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女神の玉座  作者: 天海りく
翠卵の皇子
6/67


 本局が到着して二週間あまり、小さな暴動は反乱軍の数を増やしながら広まってすでに八州のうち二つが落ちている。

 そして西の海沿いにある赤海州も陥落した。

 港を臨む小高い場所にすえられた役所の建物を中心にしてあがった火は、官吏達の屋敷を食い潰しやっと消えた。しかし落陽の光に包まれた街は錆色に染まり、炎の残像は消えずにいる。

 家屋部分が潰れ地面を覆う瓦の上で、監理局員達は周囲に残る熱と照りつける落陽に汗を滴らせながら遺体に群がる妖魔を駆逐していく。

「だいたいは片付いたか」

 焼け残った柱にびっしりと張り付く、無数の人面の蜥蜴を冥炎で燃やし尽くし黒羽は刀身をみつめる。

 カイルの稽古をつけてもらってからは冥炎に霊力を乗せることはずいぶん楽になった。

(……師範の言ってたことは覚えてねえとな)

 急激に水かさを増した川のような力の流れは恐ろしい。自分の身の内でこれほどの力がなりを潜めていたことにも驚いた

 恐れを捨てろとカイルは言うが、恐怖心という堰が切れたときに自分は自分でいられるのだろうか。

 黒羽は堅く口を引き結び冥炎を鞘に仕舞う。

 力は得ているが肝心の緋梛と緑笙はまるで見つからない。もう少し規模の大きい戦闘になるまでは出てこなさそうだ。

 それを待つだけというのはもどかしく後手に回るばかりの状況には苛立ちが募る。

 そうして何が真実なのかもわからないことも落ち着かない。

 妖魔の駆逐で外に出る以外はひたすら演習場で訓練をしているばかりで、漓瑞たちと顔を合わせることはあっても会話をする時間はない。

 抜け出そうと思えば夜には機会があるが、訓練で体力を根こそぎ持って行かれて食事を詰め込んだ後は眠り込んでしまう毎日だ。

「黒羽君!」

 集合場所に戻ろうと足を向けた黒羽は名前を呼ばれて振り返る。そこには尚燕がいつもの眠たげな顔で立っていた。

「課長! どうしたんですか」

「いや、ちょっとあれこれ確認したくてね。カイル君との訓練の調子はどう?」

 訊かれるままにその問いに素直に黒羽は答えた。

「やっぱり完全同期か。ううん、本当に何がしたいのかさっぱり分からないねえ」

 なぜかやけくそにも見える笑顔を浮かべる尚燕に、戸惑いながらもカイルが疑っていることを黒羽は告げた。

 こういうことは本人に訊くのが一番手っ取り早いと思った。それにこの機会を逃せば次はいつになるかも分からない。

「……言われてみれば僕、一番怪しいね。で、君はどう思う?」

「どうって、ちょと課長はうさんくさい気がするけど悪い人じゃないとは思ってます」

 馬鹿正直に言うと尚燕が肩を揺らして笑い声を上げた。

「君のそういうところすごく好きだよ。僕もやましいところはあるけどね。正直なところ君が本局から拉致された子だったとは知ってた。それと、カイル君は一番都合の悪いこと言ってないね」

