六-1
局舎の南側に位置する医務棟二階にある病室で黒羽が目を覚ましたとき、すでに日は暮れていた。
妖獣は呂氾と尚燕が無事に片付けてすみ、白里はさきほど州都が陥落したと医務部の局員が言っていた。
黒羽の傷はある程度塞がれたが霊力、体力共に消耗しすぎて化膿止めの軟膏が塗布された湿布を張っておかねばならなかった。そんな弱り切った状態なので寝台から降りて歩こうとするとふらついた。
「ああ、黒羽君、まだ無理はしないで寝てていいよ。緑笙君も起きてないし、監視もちゃんとつけてるから」
局員から黒羽が目覚めたことを聞いて訪れてきた尚燕に言われ、黒羽は大人しく寝台に腰掛ける。
「……緑笙、大丈夫ですか」
黒羽が問うと尚燕が小さくうなずいた。
「怪我はないよ。といっても君も見たと思うけど怪我してもすぐ治っちゃうからね。でもかなり霊力を消耗したから明日までは起きないと思うよ」
尚燕はどうやら何もかも知っているらしい。
黒羽はうつむきかけた顔をあげまっすぐに彼を見る。
「あいつは、なんなんですか。ただの人間じゃない。あたしも同じなんですよね」
アデル、その研究室、骸となって廃棄された赤子達。風景はしっかりと覚えているが何せふたつの時の記憶である。それらが意味するものがなんであるかまでは分からない。
問いかけを重ねると、珍しく真顔で尚燕が重たげに口を開く。
「……アデル君は母君が弟を身籠もってからら精神に異常をきたしてしまったんだ。元から剣より学問を好む信心深い子だったけど、その頃には剣を学ぶことを捨てて学問にのめり込んでた。そしてある日、神託が下ったと言い出したんだ」
尚燕が抑揚なく語る。
妖刀や魔剣と同じ波長の強大な霊力と高い戦闘能力、そうして不死の体を持った神の尖兵たる人間を創り出す。それが自らに課せられた使命だと十四のアデルは言った。
誰一人として気の狂った戯言と相手にしなかった。しかし、アデルはやりとげたのだ。
最初の子供、蒼壱が剣を持ち振るったのは三つのとき。その子供の抱える力の大きさに局の上層部が震撼した。
未完だとアデルは隠れて子供を創り続けた。九年前、蒼壱の誕生から十年近く経って実験を密やかに手伝っていた彼の弟、つまりは現本総局長がアデルの実験の全容を暴露した。
それによってアデルは百人近くの赤子を犠牲にして『神子』と名付けた子供を蒼壱の他に六人創ったことが明らかにされた。
その中でひとりだけ黒羽の行方はわからなくなっていた。
それからすぐにアデルが自害してから黒羽の居場所も分かり、東部局が預かることになった。
「……なんでそんなに長い間誰も気づかなかったんですか」
それほどの数の子供を攫っていたというのなら気づかない方が不自然だ。
「局どころかオルフェ家の屋敷から出た痕跡がまるでなかった。そもそも研究室自体がどこにあるかは手伝わされていた本局長しか知らなかったしね。当時もどうやって神子を創り出したか問い詰めても女神から預かった子だとしか言わなかったんだ」
「……本局長は知ってたならなんでもっと早く言わなかったんですか。そうしたらこんな犠牲は……」
「当時の彼は十三だった。五つの頃から手伝わされてたって話だよ。お前が産まれたせいで自分が不要品になった、多少は報いを求めてもいいだろうと言われて逆らうことができなかったと言ってたよ」
言葉を遮られた黒羽はそのまま絶句した。
あの男の異常さは記憶にある風景からも十分に感じていたが、その狂気は考えていたよりずっと深く昏い。
緑笙の怯えきった幼い瞳と声を思い出し、て黒羽はぐしゃりと結わえていない髪をかき回す。
「誰が、緑笙にこんな事させてんのか、分かってるんですか」
アデルは死んだのだ。だというのに傷を裂いて恐怖心を煽る真似をするのは酷く腹立たしい。
