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女神の玉座  作者: 天海りく
翠卵の皇子
9/67



 江翠の地は耳心地のいい水音が響くだけの穏やかで美しい景色だ。

 だが黒羽に景観を楽しむ暇もなければ余裕もなかった。

「だいたい隠れ家ってどうやって見つけんだよ。ここがあってるかどうかもよくわかんねえぞ」

 渡し人の地形を話して出てきた候補は七つ。滝が目立つところからということで左右に大きく広がる滝の側に来たわけだが、辺りにわかりやすい建物などまるでなかった。

「……近くに私たちが来たら向こうも動くんじゃないかと思ったけどどうかしらねえ。それにしてもすごいわね、これ」

 滝を見上げながら積み重なる池の縁に立つ藍李が暢気につぶやく。

「時間がねえんだろ、どうにかしねえと」

 そうね、と言って藍李が背の神剣を抜きおもむろに池の底に刀身を埋める。するとあたりの水面がざわざわと揺れて、波紋が広がるようにその波は他の池へと伝搬していく。

 そしてその中で水面が平らなままの池がいくつかあった。

「神剣の力を受けない場所を神域っていうの。その神域がある場所が聖地っていうわけ。で、玉陽の王家は記録に残る限り最古の一族であり、女神より領地を受託された一族って事で監理局より聖地の神域を把握してるのが厄介なのよね。漓瑞の存在は漓瑞のお父様から監理局に話があって、姫君が在位中の間に漓瑞を宰相職に置く条件と引き替えに、神域についての情報を公開するってことになってたらしいわ。でも、その前に戦争が起きて分からずじまい。調査も捗らなくて未だに監理局もここのことは把握できてないのよ」

 藍李が波紋のない池をたどった先にある滝に向けて神剣を一閃する。まるで重さを感じさせないその動作だが、放出される霊力は大きく強風を受けたような圧迫感があった。

 しかし目の前の滝だけは微動だにしていない。

「……そのこと、漓瑞は知ってるのか?」

 黒羽は藍李の隣に立って滝の流れを見ながら聞く。

 漓瑞の父が息子を思ってなしたことが実を結ばなかった。あげくにそれがなければおそらく彼の存在が知られることもなく、アデルに目をつけられることもなかったのかもしれないと思うとやりきれない。

「知らないんじゃないかしら。正式に話が通ってから漓瑞を監理局に登録するだったみたいだし。さあ、この滝が怪しいわね……神域はあっちこっちにありそうだから断言は出来ないかしら。ちょっとでも手がかり見つけられたらよかったんだけど……」

 藍李がため息をついて渡し人を呼ぶために懐から笛を出す。

「もうちょっと、調べてみようぜ」

 どうにも引っかかりを覚えて黒羽はそれを止める。そして滝の全貌を見るために後ろへと下がるのに藍李もついてくる。

「ランバートの屋敷の部屋、ちゃんと見られなかったのよね。それにしたってどこほっつき歩いてるのかしらあの馬鹿は」

 ぐちぐちと言っている藍李の声には苛立ちだけでなく案じる雰囲気があった。

「……なあ、本局長とは仲良かったのか?」

 どうにか滝を見渡せる位置まで降りた黒羽は藍李に聞く。

 思えば本局長自身のことはあまり聞いたことがなかった。藍李が親しいというのならそう悪い人物ではないとも思ってしまう。

「子供の頃はよく一緒に遊んだわね。あっちがふたつ年上なんだけど、どう考えたって年上に思えないくらいぼんやりしてて、ちょっと危なっかしいから一緒にいると目が離せなかったわ。放っておくとすぐに部屋散らかすの。寝る場所がなくなってきたら私かカイルが一緒に掃除したりもしてたわねえ。アデルがあんなことしててランバートが巻き込まれてるなんてあの頃は思いもしなかったわ」

 藍李が言うにはアデルもよく遊び相手になってくれるいい兄で、兄弟仲もよく全てが露見したときはすぐには信じられなかったそうだ。

「アデルが死んでからランバートが遺品の研究資料とか蔵書を読みあさり始めて不安はあったのよ。その頃私もここで正式に局員になったりいろいろあって忙しくてかまってられなかった。そのかわりカイルがいるから任せてれば大丈夫だろうって思ってたら、ぜんっぜん大丈夫じゃなかったわけなのよね」