 上機嫌なまま尚燕が黒羽の表情を楽しむように見ながら続ける。

「君を拉致したのは今の本局長のお兄さんだよ。彼が妖刀との同期実験のすべてを取り仕切ってた」

 尚燕の言葉は黒羽をさらに困惑させるものだった。

「じゃあ、本当に怪しいのは本局長の兄貴のほう、なんですか」

 とは言ってもまるでこんなことをする理由が思い浮かばなかった。しかし新たに与えられた情報からはそう考えるより他はない。

 そしてその方がいいという思いもあった。そうすれば漓瑞への嫌疑も嘘になる。

「いや、もう亡くなっているからきっと本局長その人だろうね」

「あ、そう、ですよね」

 神剣は一子相伝である。もし第二子が出来たとき長子は不要と見なされるのか、神剣が次に引き継がれるまでに必ず病を得て死ぬ。

 死んだのか、ともう一度胸の中でつぶやくと開放感に似たものを覚える。

 拉致された記憶はないのに長年からだを雁字搦めにしていた鎖がとれた気分だ。

「尚燕殿」

 尚燕がまだなにか続ける前にカイルがしかめっ面でふたりの間に入ってきた。

「持ち場を離れて勝手なことをしてもらっては困ります」

「ああ、ごめん。すぐに戻るよ。黒羽君にはあんまり無茶させないようにね。蒼壱あおい君の例があるんだから」

 尚燕がにっこりと笑うとカイルの表情がさらに険しくなる。

「蒼壱って誰ですか……?」

 なにか、記憶に引っかかる名前に黒羽は答えを求めて尚燕を見る。

「君より一つ年上の男の子でね、妖刀との同期に失敗して無事なことは無事だけど今は言葉をなくしてる」

「これ以上、彼女に余計なことは……っぐ」

 さらに黒羽が問いかけるのを遮ったカイルが、突然自分の喉の下辺りを押さえ片膝を地面につく。そしてむせ込んだかと思うと血を吐いた。

「おい、大丈夫か! どっか悪いんですか」

 黒羽は驚きながらもカイルに駆け寄りその背をさする。かすれた声で問題ないと声が返ってくるが、その顔からは血の気が失せている。

 どう見ても大丈夫には見えない。

「医務部呼んできます」

 カイルのことはあまり信用もしていなければいけ好かない奴だとも思っているが、目の前で苦しんでいるのなら助けないわけにはいかない。

 黒羽が立ち上がり走り出そうとするが、その足をカイルが掴み止める。

「腐蝕だよ。君は今年で二十九だったっけ。血を吐くにはちょっと早いかな」

 カイルを見下ろしている尚燕が淡々と言って、黒羽は困り顔でカイルの背を見る。

 神剣は本局のある女神の島に集まってくる瘴気を浄化するが、全てを浄化しきれるわけではないので妖魔が生まれるのだ。それでも人の手でどうにか駆逐しきれるほどには減る。しかし使い手にも負荷が大きく次第に体が内から腐っていく。

 それを腐蝕と呼ぶのだ。

 三十前後になると腐蝕が体調に表れはじめやがて血を吐く。そして五年を過ぎる頃にはほとんど寝台から起き上がれない状態になり四十前後で没する。

「これだけ瘴気が濃い場所に長くいる上に毎日妖刀の瘴気まで受けてれば体調も崩すよ。といっても黒羽君が気に病むことはないからね。自業自得。少し放っておいたら元気になるよ。カイル君もあんまり弱ってるところは見られたくないだろうし行こう」

「でも、まだ妖魔が出るかも知れません」

 さすがにいくら強い男とはいえこう弱っていては放ってはおけない。

「……神剣があれば妖魔は寄ってこない」

 カイルがグランを抜いて刀身を地面に突き立てて、それに支えに立ち上がろうとする。しかしその足はふらついていた。

「課長、あたしここにいます」

 黒羽がそう言うと尚燕が苦笑して仕方ないね、とつぶやきその場を去った。

「座っててください。ここに立ってますから」

 カイルに背を向け黒羽はいつでも抜けるよう冥炎の柄に手を置く。返答はなかったが、彼が座る気配が背後でした。

 漓瑞のことを尚燕に聞きそびれてしまったことは引っかかっているが、かといって病人をこのままにしておくわけにもいかない。

 それからおおよそ四半刻。黒羽はそこに立ち続けた。

 その間にカイルと言葉を交わすことは一切なかった。

  

***


 湯浴みを終えて漓瑞の部屋まで来た黒羽は扉の前で躊躇していた。

 カイルの体調のこともあり、今日の訓練はなくなった。自分も体を休めておけとは言われたが、することがなくなると普段は使わない頭を使ってしまって気分が波立って仕方ない。

