第1話:俺と、春の近況(1)
春……来ましたねぇ。
ラウ家の領地にもですが、いよいよ本格的な春が到来したのでした。
景色が一変した感がありました。
木肌の灰色ばかりが目立った山並みは、いつしか鮮やかな新緑に染め上げられまして。
放牧地もまた同様でした。ツヤツヤとして目に眩しい緑が、本当一面に広がっていて。その中には、春の小花が彩りを添えていまして。ピンクや黄色の花々が、今が春だと可憐に主張されているのでした。
空気もまたね、やっぱり春でした。
冬の湿って枯れたような空気はどこへやら。からりと乾いて、胸のすくような風が吹いておりました。
本当にねぇ、春っていいですよね。
例年そう思います。本当、すがすがしくて、気持ちよくて。まぁ、今年の俺はと言えば、そこまで春の到来に心地良さなどは覚えなかったのですが……
何にせよ、春がやって来まして。
俺の姿は今、その青々とした放牧地にありました。つまるところ放牧中というわけで。
例年でしたらね、春となって生命力が三倍増しぐらいになったラナと、凄絶な鬼ごっこを繰り返していたのですが。
今年はまるで違うのでした。
今年は娘さんがいらっしゃいますので。そして、アレクシアさんの姿もありまして。影響の度合いとしては、アレクシアさんの方が大きいかな? なにせ、今の俺がしていることはですね。
「……ふーむ」
アレクシアさんが、一つうなり声を上げられました。
放牧地にある砂地の地面でした。そこには魔法陣チックな何か……魔術において必須らしい式がいくつも描かれていまして。
もちろん、これらはアレクシアさんの作です。それらを見下ろしながらに、アレクシアさんは気むずかし気にうなられたりするのでした。
「……私が記憶している風の魔力の式と言えばこんなところですが……では、試してみて下さい」
と言われましたので、俺はそれぞれ踏んでみます。ほうほう、ふんふん。なるほど、面白いものですねー。
「へぇ。ノーラ? やっぱり違うものだったりするの?」
この場には娘さんの姿もありまして。そよ風に金の細髪を揺らしながら、不思議そうに首をかしげておられました。
そうですねー。けっこう違うような気はします。魔術って、本当奥が深いんですねー。
と、言うことでです。
俺は今、アレクシアさんから魔術の講座を受けていたりするのでした。
世話ばかり受けているのは性に合わない。せっかくだから娘さんの役に立ちたい。そんなアレクシアさんの意向がありまして。せっかくなのでということで、俺の魔術の鍛錬に時間を費やして頂いているのです。
魔術にはイメージ力が大切だということで。イメージしやすいように特定のパターンに絞っての反復練習……アレクシアさんでしたら、正面への炎の槍に絞って練習されているそうでしたが、俺も似たようなことをやりまして、瞬間的に魔術を行使出来るように努力してみたり。
あとは、イメージするのに必要な集中力、それを高めるための呼吸法の取得。メンタルトレーニングみたいなこともしたっけか? その日の体調に関わらず実力を発揮するための、ルーティン的なものの会得とか。
で、今日やっているのは、魔力の練り方についてでした。
どうやらですが、魔力の練り方にも色々あるようでして、向き、不向きなんてのもあるようで。
俺にもっと向いている魔力の練り方があるかもしれない。その観点から、俺に色々な魔力の練り方を式として経験してもらおう。そんな感じなのでした。
そして、実際体験してみた感想ですが……うーん、そこまで大差は無いかなぁ。違うのは分かるのですが、今の練り方と比べて劇的に違うという感じも無くて、変える必要もあまり無いようで。
「どうですか? 適当なものは見つかりましたか?」
アレクシアさんの問いかけに、俺は首を横に振ります。すると、アレクシアさんは腕組みをして、また一つ「うーむ」とうなり。
「そうでしたか。そうなると、本格的に私が教えられそうなことは無くなりましたね」
え? でした。
まさかの免許皆伝とそういうことで? 魔術を始めて、まだ二ヶ月も経ってはいないのですが。
俺の疑問の思いが伝わったのか。アレクシアさんは頷きを見せられました。
「そうです。もう、私に教えられることは無くなりました。私が大した魔術師では無いということもありますが……やはりドラゴンは、魔術的な生き物であるということでしょうね。いやはや、憎たらしい」
に、憎たらしいですか。
アレクシアさんには言葉ほどに憎悪の感情は無いようでしたが、複雑な表情を顔に浮かべておられます。
「上達の速度が違うと言いますか、そもそも上達の尺度が違うと言いますか。風を扱うことが出来るのもおかしければ、それを自由自在に操れるというのも……恐ろしいほどの才覚ですね」
才覚……と言いますか。シドのカレイジャスと名乗った、あの黒竜のことを思いますとね。ドラゴンはただただ、そういう生き物だということなんでしょうねぇ。
「しかし、本当に自由自在ですから。もしかしたら、貴方は人間の言葉を話すなんてことも出来るのではないですか? 言葉は空気の振動。そう私は聞いたことがありますが」
そして、アレクシアさんが面白いことをおっしゃいました。言葉ですか? 確かに、それは空気の振動だと俺も聞いていまして。努力すれば俺も出来るかもしれませんが。
でもなぁ……それはあえてやらなければならないことなのかどうか。そう思ってしまう自分がいたりしまして。
しかしでした。
この方は、心底大歓迎だったようで。
「い、いいじゃないですかっ!!」
もちろんのこと娘さんでした。目をキラキラさせながらに、そんな叫びを発せられました。
「い、いいっ! それすっごくいいですっ! ノーラと話せたら絶対に楽しいに決まってますしっ! よーし、ノーラっ! 私が面倒見て上げるからっ! 一緒にがんばって覚えよっかっ!」
お、おぉ。な、なかなかの圧力ですね、娘さん。俺の目の前で、握りこぶしでそう訴えられてきましたが。満面の笑顔でありまして、よっぽど俺と会話するのを楽しみにされているようですが……ふーむ。そうなりますと。
娘さんの喜びは、俺の喜びなわけで。
よーし、でした。じゃあ、いっちょやってやりますかっ! 筆談はやっぱりスムーズさに欠けますし、言葉で意思の疎通が出来たら、もっと楽しい時間が過ごせるかもしれませんし。
よっしゃっ! 俺、やってやりますからねっ! 待っていて下さいね、娘さんっ! ……とは、ちょっとならないよなぁ。
冷めている自覚は多分にありました。だって……ねぇ?
きっと、そこまでは必要ないですし。俺と娘さんが一緒に過ごす時間なんて、ここからはおそらくは……ね?