五-4
***
渡し人の老人に奇蹟が起こるわけもなく、そのまま遺骸を水路に沈めることになった。
無論、彼が死んだことは他の渡し人にも告げた。そして返ってきたのは水路に葬ってくれとの答だった。親族という概念は渡し人達にはないらしく、魂のない肉体はただの器にすぎず最後の別れも不要だと告げられた。
記憶が失われたと、渡し人は言い残して船着き場から離れた。棺を運ぶのを手伝った三名の局員にも退出してもらっていて、い、水葬に立ち合うのは藍李とハイダルだけだ。
藍李とハイダルでその日の内に木棺を用意した。急ごしらえで葬儀すら行えないことに後ろめたさはあった。
だが、葬儀というのは女神の元へと魂を送る儀式だ。
しかし、老人の魂は消え去ったという。
送るべき魂もなければ、彼らにとっての神は一体誰なのだろう。
立ち尽くしたまま藍李は黒い水面に沈みんでいく棺を見つめていた視線を、隣で両膝をついて祈るように両手を組むハイダルへと移す。
彼の表情は硬く組んだ手は、強く握りしめすぎて震えてる。
「ハイダル、気にしすぎるのはよくないわよ」
藍李はハイダルへ静かに語りかける。
まさか渡し人が女神との契約について他言したとき、命が尽きることになっているなど予想もしなかった。
彼らが水路についての状況を説明するのに時間がかかったのは、きっと犠牲を誰にするか決めるまでの時間だったのだろう。
「……この犠牲にどう報いればいいのでしょうか」
ハイダルが苦しげに声を絞り出して、藍李は棺が沈んで凪いだ水面を見やる。
「ここでいつまでもいるのは弔いにはならないわね」
結果を悔やみ悲しんでいても何も始まらない。
ハイダルがうなずく代わりにゆっくりと指を解いて、立ち上がる。そして立ち去ろうとしたとき、船着き場に降りる石段を踏む音がした。
「お、なんだ、もう終わっちまったか」
やってきたのはオレグで、その後ろにはランバートもいた。一応は本局長であるランバートに渡し人が死亡したことは書面で報告していたので、ふたりが来ること自体は不思議ではなかった。
「こないかと思ったわ」
「悪かったな。ちょっと深酒して寝過ごしたんだよ。俺は正直どうでもよかったんだが、本局長様がどうしてもって言うから来たまでだ」
オレグのいい加減さに苦言を呈する気にもなれず、藍李はうつむき気味のランバートを見据える。
「渡し人が秘密を打ち明けたらこうなるって知ってた?」
ランバートの瞳が怯えたように一度震えて、何も知らなかったのかと彼が首を横に振るより先に悟った。
不測の事態に動揺している時の顔だ。
「兄上から渡し人についての話を聞いたことはなかった……」
「アデルの奴に信用されてないんじゃないか、お前。これ、南部の支局でのことに渡し人が関係してるって事なんだよな? ったく、協力してやるって言ってるのにアデルは本当に情報よこさねえな。坊やも災難だったな」
オレグがぼやきながら藍李とその一歩後ろにいる、いまだに沈痛の表情を浮かべるハイダルに笑いかける。
「……そちらも今、ジャロッカで何が起きようとしているのか知らないのですね」
「今現在何が起きてるかもしらねえよ。どういう状況だ?」
ハイダルが逡巡した顔を藍李に向けて、話すべきか判断を待つ。どのみちあとで本局長に報告はすることなのだから、かまわないだろうと藍李は現状をかいつまんで教える。
ランバートの様子からして、アデルからの連絡は一切なさそうだった。
「なるほど。もしかしたら神々は瘴気が発生しないように、自主的に眠りについたのかもしれない」
藍李達の仮説をランバートも口にする。
「でも、鉱山には瘴気がたまってんだろ。神様達は自分らの瘴気は抑え込んで、人間の方は放置って酷い話だな」
話が長くなりそうな気配を察して、オレグが石段に腰掛ける。
「……支局の地下に神々の魂、鉱山は行き場を失った人の魂。聖地はなんでしょうか」
ハイダルが異変の起きている三地点を上げていく。
「足りないのは主である神ね。……玉陽の時、アデルは神の復活のために瘴気を集めてたわね。あー、そういうこと? 嫌だわー」
