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女神の玉座  作者: 天海りく
翠卵の皇子
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 昼に足の骨折だけ治癒を施されていた漓瑞は、夜になって少し霊力が回復してから腕の骨折も治してもらった。

 食べておいたほうが傷と霊力の回復も早まるので、食欲はあまりないものの、食事を取るために休憩室へと向かうことにした。

 大半の局員が食事を終えたらしく、休憩室へ向かう人は少なくやってくる人間は多い。すれ違う人が右頬に大きな湿布を貼っている漓瑞の顔に、少し驚いた目を向ける。

 知り合いが大丈夫かと案じる言葉をかけてくるのに、愛想笑いで大丈夫だと応える。

 そうしている内にたどり着いた休憩室の入り口で、黒羽が年下の女性局員に囲まれていた。

 彼女達はもう食事を終えているらしく、時間だから仕事に戻らなければという声がちらほら聞こえる。

 やがて黒羽もこちらに気づいて後輩たちと別れ、駆け寄ってくる。

 その姿に懐かしいものを覚えて漓瑞は口元を綻ばせた。

 あの夜に部屋に泊めてからはすっかり懐かれてしまい、顔を見せないと寂しがるので当時教務部にいた尚燕から頼まれ時々様子を見に行っていた。

 その時黒羽は今と同じで、他の子供たちと一緒に居てもすぐに自分の元に駆けてきた。

「腕、治ったんだな。顔のほうはまだか」

 昔見上げてきたのと同じ真っ直ぐな青鈍色の目で、黒羽が漓瑞の頬にある湿布を見下ろす。

「ええ。これは二、三日放っておけば治るものですから。無駄に霊力を消費することもないでしょう」

 身に抱える病のこともあって霊力はできるだけ消耗するわけにはいかない。与えられている薬は体内で霊力を吸い取り、霊術治療に似た作用で一時的に症状をおさめるものだということだ。

 そうして、効果の持続が薄れているということは病が重篤化してきているということだと、新たに薬と一緒に添えられていた手紙にあった。

「そうか。あ、お前今から飯食うのか。言ってくれれば待ってたのによ」

 黒羽のすねた口調が無性に愛おしく思えて、胸の奥が痛んだ。

「いつ終わるかもわかりませんでしたから。黒羽さんの傷はもう痛まないんですよね」

「痛くねえし、冥炎も抜ける。師範に相手してもらおうと思ったら今日は大人しくとけって怒られた」

「そうですね、まだ月報も出来てないでしょう。今日の報告書は?」

 問いかけると黒羽がう、と言葉に詰まった。

「報告書は出したけど、月報はまだだ……」

「それなら後で一緒にやりましょう。私が行くまで少しでも進めておいてくださいね」

「おう、出来るだけやっとく。じゃ、後でな」

 黒羽の姿が後ろ姿になって漓瑞の口元から笑みが消える。

 胸に刺さる棘は抜けない。

 別れが近づくにつれてあの子を傷つけるのも、離れていかねばならないこともどうしようもなく辛くなってくる。

(本当に、身勝手な……)

 初めこそ黒羽に懐かれたとき、このまま手懐けておけばそのうち来るべきときの戦力として使えるかもしれないとも考えた。そもそもはその目的で自分を救った男から彼女を妖刀ごと預かり、伯父の元で育てていたのだ。