 語気は荒いが藍李の表情は悔しげであり悲しそうにも見えた。

 異変の兆候を見つけていながらも何も出来ず、こんなことになってしまったことが辛いのかもしれない。

「……アデルの奴は本当に生きてるのか」

「分からないわ。でもあの人が生きてるならランバートを何が何でも引き離すわ。これ以上あの人に振り回されるなんてごめんよ。で、まだここ探すの?」

 黒羽は滝を見上げたまま小さく唸る。

 何かが、引っかかるのだ。首の後ろを刺してくる嫌な感覚があって、意識の深いところからアデルへの恐怖心が引きずり出されてくる。

 アデルがここにいたのかもしれない。それなら漓瑞も一緒にいるはずだ。

「黒羽、これ」

 足下の池を見ていた藍李が手招きする。同じ場所を覗くと黒い糸に似たものが一筋水面で揺れていた。

「……髪、だな。あいつのだよな」

 自分も藍李も髪の色は黒ではない。そしてこんな奥地で人の髪が落ちているということはひとりしかいない。

 漓瑞は近くにいる。

 それが分かっても姿が見えない限り安心もしていられない。

「どうにか滝の裏に入れねえかな」

 すさまじい勢いで落ちる滝の勢いはすさまじく色は真っ白でその裏は見えない。崖に沿って、地面は真横に真っ直ぐに割れて谷底になっている。隙間全部に水が流れ込んでいるので滝壺がどれだけ深いのかすらもよく分からない。

