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女神の玉座  作者: 天海りく
翠卵の皇子
8/67

六-2

***

  

 なんだか眠れない気がして、黒羽はいつも通り漓瑞の部屋を尋ねていったが、彼は不在だった。

 声をかけても返事がないので鍵のかかってない扉を開けると中は真っ暗だった。

 手探りで窓の帳を明けると、空にある丸い月が簡素な部屋の寝台や机の輪郭を浮き上がらせた。

 黒羽はそのまま窓辺で漓瑞が戻ってくるのを待つことにした。

 だけどその日に限って彼はなかなか帰ってこず、椅子に腰掛けたり立って狭い部屋を意味もなくうろついて不安を紛らわせていく。

 広い監理局の中は教務部の棟とこの部屋の場所以外は知らないので、探しに行って行き違いになるのは避けたい。だが、魔族監理課は困っている魔族を助けるだけでなくて悪い魔族を捕まえたりもしなければならないらしいので、今日はそういう危ない仕事なのかも知れないと思うと恐かった。

「強い奴は簡単に泣いたりしないんだ」

 そう自分に言い聞かせてごしごしと手の甲で湿った目をこすり深呼吸する。

 でも不安が心をどんどん染め上げていって喉が引きつる。

 耐えきれず涙が一粒こぼれたときになって扉が開いた。

 黒羽は嗚咽をぐっと呑みむ。

「何でいないんだよ馬鹿野郎!」

 癇癪を起こすと漓瑞は目を瞬かせた後、そっと抱き寄せてくれた。

「ごめんなさい。少し、仕事に手間取ってしまって。本当にごめんなさい」

 優しい声と共に背を撫でられると、もう嗚咽しか出てこなくなった。

 そして落ち着いた頃に自分の背をさすってくれていた漓瑞の肩口に、黒い染みを見つけて怪我をしていることに気づいた。

「お前、怪我……」

「掠り傷です。もう治してもらったので大丈夫ですよ」

 漓瑞が血の染みの部分を自分自身で軽く叩いてみせる。本当に治っているらしい。

 それでも黒羽の中にはまた恐怖心が色濃くなってきていた、

(あたしの知らないところで危ない目に遭ってたんだ……)

 何も出来ずに目の前で失ってしまうのも嫌だけれど、なにも知らないうちになくすのはもっと嫌だ。

「漓瑞」

「なんですか?」

「あのな。あたしはまだガキだから仕事にはついていけねえけど、大人になったらちゃんとお前のこと護りたい。でも、遠くにいるとなんにもできないから、できるだけ近くにいてくれるか?」

 たどたどしく頼むと、きょとんとしていた漓瑞が、小さな笑い声を漏らす。

「なんだよ」

 何がおかしいのか分からずに唇を尖らせると、彼は目を真っ直ぐに見つめてきて微笑む。

「私も腕には多少の自信がありますが、あなたはきっと私より強くなるのでしょうね……。その時は黒羽さんの力を借ります」

「約束だからな。ずっと一緒だからな」

「ええ。約束します」

 淡い月光に似た、柔らかく優しい笑みはずっと覚えている。

 それから本当にずっと一緒だった。局員になる頃には漓瑞と同じ部署に配属されて、ずっとずっと一緒で、なにひとつ変わることはないと信じていた――。


***


(全部、嘘だったんだ。一緒にいるって約束したのに)