 それなのに妖獣の尾が自分を狙っていることに気づきながらも、半ば反射的に黒羽を護ることを優先してしまうほどに情を移してしまうことになってしまった。

 だが、ただでさえあの少女が勝手に出てきて妖刀を持っていることを監理局に知られて計画に狂いが生じている。感傷的になっている場合ではない。

 今日は無理そうだが明日にでもどうにか抜け出して柳沙と話し合わねばならない。

 漓瑞は止めていた足を前へと踏み出した。


***


 翌日、教務部特殊練習場――つまりは妖刀用の特殊な壁で囲まれた練習場で黒羽は冥炎に炎を纏わせる。

「まあ、おせえな」

 それを見ている呂氾が渋面でそう告げると、黒羽は分かってるとぶっきらぼうに言って炎と一緒に冥炎を鞘にしまう。

 またいつ緊急出動要請が出るか分からないので、ひとまず呂氾に力の発動までの時間をどうにか縮める方法を見てもらっていた。

 実際これまで何度もこの修練は積んで、昔よりはずっと早く力を刀身に霊力を乗せることはできる。だが昨日の戦闘でまだまだ遅すぎると痛切に思った。

 最初に少女から攻撃を受ける前に妖獣を仕留めていれば漓瑞が負傷することはなかった。

 呂氾がもう一足でも遅ければと考えると恐ろしさに体の芯が凍えそうになる。

 だからといってうじうじといつまでも考えたって仕方ないので早朝からここに来たのだ。

「ああ、畜生、どうやったらもうちょっと早く出来んだよ」

「……できねえことはねえだろうけどなあ」

 珍しく歯切れが悪い呂氾を黒羽はいぶかしげに見る。

「てめえの場合は持ってる霊力が強すぎるんだよ。一気に霊力を流し込み過ぎると妖刀が暴発する可能性も高くなる。それをな、本能的に防ごうとしてんだ。それにな」

 呂氾が屈んで地面に円をひとつ描き、さらにその円と四分の一ほど端を重ねてまた円を描く。黒羽は疑問符を頭に浮かべながら同じように屈んでその図を見る。

「これが、普通の妖刀と使い手の霊力の関係って言われてるやつだ。重なってるところが妖刀の霊力と使い手の霊力の波長が合ってる部分で引き出せる力の量ってことだな」

 それに黒羽が目を丸くする。呂氾や尚燕が妖刀を扱ってるところは何度も見たが、あれでもこの程度なのだ。

「で、てめえの場合はたぶんこうだ」

 呂氾がまた円を二つ描く。その円は三分の二ほどが重なっていた。

「……たぶんってなんだよ。つーか重なりすぎだろ、これ」

「最初に冥炎抜いたときのこと覚えてるか」

 忘れるがはずがないと、黒羽は抉れて焦げた特殊壁を見る。

 瘴気を吸収するこの壁は通常の妖刀の訓練で多少傷はつくことはあっても、これほど明らかに凹むようなことは普通ない。

 あれは十二の時だった。

 霊力を注ぎ込んでいるうちに柄を握る感触が次第に失せていき、気がつけば目の前にあった壁があの通りだった。力を解き放った後に冥炎が一気に重さを増してそのまま座り込むと、狼狽した声で自分の名前を呂氾が呼んでいた。

 冥炎と意識が解け合った瞬間に感じたのは恐怖ではなく、ぬるま湯の中でまどろむような安らぎだった。

 ただその感覚を味わったのは一度きりで、以降はこれほど派手にやらかすことはなかった。

「たまに居るらしいんだよ、やたら妖刀と同調しやすいやつが。あの後、このままてめえに妖刀持たせておくか上でいろいろ揉めて総局長からは持ったせておけって命令が出た。その後はさっきも話したとおり、本能的に押さえ込んでどうにかやってるから力の制御の仕方に絞って訓練することになったわけだ」