 黒羽と藍李が途方に暮れながら行く手を阻む瀑布をみていると、不意にあたりに影が落ちてくる。

 雲でも出てきたのだろうかと空を見上げた黒羽は目を見張った。

「なんだ、あれ。太陽が消えてるぞ……」

 言っている間にどんどん辺りから光が消え去っていく。。

「日蝕だわ……。太陽を月が隠してるのよ。刻限て、まさかこのことなの」

 藍李がつぶやくころには闇が訪れ、音すら隠してしまう。滝の轟音も沢のせせらぎもなにもかも止まって、世界が死に絶えてしまった錯覚を覚える。

 消えた太陽の周りだけがほのかに光り輪を作っている。

「なあ、これっていつ始まるとか分かるのもんなのか?」

「天文学者が日付ぐらいは計算できるらしいわ。時刻の正確な予測は無理なはずよ。だいたい水の流れが止まってるのはおかしいわね」

 ふたりが立ちつくしている間に世界が息を吹き返し始める。

 太陽は再び姿を現わし産声を上げるように水音が静寂を打ち破る。

 だが正常な状態ではなかった。

 滝は逆流し、足下の池のいくつかから水が吹き上がり水柱があちこちに立つ。そして大地が揺らいでいく。

 水柱に沿って崩れた白い地面が盛り上がり、白亜の柱が生まれ、どこからともなく伸びた蔦が壁をつくる。その壁によって黒羽と藍李は引き離された。

 揺れがおさまった後、黒羽はいつの間にか屋内に立っている自分の状況を把握しきれず口を半開きにして辺りを見る。

 白い床に白い柱。壁は蔦に覆われている。細長い空間は廊下らしい。そして見上げた天井は水面だった。そこから硝子の破片のような太陽の光が床に振りまかれている。

「藍李!」

 黒羽は声を張り上げるが返ってくる声はない。

 そしてもう一度声を上げる。

「漓瑞っ!」

 声はやはり返ってこず、黒羽は頬の内側を噛む。

 何がどうなっているかは分からないし、返事もないけれどきっと漓瑞はここにいる。もう手遅れかもしれないと一瞬浮かんだ考えはすぐに振り払う。

 まだ、姿も見ていないのに諦めるのは早すぎる。

「よし」

 自分の気力が萎えていないことを確認して黒羽は進む決意を固める。

 藍李はひとりで放っておいても大丈夫そうだが、こんな訳の分からない状況だ。とにかく彼女も一緒に探したほうがいいだろう。

 さて、前に進むべきか後ろに進むべきか。

 躊躇していると正面から沓音が聞こえて冥炎の柄を握る。まだ抜けそうにはないものの、行くしかないだろうと黒羽は音の方へとゆっくり足を踏み出した。 

 そして廊下を真っ直ぐ歩いていくうちに見えた柳沙の姿に驚いた。

 漓瑞の代わりに城藍にいるとばかり思っていたからだ。

「……生きてたのね」

 つぶやく柳沙の声には生気がなかった。その頬が濡れているのに気づいた黒羽の心臓が激しく鼓動する。

「漓瑞はどうしたんだ」

 問うと柳沙の頬にまた涙が落ちて彼女はその場にしゃがみこんだ。

「わからないわ。緑笙がアデルであの方を玉座の間へ連れて行って、それからどうなったのか……」

「緑笙がアデルってなんだよ。とにかくまだあいつ生きてるんだな。柳沙、泣くな。あいつは絶対あたしが助けるから」

 かがみ込んで黒羽は柳沙の涙を手の甲でぬぐうが、その涙は止めどなくあふれている。

「……ごめんね。ごめん」

 悪いことをしたわけでもないのにこんなに泣いて謝られると苦しくなってくる。

 黒羽は昔よりずいぶん小さくなった気がする柳沙を抱きしめその背を撫でる。

「いいんだ。漓瑞を護りたい気持ちをよくわかるから。向こう行ったらいいんだな。お前はひとりで大丈夫か?」

 身を離して柳沙が小さくうなずく。そのまま黒羽が来た方へ行けば出られるらしかった。

「……ひとつだけ聞かせてくれ。お前、アデルのことどこまで知ってた?」

 何も知らないと返答があった。彼女はただ言われるままに誘拐の手引きをしているだけらしかった。

 それと、誘拐の容疑者を殺したのは自分だと自白した。報酬のことで揉め、あげくに監理局へ訴え出るとまで言われ仕方なく殺すことにしたということだ。

「罪は償うわ。だからお願い、あの方を助けて」

 縋る柳沙の瞳に黒羽は分かったと力強くうなずいた。

 

***


 日蝕が起こったとき、漓瑞の手の甲の紋章からあふれていた翡翠色の水は漓瑞の座る玉座の上に集まり天蓋の如く垂れ下がった。

 そして漓瑞の意識は半ば閉じられた。抗えない眠気に指先はもう動かない。

「君に今日この日まで待ってもらったのはこのためなんだ。太陽と月が交わり原初の神は産まれたそうだよ。そしてこの玉陽で起こる千年ぶりの日蝕が起こる奇跡の日が今日だ」

 アデルが懐中時計の蓋を閉じ微笑むのが水に滲む視界に見えた。彼の姿は近いのに声はとても遠い。

「日蝕と、神に近しい肉体を持つ神の末裔。多量の瘴気が浄化されるときに生まれる力。それが揃ってこの国は本来の姿を取り戻すんだ。そして旧世界へと世界が巻き戻される始点になる。そうして同じように瘴気が染み渡った君の肉体は浄化の力で神のものへ完全に作り替えられるんだ」

 彼にとっては内乱とは瘴気を得るための手段に過ぎなかったらしいと、漓瑞はぼんやりと思う。

 思考は薄もやがかかり、まともにものを考えるのが苦痛だった。

 玉座が緩やかに溶けていく。

 水となった玉座はそのまま天蓋の中を満たしていくが息苦しくはなかった。赤子の頃にしか抱かれなかったはずの母の腕の感覚を思い起こす穏やかな心地に包まれていく。

 脳内に古い記憶が湧きだしてくる。

 産まれてから見たもの全てが溢れる。おぼろげだった母の笑顔も鮮明で、姉はころころと表情を変えて父は穏やかに微笑んでいて。

 そして血の色に全て染まっていく。

 記憶の中に沈みながら漓瑞はゆっくりと目を閉じる。

 その中で一瞬声を聞いた気がした。

 遠い過去の中のものではなく、もっと近い場所にある誰かが自分の名を呼ぶ声。

 内からではない。外からだ。

 誰の声か分かると、切なさに胸が締めつけられた。

 気のせいかもしれない。あるいはただの願望かもしれない。

 だが確かめたいと思った。もし近くにあの子がいるなら、あの屈託のない笑顔をもう一度見たいと願った。

 しかし長い睫を震わすことすら叶わず、漓瑞は深い眠りの淵に引きずり込まれた。  

 