「……たぶん、本局長だとは思う。神子の研究資料は彼しか持ってないしね。誘拐事件が発生したときに何となく嫌な予感はしてたんだけど、三件目の妖獣の出現場所からお守りが出てきてこっちもいろいろ探ってたんだ」
含みのある言い方に黒羽は顔から血の気を引かせてまさかとつぶやく。
「あたしらは、その赤ん坊を斬ってたんですか……?」
妖獣と同じく傷が癒えた緑笙。似たものだというのは薄々分かっていた。それでも実際に事実だと告げられると、胸がじくじくと痛む。
「ああなってしまったら滅する以外に救うすべはなかったよ」
尚燕の慰めの言葉に黒羽はただ歯噛みするしかなかった。
「でもなんでそんなに早く分かってたならどうしてカイルを捕まえて事情を聞かなかったんですか、余計な疑いをかけられてまで」
つい責める口調でそう言ってしまうと、尚燕は肩をすくめて申し訳なさそうな顔をした。
「先手打たれちゃってどうにもこうにも動きづらい状況で、君が向こうに持って行かれちゃったのはむしろ好都合だと思った訳なんだけど……」
言葉を濁しながら尚燕が黒羽の顔をじっと見つめる。
「カイル君からなにか聞かされたことはない? ちょっとでもひっかかったことがあれば教えてほしいんだけど」
何もない、と言いたかった。
だが尚燕と接触されるのを本局が避けたならなぜ漓瑞の名を出したのか分からなかった。ただ単に自分と親しいから口実につかわれただけなのか。
自身の思考に動揺する黒羽の表情を読み取った尚燕が戸惑い気味に口を開く。
「漓瑞君のことかな」
それはもはや肯定も同然だった。
黒羽は苦しげに顔を歪めて声を絞り出す。
「親父の身内、なんですか……」
「彼は魏遼将軍の甥で亡くなったお姉さんが玉陽の姫君。つまり、玉陽の皇家の最後の生き残りだよ」
尚燕の言葉を聞き終わると同時に黒羽は立ち上がった。
他は全部、漓瑞の口から直接聞きたかった。そうでないとまだ納得がいかない。
「黒羽君、落ち着いて。今はまだ漓瑞君のことは様子見するしかないよ。魏遼将軍と同じ事になるかも知れないから」
腕をつかまれ止められた黒羽は、自分の視線とほとんど同じ高さにある尚燕の細い目を凝視する。
「……妖刀に関しては反政府組織が隠し持っていたもので監理局は無関係だって公表されるのが確実なんだ。カイル君には邪魔をするなら漓瑞君が全部罪を被せて抵抗が激しかったからとか何とか理由つけられて処分するつもりだって釘刺されてる」
「だったら、なおさらほっといたらまずいんじゃないんですか!?」
腕を振り払って黒羽は食ってかかった。
「カイル君と緑笙君のところには藍李君がいるし、漓瑞君は呂氾に見てもらってるから大丈夫。君は今は休むことが大事だよ」
尚燕に言われ苛立ち焦る心を抑えて寝台に腰を落とすと、一瞬目の前が暗くなり目眩がする。
体調が万全ではないのは確かだ。冥炎もおそらく今は抜けない。
寝台に叩きつけようとした拳を固く握りしめて、黒羽は心を静めるためにゆっくりと息を吐き出す。
「……東部総局長はどうするつもりなんですか?」
「さすがに体面もあるから公にはしないけど、本局長には辞任してもらって西部総局長としても次代まで発言権をもたせないつもりだよ。でも……順番どおり行くと次の本局長は東部総局長がやることになってるからねえ。緋梛君が東部局側で預かってる子っていうのもすごくまずい」
要は下手を打つと西部局側と東部局側の権力争いに見られるどころか、東部局側に責任がなすりつけられかねない状況、と尚燕が補足する。
実際今、本局内でも西部局側が出てきているのは尚燕に疑いがかかっていて、身内である東部局側に任せられないためであるとなっているということだ。