 そしていてもたってもいられず教務部のある棟の隣、来客用の宿舎に設けられている自分の部屋には戻らずに漓瑞の部屋に来てしまったのだ。

 昔から辛いときに何度となく訪れて、優しく穏やかな眠りを与えてくれた漓瑞の私室の場所は、今も昔も変わらない。

 だけれど、自分はいつまでも甘えてばかりの子供ではない。

 今は訪ねても余計な心配をかけるだけだろうし、やはり最初の時同様にここへ来た理由もちゃんと説明できる気もしない。

 そういうわけで頭を悩ませながら黒羽は扉を叩くことも出来ずに突っ立ているのだ。

「黒羽さん……?」

 じっと扉に意識を集中していた黒羽は予期せぬ背後から声をかけられ肩を跳ね上げた。

「お、お前中にいなかったのかよ」

 驚きすぎて激しく鼓動を打つ心臓をなだめても、声は動揺で震えてしまった。

「ええ。食事に……。どうしたんですか、濡れたままでこんなにぐしゃぐしゃにして」

 漓瑞が滴らない程度に水気を拭き取っただけ乱れた灰色の髪を指に絡める。そしてほら、と彼は自室の扉を開けて黒羽を招き入れた。

 なにも言わずとも漓瑞は察してくれているらしく、黒羽はそれに甘えて勧められた椅子の上であぐらをかいた。

 漓瑞はさも当然のように、櫛と乾いた布を備え付けの棚から取り出してきて黒羽の髪から丁寧に水気を取る。あらかた乾かすと次はもつれた髪を慎重に指で解いてから櫛を入れ始めた。

「……悪い。いつまでもガキでさ」

 何も言わずに黙々と作業に集中している漓瑞に向けて、黒羽は組んだ自分の足を見ながらぽつりとこぼす。

「いつでも来ていいと言ったでしょう。私はなにも困りませんから。訓練、大変らしいですね。呂氾部長から聞きました。ちゃんと休息はとっていますか?」

 振り向かずとも優しい微笑を浮かべていることが分かる声音だった。

「うん。まあ、訓練はさ、きついけど嫌いじゃないから別にいいんだけどよ。なんかいろいろ聞かされて訳わかんなくて。ほら、あたし頭悪いだろ。追いつかないっていうか」

 何が本当で何が嘘か。

 もたらされる情報は重なるようで食い違っていて、どう見極めていいのか分からない。考えれば考えるほどこんがらがっていって鬱々としてくる。

「追いつかないのなら一度足を止めてみてもいいのでは。それでゆっくり足取りを見ていれば道が見えることもありますよ」

 漓瑞は黒羽が抱えている問題が何であるかは聞きはしない。

 彼は分かっているのだ。答えが欲しいのではなくただ弱音を吐きたいだけだと。

 いまだ進展のない柳沙が関わっている乳児誘拐。本局から知らされた自分の出自。身近な人間にかかる嫌疑。自らの身を削ってまで自分を妖刀と同調させんとするするカイル。

 その上内乱で国中に蔓延する死に感情を深い場所へ突き落とされて沈みこむばかりで、心も疲れていた。もう何も見たくないし、聞きたくもない。

 本当は弱音を吐くのは嫌いだ。強くなりたくて必死につかんだ力まで、言葉と一緒に剥がれ落ちていってしまう気がするから。

 強くなりたいのに。誰よりも強くなって大事なものは自分の手で全部守っていきたいのに。

「うん、そうだな。……なあ、今日ここで寝ていいか」

 まだ何も出来なかった幼い頃と変わらず漓瑞に甘えている。

 そんな自分が嫌になりながらも、昔と変わらず甘やかしてくれる漓瑞に安堵している自分がいた。

「私は昨日寝たばかりなのでいいですけれど、黒羽さんの方は大丈夫なんですか?」

「たぶん怒られるだろうけど、なんかあったらここには連絡来るからいいだろ」

 黒羽はそう言って椅子から降り寝台に潜り込む。

 懐かしい感覚にすうっと感情が穏やかになって、敷布に触れる場所から眠気が緩やかにやってくる。

「お休みなさい」

 昔のと同じ仕草で頭を撫でてくる漓瑞に小さくうなずいて目を閉じる。

 約束、覚えてるよな。

 訊こうと思ったけれど、時々頬にあたる柔らかな温度の手の甲に安心しきった黒羽はそのまま深い眠りに落ちた。

 

***


 黒羽の穏やかな寝顔を眺めていた漓瑞はため息をひとつついた。

 もはや条件反射で彼女の世話を焼いてしまう自分には呆れるより他ない。

(私はこの子に酷い嘘ばかり吐いている)