***


 廊下はずいぶん長いこと続いていた。

「うお」

 ただ黙々とそこを駆けていた黒羽は急に片足が沈んで立ち止まる。足を引き抜くと白い床が水面のように揺れて翡翠色が滲む。

「くそ、進めねえのか?」

 つぶやいてもう一度足を踏み出すと、膝まで浸かってそれ以上沈むことはなかった。温度は感じず濡れた感触もない。

 いけないことはなさそうだ。

 ただ歩いている内に体の中に清浄な何かが流れ込んでくるのがわかって、腰の冥炎が軋む音がした。

「嫌なのか?」

 黒羽は答えを返すことはない愛刀に語りかけ、水面に触れさせないためにひとまず腰から冥炎を外す。

 それから十数歩進んだところで黒羽の息も上がっていた。

 血が全身を流れる音が聞こえる。ごうごうとすさまじい音を立てて、血と一緒に力が湧き出てくるのが分かる。

 ただその勢いは心臓を強く激しく騒がせ、体がついていかない。

「なんなんだよ、これ」

 黒羽は足を止めてうつむく。冥炎を持った腕が下がりそうになるのをぐっと持ち上げると、不意に刀身から鞘が滑り落ちた。

 その刹那、刀身が青白い炎を噴く。

 体の内にとどまりきれない力が一気に放出されていく。

 力を内に留めようとするが冥炎の方から喰らいついてきて逃げ切れない。黒羽は鞘を探すがどこに沈み込んだのかも分からなかった。

「大人しく、しやがれ!」

 仕方なしに液状の床に刀身を浸すと耳鳴りに似た甲高い音が鳴り響く。

「いけないな。そんなことをすると冥炎が折れてしまうよ」

 片耳を抑えて黒羽が冥炎を引き上げるとそんな声が聞こえた。

「緑笙……?」

 廊下の奥、足を沈み込ませることなく歩いてくる小柄な姿に黒羽は眉根を寄せる。

 近づいてくる彼の顔に違和感を覚える。瞳の色が違うのだ。それに表情も違う。

「これは瘴気を浄化する神の力が具象化したものだ。妖刀にとっては猛毒だよ」

 記憶の片隅にあるものとさっき柳沙から聞いた言葉を思い出し黒羽は嘘だ、とつぶやいた。

 だがどこまでも高みから見下ろしてくる冷めた青い瞳に見つめられ固唾をのむ。

「……アデル、なのか」

 かすれた声での問いかけは笑顔で肯定される。

「弱っている内にしまったほうがいいよ」

 いつの間にかアデルが冥炎の鞘を持っていて黒羽に投げつける。

「どういうことだ。最初から緑笙はいなかったのか」

 ひとまず冥炎をしまい黒羽はアデルを睨んだ。

「いるよ。今は眠っていて僕が体を使ってるんだ。元はと言えばこの体は自分のために作ったものだからこれは僕の体、だな。本当は緑笙の精神はいらなかったが、肉体には魂が必要だから仕方ないね。思ったより緑笙がしぶとくてしばらくはこの不便な状態はがまんしておかないとならないな」