 過去から目覚めた黒羽は憤りと共に体を起こそうとするができなかった。

 横向きに寝かせられている体は、寝台にくくりつけられているのかと思うぐらい重たく動かすのが困難だ。どうにか仰向けになろうと体をひねると激痛が走った。

「い、ってえ……」

 かすれた声でつぶやくと近くで物音がして誰かが歩み寄ってくる音がした。わずかな期待を持ったが、顔を覗き込んできたのはひどく安堵した顔の呂氾だった。

「無茶すんな、傷口開くぞ。血を補うので霊力使い果たして傷は縫ってあるだけなんだからよ」

 いつになく口調の穏やかな呂氾に黒羽は起き上がるのを諦めた。それにじくじくと腹の裏が痛み、体勢を変えることすらためらわれるので手を貸して貰わねば無理だろう。

「……どうにか、生きてんだよな、あたし」

 柳沙に刺された瞬間の事を思い出した黒羽は傷に障らないよう小声で話す。

「運がよかったんだよ。医務部つれて行って本当によかったぜ。あのまま誰も来なけりゃ死んでたぞ。いくら身内だからって甘過ぎなんだよ、てめえは」

 あきれ果てた声で言いながらも、黒羽の髪をぐしゃぐしゃにして頭を撫でる呂氾の手つきは優しかった。

「……刺した奴のことは後ろからだったから顔は見てねえ。でもたぶん顔見知りでもなかった」

 視線をそらして黒羽は答える。

 監理局員の殺害未遂は背信行為であり重罪だ。柳沙は柳沙で漓瑞を護ろうとしての事だったのだから自分は罪に問いたくなかった。

「そうか。刺した奴と漓瑞以外には誰もいなかったんだな」

 特に追求することもなく呂氾が質問を重ねる。

「まだ、誰か協力してる奴がいるのか? そういや緑笙と緋梛はどうなったんだ?」

 動揺して声を波立たせると、その衝動が傷に伝わって黒羽は顔をしかめる。

「緑笙は消えやがった。どうにも渡し人に運んで貰わなくても好きなところに移動できるみてえだ。あとは符術使う奴がひとりいる。そいつが煙幕張ってるうちにたぶん緑笙が漓瑞も運んだんだろ。緋梛はお前と同じで傷が酷くてまだ意識は戻ってねえが、丸一日経ったんだ。そろそろ起きるだろ」

 丸一日、という言葉を聞いて首を右の窓側へと動かす。意識を失う前に見た朝日がまだ暗い部屋に帳の隙間から静かに光を忍び込ませている。

「漓瑞」

 あれからそんなに経っていないと思い込んでいた黒羽は跳ね起きる。

 だが、出来るはずもなく苦痛にうめいた。

「だから無茶すんな。今、人呼んでくるからよ」

「……漓瑞は、どうなったんだ。まだ、生きてるよな」

 冷や汗と脂汗を両方顔に浮かばせ黒羽は苦痛をこらえて呂氾に問う。

「消息はわからねえ。だが向こうの目的は漓瑞らしいからまだ生きてんだろうよ。もうすぐうちの総局長直々においでになるって尚燕が言ってたからな。とにかくてめえ傷治すのが先だ。それじゃ飯も食えねえだろ」

 言いながら呂氾が部屋の入り口に向かい、扉をあけて近くにいる医務担当の局員を呼んだ。

「あの、呂氾部長、黒羽室長は女性なので……」

 入ってきた中年の女性局員が言いづらそうに、寝台の近くにある椅子に腰を下ろす呂氾に声をかける。

「ん、おう。そうだったな。忘れてた」

 そして数瞬考え込んでから、失礼なことをぼやいてから彼は出て行った。

「……傷を塞げるほどの霊力は回復しているようですが、治療してもよろしいですか? 妖刀が抜けるだけの余力を残して、ある程度動けるだけまで回復させることもできますが……」

 黒羽の上半身をはだけさせ、うつぶせにさた局員がそう訊く。

「一気に治してください。冥炎はなくても戦うことはどうにか出来ますから」

 まだ、漓瑞のことは諦めきれない。諦められるはずがない。

 怒りも悲しみも全部ぶつけないと気が済まない。

(あれが最期だなんて絶対に認めねえ)