藍李は自分の考えに苦虫を噛み潰したような顔をして頭を抱える。
「なるほど、神様達は復活のために瘴気を自ら蓄えておいてるってことか。えげつないな」
オレグが藍李の思考を口にして、ランバートとハイダルも顔を強張らせる。
「水脈を使って移動しているのなら、神の魂が動き出した時になんらかの大きな力が作用した反動で陥没ができたということかもしれないか」
ぼそぼそとつぶやくランバートに、それが妥当な線だろうと全員がうなずく。
「移動した先はやはり鉱山ということでしょうか」
「そうでしょうね。結局、焦点は鉱山でいいわけね。あとは、神剣の問題だけどそこも何も聞いてないのね」
すでに話をしたオレグでなく、ランバートへと答を求めると彼は曖昧に首を横に振った。
「子供の頃に、これがある意味監理局の罪の象徴とだけ聞いた。神殺しに使っていただけだとおもっていたが……」
「使えないわねえ」
藍李は弱腰なランバートにわざとらしく冷たい視線を向ける。
(あの人、ランバートを都合よく使ってるだけで、肝心なことは本当に教えてないのね)
ランバートはアデルがどうしても動けない時にだけ、あるいはひとりでは手が足りないときにだけ必要最低限の情報を与えられているのにすぎないのかもしれない。
(今、ランバートが状況を把握していないのは、あんまりよくないかしら)
アデルはアデルでなんらかの動きをもうすでにどこかで始めているのだとしたら。
藍李は自分の考えに焦燥を覚えながらも、すぐに振り払う。とにかく片付けるべきはジャロッカの件だ。
しかし、頭の隅に嫌な予感だけは残り続けた。
***
蘇芳の眠る部屋に特別なものはない。彼が眠るひとつの寝台に、箪笥に机。明かり取りの窓はなく、いつでも夜だった。
真っ暗な部屋に蝋燭ひとつだけで部屋に入ることが白雪は今より幼い頃は苦手だった。今でも慣れたかといえばそうでもなく、急いで寝台の側まで行って双子の片割れのような存在である蘇芳の顔を見て安堵するのだ。
「蘇芳」
名前を呼んでも返事がないことはいつものことだけれど、今日こそはという期待は一度も捨てられなかった。
蝋燭に照らされた蘇芳は食事のすらせずに眠り続けている。赤毛は肩口まで伸びたところでいつも切りそろえられて変わらない。
彼の瞳はどんな色だっただろうか。
燭台を寝台の脇に備え付けられた小さな机の上に置いて、白雪は暖かくも冷たくもない蘇芳の手を握る。
触れて、感情が揺れる。
瞳を閉じると自分の思考の中に何かが混ざり込んでいるのがわかる。耳元で囁かれているのと似た感覚。
さわさわと揺れる木々の葉擦れ。穏やかな波の音。霧雨。そんなささやかな音が自分の内側ですることに不快感はないがもどかしい。
何か言葉となって伝わってきそうなのに、つかみ取れない。時々感情が呼応して嬉しくなったり、寂しくなったり、不安になったりする。
「ここにいるわ。だから、ちゃんとお喋りしましょう」
いつかこの魂の片割れとも呼べる彼と、話したい。
そう、どんな声をしているのかすら知らない。産まれた頃からずっと一緒にいるはずなのに、知らないことが多すぎた。
「……どうしたの?」
不意に不安が胸に押し寄せて来て、すぐさま恐怖に変わる。
恐れているのは蘇芳だ。白雪は目を開いて、自分の心臓がばくばくと脈打つのを聞く。冷たい汗が噴き出して、唾を飲んだ。
誰かがこの部屋にいる。
暗闇がわだかまる場所に人の気配を感じる。
震える指で燭台を掴みその正体を見極めようとするものの、恐怖心が勝って体を動かせない。
「誰?」
蘇芳の手をぎゅっと掴み乾いた口で誰何すると、微かに笑う声がした。
知っている。この笑い方は耳覚えがあった。
「……アデル様」
名を口に出したとき闇が動いた。それを確かめたとき、握っていた蘇芳の手の感触がなくなった。
「いや、蘇芳。蘇芳!」
目を落とした寝台は空だった。
「どうして、アデル様。あの子をどこに!」
再び目を向けた暗闇に人の気配はなかった。その代わり背後で足音がひとつして、白雪は振り返る。
蝋燭の灯が消える。
白雪の意識もそこで途切れた――。