だからこそ本局長の目的を明確にし、確実な証拠が欲しいと尚燕は続ける。
「漓瑞君はこっちで身柄を預かるつもりだけど、彼はたぶん本局長が裏にいることは知らないだろうし、緑笙君から何か聞ければいいんだけどね」
半ば諦めた口調だった。
確かに緑笙のあの様子ではまともに証言できる保証はまるでない。せめて緋梛であればまだまともに話が通じそうだが行方が分からないのでどうしようもない。
「結局、後手に回るしかないんですね」
悔しさに黒羽の声は憤っていた。
「……そうだね。向こうは君のことを何かに利用するつもりなのは確かだから、今日は僕が外で待機してるからなにかあったら呼んでね」
尚燕はそう言った後、うつむき表情を曇らせている黒羽の様子にごめんね、と付け加える。
「本当は少しずつ、必要なときに君に話すつもりだったんだけど、こんなことになってしまって申し訳ないと思ってるよ」
黒羽は顔を上げずに弱々しく首を横に振る。
どれだけ時間をおこうが真実は変化したりしやしない。知らないよりは知っている方がいいのだ。
「もう、寝ます」
静かにそう言って黒羽は寝台に体を横たえて尚燕に背を向ける。お休み、という小さな声が聞こえた後に足音が遠ざかり扉が閉まる音がする。
目を閉じてもすぐには眠れるはずがなかった。体は疲れ切っているが頭ははっきりと覚醒している。
自分自身のことはまだ素直に飲み込めた。というより漓瑞のことで自分のことはもうどうでもよくなった。
隠されていた事実よりも、また失ってしまうかもしれないことの方が衝撃が大きく、心の臓が握りつぶされるように苦しい。
今すぐにでも冥炎を持って漓瑞の元へ行きたいがこんな状態の自分には何も出来ない。
黒羽は何度も寝返りをうってやっと眠りが訪れてきたのは明け方近く。
だがそれも激しく打ち鳴らされる鐘に阻まれることになるのだった。
***
夜明けが間近に迫る頃、漓瑞は部屋から静かに抜け出す。常に燭台に灯されている寮と局舎の渡り廊下にさしかかると、大きな人影がそこに立ち塞がっていた。揺らめく炎のなかで浮かび上がるその人物は呂氾だった。
「何があったのですか」
わかりきったことを問うと呂氾がわずかに眉を上げて知ってるだろ、と低くつぶやく。
「……通しては、いただけないんですね」
漓瑞は袂に隠している小さな鞠を取り出す。
呂氾相手に勝てる自信はまるでないが、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
鞠を掌の上で転ばして落下させる。指先から転げ落ちるときにはすでにそれは球形を保たずに水となって滴る。
「てめえとやりあうのは気がすすまねえな」
心底不服そうに言って呂氾が剣を抜く。
妖刀の力を放出するのはかえって不利と分かっているらしく、そのまま峰打ちにしてくる。
それを高く跳んで避け、刀身を帯状にした水で巻き取る。妖刀や監理局員が霊力を帯びさせた武器は液化できない。
だがその動きを封じることは容易い。
「やりづれえな」
舌打ちしながら呂氾が刀身から雷を放とうとするがそれは水に溶けて消える。
ただ力の反動で締め付けが緩んで、漓瑞は切っ先が向かってくる前に一度水の帯を解いて後退する。
うまく背後に回れば後は力任せに昏倒させられるだろうがやはり妖刀を塞ぎながらは難しい。
お互い距離を持ったまま相手の出方をうかがう。
先に呂氾が動き、漓瑞が垂れ布のように水を変化させたとき半鐘がけたたましく鳴った。
「なんだ……?」
足を止めた呂氾がはっとした顔で背後を振り返る。暗い廊下の奥から火の礫が彼めがけて飛んできていた。
かろうじて呂氾はそれをよけるが、火の礫はそのまま爆発して白煙が辺りを包む。