「……そういう大事なことは説明しといてくれよ」

「説明してどうこうなるもんでもねえしな。必要なときに言えばいいかと思ってそのまんまだったわけだ」

 この師はたまに適当なところがあるから困ったものである。

「で、結局どうすりゃいいんだよ、あたしは」

「要するに押さえ込んでるのを解放すりゃいいんだけどな、てめえの頭でもそれが危ないってことは分かるだろ」

 黒羽は眉根を寄せてまた抉れた壁を見る。

 一歩間違えれば大惨事を引き起こす。だが、これだけの力があればと、渇望する思いもある。

「とにかくびびってないで自分で押さえ込んだらいいんだろ」

 案ずるより産むが易しと黒羽が立ち上がろうとすると脳天に拳が落ちてきた。

「分かってねえじゃねえかよ、馬鹿野郎が!」

「だったらどうしろっていうんだよ!」

「今から説明するからちょっと落ち着いて聞きやがれ!」

 いつもの調子でふたりは怒鳴り、ぎりぎりと睨み合う。特に仲が悪いわけではなく、師弟で火のつきやすい性格なだけである。

「君たち朝早くから元気だよねえ」

 そこへぼんやりとした声が割り込んで来て、師弟そろってそちらへ目を向けた。練習場の入り口にいる尚燕があくびをしながらうだるそうに近づいてくる。

「てめえはいつもにましてとぼけてんな」

「ちょっと夕べはあんまり寝てなくてね。ええっと、黒羽君、呂氾の言うとおりあんまり妖刀の力を甘く見てると痛い目に遭うからね、ゆっくり順序立ててやっていこうね」

 人がよさそう、というより何も考えていなさそうな笑顔の尚燕に師弟はしばし押し黙る。

「…………課長、いつからいたんですか?」

「んー、君が妖刀と同調しやすいって呂氾が説明してたときから」

 そこそこ前である。

「声かけろよ。だいたいてめえはなにしにきたんだよ」

「本局の人が午後にはくるみたいだから鐘が鳴ったら集まるようにだってさ。でも不思議だねえ。使われてた妖刀は火蛇かじゃで、使ってた女の子は特徴から言って緋梛ひな君で間違いないだろうしねえ。あの子はこういうことする子じゃないんだけどなあ」

 そう尚燕が首を捻るのに黒羽はきょとんとしたあとに大声を上げる。

「課長知ってるんですか!」

「うん。本局の知り合いの娘さん、みたいなものかなあ。素直じゃないけどいい子だよ。本局生まれだから全くこの国とは関係がないから本当にどうなってるのかな」

 あっさりうなずく尚燕は本局の出身だ。正式に局員となると同時に東部第一支局に派遣され、数年後本局へ呼び戻されてまたここへ配属されたという、なんとも落ち着きのない経歴の持ち主だ。

「出奔したなら通知もあるだろ」

 呂氾が怪訝そうな視線を向けると、やや不満そうに尚燕がさあと答える。

「本局もいろいろあるからね。それよりまず黒羽君の訓練だな。さて、と。二対一はちょっときついかなあ。まあ大丈夫だよねえ」

 自己完結して尚燕が背の妖刀を抜く。

「そのやり方も結構危ねえと思うけどな」

 ぶちぶちと文句を言いつつも呂氾も臨戦態勢になる。

「……どっちでもいいから説明してくれねえかな」

 訳の分からないまま黒羽もまた冥炎をかまえる。

「霊力乗せるのは一切禁止。真剣勝負だよ」

「集中力向上とあとはぎりぎりまで追い詰められる感覚をたたき込むってとこだな」

 先に呂氾が右から斬り込んでくる。それを受け止める前に呂氾が引いて、左から尚燕の剣が振り下ろされる。

 それを飛び退って避けたところへ襲ってきた呂氾の斬戟を弾く。

 その黒羽の瞳にすでに戸惑いはなく、炎を纏った冥炎と同じ鈍い光を纏っていた。

 

***


 かつての女神の庭のひとつであった江翠こうすいの岩山の内部には、岩壁が淡く発光し底に翡翠色の水がたまっている七角形の広い空間があった。

 中央には楼閣がそびえている。

 そして七角形をした二階建ての楼閣の片からは、空間の角に向けて色の異なる瓦屋根がついた併せて七つの橋が延びる。橋の先にはそれぞれの屋根瓦と同じ色の、精緻な蔦模様の這う扉があった。

 そのうちの藍色の扉からやってきた柳沙は、楼閣の中にある年頃の少女が好みそうな花や植物の意匠の調度品で飾られた一室に入った。

 部屋の片隅には濃紺の生地に白金の糸で蔦や葉を模した刺繍が施された衣装が飾られている。

――どんな顔をして出たらいいかしら。

 半年後に着るこの衣装を眺めながら柳沙の主は弾む声で言った。皇族は十五になると皇家の古い慣わしにより、この楼閣の二階の祭壇で成人の儀を執り行う。そして王都の楼閣でその姿を民の前に現わして正当な後継者として祝われる。