 苦い思いを抱きながら漓瑞は黒羽の頬にかかる灰色の髪をはらう。

 そのとき、扉が控えめに叩かれた。どうぞ、と声を返すと珍しく藍李がそこにいた。

「黒羽いる……わね。本局の人が急にいなくなったって探してたんだけど、黒羽がくるとこなんてここしかないわよねえ」

 狭い部屋なので一歩入れば寝台の上の黒羽が見えたらしく藍李が苦笑する。

「すみません、このまま寝かせてあげられませんか?」

 藍李が来てもまるで反応しないほどよく眠っているのに、起こしてしまうのは忍びなかった。

「別に居場所が分かればいいだけなんだからそれはいいけど。でももうちょっと早かったら黒羽起きてたのよね」

 唇をとがらせた藍李が黒羽の寝顔をのぞき込む。

「…………起こしちゃだめ?」

「駄目です」

 甘ったるい声でかわいらしくおねだりしてみせる藍李に、漓瑞は苦笑混じりに返す。

「本当に疲れているようですから、休ませてあげてください」

 そして念押しして付け加えると藍李は分かったと不満げに言って、部屋のもう一脚の椅子を寝台の近くに寄せて座った。

「それにしても無茶させてるみたいね。本当に何考えてるのかしら。砂巌の方にも妖刀のことは伝えてないみたいよ。餌にするつもりかしら」

「……そちらの方が見つけやすいからでしょう」

 漓瑞はそっと黒羽から視線を外して答える。

 こちらが妖刀を持っていると知れば砂巌はおそらく兵を出さない。仮に出されても妖刀を用いれば一掃できる上にそれ以上攻めてくることもないだろう。

 どちらにしてもこちらに不利なことはない。

「いつまでも妖刀持っててもらうのはまずいのは分かるけど、犠牲が大きくなるのは嫌ね。監理局側は今回のことは隠蔽するしかないだろうし、すっきりしないわ。いつ頃向こうは出てくるのかしら」

 藍李が心底おもしろくなさそうにため息をついて漓瑞の顔をのぞき込む。

 その視線はどこか警戒心を呼び起こさせるものだった。

「八州の内四州が陥落する前には鎮圧に兵を出すでしょう。反乱軍は日ごとに兵を増やし勢いを増しています。この情勢ならば向こうも焦りは強いはずです。防壁沿いで戦闘が始まれば準備している兵を出してくるでしょう」

 期日は三日後。すでに布陣の準備は整っている。本来なら砂巌を退けたあと帝国の本隊への脅しとして妖刀は所持したままでいるつもりでいたものの、緋梛が出てきたことで想定より早く監理局が動き始めてしまった。