「ふざけんな! だったらその体は緑笙のもんだろうがっ!!」

 確かに心を持って生きている緑笙をいらないと一言で切り捨てるなど許せない。

 アデルはわずかに眉を動かし小さく笑い声をあげた。

「お前達の体は女神のためにつくられたものだよ。そして僕はお前達を好きに使う権限を与えられている」

 アデルの言葉にさらに殺意さえ覚えて黒羽が声を荒げかけたとき、大きく周囲がたわむ。

 そして周囲の壁が床に溜まったものに溶け込んで消え、いきなり辺りがひらけた。七角形の百は人が詰め込めそうな広い空間。

 その床は固い本来のもので中央に天井から床まで届く釣り鐘の形をした水があり、その中に巨大な翡翠色の卵が見えた。

「漓瑞!」

 翡翠の卵の中の人影に黒羽は反射的に名前を呼びかけるが返事はなかった。

「アデル、どうなってんだ!」

 微動だにしない漓瑞に魂の奥底から震えがくる恐怖心を振り払い、黒羽はアデルを振り返る。

「原初の神が息を吹き返すんだよ。まだ瘴気が足らないな。ずいぶん時間がかかっている」

「つーことはまだ間に合うんだな」

 アデルの言っている意味はそれぐらいしか分からないが、まだ手が届くならそれでいい。

「さあ。彼の意識はもう消えているかも知れない……それに、この場所がひらいたのは異物を見つけたからだよ」

 アデルが肩をすくめて嘲笑を浮かべる。

 すでに漓瑞の元へと動き始めていた黒羽は、聞き返すより早くその意味を知ることになる。

 卵を囲う釣り鐘の形をした水がうごめき、蔦へと姿を変えて伸びはじめる。それは周囲の床石を表面に張り付かせて黒羽めがけて襲いかかってきた。

「行くぞ、冥炎」

 鞘から解放されたと同時に冥炎の刀身が炎に包まれる。かなり霊力は喰われたと思ったがまだまだ余力がある。

 旋回しながら向かってくる石の鎧を持った水の蔦を斬る。

 だが斬れるのは石のみだ。蔦は炎を呑み込んでしまう。よくよく見れば蔦は全て翡翠の卵、その中の漓瑞の魔族の刻印がある左手辺りから伸びている。

「妖刀はきかねえのか……」

 舌打ちしている間に数十本の蔦が一気に襲いかかってくる。

 黒羽は冥炎を薙ぎ正面の蔦向けて炎の大波を起こす。その勢いのまま体を回転させ背後にも同じく炎を放つ。

 そうして炎を取り込む間蔦の動きが鈍っている内に距離を取る。

 倒すことは無理だろう。

 とにかく漓瑞をあの卵から引きずり出さなければ。

 しかし数歩も動かないうちに蔦がまた攻撃を仕掛けてくる。半分を囮に、そして新たな炎を放つ隙を狙って。

「っ!」

 少しは避けられたが数本が黒羽の肩や足を貫通する。

 血が噴き出し痛みが四肢の動きを軋ませる。だが止まっていてはやられる。

 黒羽は歯を食いしばって次々と狙ってくる水の蔦を避けるが、傷は増えていく。それでも床に血の線を引きながら漓瑞へとじりじり近づいていく。

「アデル!」

 だが先にアデルが翡翠の卵の側にいた。

「……瘴気を浄化できていない、か」

 アデルが小さくつぶやいて黒羽を一瞥してから翡翠の卵の表面に掌を当てる。

「旧き神よ。その御名を我に示したもう」

 厳かな声に翡翠の卵が震え、蔦の動きが止まる。

 そうして閉じられた漓瑞の瞳がゆっくりと開かれた。その瞳は硝子玉のように透き通り卵と同じ色をしている。

「漓瑞……」

 自分を見て欲しいと呼びかけるが彼の唇は動かない。

 透明すぎる瞳は恐ろしいほどに静謐で、そこに漓瑞はいない。

「やはりまだか。しかし、もうすぐだな」

 アデルが唇を楽しげに歪めた。

「漓瑞!」

 呼び戻そうと名を叫びながら、黒羽は血まみれの足で漓瑞に歩み寄ろうとする。

 だがそれを再び動き始めた水の蔦が阻む。

 足を絡め取られ黒羽は転倒しうつぶせに倒れる。そしてさらにその体の動きを止めんと蔦が足と床を貫く。

 内から身を焼く痛みに悲鳴すら喉で潰れる。

 蔦が血飛沫を撒き散らしながら次に腕もまた攻撃を加える。

 ただそこまでしても蔦たちは直接黒羽の命を奪おうとはしない。しない、というよりは心臓や頭部、首など急所を狙いながらも動きを迷わせて出来ずにいるかにみえる。

「まだ、意識はあるのか。ここがひらけたのは異物の排除のためというわけでもないのかな」

 ぶつぶつとつぶやくアデルの声は、出血と痛みに意識が朦朧としている黒羽には届かない。

「邪魔、すんなよ」

 もうほとんど力の入らない指先で、冥炎の柄を握り黒羽は起き上がろうとする。

 足は重たい。全身が痛みに支配されている。息をするのですら苦痛だ。

 だが、まだ手足の感覚はある。剣も握れる。何より自分はまだ生きている。

