第14話:俺と二年後の娘さん
とっくの昔に太陽は沈んでいた。
夜空には煌々と満月が輝いている。アルバは安らかに寝息を立てていた。ラナも寝返りをうちながら、寝相悪く夢の世界をさまよっている。そして俺は一人醒めた意識で月を眺めていた。
寝られなかったのだ。
色々あって疲れはあったのだが、どうしても寝られなかった。
俺の頭は一つの思いで一杯だった。それは当然娘さんについてのものであり、その内容はと言えば……
『や、やってもうた……』
後悔だった。
娘さんを止めるために行った威嚇行動。それが俺の後悔の種である。
俺は深くふかーくうなだれる。本当、何で俺はあんなことをしてしまったんだろうね?
喉を無茶苦茶にかきむしりたい心地だった。いや、実際やったんだけど、俺の首の皮の固いのなんの。ちっとも贖罪にはなりゃしない。
『はぁ……』
ため息が止まらない。
あの時はそれで正しいと思ったのだ。娘さんを止めることが娘さんのためになると信じていたのだ。
でもさぁ、ねぇ? あれがどれだけ娘さんを傷つけてしまったかっていう話なのだ。
だって俺だよ? 俺に反抗されたんだよ? ペットに手を噛まれたって、そんなレベルじゃないんじゃないかな?
言ってみれば、コイツは何をしても絶対に怒らないと俺を見下していた上司や同僚が、俺に突然殴りかかられたようなものじゃないだろうか?
もうジャイアントインパクトである。本当、天変地異。そして娘さんは優しいのだ。俺の元上司や同僚であれば、驚きも一瞬、平気で殴り返してくるだろうが、娘さんは違う。ストレスをぶつける相手も無ければ、胸にためこむに決っているのだ。
『ぬ、ぬがー……』
ゴン、と小屋の柱に頭をぶつける。全然痛くない。娘さんがどれだけ胸を痛めているかを考えると本当申し訳なくなる。
昼間にあんな目にあって、さらに俺みたいなゴミクズに反抗されたのである。
娘さんはどれほど傷ついたのだろうか。傷心した娘さんは、今何をしているのだろうか? ちゃんと寝られているのだろうか?
それを思うと、俺は夜も寝られないのだった。
『……アンタ、まだ起きてたんだ』
ラナだった。眠たそうな声を出して、俺に首を伸ばしてくる。
独り言やら何やらがうるさかったのだろうか。眠りの邪魔をするつもりなんてさらさら無かった。俺は慌ててラナに謝る。
『ご、ごめん! 邪魔するつもりはなかったんだけど』
あるいは遊びが始まってしまうのでは? そう恐怖もしたが、実際そうはならなかった。
『別にいいわよ。ちょうどいいかもしんないし』
ちょうどいい? 俺が首をかしげる中、ラナは眠たそうな目をして口を開く。
『言おうかなって思ってたことがあったの。ほら。アンタ、あのウザイやつ追い払ったでしょ?』
ウザイやつ。きっと娘さんのことだろうなぁ……
『ラナ、うざいヤツじゃないから。それ失礼だから』
『いや知らないし、どうでもいいし。そんなことより伝えようと思ってたの。アンタ、たまにはやるじゃん』
へ? となってしまった。な、何ごと? ラナが何か変なこと言ったような気がするけど。
『ど、どうしたの、ラナ? まだ寝ぼけてる?』
『何でそうなるのよ。せっかく褒めてやってるのに』
ラナは平然としてそんなことを言うのだった。
褒められてるの? マジで? ラナが俺を褒めてるの?