「こっちだよ」
袂を引かれ、漓瑞はそれに従って煙の中を抜ける。そうして見えた景色に目を瞬かせた。
そこはもう局舎内ではなく、局舎の裏手だった。東側には夜の色に染まる黒い瓦屋根が登り始めた朝日に照らされ本来の藍色を覗かせているのが見える。
「どうやって」
いぶかしげに漓瑞は自分の袂を握っている緑笙の後頭部を見下ろす。
「……僕はまだやることがあるからここまでしか運べないけど、後はひとりでかえれるだろう」
普段よりもずいぶん落ち着いた声で言って緑笙が瞬く間に駆け去る。
違和感に立ち止まっていた漓瑞だったが、背後にある監理局に歩調を早めた。そして少し進んだ後に聞こえた音に振り返る。
視線の先では瓦が風にめくられ砕かれていた。そして時折細長い赤い炎が空に駆け上がり引き裂かれる。
緑笙と緋梛であることは間違いなさそうだ。
生ぬるい瘴気の風に当てられた漓瑞は咳き込む。また発作だ。病魔は急速に体を蝕み始めていてもはや明日をも知れない。
だが、明日さえ生き延びればもうそれでいいのだろう。
重たい体を引きずり漓瑞は近くの路地に隠れ、わずかな命を繋ぐため薬を飲み込んだ。
***
「畜生、次から次へなんなんだよ」
半鐘で部屋から飛び出した黒羽はそう遠くない場所で聞こえた爆音に悪態をつく。
「とりあえず緑笙君かなあ」
部屋の外にいた尚燕が困惑気味に答え、ふたりは同階にある緑笙の眠る病室へ向かうそちらからは藍李が駆けてきていたのが見えた。
「緑笙が消えたわ。窓は開かないはずなのに、カイルもいつの間にかどっか行っちゃったわ」
藍李によると尚燕と同じようにカイルと一緒に病室の外で待機していたが、物音がして部屋に入ると緑笙が消えていたということだ。
そのあとすぐに振り返るとカイルもいなくなっていたという。
「……階段はこっちしかないし、僕はカイル君を見てないよ。半鐘は、緑笙君じゃないよね」
カイルが外に出るにはここを通る他ない。明け方前であり、個室に寝かされる重傷者や見張りが必要な者は他になく足音も聞こえなかった。
「つーかなんでお前が緑笙の見張りなんだよ」
いくらなんでもカイルと緑笙相手に藍李ひとりは無謀すぎる。
「その説明は後。緑笙探さないと。さっきの音、寮の方からよね……何かしら?」
かたかたと廊下側の硝子窓が揺れる音がし始めた。風が吹いてきたのかと思ったが、閉じられた窓越しにも伝わってくるものは異質な気配を含んでいた。
「緑笙と……緋梛だわ」
窓際にいた藍李が窓を開けてつぶやく。そうして炎が一筋宙でくねったかと思うと瓦屋根が割れる音が立て続けに聞こえてきた。
「なんであのふたりが戦ってんだ……漓瑞?」
外に視線を移した黒羽はふっと眼下に広がる藍色の屋根瓦の隙間に人影を見た。すぐにその人物は建物の影に隠れてしまったが間違いなく漓瑞だと思った。
「課長、すいません、緑笙と緋梛の方は頼みます!」
「黒羽君、冥炎はもう抜けるね。僕は一応緑笙君のところに行くけど、カイル君がどこにいるか分からないからもし遭遇しても無理しないで藍李君が来るまで出来るだけ時間稼ぐようにするんだよ」
早口で言う尚燕になぜ藍李を待たねばならないのかと疑問には思ったものの、聞き返す余裕はなかった。
とにかくはやく追いつかなければという気持ちのまま黒羽は駆けた。
***
尚燕と藍李、黒羽と入れ違いにやってきてふたりと合流した呂氾が緑笙と緋梛が戦闘中と思われる場所に到達した頃には風はやんでいた。
朝日がようやく差し込んできて仄明るい周囲の家屋は、半壊しているものや跡形なく吹き飛んでいるものが大半で酷い有様だった。
あたりは廃屋がほとんどで、わずかな住人は緋梛が目撃されたときに局員が避難させたこともあって犠牲者はいなさそうだ。