 神剣を相手にしたなら妖刀は確実に回収されてしまうだろうが、元より緋梛は監理局が出てくるまでに引かせるつもりだ。緑笙が捕らわれても妖刀は一本残る。

 ただ、協力者が本当に最後まで与してくれるかどうかは不安だ。緋梛があそこで出てきたのは、伝達を聞き間違ったとのことだがそれが真実かどうかは怪しい。

 それでも、もたらされているものの大きさを考えれば意のままになるより他ない。

「まあ、そんなとこかしらね。誘拐事件のほうはこのままうやむやにしたくないんだけど……」

 藍李が黒羽へと視線を向けて眉根を寄せ、するしかないわねと小さくつぶやく。

「赤ちゃん、どうなったのかしら」

「どうなったのでしょうね」

 独り言のように訊いてくる藍李に白々しく返しながら漓瑞は表情を曇らす。

 協力者が妖刀と薬を提供する代わりに要求してきたのは乳児だった。どうするかなど聞いてはいないが、おそらく自分の考えは間違っていないだろう。

 それを黒羽が知ることがなければいいと思いながら、漓瑞は無意識の内に傷の癒えた自分の頬に手を当てる。

「……駄目ね。黒羽にちょっと元気もらおうと思ったのに。私も部屋に戻って寝るわ。カイルには私から黒羽がここにいること言っておくから」

 藍李が立ち上がりぐっと背を伸ばしておやすみ、と一言残して部屋を出ていく。そして扉が閉まって漓瑞は肩の力を抜いた。

 あと三日、どうにかうまくやり過ごすことは出来そうだ。予定通り事が進めば四日後には自分はここにいないだろう。

 胸に広がる寂しさに黒羽へと視線をやろうとしていた漓瑞は、わずかに髪を揺らす風に机へと顔を向ける。

 そこには先ほどまでなかった一通の封書があった。

 漓瑞は静かに椅子から離れ、宛名はおろか差出人の名すらないそれを開く。

 協力者とは九年前から顔を合わせてはいない。こうしていつの間にか自分のいる場所に手紙が届いているのだ。

 三日後のことについての協力者側の行動の子細と、その手はずが滞りなく整っていることがこちらの方では一般的な縦書きでなく横書きで書かれていた。

 たまについてくる返信用の紙はなく、読み終わって手紙を封筒に入れるとそれは端から細かな砂になりやがてその砂すら跡形もなく消えた。

 協力者のこの異様な力はいつもながら不気味だ。

「ん……」

 ふと、黒羽の声が漏れ聞こえて漓瑞はびくりと肩を揺らしそちらを見る。

 起きたわけではなく夢見でも悪かったらしい。少し顔をしかめた黒羽は寝返りをうつとまた穏やかな表情になった。

 漓瑞は側に寄ってずれた上掛けを掛け直す。そしてまた乱れてしまっている髪がかかる頬に何気なく伸べかけた手を止め、椅子に深く座りぼんやり思う。

 夜明けまでの時間は長く感じるのだろうか。それとも短く感じるのか。

 たぶん短いのだろうなと自答して漓瑞は変わらない無垢な寝顔に切なげに目を細めた。

 

***


 等間隔に並ぶ組み格子の窓から月明かりがこぼれ落ちる廊下で、人の来る気配にカイルは壁にもたれかけてあった背を離す。

「黒羽いたわよ、漓瑞のとこ」

 藍李の声が先に聞こえそのあとに姿を確認し、カイルが無言で頭を垂れそのまま自分の部屋へと戻ろうとする。

「待ちなさい」

 だが予想通り藍李は易々と帰してくれそうになかった。

「何度聞かれても私は貴女にお話しすることはございません。これで失礼いたします」

 頑な態度でカイルがそう言うと大股でいながら優雅に歩いてきた藍李が目の前に立つ。

 長身な自分から見れば彼女は子供も同然だが、纏う空気に否応なく緊張を強いられる。 他者よりも上に立つことが当然と知っており、かつその責任とそれを果たすための自己の能力に絶対的な自信を持っている意志の強い瞳には常日頃から敬服している。

 だが膝を折ることは出来ない。

 自分が忠を誓うのはただひとりだ。

「近いうちに砂巌と交戦するつもりよ。本当に緋梛と緑笙の居場所は分からないの?」

「存じ上げません」

 それは嘘ではなかった。実際自分はふたりがどこにいるか知らない。おそらく本局長もそうだろう。

「……本当に役に立たないわね。せめてその立派な忠誠心でご主人様をちゃんと執務室に座らせておきなさいよ。あちこちふらふらして捕まりやしない」

 いらいらとした藍李の口調は、まるで本局長が職務を放り出して遊びほうけているかに思えてカイルは眉根を寄せた。

「本局長はどこにいようと職務は滞りなくこなしておいでです」

 確かに木の上など突拍子のないところで資料を読んでいることもあるが、どこに行くにしても常に資料や書類を抱えているのでさした問題ではない。

「用があるときに連絡できないと職務が滞るでしょう」

「いえ、そんなことは」

 ない、と言いかけたカイルは藍李に誘導されている事に気づいて口を噤んだ。

「やっぱりあえて私を避けてるって訳ね。あんたはただの足止め役でいくら動向探ってもたって何にも出てこないっていうのは分かってるわよ。それで、砂巌には本当に妖刀のことは言わないつもり?」

「貴女ならおわかりでしょう。今回の件は表沙汰にするわけにはいかないと」

「……そうね。あの人がやらかしたことが少しでも公になることは避けなきゃならないわ。それで、研究資料はどうなったの? 紛失したなんて言わないでよ。そっちがまだ持ってるでしょう。本当に馬鹿なことしてくれるわ」

 瞳を伏せため息と共にこぼしたあとにぎらつく瞳で藍李がカイルを見据える。

「どうしてその馬鹿げたことをあんたは止めなかったの」

 低く絞り出されるその声には殺意すら感じられるほどだった。

「……お答えは出来ません。貴女は一支局員らしく振る舞っていてください。以前にも尚燕殿に申し上げたとおり、あの皇子に直にこの件についてお話しになることがあればこちら側は手段を問いません」