……なんだろう。ラナだよ? それでいて、娘さんを追い払ったことを褒められてるんだろうけど……正直ちょっとうれしいと言うかなんと言うか。
威嚇したことへの後悔は変わらない。でも、一体でも俺の行動を肯定してくれる誰かがいるというのは、俺にとって何となくの慰めになるというか。そういえば、親父さんもそうだったっけなぁ、うん。
『……ありがとう、ラナ。悩んでたけど、なんだかちょっと心が軽くなったような気が……』
『勉強になったかも。人間にああいうことしてもいいのね』
『……はい?』
ラナが何か変なこと言っているんだけど。
『えーと、ラナ? キミ、何言ってるの?』
『だから、勉強になったって言ってるの。ああすればいいんでしょ? 牙を出して、うなって。私も今度やってみよ』
ラナはどこか楽しそうな目をしてそんなことをのたまうのだった。
……ごめん、娘さん。本当にごめん。
俺の考えなしの行動が、赤い野獣にいらない勘違いをさせてしまった。
俺はまたうなだれることになった。やっぱり、バカはバカらしく大人しくしておけば良かったのだ。
とにかく、この実害のある勘違いについては責任をとらなければならない。
そう思ってラナに向きあった、その矢先のことだった。
『あ』
ラナが妙な声を上げた。ラナは俺を見ていない。小屋の前方の暗闇へと目をこらしている。
突然どうしたんですかね。不思議に思って、俺も気づいた。
足音がする。
愛着のある足音の雰囲気。聞き間違えようがなかった。
娘さんが小屋の前に近づいてきていたのだ。
『やった。早速試せるじゃん』
ラナは物騒に喜んでいたが、今の俺はそれにツッコむどころではなかった。
娘さんが来ている。普段であれば顔を見られるだけでも嬉しいのだが、昼のことがあっての今だ。正直困惑の感情の方が強かった。娘さんは一体何をしに来たのだろうか。
ひとまず気にするべきはアルバか。俺は慌ててアルバの小屋をのぞき込む。一安心だった。生来の調子を少しは取り戻してくれたのか、アルバは小屋の奥で丸くなりぐっすりと寝入っている。
さて、では問題は娘さんだ。
俺は目をこらして、暗闇の向こうからやってくる娘さんを待ち受ける。
「……」
距離はもう五メートルも無いだろう。そこから娘さんは動かなかった。どこか不安げに揺れる青い瞳。それは俺に対して向けられているような気がするのだけど。
……ラナに乗りにきたってわけではないのだろうか。まぁ、夜だしね。今までも夜に娘さんが騎乗したことは無いし、それは無いのだろう。
だったら何? こんな夜に何の用? やはり娘さんは俺を見ているような気がするけど。威嚇したからお礼参りとか? いや、娘さんはそんな人では無い。でも、本当にだったら何の用ってことになるが。
まぁ、そこはとりあえずどうでもいいか。
チャンスなのだ。俺にとっての大きなチャンス。傷つけてごめんさないをするための、またとない好機なのだ。
ということで頭を下げる。いやね、分かってるよ? ドラゴンが頭を下げたところで謝意が伝わるのかって話。犬、猫が頭を下げていたところで、そこに誠意を感じる人はまずいないだろう。なんかの偶然か、人真似でもしているのかと思うのが自然だ。
でも、どうか伝わって欲しい。そう思って俺は頭を下げ続ける。すると、
「……なでで欲しいの?」
か細い声で娘さんはそうつぶやいた。
うーん、確かにね。俺がスキンシップをねだるポーズと瓜二つだね、これ。ち、違います! 俺は謝っているんです! いやでも、なでで頂けるというのなら、そこに異論をはさむ余地はないのですが……って、んん?
娘さんがためらいがちに一歩を踏み出してくる。そして二歩、三歩。距離が縮まっていく。
「……」
手を伸ばせば届く距離。娘さんはおそるおそるといった様子で俺に手を出してきた。なでてくれるのですかね? 拒絶なんてもちろんありえない。震える手を俺は当然受け入れる。
吐息が聞こえた。安堵の吐息なのだろうか。緊張なのか引き締まっていた娘さんの表情がわずかにゆるんだ。
「……良かった。嫌われてないのかな?」
それ、完全に俺のセリフです。無視されるぐらいに毛嫌いされた挙げ句に威嚇したのだ。評価は地の底を突き抜けたと思っていたのだけど。
当時と比べ、少し硬くなった手のひらが俺の喉元をなでる。それは何度も繰り返され、そのたびに娘さんの表情はだんだんと柔らかくなっていった。
「……都合の良いことを言ってるのは分かってる。でも……良かった。嫌われてなかったんだ」
娘さんは嬉しそうに俺の喉元をなでたり、頭に手を置いたりするのだった。ふむ? もしかしてだけど、娘さんは俺に嫌われたんじゃなかって不安になってわざわざ俺を訪ねてきたのだろうか? 威嚇したから制裁を加えにきたとかじゃなくて?
……この子、神かな?
もはや崇めざるを得ない。神でないにしろ、優しさが成層圏を突き抜けていることは間違いない。こんな子が本当に現世に存在しているとは……
『ねぇ? うなっていいのよね? 牙をむいたりしてもいいのよね? ねぇ?』
唐突にラナがやかましく横槍を入れてくる。うっさいぞ、この暴虐赤邪竜が。なんなのコイツ? 暴力性が限界突破でもしていたりするわけ?
