第1話:俺と、血の匂い
目が覚めました。
と言いますか、目が覚めてしまったという感じですが。
けっこう気持ちよく寝入っていたのですがね。ちょっとボケーとしながら、竜舎の木目の天井を見つめまして。で、とぐろを巻いたままに、首だけを伸ばしてみたりしまして。
なんかね、聞こえたような気がしたのです。
それで思わず眠気を削がれてしまったのですが……はてさて?
『……なんか音しなかった?』
誰へともなく尋ねかけます。
まず反応してくれたのはラナでした。首を伸ばして、俺の竜舎の房を覗き込みながらに答えてくれました。
『した。なんて言うかな。ボーンみたいな?」
ボーン?
それはまた、妙な音がしたものですが。
『私も聞いたかな。ボーン。けっこうでかかった』
次に答えてくれたのだがサーバスさんでした。不思議そうに首を傾げながらの返答でして。そりゃまぁねー。そんな音、ここでの日常で一度も耳にしたことが無いはずで。
『……あー、アレじゃないか?』
今度はアルバでした。
こちらも寝入っていたようですが、不意の異音に目を覚ますことになったようで。眠たそうな声で、俺に応じてくれたのでした。
『いつもの寝床でも聞いたし、変な森でも聞いた気がする。ほら、あの黒っぽいヤツだ。昨日だかにも来たアイツ。アイツが出した音に似てないか?』
思考にはまだ薄モヤがかかっているみたいな感じですが、ちょっと脳みそにがんばってもらいましょうか。
いつもの寝床はラウ家の竜舎で、変な森って、アレかな? 黒竜の時に訪れた異界でしょうかね?
で、アルバの言うところの黒いヤツってのは、間違いなくアレクシアさんであって。と言うことはつまり……あぁ、確かに。
『魔術の音か……確かにあんな感じだったような』
炎熱が膨張する時の音が、俺が聞いただろう音とほとんどズバリだったような。
ラナが納得の頷きを見せてきました。
『あぁ、あの良いやつが出してた音か。なるほど、そっくりね。アイツらの寝床の方から音はしてたけど、なんかやってるのかしらね』
ふーむ?
俺は体を起こして、アイツらの寝床……おそらくはリャナス家の屋敷の方へと目を向けます。
竜舎の中からも、わずかにその一部が目に入るのですが。あちらから音がしたんですかね? 魔術師の炎の音がしていたと。
なんでしょうね?
あちらには、立派な庭園があるのですが。そこでアレクシアさんとは限らずとも、魔術師の方が練習でもしているのでしょうかねぇ? なんか、立派な芝生が焦げてしまいそうで、それはどうかなぁと思いますが。
まぁ、リャナスの素晴らしいお屋敷ですので。魔術の練習専門の広場とか、そんなものがあるのかもしれませんがねー。
『あ、まただ』
ラナが上げた声通りでした。
ボン、と。ボボン、と。
炎熱の弾ける音が数発続きましたが。うーむ、伝わってくるのは音だけですが、実際に目の当たりにするとすごそうですね。さぞ紅蓮の光景が広がっていることでしょう。どうやら派手な練習をされているようで。
『しかし、うっさいわねー。近くにいてもうっさいのに、離れていてもコレなわけね』
人間にあまり好意を抱いていないラナらしいと言いますか、若干ぷんすこされていました。まぁ、俺はと言えば、娘さんを筆頭に人間にはおおよそ好意を抱いているわけで。
人間の領域で暮らしていれば、こういうこともあるよねー。そのぐらいのことを寝ぼけまなこに思うぐらいでしたが……はて?
なんか音以外にもちょっと気になることがあるような。
俺は首を伸ばして、鼻面で風を意識します。風はちょうど屋敷の方から吹いてきているのですが、なんぞ? なんか妙な匂いがするような。
それはかすかで、意識の端にかろうじて残るぐらいのものでしたが。何て言うのかな。鉄っぽい? そんな感じでありまして。
なんでしょう? 記憶にはすごくあるのですが。黒竜を相手にした時は、よく嗅いだような気がするのですが。これはえーとですね……血の匂いでしょうか?
『……で、今度は近くに来るわけね』
うんざりしたようにラナが呟きましたが。
言葉通りに、誰かが竜舎に向かって来ているようでして。いや、誰かって言うか、けっこうな数かな? 無数のとしか理解出来ない足音がこちらを目指して来ているようなのですが。
俺はそわそわとして、音の方向にへと首を伸ばすのでした。
どうにも落ち着きませんでした。胸がどうにもざわついてしまっていて。
魔術の音がして。
血らしき匂いがして。
謎の群衆がこちらに向かってきていて。
そして不意に思い起こされるのは、昨日のアレクシアさんとカミールさんとのやりとりです。
ギュネイさんがうんぬんで、実力行使うんぬんって話がありましたが。
い、いやいやいや! 人の目も無ければ、俺は思いきっきり首を横に振ります。考えすぎでしょう。えぇ、間違いなく考えすぎです。
ギュネイさんがって話で無くても、そんな不穏なことが起きているなんてね。今まで平和でしたし。不穏の兆候なんてありませんでしたし。きっと、これからも平和で、式典を無事に迎えられて。きっとそうなるはずで。
しかし……娘さんはどうしているのでしょうか?
幸いにして、血が匂い、爆炎が鳴る屋敷には、娘さんも親父さんも、ハイゼ家主従も、カミールさんもいらっしゃらないようなのですが。
どこぞの領主の屋敷に、娘さんはいらっしゃるようなのですが……ま、まぁ、大丈夫でしょう! きっとそんな、妙な目になんて会ってはおられないでしょう!
そもそも、俺が不穏なものを感じていることがおかしいのでしょうし。
カミールさんの屋敷での爆炎の音と血の匂いだって、魔術の練習中に何かちょっと事故っぽいことが起きただけかもしれませんし。
今、大勢がこちらに向かって来ているのだって、カミールさんの何かしらの計らいかもしれませんし。歓迎してやるって、そう手紙に記してありましたから。
すごいご馳走を運んできてくれているのかもしれませんし、えーと、ま、マッサージとか? そういう歓待をしてくれるために専門の人が大勢いらっしゃっているのかもしれませんし。
『……ガシャガシャ言ってるな。本当に何だ?』
アルバが不審の声を上げましたが、が、ガシャガシャ? その意味するところは、えーと……あぁ、もう! とにかく、待ち受けてやるとしましょう!
見れば分かるんですよ、見れば。
俺の心配が、ただの杞憂に過ぎなかったって。俺が心配するような異変なんて、何も起きていなかったって。
俺は文字通り首を長くして、来訪者たちの到来を待ち受けます。そして、
「やはり立派なものだな。さすがはリャナスの竜舎と言ったところか」
そんな言葉と共に、やってきました。
鈍色に光る鎧兜を着込んだ、二十名ほどの集団でした。
俺は思わずツバを飲み込むのでした。
だって、これは、これは……え?
ハーゲンビルでの戦で目の当たりにしたことがあったでしょうか。フルプレートなんてほどではありませんが、金属製の胴に小手にすね当て、そして装飾のほどこされた堅牢な兜をかぶっていて。
腰には長剣、手には二メートル弱の長槍。これは本当……戦場にある姿と言って、何も間違いは無く。
何か、異常なことが起こっている。
それを俺に自覚させるには十分過ぎる光景でした。