 暗に漓瑞の処分をほのめかすと藍李が朱唇を噛んだ。

「あんたはもうちょっとまともかと思ったけどずいぶん馬鹿になったものね」

 唇に血が滲む前にそう吐き捨てて背を翻す藍李の姿が廊下の奥の闇に吸い込まれ見えなくなるとカイルも重たい体を引きずって自室へと向かう。

 瘴気で傷んだ体は日に日に鈍くなる。

――どうしてお前だったんだ

 カイルの頭の中でそんな恨めしげな声が響く。

 女神に選ばれず十四の時に逝った双子の兄。彼の問いかけに自分は何も答えられなかった。答えられるはずがなかった。

 自分とて知りたい。

 女神の意思とはいったい何であるのかを。

 緩やかに歩むカイルの足下の月光は淡く、その爪先すらはっきりと照らし出すことは出来ていなかった。

  

***


 城藍州の東隣に位置する白里はくり州。その南端、砂巌との国境沿いに広がるなだらかな丘陵地帯はこの時期、羊を中心とした家畜たちが茂る草を食むのどかな光景が広がっているはずだった。

 だが夜明け頃に古びた砦を反旗を翻した兵達と反乱軍があっという間に陥落させた。そして、砂巌の兵が防壁の向こうから数十年ぶりに門を開き数百の兵を送り込んできている。

 家畜の飼い主である近隣の住人らは、木の柵で囲まれた邑の小屋に家畜たちを押し込め鋤や鍬を手にしてじっとしている。

 そこへ砂巌の兵の前で戯れのように炎の蛇を踊らせて行軍の足を鈍らせた緋梛が戻ってくる。

「行って」

 そうして緋梛は邑の中でひとり浮いている金茶の髪をした少年、緑笙ろくしょうに声をかける。彼は自分の背丈ほどはありそうな長剣を抱きしめてこくりとうなずく。

 彼の緑の瞳は不安と恐怖で震えている。

「ねえ、やっぱりいやだよ、恐いよぉ……」

 大きな瞳に涙を浮かべて緑笙は緋梛にすがろうとするが、彼女は見向きもせずに邑の奥へと消えていく。

 周囲の人々はそれに憐憫を覚えるが誰も声をかけようともしない。彼の抱える魔剣がなければ自分たちの邑は潰えるのだ。

 なかなか動こうとしない緑笙が不意に大きく目を見開く。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ちゃんと戦います」

 見えない誰かに必死に謝りながら緑笙は外へと駆けていく。

 その小さな後ろ姿を今度は気味悪がる目で人々は見送った。 

 

***


 別の州で妖獣が出現し呂氾と尚燕の班がそこへ出動した後、黒羽達は緋梛らしき少女が目撃された白里南部へと向かった。

 到着したときにはすでに緋梛はおらず、戦場では暴風が吹き荒れていた。千切れた下草が風に巻き上げられあたりに舞い散っている。

 反乱軍側の兵はいない。砂巌の兵士が防壁に向けて逃げ惑うばかりだ。上空には霊力のないの人々には見えない瘴気が黒い薄もやになって漂っている。そろそろ妖魔が産まれ死体に群がり始めるだろう。

