第5話:俺と若竜
どこまでも澄んで高い群青の空。
昔の俺であれば、たまの休日にただただ死んだ目で見上げるしかなかった場所だが今は違う。
と、言うことであいきゃんふらーいでございます。
草原の柔らかな土を、太く立派になった後ろ足のかぎ爪でしっかりと捉える。そして、かけ出す。四足獣のスプリント。全身についたしなやかな筋肉は、ものの二、三秒で地上での最高速をたたき出す。
このタイミングでこれまた立派に育った一対の大翼の出番だった。推力が揚力に代わる実感。翼が風をとらえた。
さて、テイクオフの瞬間だ。
にわかに感じる衝撃は上昇の快感に等しい。視界も急激に上昇し、山並みの高さが目に見えて低くなっていく。
そんな感じで私は鳥になったのでした。いや、ドラゴンなんだけどね。しかしまさかね、子供の頃の無邪気な夢がここにきて叶うことになるとは。
あの頃の俺に教えてやりたいものだ。お前は過労死で死んだ挙げ句、ドラゴンになって空を飛ぶことになるぞって。うん、不審者扱いされるだけだね。そんな機会があっても黙っておきましょうか、えぇ。
とにもかくにも、俺はドラゴンとして立派に成長したのでした……娘さんに一度も会うことの無いままに。
「はっはっは! やはりドラゴンは飛んでこそだな! さすがは空の王者だ!」
地上に降りた俺を笑い声と共に迎えてくれたのは金髪を風にゆらすナイスミドル。何を隠そう娘さんの親父さんだ。
娘さんがいなくなって、おそらく二年ぐらいだろうか。その間、俺たちの世話をつきっきりで見てくれたのがこの親父さんである。娘さんに負けず劣らずの愛情を注いでくれて、俺としては非常に親しみを覚える人物ではあるのだが、先ほどの発言には少しばかり異論があったりするのだった。
空の王者はやっぱり鳥だと思いますよ、うん。飛ぶのめっちゃ疲れますし。エネルギーを浪費してる感がはんぱない。先ほどは気分が乗ったので飛び立ってみたものの、出来れば地上でのそのそしていたいのが本音である。
アルバなんて、本当その権化だしね。
ここは森の一部を焼き払った、牛の放牧地をかねての草原だったりする。その一角で、呆れるほどにすくすくと育ったアルバは、初夏の陽気の下とぐろを巻いて寝息を立てている。
飛び立つ気配なんて全くないし、そもそも歩いている姿すらあまり見たことが無いような気も。一応今は俺たちの放牧タイムと言うか運動タイムなのだが、アルバにおいてその意味がはたされたことはあったかどうか。
ちなみに、もう一方の赤い方は飛ぶことがけっこう好きだったりする。いや、失敬。飛ぶのが好きでは無かった。好きなことをするためによく飛んだりするのである。
で、その赤い方……ラナも立派なドラゴンに成長していた。感性も育ってきたようで、今は鼻先をかすめる蝶々に目を奪われたりしている。ラナもようやく、蝶々の愛らしさだったりを愛でる成熟した感性を持ち合わせるようになったのだ。
まぁ、嘘ですけど。だって、ドラゴンだし。蝶々を愛でるなんて人間っぽい感性はとてもとても。おおかた、飛びつきたいけど、それにしては小さすぎるなんて考えているに違いない。正直、ラナの精神性は大して成長していないような気がしてなりません。
『なに?』
思わず視界に入れていたところに、目ざとく反応してきやがった。体同様に赤い瞳が俺をとらえてくる。俺はすかさずラナから目を離した。
『いえ別に。そのまま遊んでいて頂ければ』
そそくさと俺はラナから離れようとするが、ラナは俺の進行方向にするりと回り込んできた。あ、いつもの展開だ、これ。
『まったく仕方ないやつね、アンタ』
呆れたようにラナは目を細くする。いつもの展開ではあるが、一応俺はあらがってみることにする。
『いや何のことだかサッパリなんだけど。俺寝たいから行くね』
もう一度離れようとするが、やはり回り込まれる。まぁね、こうなると思ってたけどね。
『本当どうしようもないやつね、アンタ』
再びの呆れたようなセリフ。そして、続く言葉はと言えば。
『そんなに私と遊びたいわけ? 仕方ないなぁ……じゃあ付き合ってあげる』
俺が一度としてそんなことを君にお願いしたことがあったでしょうか?