これで北側だったら死人が出ていたかも知れないと、そちらに小さな家を持ち妻のいる呂氾は薄ら寒いものを覚えた。
「あのガキはどこ行きやがった。またどっか消えたのか? 本当に渡し人は関係してねえんだろうな」
呂氾は尚燕に乱暴な口調で問う。
緑笙とカイルが忽然と消え、漓瑞も裏門を通った形跡もなく監理局の外に出た。それに緋梛がここにいるのもおかしい。昨日目撃された白里からここまで来るのに山をふたつほど越えねばならず、馬を使っても丸一日以上はかかるはずだ。
「それは事前にちゃんと調べてあるよ……っと、いるみたいだね」
砂塵どころか小石ほどの瓦礫まで巻き上げる風が吹いた。辺りが靄がかかったような中、薄目で風の中心を探しているとまだ無事だった奥の家屋が崩れ落ちる。
そこから瓦礫の中央付近にいた藍李の背に風の刃が迫っていた。
「藍李!」
呂氾の忠告の声より早く彼女はすぐさま避けて背の太刀を抜く。崩れた瓦礫の向こうにはカイルと彼に対峙する緑笙が剣を構えて立っている。
カイルが振り向き、何かを告げられた藍李が驚いた顔で半壊した家屋の側に寄っていった。そうして彼女は緊急連絡用の笛を二回吹き鳴らす。
それは医務部への救援要請の合図だ。
「緋梛を運ぶの手伝って!」
笛と藍李の切羽詰まった声に、あらかた察したふたりは言われるままにそこに駆け寄る。
かろうじて残っている柱の陰にうずくまる少女がいた。彼女は全身が切り裂かれぱっくりと割れた傷口からはとめどなく血が流れている。
意識はかろうじてあるが呼吸は細く半ば閉じられた目も焦点があっていない。
それでも妖刀はしっかりと抱え込んでいる。
「ひでえな。動かして大丈夫か?」
どこに触れても傷口に障りそうな状態で運ぶのはためらわれた。
「ここもいつ崩れるか分からないからね。とにかくもうちょっと向こうに運ぼう」
確かにここに置いておくのも危険だと呂氾は緋梛をそっと横抱きにして緑笙達から遠い場所で下ろす。
そのときには仰向けに寝かせた緋梛の意識は途絶えていた。かろうじて呼吸はあるが急がねばまずいだろう。
「医務もすぐ来るから持ちこたえてね」
後からきた尚燕が緋梛の片手を握りしめる。薄青の淡い光が握られた手からにじみ出ているのが見えた。霊力を分け与えて少しでも出血を抑えようとしているらしい。
誰にでも出来ることではなく、多少なりとも霊術治療の素養があると尚燕だからこそ出来ることだった。
「これどういう状況なのかしらね」
手持ち無沙汰の藍李が風に煽られ乱れた髪をかき上げてため息をつく。
「終わるまで待つしかないね。ここはもう僕と藍李君で大丈夫そうだから、呂氾は黒羽君のところ行ってあげて。君に符を使ったのが誰かまだ分からないから……」
そう、漓瑞との戦闘中に投げつけられた炎の礫は符で間違いない。あれは霊力を少し込めればだれでも扱える簡易の符でなく手練れの使う物だ。
それ自体は黒羽ひとりでもどうにか出来るだろうが、漓瑞が足枷になるかもしれない。
「……行ってくるけどよ、また消えられたらどうすんだよ」
「まあその時はその時だねえ。どうやって消えてるかぐらいは見といて」
「てめえもいい加減だな……なあ、あれ」
風がまたやんで呂氾は緑笙の方へ視線を向ける。
緑笙は剣をしまって倒壊していない家屋から伸びる濃い影へとふらりと歩いて行く。そうしてそこにかがみ込んでいた。
不意に緑笙の足下の影が波打つ。そうかと思うと紙が墨を吸い上げるかのように緑笙は漆黒に包まれていった。
そして、緑笙の形をした黒い塊はべしゃりと潰れて、後にはもうただの影だけが残った。
「なんなのよ、あれ」
緑笙を見ていた藍李が呆然とつぶやく。
「黒羽はどうしたのですか」