 置き去りにされて意識を失う瞬間にはもう何も出来ないと思った。

 だが希望があるのなら、手の届くところまで追いかけていって護り抜きたい。たとえまた彼に突き放されてもいい。

 とにかく最期の最期の瞬間まで動くのをやめたりはしない。

 四半刻ばかりかかった治療の間に傷が癒えていくのと同時に、黒羽の活力も目覚めていく。

「これだけの傷ですから、痕は残ってしまいますね」

 治療を終えて一息ついた局員が顔を曇らせる。

「別にそれぐらいどうってことないっすよ。それより、飯、頼めますか?」

 痛みが消えたとたん襲ってきたのは空腹だった。もう腹の中は空洞で何も入ってないのではないかと思えるぐらいだ。

 局員が苦笑してすぐに持ってきますと部屋を出ると、呂氾が戻ってきた。

「あいつらの目的が漓瑞ってどういうことだ?」

 黒羽は開口一番にそれを訊いた。

 目的によっては彼を見つけ出す時間の猶予は出来るはずだ。

「それはわかんねえよ。とにかく全部総局長来てからだ」

「……でも、総局長ってもう腐蝕が進んでるんじゃ」

 年に一度支局を見て回っていた総局長の訪れは腐蝕が進行して五年ほど前からない。そんな状態で果たして出てこられるのだろうか。

「代替わりするらしいぜ。それでな、藍李の奴が昨日から実家行って帰ってねえんだよな……」

 深刻な顔で呂氾がつぶやいて、黒羽はなぜここで藍李の名前がと思いながら首をかしげる。

「あいつの実家、なんか大変なのか?」

「カイルが藍李に敬語、使ってたんだよな。尚燕の奴に話しかけてんだと思ったんだけどよ、あれは絶対に藍李の奴に話しかけてた」

 神剣の血族の分家当主が年下の小娘相手にそんな態度を取る理由はひとつしかなく、それに思い至った黒羽は口を半開きにする。

「…………いや、いくら何でもよ、それはねえだろ」

 そうだとしたらこんな支局でいったい何をしているというのか。

 師弟は複雑な顔を見合わせて、考えるよりも来たらはっきりするだろうと結論づける。

 そして黒羽が小麦の団子と野菜を柔らかく煮たあつものを鍋ひとつ分汁までたいらげた上、医務部の少女達が見舞いにもってきた干し杏やらすももまで全て胃に収めて一息ついた頃。

「ちょっと遅かったわね。実家になってた無花果持ってきたんだけどまだ食べられる?」

 藍李が籠にいっぱいの無花果を持って部屋にやってきた。彼女が歩くたびにいくつもの金属同士が触れ合う澄んだ音が響く。

「まだ食えるけどよ……。背負ってるのはなんだよ」

「新調したのよ。昇進ついでにね。ということで今日付で総局長になったんでよろしく」

 事も無げにいいながら、藍李が無造作に背中の太刀の柄を握る。それだけのことでむき出しの刀身の上部と下部に巻かれている帯の、蒼玉で出来た留め具がカチリと音をたてて外れる。

 藍李が背から下ろした太刀は九環刀きゅうかんとうで、背についた九つの環は龍を模している。

 紛れもなく女神より与えられた四振りのひとつである神剣九龍だ。

「よろしくじゃねえよ。お前、今まで何で黙ってカイル達の好きにさせてたんだよ」

 呂氾から椅子を渡されてそこに腰掛ける藍李を黒羽は眉根を寄せて見る。

「漓瑞を盾に取られちゃったからしかたないでしょ。だいたい私がいるのに西側が出てきてるなんて現場が混乱するし、神剣の血族同士の揉め事は下には知られたくはないの。最初にカイル来たときが私を邪魔者扱いしてくれたのは、対立してるように見せかけてれば私が名乗り上げづらくなるからよねえ。本当にいらないことばっかり気が回るんだから」

 いつもとかわらない調子で藍李は言いながら、呂氾に寝台の隣の小さな卓に置いてある無花果を勧める。

「いや、せっかくだけど俺は甘い物はあんまり好きじゃないから遠慮しとく。……つーか、なんで支局にいたんだてめえは。漓瑞の監視なら尚燕ひとりで足るだろ」

「それは母が支局で居た方が鍛えられるだろうって考えたからです。まさか漓瑞が入局してくるなんて思ってもなかったし、黒羽がこんなところに居るなんて知りもしませんでしたわよ。とにかく今は緋梛治療中だからその間に食べてなさいよ。帰ったところで引き継ぎが出来たこと以外に収穫はなかったんだから、緋梛に喋ってもらわないとどうしようもないわ」

