七ー2
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黒羽は意識を失って起きる気配のないロフィットを置いていくわけにもいかず、目の前にある唯一の脱出口と思しき窓の前で立ち往生していた。
「ここにいてもしょうがねえんだけどなあ……」
ぼやいたところで動けない現状は変わらない。
自分より背丈のある男を抱えてはいけないし、一度ここを離れればもう一度帰ってくることはできないだろう。
「あ……」
どうするか考えあぐねている内にバタン、と扉が閉まる音とネハの唖然とした声が聞こえて黒羽は窓の方を振り向く。
窓は消えはしていないが、両開きの扉で固く閉ざされていた。
「あっか、ねえっか」
黒羽は思いきり力を込めて押したり引いたりしてみたものの、びくりとも動かなかった。
「ここを出ることはできないのなら、それでもかまいません。できることならば、夫の姿を見たかったのですが、世界が生まれ変わるのを待つだけでもかまわないのです」
ネハはうだるそうに頭を振ってその場に座り込む。こちらとしてはどうあっても脱出しなければ行けないのだがと、振り返った黒羽は彼女の顔色が思わしくないのに気付いて側に寄る。
「大丈夫ですか? ……やっぱり熱、高いっすね」
そっと肩に触れると布越しでも明らかに最初よりネハの体が熱くなっているのがわかって焦りを覚える。
体調の芳しくないネハも、いつまでもここにいては体がどうなるかわからない。
「あ」
ネハが何かに驚いたように目を見開いて右手で腹部に触れ、地面についたもう片手を握りしめる。
黒羽はその様子にしばし困惑し、そうしてやっと思い至っておそるおそる訊ねる。
「もしかして赤ん坊、いるんすか?」
顔を上げたネハも戸惑い気味に黒羽を見上げて、ゆるやかにうなずく。
「ええ。そうだわ。そうなのね。でも、まだ胎動なんて感じるはずが……」
そうつぶやくネハの言葉が不自然に止まる。
「我の新たな血肉」
そして、男とも女ともつかない嗄れた声が彼女の口をついて出た。
肌が粟立つ感覚に、黒羽は反射的にネハから体を退いてしまう。
この抗いがたい強い力を前にした本能的な畏怖は知っている。神を前にした時と同じだ。
「まさか、器はデヴェンドラじゃなくて赤ん坊のほうなのかよ」
考えたくはないがもはやその考えを否定する理由はなかった。
ふらりと立ち上がったネハの足下から、無数の蝶のように緑の濃い庭園の風景から色が飛び立っていく。
強い風を伴って変化は進み、後には真っ白い空間が広がるばかりだった。
目の前にいたはずのネハは、離れた場所にぽつんとある玉座にもたれかかり意識を失っている。ロフィットもそう遠くない所で倒れていた。
「くそ、なんだよ、ここ」
黒羽は玉座の元に進もうとするが、上手く手足が動かせない。体が強張っているというよりも、水の中にいる感覚に近い。
「ネハ!」
ゆっくりと動いていると、どこからともなくそんな声が聞こえてそちらに目を向けるとデヴェンドラがいた。
彼は途中までは普通に玉座に向けて走っていたが、玉座に近づくにつれてその動きが鈍くなる。
玉座を挟んでデヴェンドラと黒羽の視線が合う。
「ネハに一体何があったんだ」
「新しい神の器はあんたじゃなくて、腹の中の赤ん坊だ! こっから出るぞ!」
こんな所からは一刻も早く出なければと、叫ぶとデヴェンドラが息を呑んで妻を見る。
「そんな。だけれど、だからか……」
呆然としながらもそうつぶやいたデヴェンドラが苦しげに顔を歪める。
「なあ、このまま自分の子供、器にしちまうなんてつもりじゃねえだろうな」
彼の表情に嫌な予感がして、黒羽はまさかと訊ねる。
「……選ぶのは僕じゃない。主たる神がお決めになることだ。なぜ僕の肉体ではいけないんだ」
苛立ちと焦燥を含んだ声に、デヴェンドラ自身がどうこうできる問題ではないのだと黒羽は青ざめる。
「本当に、どうしようもないのか……?」
デヴェンドラの返答はなかった。
『未熟な器に血と魂を満たせ』
代わりに空間全体に嗄れた声が響き渡った。今度はネハの口からでなく、どこから聞こえて来たかもわからない。