不条理感がはんぱないが、ここで抗議していたら俺の身が危ない。急いでかけ出す準備をする。ラナの口からはチラリと赤い光がもれているのだ。ドラゴンブレス。二年の月日はラナの遊びを凄惨なものに変えてしまった。
駆け出す。と言うか、逃げ出す。俺はラナに対して相変わらず受け身だった。俺もドラゴンブレスのたぐいは吐けるようになったが、それを他のドラゴンにぶつけるのは何かこう気が引けるようなところがありまして。なのでこう、駆け出して空に逃げるしかないのであります。
『逃げるなっ! 受けろっ!』
おうおう、無茶を言いなさる。爆発する赤い炎を背にして、俺は大空への逃避を開始するのだった。
「はっはっは! 闘志のある良いドラゴンだ! 思い切ってやってこい! あっはっはっは!」
親父さんの喜びの声が耳に届いたが、あのー、出来れば仲裁して頂けませんかね? なんかもう、本当にこう……娘さんのこと恋しいなぁ、うん。
娘さんはいつか帰ってくる。そのことは分かっているのだが。
楽しい時間(ラナ視点)はあっと言う間に終わりまして、帰宅の時間でございます。親父さんに先導されて、俺たちは自らの寝床への道を歩いていく。
その道中を俺は物思いにふけりながら過ごすのでした。
お題はと言えば、娘さんがいつ帰ってくるのか。そのことだけである。
この二年でそれなりに分かったことがあった。一つ大きなこととしては俺たちは食肉用として育てられているわけではないこと。騎竜とでも言うのだろうか。魔王的なものと戦わされるのか、それとも競走馬的な使われ方をされるのかはいまいち判然としないが、とにかく乗り物として利用されるらしかった。
で、これが娘さんに関して大きなことだが、娘さんは俺たちを乗りこなすための修行に出ているらしいのだ。
なので、いつかは帰ってくる。これは間違いない。だが、これ以上のことはさっぱり。悲しいかな俺はドラゴンなのだ。尋ねることも出来なければ、親父さんやらその周囲の人たちの会話を盗み聞くしかない。そして、なかなか俺の欲しい情報は手に入らなかったりする。
と言うことで、俺はこのいつもの道中をいつものごとくため息で湿らせながら歩くのでした、はぁ。
そんなこんなで我が家へ到着。低い柵の中で育てられていたのも今は昔。牛舎と言うか、きゅう舎と言うか。頭が出せる大きな小屋的なものの中で、一体ずつ育てられたりしてます。
んで、親父さんに導かれるままに入りまして、あぁ、我が家だ。狭いながらも貴重なプライベートスペース。やっぱりここが一番落ち着くなぁ……って、なれば良かったなぁ。
そのー、ね? 小屋は三つ並んで立っているわけです。で、俺の住処はその真ん中。理由はと言えば、ラナとアルバの間に距離を置くため。好戦的なラナと巨漢のアルバだ。何かがあればただごとではすまない。だから終始大人しい俺が真ん中なのである。ラナの好戦性を独り占め出来るわけだ。ふっふふーん、地獄だよ? うん。
『ひま』
ラナの呟き。早速地獄の先触れである。あれだけ遊んでやってもまだ足りないと申すか。
ため息がどうにも止まらない。本当、生きていて楽しいことがまるで無いような気がする。癒しだ。本当癒しが欲しい。娘さん。貴女はいつ帰って来て頂けるのでしょうか?
「ラウ様っ!」
突如の叫び声が俺を憂鬱な物思いから引き離す。はて? 俺は声の方へと顔を向ける。
髭面のおじさんが駆け寄ってくる。そんなぱっと見の絵面。あー、えーと、誰だっけなぁ? 見た覚えがあるような、無いような。とりあえず親父さんの知り合いなのは間違いないだろうけど。ラウ様のラウって、親父さんの苗字だし。
「どうした? 何かあったか?」
親父さんの目つきがにわかに鋭くなる。そう言えば、親父さんってここら近辺の領主的な人だとか。領地になんぞ問題があったのかと警戒しているのかもしれなかったが、やってくるおじさんの表情を見るとどうにもそんな感じはないような。
「連絡がございました」
髭面のおじさんがニコニコしながらそんなことを言った。親父さんは不審そうな目をして首をひねる。
「分からん。連絡? 誰からで何の連絡だ? はっきりさせるがいい」
まさにそれは俺の疑問でもあった。何を思ったのか、髭面のおじさんは「おっと」などと漏らしつつ「がはは」と笑い声を上げる。
「申し訳ございません。つい浮かれてしまったようで」
「浮かれる? どうした一体?」
「サーリャ様の修行先より使いの者が参りましてな。お帰りになられるそうです。修行がひと段落されたそうで」
ん? だった。
俺はなんとなく話に耳をかたむけていただけだった。だが、なんとなくで耳にして良かったのかどうか。恐ろしく重要なことを耳にしたような気がするのだが。
「ははは! そうか! サーリャが帰ってくるか! ちょうどいい。ドラゴンたちも良く育ってきた頃だ。サーリャがいよいよ、あのドラゴンたちを乗りこなすのか……うむ」
親父さんはご満悦のご様子。俺たちドラゴンを眺めながら、満足そうに頷いていたりするのだが、いや、それはともかくとして、だ。
本当なのだろうか? 願い続けたからこそ信じがたい。そんな夢のようなことが起こるわけが無いと疑いたくなる。だが、親父さんとひげ面のおじさんの会話からは、そう理解することしか出来なくて……
これは喜んでいいんだよな? そうだよな?
娘さんがいよいよ帰ってくる。