「あ、あれ、あの誘拐事件のときの金の受け渡しやってた子供です!」

 どうにか暴風の中心にいる緑笙の姿が確認できるまで近づいた時、局員のひとりが声を上げた。

「何で特徴聞いたときにすぐにわかんなかったんだよ」

 髪や目の色は反乱軍にいるのは珍しい取り合わせだ。最初に聞いたときにすぐに分かるだろうと黒羽は呆れた声で言う。

「いや、だってあれ目の色が違ったんだよ」

「……見間違いじゃねえのか。それよりあいつ止めねえとな。どうするんです」

 黒羽は隣にいるカイルに指示を仰ぐ。

 まだ周囲に砂巌の兵士は多く、魔剣ラーゼンの解き放つ風は刃となって近づく者を切り裂いていく。下手に冥炎で突っ込んでいくと逃げ惑う兵士まで巻き添えにしてしまう。

 ここはカイルに出て行ってもらった方が無難だと思うが。

「そう長く力を放出し続けられるわけではない。風がやんだらすぐに行って動きを止めろ。私は背中に回る。他の者は待機し妖魔が邑へ行かないよう注意しろ」

 カイルの言ったとおりすぐに風はやんだ。それと同時に冥炎を抜いた黒羽は全速力で走り出す。

「監理局だ! さがれ!!」

 右往左往する砂巌の兵に声を叩きつけ黒羽は緑笙に向けて炎の漣を起こす。訓練の甲斐もあって自然に意図通りの炎を放てた。

 緑笙がそれに向けて扱いづらそうな長剣を器用に振り下ろす。起こされた風の刃に冥炎の青白い炎が真っ二つに割れ勢いを無くし消える。

 そのときにはすでに黒羽は緑笙に斬りつけていた。

 緑笙の反応は早くすぐに刃を受け止める。事前にカイルから聞いたとおり緋梛より強いのは明確だ。

 子供相手に本気でかかるのは気が進まないが、下手に手を抜いたらこちらが危ういだろう。戦わずにすむならそれが最良だが。

「緑笙、今すぐ剣を置け」

 距離を取り冥炎を正眼に構えながら黒羽は告げる。

 緑笙はラーゼンを携えたまま首を横に振る。彼は酷くおびえているらしかった。

「大丈夫だ。誰にやらされてるかはしらねえが、あたしらのところに来たらもう戦わなくてすむ。あたしもお前を傷つけたりはしない」

 ゆっくりと宥め、黒羽は冥炎を下ろすが緑笙は剣を構えたままでだめ、とつぶやく。

「やらなきゃ怒られるんだ。たくさん、たくさん怒られるんだ。ねえ、だから戦って。戦ってよ!」

 緑笙がそう言う否や飛びかかってくる。

 黒羽は舌打ちして受け止める。予想だにしなかったその重さに手が痺れた。

 剣そのものは霊力で持ち上げられるが、打ち合いになると腕力は必要になってくる。多少は霊力で補えるものの、子供でこれは尋常ではない。

 黒羽は少年の手の甲に目を走らせるが、当然ながら魔族の証はない。

「加減って苦手だから、気をつけて」

 少年が刃に霊力を流し込まずに打ち込んでくる。

 太刀筋は途切れることなく流れ刃が滑る。まるで無駄がない動きは子供とは思えない。

「くそっ、ちょっと痛いくらいは我慢しやがれよ」

 黒羽は一気に冥炎に霊力を注ぎ込んで刃を弾いて炎を刃から押し出す。

 少年は妖刀を軽く一振りしてそれを打ち砕き、なぜかそこで動きを止めた。

 黒羽は少年の腕めがけて突き出していたはずの刃を切っ先を逸らし、かろうじて緑笙の目を傷つけることはなかった。だが緑笙のこめかみの辺りがざっくりと避けて血が溢れ出していた。

「痛いのはわかんない」

 眉一つ動かさない少年が黒羽に傷を見せつけるように顔を傾ける。血はすでに止まっていた。傷口も蠢いて消える。

 先日の妖獣が脳裏に浮かんで黒羽は息を呑む。そして訳の分からない恐怖に似た何かが背をつたった。

「てめえ、何だ?」

 人ではありえない。魔族ならばまだ合点がいくというのに。

 少年が妖刀を構える。

 ごうごうと風が唸った。魔剣が霊力を飲み込んでいるのだ 封をされていないのではないかと思える力をそれは抱えている。

「何って、同じだよ。黒羽と同じ。ねえ、黒羽は何でアデルが恐くないの」

 誰だ、と問いかける声が喉に引っかかってでてこなかった。

 視線をそらした先、いつのまにか緑笙の背後にいるカイルが神妙な顔で何もせずに立っているのが見える。

 かすかにその唇が動いて見える。

 思い出せ、と言うように。

 黒羽は立ち尽くす。

 暴れ狂うラーゼンの力に頬を、腕を、足を、切り裂かれ風に撒き散らされる己の血に汚されてもなお動けなかった。

 髪を結ぶ紐も切れ視界に自分の乱れる灰色の髪が目に入る。それに浸食されて辺りの緑は記憶の奥に潜む灰色の小部屋へと変わっていく。

 石造りの部屋の中に充満する異臭。薬品、と血臭、そして腐臭。

 部屋の中心にすえられている大きな机の前に立つ金色の髪の男が振り向く。まだ少年といえるその面立ちは幼心にも美しいと分かるものだった。彼は屈んで幼児である黒羽の顔を撫でる。