 どうやら緋梛はもう起きているらしいが、傷を塞いでおかねば喋ることは難しいらしい。霊力の回復がまだ十分ではなく時間はかかるそうだ。

 それにしても藍李がもっと早くに総局長を引き継いでいれば、まだどうにか向こうを牽制できたのではないだろうか。

 そんな疑問を呂氾が口にすると藍李は唇をとがらせた。

「宗家の当主が生きてるうちの引き継ぎは面倒なのよ。自分のとこの分家の総意と他の宗家の当主全員の承認がいるの。さすがにこの状況だから動ける私が総局長になった方がいいと思ったんだけど、承認貰おうにも西のオルフェの当主が本局長な訳でしょ。いくら本局中探したって見つからないから苦労したわ」

 そうなると本局長とは直談判できなかったわけじゃないのかと呂氾が訊く。

「見つかってませんわよ。この際もう仕方ないからうちの母親説得して勝手に引き継いで来ちゃったのよ。あとで面倒なことにはなってもこっちにも意地ってものがね」

 それは結構な揉め事の種になるのではないのだろうか。

 師弟はそろって思ったが、薄笑いを浮かべる藍李の表情の裏に異様な気迫を感じて質問を引っ込めた。

「……そういや今、内乱の状況はどうなってんだ?」

 まだ腹に十二分の余裕のある黒羽は、甘い汁をたっぷりと抱え込んだ無花果を手に取りそれを訊く。

 漓瑞のことでいっぱいになっていてすっかり頭から抜けていたが、まだ内乱は続いているはずだ。局の外は早朝ともあって静かだが、何か起きているのだろうか。

「動きは今のところないぞ。ただ次に騒動が起こるとしたらここだろうな」

「江翠は実質ほとんどが山で州としてはほとんど機能してないから、あとは城藍さえ落ちたら終わりね」

 藍李が無花果を取って丁寧に剥きちょうどひとつめを食べ終わった黒羽に渡す。

「……本当はね、もう半年ぐらいしたら私は本局に戻って来年に引き継ぎする予定だったのよ。本局に戻るまでにあんたには私から神子のこと、アデルのこと話しておくつもりだったんだけどね。こんなことになって悪いとは思ってるのよ」

 しおらしくそう言われて黒羽はため息をついた。

「課長にも言われたけどよ、それは後だろうと先だろうといいんだよ。頭悪いから一気に理解しろって言われるのはきついけどな。……漓瑞のことはあいつ自身から聞きたかったな」

 出来るなら漓瑞から全部聞きたかった。それはもう無理だとしても聞きたいことはまだ山ほどある。

 もう一度会えたらちゃんと話が出来るだろうか。話してくれるだろうか。

 考えるよりもやはり会いに行かねばどうしようもないと、黒羽はよっつめの無花果を呑み込んで手洗い様の小さな器で指先を洗う。

「あいつ、どこに居るんだろうな」

「可能性が高いのは江翠ね。あそこは小さい山がいくつも集まってて入り組んでいるし、聖地として人の進入も少ないから皇家の人間が潜むにはちょうどいいわ。と言っても監理局の記録にもそれらしき隠れ家の場所も書いてないから、緋梛から具体的な場所を聞かないと無理ね」

 なにもかもがあの少女ひとりの手に握られているのだ。

 黒羽は出来るだけ多くの手がかりを得られることを願いながら、声がかかるのを待つのだった。

  

***

 

 緋梛が目覚めたのは藍李が神剣を携えて戻って来てから半刻が経った頃だった。

 黒羽は病室に入ってまず、寝台の上で半身を起こし藍李に深く頭を下げる緋梛の姿に驚いた。

 寝衣から覗く細い首やら腕は包帯で覆われこめかみや頬にも湿布が張ってある。重症とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。

 見張りとしてついている尚燕が言うには、深い傷しか癒やせるぐらいまでしか霊力が戻っていないということだ。

「派手にやられたわね。なにがあったの」

 藍李の問いかけに緋梛は顔を上げて困った顔をする。

(なんか、全然別人みたいだな)