『ラナ、そういう場面じゃない。お願いだから黙ってて』
ラナは『なんでさ』と不満顔。コイツがいつか優しさというものを理解する日がくるのかどうか。まぁ、来まい。娘さんとラナでは恐らく、生まれ持った属性のようなものが違うのだろう。聖属性と邪属性的な。
「ふふ……」
娘さんが不意に含み笑いをもらした。
「本当変なの。あっちじゃ、こんなにお喋りするドラゴンなんていなかったのに」
へぇ、そうなんだ。ちょっと意外。ラナとアルバを見ていると、ドラゴンがそんな寡黙なタチとは思えないけどね。アルバもしゃべる時はしゃべるし、ラナにいたってはしゃべる以上のコミュニケーションを求めてくるし。
「……あっちのドラゴンとこっちのドラゴンは違う。そんなの分かってたのにね」
絞り出したような、苦しい呟きだった。
俺はあらためて娘さんの顔を見た。そこには親父さんによく似た自嘲の笑みが浮かんでいた。
「本当はね。私も分かってたの」
娘さんは静かに俺の頭をなでさする。
「あっちの方法じゃ上手くいかないのかもしれないって。分かってた。こっちのドラゴンには通用しないかもしれないって。アルバを見てたら、私にだってさすがに分かった」
娘さんは沈痛な面持ちで俺の隣の小屋へと視線を移した。アルバは安らかに寝入っているが、娘さんの脳裏にあるのは昼間の疲れ果てたアルバの姿であろう。
「……でも、ダメだった。変えられなかった。変えたくなかった」
娘さんは目元を隠すようにうつむいた。
「本当に辛かったの。修行先の生活は本当に嫌だった。苦しかった。だから、無理だった。あの生活で得たものが無駄だったかもなんて、そんなこと絶対に思いたくなかった。何一つ無駄なものは無かったって、そう思いたかった」
娘さんは笑った。自己嫌悪に苛まれているような、半端で歪んだ笑顔。
「本当、バカだよね、私。ラウ家のために修行先に出されたのに、結局自分のことばかり考えて……本当、私何やってたんだろう……」
後悔の言葉はさらに続いた。
「どうしようもないよね。アルバをあんな目に会わせて。私に貴方たちの面倒をみる資格なんて無い。背に乗ることなんて、きっと許されることじゃない。でも……」
空気が変わった。俺にはそう思えた。娘さんの瞳から自嘲の色は消えていた。あるのは闘志と呼べる、何らかの決意か。
「このままじゃ終わらせたくないの」
娘さんが俺の頭に手を置く。優しい仕草だった。しかし不思議と、俺は妙な力強さのようなものを感じるのだった。
「都合が良いことを言ってるのは分かってる。だけど、このままじゃ嫌なの。きっと勝てはしない。それでも、私はラウ家の娘として、ラウ家の名誉を傷つけない戦いがしたい。だから……」
娘さんは俺の目を力強く見つめてくる。
「お願い、私を飛ばして。修行先は貴方のようなドラゴンを馬鹿にしてたけど、私はもうそれには引きずられない。だからお願い、ノーラ。一番好きだったドラゴンで、私に最後の騎乗に挑まさせて」
それは、きっと俺に向けた言葉では無い。
決意なのだ。例え負けるにしても、我執に捕らわれずにラウ家の騎手としてふさわしい戦いをする。それを娘さんは自らに宣言しているのだ。
ただ、まぁね? 俺は一応人間の言葉が分かるわけでして。
「ノーラ?」
俺は娘さんの手に自分の頭をこすりつける。娘さんは驚いたように目を丸くし、次いで苦笑するのだった。
「貴方は本当に……時々、人間の言葉が分かっているようなことするよね。ふふ……ありがとう。勘違いでも嬉しい。私、ノーラに恥をかかせるようなことだけはしないから」
とりあえず、娘さんが喜んでくれたのなら満足です。でも、もちろん俺は返答のつもりで頭をこすりつけたのであり、さらにそこには俺なりの決意を込めたつもりだった。
生まれてこの方、俺は誰かに期待をされたことがない。
それだけの人間だったということだが、俺には俺自身も期待していなかった。だから、努力もしてこなかった。自身の無能は無能として放置し、困難は困難として甘受してきた。
本当、どうしようもない人間だった。そんな俺がはたしてどれほど物の役に立つのか? そんなの俺自身が俺自身について疑っていることだった。
それでも、全力を尽くそう。
そんな決意だった。俺がどうしようもないことは分かっている。きっとアルバやラナが協力的であれば、成果は俺とは比べものにならないだろう。そんなことも分かっている。
しかし、選ばれたのは俺なのだ。だから全力を尽くそう。娘さんのために出来得る限りのことをしよう。
娘さんはほほえんでいた。
この笑顔のためにがんばろうと、俺は決意を固くするのだった。