディスはそう言い、バッグを道路上に置いた。
それならば、取るべき行動、用いるべき手段は一つ。
「お?そう来なくっちゃなぁ。素直なのは良い事だ、へへ」
悪漢の一人。エディスから一番近い場所に居た、下卑た笑みを浮かべた若い男が、エディスの置いたバッグに歩み寄り、手を伸ばそうとした。
その時だった。
「響鳴機関、戦闘駆動…」
ぼそりと事務的に、エディスが呟いた。
「あん?ネエちゃん、何か言ったか?」
その呟きに、手を伸ばそうとした男の動きが止まる。その次の瞬間だった。
「へ!?」
甲高い音が鳴ると共に、男の視界からエディスの姿が消え、直後の刹那。
鉄パイプを持っていた腕に激痛が走ったかと思えば、今度は視界が上下逆さまに反転し、男は思い切り背中から路面に叩きつけられたのだ。
「が…ぁ!?」
空気が絞り出されるような悲鳴を上げた男は、突然の痛みに目を白黒させながらも、それでも状況を把握しようと、出来る限りの身動きで周囲を確認する。
目線を動かすたびに、打撃音と鉄パイプが転がる音が聞こえ、直後に路面に何かを叩きつける音と、無理矢理息を吐き出させたようなくぐもった悲鳴とがセットで聞こえる。
そうして、事態にようやく視線が追いついた男は、驚愕の光景を目の当たりにする。
一体何をどうすればそう出来るようになるのか。エディスが、鋭い体捌きで一気に男の懐に潜り込み、拳でもって、鉄パイプを持った腕を一撃で使用不能にすると、間髪入れずに、足払いからの一本背負いを決めていた。
男にとっては、まさに一瞬の出来事だった。そして、自分と同じように無残に地面に転がっている仲間達を見て、男は、最初のエディスの呟きの意味を理解する。
「お…おま…へ…!」
しかし、受けた衝撃によってまともな発声が出来なくなっていた男は、得られた確信について言葉にすることは出来なかった。
「まあ、今は“イミタティオ”の直接的な殺傷は制限されているからね。そこで寝てると良いよ。それじゃあ」
エディスは、深刻な表情を浮かべている男や、痛みで呻き続ける男たちに興味を示すこともなく、バッグを拾ってさっさとその場を立ち去ってしまった。その様子を驚愕の目で見ていた女性には一瞥と。
「精が出ることで。まあ、せいぜい王国作りに勤しんでおくれ。君は、そう言う機能を持った“イミタティオ”なんだろうから」
そのような言葉を残し、それ以上は興味を失ったのか、さっさと立ち去ってしまった。
それからもエディスは、数えられる程度の回数、襲撃を受けた。人間からもだが、先ほど遠望鏡で見た四足歩行のオオカミのような獣にも襲われた。
それは黒く塗りつぶされた影のような姿をしており、頭に当たる部分には赤い目玉のようなものが二つ、ぎらつく様に煌めいている。唸り声はノイズの混ざったスピーカーから聞こえるように濁っている。 その能力は、体躯の形状の通りに俊敏で、生身の人間ではまともに相手どれないほどの膂力をも備えていた。
しかし、エディスにとっては、獣の能力の高さなど、然したる問題ではなかった。
むしろ先ほどの悪漢を相手にする時よりも、放つ拳に、蹴りに、鋭さがこもっていた。
力任せに獣が飛び掛かれば、エディスはそれを脚運びでいなして、そのまま蹴りに繋ぐ。獣が爪で剛撃を繰り出せば、彼女は無駄の無い体捌きを駆使して受け流し、隙があると見るや懐に入り込み、顔面や腹部に拳や蹴りを叩き込む。
それら一撃が命中するたびに甲高くも心地いい炸裂音が響き、その都度、黒い獣は大きく後退し、何か黒ずんだ液体を吐き出し、それを数度の繰り返し、最後には耐えきれず大地に沈んだ。
何度襲撃されようとも流れは変わらず、それが人であれば、性別を問わずに相応に加減を加えた打撃と投げで、黒い獣であれば欠片の容赦もない重く鋭い拳と蹴りの連撃で、それぞれ大地に沈めた。
「まあ、こんなものかな。結局、ナイフも銃も、飾りのままだったか」
目的地のビルに到着し、中へ入る。突き当りの階段を上り、三階へ。
そのビルは、外観は傷付いていたが中は綺麗で、空気が多少埃っぽいことを除けば、表の阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、平常で静寂に包まれていた。
「まあ、何が平常かなんて、私に言えたことでもないけど」
こつこつと階段を上り、三階にたどり着く。そこは他の階とは違って清廉とした清浄な空気に包まれており、まるで隔絶されて存在しているようだった。もしも外から訪れたなら尻込みしてしまう程に。
「さて、と…」
しかし、エディスは迷う事も躊躇することも無く一歩を踏み出し、廊下のちょうど真ん中あたりにあるドアの前で足を止めた。そして、やはり躊躇することもなくドアを開けて中に入った。
そこは、一組の応接用具と、パソコンの備えられた二人分の仕事机、そして間仕切りに囲まれた空間が置かれているだけの部屋だった。
それら、今この時のだけのために在るような佇まいを見せる調度品の中に、一人の白衣の女性が座っている。彼女もまた、今この時、ここに在るべくして在るような、他を圧倒する存在感を持って座っており、部屋に入ってきたエディスを、余裕を湛えた淑女然とした笑顔で迎えた。