 黒羽は緋梛の様子に目を瞬かせる。最初に対峙したときと雰囲気がまるで違う。好戦的でもっとつっかかってくると思っていたら、素直でしおらしい。

「……よくは覚えていません。緑笙と演習場で話していたのですがそれから記憶が飛び飛びになっていて」

 自分の身に起きたことを緋梛はとつとつと話し始める。

 本局の演習場で緑笙に話しかけられたところまでは覚えているらしい。それからは断片的に緑笙と一緒に居たことや黒羽と戦った記憶があるだけだという。

「昨日の朝にはあそこに居て、支局が見えたのでとにかく自分の状況を説明しないとって思って向かおうとしたところで緑笙に襲われました。あの子、何かに怯えてて力の制御が出来てなくて、あたしの力じゃ敵わなくってもう駄目だと思ったときにカイル様が助けに入ってくれたんです」

 死に直面したときのことを思い出したのか、緋梛の上掛けを握る手が震えていた。彼女の様子からすると嘘をついている訳でもなさそうで、その場にいる全員が表情を曇らせる。

 こうなると情報を引き出すのは難しいかも知れない。

 黒羽は焦りに拳を握り掌へ爪を食い込ませる。

「本当に何も覚えてねえのか。なあ、何でもいいから漓瑞のいる場所の手がかりとか」

 思わず詰め寄ると、緋梛は本当に申し訳なさそうにうなだれた。

「黒羽姉さん、いろいろごめん」

 姉さん、という響きに黒羽は目の前の少女が自分と同じものであると重く実感する。

 彼女もまたアデルの犠牲者だ。

「いや、お前のせいじゃねえからな……」

「あ……探している人がそこにいるかは分からないけど、今まで見た景色だけはちょっとは覚えてるわ」

「本当か?」

 やっと希望が見えて黒羽は期待に表情を明るくする。

「……えっと、鱗みたいにたくさんの池が重なってるのを見たわ。白い岩肌に緑の水。その近くに大きな滝もあったと思う。……そこで長い黒髪の綺麗な女の子を見た気がする」

 自分の記憶を声に出してたどる緋梛が弾かれたように顔を上げる。

「アデルが、生きてる」

 それは自分自身の言葉に驚いた言い方だった。 

「死んだんだろう、あいつはもう」

 黒羽は藍李に視線を送る。

「間違いなく死んでるわ。遺体は私も確認したし、検死をしたのはうちの父よ。間違いないわ」

「……そういえば、彼は符術が得意だったよねえ」

 尚燕がぼそりとつぶやいてその場が静まりかえった。

「緑笙の奴もアデルが生きてて命令してくるつってたけど、そんなことありえねえだろ」

 否定しながらも黒羽の肌が粟立つ。

 得体の知れない気色悪さと恐怖が脳内を揺らしている。

「姿をちゃんと見たの? ランバートじゃなくて、確かにアデルだったの?」

「……本局長じゃなかったのは確かです。確かにアデルと会ったっていう記憶はあるんです」

 緋梛の真摯な訴えかけに藍李が口元に手を当てて思案する。

「……このところ、ランバート……本局長は局にはほとんどいないみたいなのよね。執務室は散らかってなかったし、オルフェの屋敷の自室も片付いてた。アデルが使ってた研究室は封鎖されたままだったから、こっちで動いてると思ったんだけど」