『デヴェンドラ。剣に目の前の者の血と魂を屠らせ、我に捧げよ』
再び声が響いて体がふっと軽くなる。そして目の前から玉座が空中高くに浮かび上がった。
「主たる神のお言葉ならば、従うより他ない」
まだ状況についていけずに目を白黒させていた黒羽は、デヴェンドラが剣を抜いてぎょっとする。
「おい! 神様が何言おうが、自分の子供の体くれてやることはねえだろ!」
とにかく、まだ産まれもしていない赤子を容れ物扱いになどしていいはずがない。
「……神の器に選ばれた以上新たな魂を得て産まれることはできない。そのまま産まれずに消えてしまう。そうなったら、ネハの体もどうなるかわからない。僕は神の意志に従うだけだ」
苦悶の表情のままデヴェンドラが黒羽に切っ先を向ける。
「そのために、死んでくれ」
そう言われて素直にうなずけるわけもなく、デヴェンドラの選択になにひとつ納得いかなかった。
「あいにく、全部、お断りだ」
ここで死ぬのも、赤子を犠牲にするのもデヴェンドラが本心ではなかろう選択をしていることも全部嫌だ。
その思いを貫くためにはデヴェンドラに勝つしかないと、黒羽も冥炎を抜いた。
***
翡翠の双眼はまるでただの石ころのようだと、漓瑞は巨大な白い象を見つめて思う。
大きな力を感じ取れるというのに、瞳があまりにも空虚で白い象は石膏でできた作り物めいてすらいる。
魂はここにあるのだろうか。
デヴェンドラが新たな器となるというなら、この肉体はすでに魂の容れ物としての役割を果たしていないはずだ。
「こんなにも立派だというのに……」
しかし、新たな器を必要とするほどこの神の姿は綺麗なものだった。
「……それは魂が記憶から作り出したもの。実体ではない」
ふと耳慣れない声が闇の中のどこからか聞こえて、漓瑞は眉根を寄せる。聞いたことのある声である気はする。
そして声の主が誰であるか思い出すと同時に、背後に気配がして振り返る。
赤銅色の焼けた肌に黒に近い赤毛、それから金の瞳の大柄な男がそこに立っていた。両の手の甲に魔族の刻印を持つ男はムスタファ。冥炎と全くおなじ妖刀を持ち、砂巌で黒羽を瀕死まで追い込んだ神だ。
「どうして、ここに」
漓瑞は身構え冷静な顔をとりつくりつつもの、まともにムスタファと戦う術がなく内心酷く焦っていた。
「汝と戦うつもりはない。この朽ちた魂を清めにきた」
ムスタファは視線を白い象へと向ける。
「今からこの神は復活するのではないのですか?」
問いかけながらもデヴェンドラが不足の事態に陥った原因は、この神の魂が復活できない状態でないからではと漓瑞は考える。
「再生は不可能だ。この魂は穢れ腐り、もはや本来の姿には戻れない」
「戻すために清めるのでは?」
ムスタファの目的がはっきりとせず、漓瑞は首を傾げる。
「清めるというのは、我が身に取り入れるということだ……」
まるで答が答えになっていないと再び訊ねようとしたとき、ふと白い象の瞳に意志が宿った。
『死神よ、我はまだ死なぬ。清らかなる新たな肉体を我は得る』
空間全体に声が響き渡って、ふっとあたりが明るくなる。何気なく視線を向けた床は水面のごとくさざめいていた。
「黒羽さん!?」
そして遙か下方にデヴェンドラと対峙する黒羽の姿が見えて、漓瑞は目を丸くする。ただまったくの別空間となっているのか、姿は見えてもなんの音も気配も感じられなかった。
「デヴェンドラか」
ムスタファがそうこぼしながらも視線は黒羽に向いていた。戦意は感じられないが、観察している。
足下まで青い炎が吹き上がってくる。
冥炎の瘴気は感知できないものの、この炎は今までとは明らかに違う。この地にやってきて幾たびか黒羽が冥炎を使う所を見たが、それとすら別物だ。
黒羽の表情がよく見えずに、不安になる。
自己再生能力、痛覚の鈍化。元よりアデルによって作られた神子であり人よりも身体能力が勝っていた黒羽は、以前よりも人から離れた存在へと変わり始めている。
「アデルは、あの子をどうしようとしているのですか……?」
漓瑞はムスタファへと答を求めるが、何ひとつ返事はなかった。