エディスは特に何の感慨も無さそうにそれを見やる。
「やあ、デボラ」
それは挨拶にしても同じことだった。
「お帰り、エディス。こうして会うのは一年振りくらいかしら」
「そう?まあ、どうでも良い事だね。そこに在るか無いか。それだけ」
親し気に語り掛けるデボラに素っ気なく返すと、エディスは鞄からプラスチック製のファイルを取り出し、デボラの居る机の上に置いた。
「もう、相変わらずなんだから。それで、これが今回の報告書ね。ご苦労様」
ファイルを開けて、紙束を取り出すと、パラパラとめくって内容を確認していく。
「どうだったかしら?このコロニーは」
その途中、目線を紙束から外すことなく、デボラはエディスに何かの感想を問う。受けたエディスは、初めからそれが分かっていたかのように、リラックスした様子で間仕切りの向こう側へと入ると、そこに有ったロッカーを開けた後、衣服を脱ぎ始めた。
「相変わらず。多少の教育を与えて放置すればどうなるかの、見本市みたいだった。ただ、例の“王位”のパルスを付与したイミタティオは、きちんとその機能を発揮して、男たちや女たちを、好みに応じて侍らせていたみたいだけど。私も何回か襲われた」
上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を取り、代わりに、ロッカーの中に入っている、今までの物とは質感が明らかに違う衣服を取り出す。
「一部は、与えられたパルスの影響がマイナスに振れて、ノイズ(ケダモノ)になってしまったイミタティオも居たみたいだけど…」
袖を通し、足を通していく。着ていくと、それは上下一体型のボディスーツのような外観を持つ物であることが分かる。ぴったりとエディスの肌に適応し、その異常に均整の取れた、人間離れしたプロポーションを、服を纏っていても分かるほどに浮かび上がらせた。
「総合して考えるに。今回の実験は三分の一成功、三分の二失敗と言うところ」
着替え終わり、エディスは間仕切りの中から出る。
「そう。なるほどね。なら、ここに居る連中はもうイミタティオ(模倣品)ではないわね。さしずめダムナール(出来損ない)と言ったところ。エデン(第四都市)での人心教育は完璧だったはずだけど、まだ改善の余地ありのようね。ふふふ…」
エディスの感想を聞き、デボラは楽しくて仕方ないというふうに、妖し気に、冷酷に、笑みを浮かべている。
「より完璧に、あの方の偉容に近づけるよう。あの方の崇高な理念の実現のために。シャングリラ(第二都市)やエル・ドラド(第一都市)の連中よりも早く」
そこまで呟いて。
「あら?服、着替えたのね」
ようやくエディスの変化に気が付いたデボラは、嬉しそうに目を細めた。
「こっちの方が動きやすいし、銃やナイフで偽装する必要もないから、楽だからね」
「ええ、ええ。そっちの方が似合ってる。何より美しい。貴方、やっぱり美しいわ。これは造形美、と言えばいいのかしら?流石はV型のマスターモデル、E型よね」
着替えたエディスの姿に、デボラは足元から顔に至るまでをゆっくりと愛でるように見ると、満足そうに頷いた。
「そう?まあ、どうでも良いことだね。動きやすい体で感謝はしているけれど。それに君も、D型のマスターモデルだろうに」
対するエディスは、やはり素っ気なく返すと、先ほどまで持っていた鞄を持ち、再び間仕切りのある所まで戻っていった。
「ふふふ…。あの方の寵愛の元に、この世界を再興するために与えられた全てを使う。貴方もそうでしょう?エディス。私と同じように」
「同じように、かはともかく。かつての世界を復興させようという願いは、似たようなものだね。それよりも、次の目的地は?」
間仕切りの中から戻ったエディスは、鞄を応接用のソファに載せ、自分も隣に座った。
「気が早いのね。少し休んでもいいのに…。ふふ、そんな貴方も素敵だけど。さて、次の目的地は」
そう言うと、デボラは席を立ち、プラスチック製のファイルに収めた紙束を応接用のテーブルに並べる。
「覚えてる?最初のころに生み出した“王位”のパルスを付与したイミタティオ。そいつらが皇帝を称して、コロニー内部で覇権争いを始めたみたい。それを調査。愚行を繰り返すようなら、これを叩き潰して資料を収集する。簡単でしょう?」
そう言って、デボラはさして面白くも無さそうに笑う。
エディスもまた、自嘲的に、笑みを浮かべた。
「なるほど。次は破壊者として、渡り鳥は飛ぶというわけか。渡ってきたのが黙示録を呼ぶ凶鳥とは、思いもしないだろう」
「ええ。でもその先に、輝かしい未来への道がある。これも、そのための犠牲で、礎よ。躊躇いも容赦も要らないわ」
「それもそうだ。さて、と…」
エディスはファイルを受けとって立ち上がり、鞄を背負う。
「先に装甲輸送車のところに行っておくよ。後片付けは宜しく」
「もちろん。それじゃあ、また後で」
それだけ言葉を交わすと、互いに背を向けて行動を開始した。エディスは外へ。デボラはパソコンの前へ。
「人類に、栄光の時代の再興を…。ふふ…ふふふ…」
画面に向けて資料を纏めるデボラの目には、昏い歓喜が宿っていたが、それに気が付く者は、今この場にはいなかった。