 本局長の姿は見ていないのかと確認する藍李に緋梛が首を縦に振った。

「くそ、結局ろくにわかんねえままか。とっとと乗り込んでいって直接きくしかねえだろ」

 こんなところで押し問答している時間はもったいないだろうと黒羽は藍李に言う。

「変わった地形は江翠で間違いないわね。渡し人に緋梛が見たもの伝えたらある程度は場所絞ってくれるかも知れないわ。もうちょっと具体的に特徴とか思い出せない?」

 緋梛はそれから少し考え込んで、弱々しく首を横に振った。

「とにかくしらみつぶしに探すしかねえみたいだけどよ、二手に別れるか?」

 呂氾がそう提案したときだった。慌ただしい足音と共に局員が部屋に飛び込んできた。

「失礼します、室長、じゃなくて総局長、城藍の西門と東門で戦闘が始まりました」

 元は藍李の部下だった局員がそう告げ、ついに、という思いで四人はその報告を聞く。

「状況は?」

「門の側で戦っているので町のほうに被害はそうありません。ただ、そこから反乱軍が中央に押し進む気配がありません」

 まるで門扉に兵をひきつけているようだ。

「まずいんじゃねえか?」

 顔をしかめながら呂氾が藍李に問いかける。

「僕と呂氾はそれぞれ門の側にいってたほうがいいかもね」

 事態を把握できていない黒羽は、尚燕の言葉で反乱軍は兵を集めて妖獣をけしかけるつもりかもしれないと遅れて気づいた。

「そうして。すぐに付近に避難勧告だして出来るだけ中央へ待避させて」

 藍李に命じられた局員が威勢よく返事をして駆けていき呂氾と尚燕もそこに続く。その後姿が見えなくなってから藍李が唇を噛む。

「これで、誘拐された子達は全員、望みが絶たれたわね」

「畜生が…」

 黒羽は怒りを吐き捨てる。

 こんな卑劣なやり方はアデルでしかないと思えるが、生きているということはまだ信じられない。とにかく誰だろうと許せる行為ではない。

「……刻限」

 ふいに緋梛がつぶやく。

「刻限が近いってアデルが言ってた。管理者の手に全てが戻る時に管理者もまた本来あるべき形になるだろうって」

「さっぱり意味がわからねえぞ。藍李、分かるか?」

「管理者……は漓瑞で刻限は城藍が落ちるとき、かしら。管理者が本来あるべき形は、よく分からないわ」

 藍李が考えても分からないことは自分が考えても無駄だと黒羽は冥炎の柄を握る。

「城藍が落ちたらなんか起こるんだろう。だったらここでぐだぐだしてねえで探すぞ」

 扉に向かおうとする黒羽に藍李がため息をついた。

「探してる間に師範達が間に合ってくれればいいんだけど……しかたないわね。冥炎は抜けそう?」

 柄を握って抜こうとするが、やはりぴくりとも動かない。

「だからってここで待ってろって言われても待たねえぞ」

「分かってるわよ。ひとりで行動するのは危ないから絶対に私から離れて無茶しないことだけは約束して」

「……努力する」

 頭に血が上ると自分の行動が制御できないことぐらいは分かっている。それでもこの頃はずいぶん落ち着いてきて、四、五年前ほど簡単に感情的にはならないはずである。

「……急ぐぞ」

 藍李から何か言い返される前に黒羽は外へとむかった。


***


 かつて女神の箱庭と呼ばれた江翠は一面の緑で覆われている。

 林立する細い柱にも見える岩や大地に根を下ろす木々に葉は茂り、下草も緑の絨毯をなす。葉脈のように流れる沢の水も翡翠さながらの色を湛え、隆起した大地のあちらこちらで落下する水ばかりが白い。

 そしてその奥深くには鱗状に無数の池が重なっている場所が点在する。

 乳白色をした鱗の形をした石の皿が重なり合い、そこに湛えられた水は澄み切った翡翠色で浅い底を透かしている。

 その池の集合体のひとつ、北側に切り立った高い岩壁が広がり、その岩肌を全て覆うほど巨大な滝が位置する場所に漓瑞は裳裾を濡らしながら立っていた。

 視線を落とした先の水鏡には姉とよく似た自分の顔があった。

 ここによく姉と柳沙とで遊びに来ていた。十五になるまで顔を見せることの出来ない自分たちが外で遊べる場所は、城の禁園の狭い範囲とここしかなかった。

 はしゃぎすぎる姉を困り顔で嗜める柳沙。たまに伯父も来て剣の稽古をすることもあった。姉は衣が濡れることも厭わずに水に入り足で水面を蹴り上げたりしていた。彼女にはよく水を被せられたものだ。