 べっとりと血がついた手で。

――もうすぐお前の妹が出来るよ。名前はそうだな、緋梛にするか。

 夢見るようにうっとりと男が青い瞳を細める。

 背後に男の背の半ばまでありそうな大きな木桶が見えた。それをじっと見ている黒羽を男が抱き上げる。

 そして木桶の中をのぞき込ませる。

――これは残りかすだ。選ばれなかった不要物だよ。

 脳内にぶちまけられた赤い色に現実に引き戻された黒羽はその場に膝をつき嘔吐く。

 大きく呼吸を吸い込むと青葉の臭いと、戦場の血臭が混ざり込んだものが肺に満ちてむせ込んだ。

「……黒羽、大丈夫? いくよ」

 気遣わしげな顔をしながらいつの間にか力の放出を止めていた緑笙が近づいてくる。黒羽はよろよろと立ち上がり冥炎を鞘にしまう。

「緑笙、もういい。アデルはいない。死んだんだ。……そうですよね」

 黒羽はじっと成り行きを見守っているだけのカイルを見据える。

 あの男、アデルが自分をこの国に連れてきたのだ。突然頭をつかまれよく分からない言葉を耳から流し込まれ気がついたら何もかも忘れて養父のところにいた。

 とはいえまだあのころはふたつで覚えていることはそれだけで、なぜここに連れてこられたかはまるで覚えていない。

「生きてるよ。だってずっと僕に命令してるんだ!」

 叫んで緑笙が先ほどまでとは比にならない力を放出する。カイルは動かない。

 黒羽はくそ、とつぶやいて冥炎を再び抜く。

 次に来る攻撃を飲み込まねば訪れるのは死だ。

 意識を切り替えて力を外へと押し流す。

 自分の内から指先に向けて力が流れ出しているのが分かる。それと同時に妖刀の霊力が自分の霊力を食らわんと指先から入り込んでくる感覚も。

 ふたつの力は縺れ合い解け合っていくようで、薄い皮膜に似た隔たりが確かにある。

 黒羽と冥炎。

 人と剣がそれぞれ個を有しながらも共鳴しあい大きな力を生む。

 力は燃えさかる蒼い炎という実体を持ち刀身を包み込む。

 冥炎とラーゼンから力が解き放たれたのは同時だった。

 炎の荒波と風の刃が地面より少し上でぶつかる。

 同じ色の蒼天に同化するかのように炎が大きくなる

 風がその炎を千々に引き裂き吹き消さんと荒ぶ。

 そうして周囲の音を呑み込んでふたつの力は無音で弾けた。

 音のかき消えた中で耳鳴りがし、その後に力の反動でふたりとも後方へ吹き飛ばされる。

 遠のきそうになる意識をどうにか留めて起き上がり、黒羽は干上がった小さな湖にみえる地面の抉れを見て唖然とした。

 お互い直撃していたら骨すら残らなかったのかも知れないと思うとぞっとする。

「……緑笙!」

 黒羽は正反対の向こうで倒れる緑笙を呼ぶ。しかし彼はぴくりとも動かない。

 そこへカイルが歩み寄っていくのが見えた。

「そいつ無事ですか!?」

 声をかけると、カイルが緑笙を抱き上げうなずいて黒羽はその場に座り込んだ。安心したとたんに傷口は痛むわ、意識が飛びそうなほどの疲労感まであるわでそのまま倒れ込みそうになる。

 とはいえ、まだ聞くべき事がある。これで終わりではないのだ。

 自分の足だけでは立てそうもなく、黒羽は冥炎を支えにして体を起こそうとしたがそのまま仰向けに倒れ込んで下草に沈む。

 視界いっぱに広がる碧空は美しいもののはずなのにアデルの瞳に似ていて、また吐き気がこみ上げてくる。

「今は無理をするな。局までは他の者に運ばせる」

 顔のすぐ横で草を踏みしだく音がして、その後カイルの声が上でした。

 そういうわけにもいかない、と口に出そうとするが声は出ず空が渦巻きながら落ちて来る。

 激しい目眩の後、黒羽はそのまま意識を失った。

 

 

 

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