ひとり平然としていたカイルが三人を眺め、眉根を寄せる。
「漓瑞追いかけていったわよ。あれはいったい何なの。神子にあんな真似出来るなんて聞いてないわよ」
藍李の言葉に呂氾は尚燕に神子って何だと問うが、後でとしか返答はなかった。
「緑笙は特殊です。それより黒羽をすぐに追いかけた方がよろしいでしょう。神子に死なれたらこちらとて困ります。あの皇子はまだしも、柳沙という魔族は何をするかわからない」
「……こっちが囮で目的は漓瑞なの?」
カイルが表情を崩さずに困惑する藍李の視線を真正面から受け止める。
「いずれ分かるでしょう。私もこれで役目は終えました。また後ほど、本局で」
カイルが静かに立ち去る。それを藍李も尚燕も止めない。
「おい、いいのか?」
訳が分からないふたりのやりとりに口を挟むことも出来ずにいた呂氾は尚燕を見る。
「どっちみちここでカイル君止めたって口は割らないよ。それより黒羽君のとこ、急ごう」
ちょうどカイルと入れ替わりに医務部の局員が数名やってきた。呂氾は念のためそのうちのひとりに一緒に黒羽の元へついてきてもらうことにする。
藍李は緋梛についているということでその場に残り、尚燕と呂氾は漓瑞が目撃された場所へと急ぐ。
夜はもう、明けていた。
***
漓瑞を見かけた場所までたどりついた黒羽は、立ち止まり上がった息を整えながら辺りを見回す。
まだ夜がわだかまる周囲は見通しが悪く、体力の回復しきっていない体は走り疲れて立っていることさえ辛い。もう漓瑞はどこかへ行ってしまったのかもしれないと諦めそうになってしまうが、それでも足を動かす。
そうして数歩歩いたところで数件離れた家と家の隙間から馴染み深い漆黒の髪が揺れる背が見えた。
彼はふらついていて黒羽は疲れを忘れた。
「漓瑞!」
名前を呼んで、全力で駆け寄ると漓瑞が驚いた顔をして振り返った。その袖口が血に黒ずんでいた。
「どうして……」
「てめえ追いかけてきたんだよ。怪我、してんのか?」
黒羽の視線が注がれている自分の袖口を見て漓瑞は首を横に振って違います、と小さな声で答える。
少し顔色も悪く見えるが、これといって負傷しているところは見られず黒羽は安堵する。
「……私のことは聞いたんですね」
寂しげに言う漓瑞の視線に黒羽はやっとすべてを真実だと受け入れた。
「昨日、課長から聞いた。お前、本局長が関わってるのは知ってんのか? 赤ん坊が妖獣にされてることも」
漓瑞が思考を巡らすように視線を横にそらす。
「アデルが、監理局の局員であることは知っています。ただ本局長であることは知りませんでした。……妖獣のことは直接聞いてはいませんが、うすうすはそうだろうと」
「アデルは九年前に死んでる。今の本局長はその弟だ」
死んだ、と漓瑞が怪訝そうに繰り返す。
どうやら本局長はそんなことすら漓瑞には説明していないらしい。本当に、ただ利用しているだけとなるとなおさら腹が立つ。
「とにかく、局に帰るぞ。このままじゃお前、この騒動の責任全部おわされた上に本局長に殺されるぞ」
黒羽はできるだけ平素を装って言い、背後の他の建物より頭ひとつ高くそびえる局舎を顎で示す。
漓瑞は動かない。
「私には、やるべきことがあります。もうあそこへは戻れません」
そう告げる彼の瞳は頑なだった。
「殺されるつってんだろうが! 死んでもいいなんて馬鹿なこと言うんじゃねえぞ!!」
必死に抑えていたものが弾けて、黒羽は漓瑞に言葉を叩きつける。そして彼に歩み寄り、その双肩を乱暴に両手で掴み彼の顔を見下ろす。
許さない。自分から命を投げ出す真似だけは絶対に許さない。
感情は怒りに荒れ狂っているのに、彼の瞳に映る自分の顔は泣き出しそうな情けない顔だった。