 穏やかで幸福に満ちたあの日々は二度と帰らない。安息を得られるのは国を取り戻したときだけだ。

 受けた背中の傷の痛みに喘ぎながら死んだ姉の傍らで、喪失感と護りきれなかった後悔に泣き濡れながらそう、思った。

「思ったより時間を取ってしまったな。戦勝の報告が来るのを待つ余裕はないだろうが、王宮の官吏達も動き出した。勝利は確実だ。いいだろう」

 どこからともなく現れた緑笙が金属製の丸いもの、西で最近開発された懐中時計というものらしいそれを手に持ち、蓋を開けて時刻を確認した後に頭上を見る。

 つられて見上げた夏の蒼天には太陽が眩く輝いていた。

「ええ。約束は果たします」

 漓瑞はうっすらと微笑んでいる緑笙の横顔を見る。

 何もかもが記憶の中の男と一致しているのが気味が悪い。瞳の色が変わった緑笙はアデルだと言った。

 未だに信じられない思いが大きいが、見せられる表情や口調に否応なく真実を突きつけられる。

「では戻ろうか」

 アデルに言われて漓瑞は水しぶきがかかるほど近くにある滝の方へと歩く。

 城藍まで取り戻せることに嘘はないだろう。後の処理も監理局を通じて帝国の介入を防ぐという言葉は、彼が今の本局長の兄である事実から真実味が増して安堵感もある。

 全て取り戻せる。待ち望んだ瞬間はもう手の届くところにある。

 滝の流れが止まり透明なそれは姿見のように、自分の姿を写している。向かい合う自分の顔は曇ったままで喜びは見いだせない。

「……あの子は、無事でしょうか」

 滝が割れて岩肌に扉が浮かび上がる。それを開きながら漓瑞は問う。

「さあ。そこまでは確認してないが、そんなに気になるのかい?」

 アデルが苦笑するのに漓瑞は答えずに歩き出す。

 黒羽といた十年という日々はささやかに得られた安らぎの時間だった。

 ひたむきで優しい黒羽の成長に触れる日々がどれほど大切だったのか、今の今になって思い知らされる。

 せめてあの子の未来が幸福であるよう祈っていたのに、自分のせいでその先は絶たれたのかもしれない。

 黒羽からとめどなく流れ落ちていた血が眼裏で明滅する。

「きみが気に病むことはないさ。粗悪品の緋梛よりも黒羽は出来がいい。生きている可能性は普通の人間より高いはずだ」

 神子という存在についてはアデルから聞かされたが、霊力や身体能力が優れているものの突出しているというほどでもなく他の人間とさして変わらなく見える。

 それでも希望が少しでもあるのならそうであればいいと思う。

「皇子殿下」

 扉の向こうは楼閣の内部で、所在なさげに廊下を歩いていた柳沙が頭を垂れる。

「……後のことはお願いします」

 そう告げると柳沙が顔を歪めた。

「私もお供します。姫様だけでなくあなたまでいなくなれば私の生きる意味などどこにもありません!」

「お願いです。どうか生きて私や姉の代わりに全てを見届けていてください。……あなたは、私達のもうひとりの母でした。姉も私もあなたに殉死して欲しいとは思いません」

 どうか、と言葉を重ねると柳沙がその場に泣き崩れた。

 早くに母を亡くした自分と姉にとって彼女は本当に母親同然だった。ここまで付き従ってくれたことには感謝してもしきれない。

 後は自分や姉、先に逝った両親と伯父に代わりにこの国を見守りながら穏やかにすごして欲しい。

「ありがとうございます」

 漓瑞は柳沙の泣き声を背に楼閣の二階へと続く翡翠の階段を昇っていく。

 二階には個別の部屋がなく、七角形の白い空間の中心に椅子の背に花の模様が透かし彫りされた翡翠の玉座がひとつだけ置かれている。

 十五の成人の時に王族はその前に跪き今はいない女神の洗礼を受ける。

「さあ、そこに座って」

 アデルの言葉に漓瑞は首を横に振る。

「なりません。あそこは神の座です。女神以外に座ることは許されません」