 それでどうして戦えないことがあるだろうか。

 黒羽は冥炎を握っていない手の爪を床に立て、力を振り絞る。

「諦めねえから、な」

 手が届く場所にいるなら護り抜くのだ、今度こそ。

 黒羽の半身が僅かに浮く。その冥炎を握る手を潰そうと蔦が狙いを定める。

 終わらない。ここまで来て終わりになんか、絶対にしない。

「これで終わりだなんて絶対に認めねえ!!」

 手の甲に穴が空く寸前、黒羽の闘志は蒼い炎という形を取って冥炎から流れ出す。

 蔦が広がり水の膜となって包み込もうとするのを蒼い火は破った。

 黒羽が咆哮を上げて立ち上がる。それに呼応して炎が大波のように膨らんで、やがては渦を巻き暴れ狂う。

 炎の周りには陽炎が揺らめき、熱風が吹きすさぶ。

 水の皮膜が卵と黒羽を隔てる壁のごとく大きく広がり、青白い荒波を覆った。

 静寂は一瞬。

 炎を覆っていた皮膜は引き裂かれて細かな飛沫になって降り注いだ。

「同期、ではまだないか。だが、同期せずに浄化の力を凌駕するとは想定以上だな」

 飛沫を避けてアデルが卵から離れ、炎の渦の中に立つ黒羽を見ながら眉根を寄せる。

 炎は浄化の力を千々に引き裂いても飽き足らず冥炎は漓瑞に向かっていく。

「止まれ」

 傷は癒えきっていないものの、出血は止まった黒羽が短く命じ、一振りすると冥炎の炎は音もなく幻であったかのように消えた。

「アデル、そこをどけ。漓瑞を返せ!」

「どうにもならないよ。見てごらん、もう彼は彼でない」

 アデルが黒羽をあざ笑いながら翡翠の卵の前に誘う。

 漓瑞の瞳はもうすでに空だった。彼でないと同時に、他の何ものもいない。そのつくりものめいた瀟洒な顔は本当に人形に見えた。

「漓瑞」

 いるんだろう、まだそこに。

 絶望から目をそらしているわけでもなくそう感じた。何もないはずの瞳の奥で、かすかに彼の意志がちらついている。

 自分を、見てくれている。

「あたしが追いかけられんのはここまでだ。……頼むから、これ以上遠くに行くなよ。約束はちゃんと守れよ、馬鹿野郎が……」

 嗚咽が混じりそうな声で言って、黒羽は卵の殻に額を当てる。

 少し離れた場所でアデルが旧き神よ、と呼びかける。

 ふたつの声に漓瑞の口元がかすかに動いた。

 小さな、小さすぎる声が紡がれる。

 ただすぐ側にいた黒羽の耳は確かに届いて、彼女は泣き笑いの表情を作った。

「ここだ。あたしはここにいる。だから戻ってこい!!」

 殻が音もなく砕けて、きらきらと翡翠の光が散る。

 漓瑞が崩れ落ちて黒羽は両手を伸べて、彼の体をしっかりと受け止める。

 黒羽の肩口に顔を埋める体勢になっている漓瑞が咳き込み、顔を上げて目を丸くした。

「黒羽さん……無事だったんですね。なにもせずに置いてしまってごめんなさい」

 苦痛に耐える表情の漓瑞に頬を撫でられ、黒羽は嗚咽を堪えてその体を抱きすくめる。冷え切っているもののその体にはちゃんと温度がある。

「それはもういい。いいからここに来たんだ……」

 その体温をわずかたりとも逃すものかと腕の力を強めると抱き返された。

 確かな力、ぬくもり。

 全てが、腕の中にあってなくしたものは何ひとつない。

「……もう一度、あなたに会えてよかった」

 囁く声はどこまでも優しく、涙が零れそうになった。

 しかし漓瑞の後ろにアデルの姿が見えて黒羽は表情を引き締め、彼を背にかばい立ち上がる。

「次はてめえだ。その体、緑笙に返せ」

 表情を動かさないアデルが宙から符を取り出す。

「神の名が手に入らなかったのは残念だ。しかし、その代わりの成果は少しはあったかな。さて、せっかくだからお前も僕の実験室に連れて行ってあげるよ、黒羽」

 アデルが赤く燃える符を数枚投げつけてくる。

 黒羽はそれを斬り払おうと冥炎に力を送ろうとするが出来なかった。さっきので回復した霊力全部使い切ってしまったらしい。

 黒羽は漓瑞を抱きかかえて床に転がり攻撃を避ける。

「くそっ。お前の方は力は!?」

 漓瑞が刻印の刻まれた手を上げるが苦悶の表情で首を横に振る。彼も霊力をかなり消耗しているらしかった。

 そこへ新たに符が投げつけられる。

「黒羽さん、いけません!」

 漓瑞に覆い被さり黒羽はとにかく彼だけでも護ろうとする。

 そして背中で強い風が吹いた。それは強大な神聖な力だ。

「ぎりぎり間に合ったわね」

 体を起こし黒羽は聞こえてきた声に胸をなで下ろす。

「藍李、助かった」

 いつの間にか部屋の壁に出来ていた扉の側に、九龍を持って立っている藍李が歩み寄ってくる。近づいて来てやっと分かったが、彼女の裳裾は汚れ他のところも衣が所々破けて血が滲んでいる。