「約束しただろう。あたしの追いかけられないところに行くなって。お前のこと、親父みたいに死なせたくねえから言ったんだぞ」
どんなに強くなったって、近くにいないと護れない。あの無力感も喪失も二度とごめんだ。
「黒羽さん……」
漓瑞の手が自分の手に触れて、黒羽はその肩を解放する。そしてその代わりに彼の手を握った。
力はこめない。
振り解かれないと信じたかった。
「帰るぞ」
困り切った顔で漓瑞が見上げてくる。
「……ごめんなさい」
指がすり抜けていこうとする。
黒羽は追いかける。
だが。
「柳沙!!」
漓瑞が目を見開いて声を上げるのと背中に強く押される衝撃がくるのは同時だった。
黒羽は首を後ろに巡らせる。そこには苦痛に耐えるかの様な顔をした柳沙がいた。彼女の名を呼ぼうとするが喉の奥からせり上がってきた血に阻まれる。
「ごめんね……」
柳沙が黒羽の右脇腹の裏辺りに差し込んだ刃に変形させている自分の手を引き抜く。黒羽はその場に膝から崩れ落ちて正面から倒れ込んだ。
ぐらぐらと揺らいで不規則に光が遮断される視界に漓瑞が屈みこんでいるのが映った。
「黒羽さん、黒羽さんっ!」
漓瑞が自分の名を呼んで傷口を抑えているが、なにも返せないどころか声がどんどん遠ざかっていく。
「近くに監理局の者がいます、これ以上ここにいるのは危険です」
漓瑞の気配が離れていく。
行くな、と告げることすら出来ない。
これで終わりなんだ。
絶望に突き落とされた黒羽は全てを拒絶するように目を閉じた。
***
城藍中央区の南部にある朽ちた茶店の地下にある、隠し扉の前までたどり着いた漓瑞は、自分の衣をぐっしょりと濡らす血に目を閉じて額を扉に押し当てる。
あの出血では黒羽は助からないかもしれない。むしろ命が救われることがあれば奇跡だという状態だろう。
それなのに自分は助けも呼ばずにあそこに黒羽を放置してきてしまった。
彼女のことより国を取り戻すことの方が大事だと判断したことは間違いではない。
だが後悔が全身を苛んで今すぐ引き返したくなる。
「皇子殿下……」
柳沙が漓瑞を呼んで最後に消え入りそうな声で申し訳ありませんと付け加える。
「……あなたは私を護ろうとしてやったのです。間違ったことはしていません。行きましょう」
そう、柳沙を責めることは出来ない。もっと自分が早く黒羽を振り切ることが出来たならこんなことにはならなかった。
漓瑞は後悔を抱えたまま扉を開く。
この扉は皇家の者でなければ開けられない。扉は王宮にひとつと城藍や他州にいくつかある。ここだけは人通りもないので柳沙のために数日に一度鍵を開けている。
扉の向こうには監理局の地下水路のと同じ空間の歪んだ道があり、全て四半時で江翠の隠された楼閣のある洞穴の扉へたどり着ける。
きらきらと青白い光を放つ石畳が敷かれた道をふたりは言葉を交わさずに歩いて行く。そうして先にある藍色の扉を開く。
楼閣へと続く欄干には一足先に帰っていたらしい緑笙が腰掛けていた。
「その血は黒羽の?」
問いかけながら緑笙が欄干を降りる。彼は振り向きもせずにふたりを導くように楼閣へと歩く。
「……そうです」
漓瑞は苦々しく答えながら黒羽の命を吸った重たい衣を引きずりながら緑笙の後を歩く。
「なるほど、神子といえどそれは少し厳しいかな。同期もまだなのに死なれては困るんだが」
明らかにいつもと緑笙の口調が違う。だが、抑揚の少ない平坦なこの喋り方は覚えがあった。
「あなたは、誰ですか……?」
答えはもう分かっていた。だが、信じられない。
そんなことが可能なはずがないのだ。
緑笙が足を止め、背を翻す。
「久しぶり、というのかな、これは」
心持ち楽しげに微笑む緑笙の瞳は本来の緑でなく、碧空に似た澄んだ青色に染まっていた。