 それは背信行為であり、禁忌だ。祖先達が頑なに大事にしてきたものを壊すことはけして出来ない。

「……名というのは個を個とするためにある。それが複数の集合体であろうとひとつの名をつけてしまえばそれはひとつのものになるんだ」

 アデルが玉座の前に立ち、漓瑞に笑いかける。

「監理局の創設から三百年近くに渡っての記録がなにひとつ残っていないのは知っているかい? 今ある創設時の伝承が記録として初めて記されたのは創設から三百年後。その空白の間に監理局は神を単一化したんだ。まだ私も過去の真実を把握しきれてはいないが、かつて確かに神は無数にいた。そして世界は無数の神がそれぞれ所領を持つ多重構造だったはずだ」

 彼は、いったい何を言っているのだろう。

 漓瑞はアデルの青い瞳に縛りつけられるようにしてその顔を凝視する。

「だが世界はひとりの女神の元に統一された。そして女神に隷属した神は人と交わり神でなくなり名前を変えた。魔族、と」

 アデルが漓瑞の前で跪いてみせる。

「今いる魔族のほとんどが所領を持つ神に仕えていた下級神族の末裔だ。だが君は違う。最初にこの地を所有していた神の末裔なんだよ。それも主神たる女神に並びうる力を持った神の。そしてどの魔族よりも神に近い。時々人と魔族の間に産まれる子供が人と魔族に綺麗に分かれるのは、古い時代に混じった不純物として人の血を排出するためだ。つまり、この国の正当な後継者は姉君ではなく君だった」

 亡き姉への侮辱ともとれる言葉に漓瑞は歯噛みする。

「この国の正当な後継者は姉上です。私ではありません」

「……信じられないのも仕方ないね。でも君の病が腐蝕であることが何よりの証拠だ。君の能力は霊力を吸収するのではなくて瘴気を浄化するもの、すなわち神と同じなんだよ。ただ人の血はやはり抜けきっていなくて腐蝕をおこしてしまっているけどね」

 濃い瘴気はそれだけで体に触る。弱った体ならなおさらだろうと思っていた漓瑞はよく傷む胃の腑のあたりの衣を強く握る。

「……それが、真実だとしてもあなたがなぜ知っているのですか。知ったからといってどうするつもりなのですか」

 跪いていたアデルが立ち上がる。

「主神である女神の声を聞いたんだ。ほんの一度だけど、それから僕は境界を取り除く術を得た。魂と肉体、空間。境界を取り除き別の境界を引きなおせば、新たな個が産まれる。世界の本質に触れることを僕は許されたんだ。ならば空白の三百年と女神が眠りに至った経緯を知りたいと思った。そのために世界をもとあった形に戻すんだ」

 言葉だけならばアデルの言うことは狂った戯言にすぎない。だが彼は確かに肉体を変え、自在に様々な場所に現れる。

 漓瑞は触れてはいけないものに触れてしまった戦きに立ち尽くす。

「さあ、そこへ座るんだ。そうしなければ約束は果たせないよ」

 脅しでしかないアデルの言葉に漓瑞は仕方なく、ゆっくりと一歩ずつ踏み出す。

 アデルに協力してもるときに代償として赤子を攫ってくる他にもうひとつ、研究のために自分の命を差し出せと言われ承諾したのだ。

 もはや従うより他はなかった。

 漓瑞は玉座へとおそるおそる腰掛ける。すると膝の上に置いた魔族の証である手の甲の文様が淡く発光し、自分の意思とは関係なく光は水のうねりとなって天井へと昇っていく。

 そしてその水は天井を覆い、空を映し出す。

 玉座のちょうど真上で太陽が炉に放り込まれた鉄のように揺らいでいる。

「この国は君の命を持って永久に満たされたものになるだろう。始まりの時はもうすぐだ」

 アデルが目を細めつぶやきながら小さく微笑んで懐中時計をまた開く。

 歯車が動かす針のかすかな音は来るべき時へ向かう足音に聞こえた。


 

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