「お前は大丈夫か? なにがあったんだよ」

「カイルの馬鹿に足止め食らっただけよ。心配しないでもかすり傷程度だから大丈夫よ。あんた達も大丈夫そうでよかったわ」

 そう言って乱れた癖の強い赤毛を背にはらう藍李の姿が、先代東部総局長に重なって見えた。

「さて、お久しぶりですわね、アデルお兄様。カイルに聞いたときは信じられなかったけど本当に体を変えて好き勝手やってるようね」

 凄絶な笑みを浮かべて藍李がアデルに神剣を向ける。 

「……久しぶりだね。君も相変わらずだ。カイルから話は全て聞いたのだろう」

「ええ。聞いたわ。でもどうだっていいわ。秩序を乱す真理なんて必要ないのよ」

 言って、藍李がアデルに斬り込む。

 身の丈の半分以上ある巨大な幅広の九環刀を持っているとは思えないほどの速さだった。

「さすがに、君相手は分が悪いな……っ」

 アデルが空間を裂いて逃げようとする。しかし目眩を起こしたか、彼の体が傾ぐ。

 その瞳が片方、色を変えている。緑へと。

「緑笙、表に出てくるな」

 忌々しげにアデルが吐き捨てる。その隙に藍李が彼の肩を九龍で砕いた。

「おい、中に緑笙がいるんだから無茶はすんな!」

 あまりの容赦のなさに黒羽は思わず声を上げていた。

 今表に出ているのはアデルとはいえ体は十二の子供のものだ。すぐ再生するとはいえいくらなんでもやりすぎだ。

「……今、殺しておかないでどうするの」

 返ってきた藍李の声は酷く冷たかった。

 彼女の横顔は今まで見たこともないもので黒羽は呆然とする。

「よせ!」

 藍李が仰向けに倒れたアデルの腹を片足で踏んで押さえつけ、そのまま心臓めがけて振り下ろそうと九龍を持ち上げる。

 黒羽がとにかく藍李を止めようとした矢先、藍李の背後の空間が避ける。

 先にそこから飛び出してきたは細い切っ先だった。

 藍李がすぐさま身を翻して剣を弾き返し距離を取る。

「ランバート」

 歯噛みして藍李が現れた二十前後の眼鏡をかけた青年の名を呼ぶ。

 二十二だという本局長であり西部総局長でもある青年は、本来のアデルの姿とよく似ていた。

 整った顔立ちも似ているし金糸の髪に青い瞳は兄と同じ色をしている。日向の色彩を宿しているのに、陰鬱な雰囲気を纏わせているところまでそっくりだ。

「さすがに、奇襲はお前には荷が重かったか。表にいすぎて疲れたから僕はしばらく眠る。後は任せた」

 すでに傷は癒えているらしいアデルが宙を撫でて揺らいだそこへ体を潜り込ませる。黒羽は追いかけるが間に合わなかった。

「藍李、剣を収めてくれないか。ここで今俺たちが戦う意味はない」

 ぼそぼそとした陰気な口調でランバートが言う。

「意味がないって、奇襲しかけておいてそれはないんじゃない?」

 殺気を漲らせて、藍李が薄笑いを浮かべる。

「あんな小細工で君を倒せると思っていない」

「…………まあ、そうね。それでどういうつもり。あの人のやってきたことを肯定するの?」

 神剣の宗家当主達が剣を収めるがふたりの間の空気は緊迫したままだ。

 黒羽は傍らにやってきた漓瑞と顔を見合わせる。

 ここで自分が口を挟むわけにもいかず黙って見ているしかなさそうだ。

「兄上のやっていることが全て間違っているとは思っていないと俺は言った」

「その時言ったわよね。あのひとのやったことに正しいことはないって。正しいのは私だと信じなさいと言ったでしょう」

 ランバートが藍李から目をそらしうつむく。

「藍李は、いつだって正しい。だけど俺は何故正しいのか知りたい。それだけなんだ。君にいくら叱られたって兄上にもう一度、ついて行く」

 真正面から自分を見ないランバートに呆れた顔をして藍李が鼻を鳴らす。

 端から見ればたしかに藍李が年上に見える。ふたりの会話の意味を把握しきれない黒羽はぼんやりそう思う。

「勝手になさい。こっちはこっちで動かせてもらうわ。それで、今に今まで何してたの? 私から逃げ回ってただけじゃないでしょ」

 藍李の問いかけにランバートが漓瑞を見やり、一通の書状を胸のポケットから取り出す。

「漓瑞皇子、レイザスの皇帝から勅書を預かっています。妖刀がふるわれた玉陽の領地の所有権と統治権を放棄し、独立を認めると」

 今回の緋梛や緑笙のことは監理局のあずかり知らない妖刀である。制御されていない妖刀によって瘴気が一部で蔓延し、妖魔が増えて作物も育たなくなることになる。帝国はそんな報告を受け、国内の不安定さもあっていらぬ火種を抱える玉陽を切り捨てることにしたということだ。

 漓瑞が不可解そうな顔をしてその書状を受け取り、さらに困惑を深めた顔をする。

「なんか問題あるのか?」

 書状を覗き込んでみるがよくは分からない

玉璽ぎょくじは本物でしょうが皇帝の署名が違います。どういうことですか?」

「おとついアドニス六世が崩御しグリフィス第五皇子が新皇帝として即位しました」

 都合よすぎる時期に加え、第五皇子が即位という不自然さに黒羽はぎょっとしてランバートを見る。

「まさか簒奪に手を貸したの」

 藍李が怒りに震える声で問うてランバートが首を横に振った。

「……俺はただ新皇帝に玉陽のことを話してきた、それだけだ」

 アデルが何をしていたかは知らないという含みを持たせた言い方だった。

「まずはここを出よう。兄上が言うには今日中にはこの場所は閉じてしまうらしいから出られなくなる」

 藍李が怒鳴りつける前にランバートがそう言い、全員ここから出ることになった。

 黒羽は傍らに漓瑞がいることには安心を覚えていたが、無言で厳しい顔つきの藍李には複雑な思いを抱えていた。

 部屋を出るときに漓瑞が振り向き、黒羽もつられる。

 中央では砕けた翡翠の卵の殻が天井からこぼれ落ちる光を受けてきらきらと光っていた。

 砕け散った欠片だというのにそれはどこか胎動しているかのように見えた。

 

***


 表に出て黒羽は目を丸くした。

 滝があった場所に白い七角形をした塔が天高くそびえていた。そのあちこちに空いている四角い窓から水がこぼれ落ちて周囲に浅い翡翠色の池を作っている。

 なにより中の広さに比べその塔は細い。あの漓瑞がいた部屋よりも狭いのではないのだろうかと思えるほどだ。

 そして全員が外へ出ると同時に扉が消えた。

「おーい」

 池の畔で尚燕が手を振っていた。呂氾に柳沙、ひとり座り込んでいるカイルもそこにいる。

 浅い池を渡ると真っ先に駆け寄ってきたのは柳沙だった。

「皇子殿下、ご無事で……」

 漓瑞が涙をこぼす柳沙に淡く微笑んでうなずく。そして柳沙が黒羽に目を向ける。

「黒羽、ありがとう……」

 その言葉に黒羽は破顔する。今度はちゃんと護り抜けたのだと強く感じた。

「なに、治療なんてしてあげることなかったのに」

「いや、さすがにこれはほうっておくのもなんだろう。つーかやっぱりてめえがやったのかよ」

 藍李と呂氾のやりとりに黒羽はやっとカイルに目を向けて彼の状態に絶句する。

 応急処置として額に包帯が巻かれ左腕には添え木がしてあるところをみると、折れているらしい。片足は血に濡れている。

「すまない、無理をさせた」

 ランバートがカイルの傍らに片膝を立てて屈んで表情を陰らす。

「いえ、覚悟はしていましたので……」

「ちょっと、私が悪いみたいなやり取りしないでよ。両足折らなかっただけでも感謝しなさい」

 その脇で呂氾が片足の腱が切れてたぞとぼそりと言う。

「……俺は本局に戻る。柳沙に関しては今後五十年の監視処分とする。漓瑞皇子の事は藍李に任せた」

 監視処分。それは居住する場所は定められ行動は監視下に置かれるが刑としては軽いものだ。

 なぜ、と柳沙が問う。

「兄上からの協力に対する謝礼だ」

 ランバートが渡し人を呼ぶために笛を吹く。近くで待機していたのかすぐに空間は裂けた。

「……いいわ。こっちでの仕事が終わったら戻るから逃げるんじゃないわよ」

 藍李が気持ちを静め、長く息を吐いてから言ったことには答えず、ランバートがカイルを支え舟に乗り込み消えた。

 そして黒羽達もひとまず支局に方へ戻ることになり、舟を呼ぶ前に漓瑞が待って欲しいと言って塔を向いて懐から短刀を取り出した。

 刃は細い漓瑞のそ首の後ろへ持って行かれる。

 空いている片方の手は長い髪を束ね刃が首と髪の間に入り込む隙間を作った。

 そして。

 ざっくりとその後ろ髪は切り落とされ、はらはらと手からこぼれた髪が幾筋か落ちる。

 切り落とした髪も池へ落とされ水に溶けて消えた。

 漓瑞が瞳を閉じて呼吸をひとつする。

「お待たせしました。いきましょう」

 次に目を開けたとき、漓瑞から儚い少女のような印象は消え去っていた。

 


 

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