――背を伸ばして凛としていればいいのですよ

 腰まで流れる美しい黒髪をすきながら答えると、それが難しいのよとむくれた声がかえってくる。

 主の仕草に同じ魔族である幼馴染の面影があって、胸が詰まった。

――言ってもきかない方だから。

 幸せになれるはずがない。自分や魏遼ぎりょう将軍がどうにかあきらめるよう皇帝に進言するから結婚はやめておけと諭しても幼馴染はそう誤魔化した。

 それからどうにか魔族の血を一滴とも感じられない人間の子供ができて安堵はしたが、それは一瞬だった。

 幼馴染は産後の弱っているところに病を得てしまった。人ならばひと月ともたないはずが、魔族であるがために何年も彼女は苦しんだ。痩せ衰え苦痛に耐える姿にあのとき引き止められなかった自分を、元凶である皇帝を憎んだ。

 一度だけだが、彼女が産んだ二人の子供たちを見てこの子達さえ産まなければとさえ思った。

――あの子達のことお願い。最後までわがままでごめんね。

 そして五年後、後悔の言葉など一言も漏らさず幼馴染は逝ってしまった。

 だけれど一度とはいえ存在を憎んでしまった子供たちと一緒にいてはいけないと思い悩んだ。だけれど母を恋しがり泣く姫と皇子のいとおしさに決意を固めた。

 命をかけて護り抜くと。

「姫様……」  

 だけれどあの方は護れなかった。それはどれほど悔やんでも悔やみきれない。

 ぼんやりと戻らない過去に想いを馳せていた柳沙は足音がして振り返る。

 いたのはもうひとりの護るべき人だった。姫、漓玲りれいが死んでから喪に服し女物の衣装を身に纏った皇子は、伸ばした髪が姫と同じぐらいになるころには彼女が生き返ったのかと思えるほどになっていた。

 今、その白い頬には痛々しい湿布がある。

「皇子殿下!? そのお怪我は」

「大丈夫です。それより黄樹に緋梛ひながいましたが、あなたの指示ですか?」

 つい最近どこからともなく漓瑞がつれてきた妖刀使いの少女の名に、柳沙は首を横に振った。

 下手に監理局に動かれてもまずいのでぎりぎりまで使わない計画だったはずだ。

「まさかそれは緋梛が……?」

 はっとして柳沙が姫と瓜二つの顔に張られた湿布に目をやる。

「いえ、これは違います。緋梛のことはあとで本人に聞いておいてください。自分で直接聞いておきたいのですが、あまり外をうろうろするわけにもいきませんので」

「わかりました。そろそろこちらにお戻りになったほうがよろしいのではありませんか?」

 以前の反乱以降、ひそやかにこちらを探っていた監理局の手が近づいてきた十数年前に万一のことを考えてあえて漓瑞を監理局に入れたのだが、その必要はもうないだろう。

 数十年前に得た病は癒えたと思ったの再発したことも不安だ。だからできるだけ目の届くところに居てほしい。

「監理局の動向を少し見てから砂巖さがんを退けたら戻ります。それと、どうして黒羽さんに近づいたりしたんですか?」

 咎める口調の漓瑞に柳沙がそれは、と口ごもる。

「わかってくれると思ったからです」

 同じように復讐を望んでくれているものと思っていたのだ。

 こんなことになるのなら、黒羽がある程度ことが理解できる年まで自分たちの立場は話すなと魏遼が言ったことを、素直に聞かなければよかったと思う。

「……あの子はこちら側には来ませんよ」

 声に悲哀を感じるのは気のせいではないだろう。

 十年近くも一番近いところで成長を見守っていて、この優しい皇子が情を持たないはずがないのだ。ときどき黒羽のことを話すときの表情の穏やかさと、言葉に滲む暖かなもので十分に分かっていた。

「しかし、あの人とはもう少し連絡がつきやすいといんですけどね」

 漓瑞がため息と共にそうつぶやく。

 正体の見えぬ協力者は気まぐれだ。漓瑞の病を癒やす方法と妖刀を与えてもらっている以上は下手に出るしかないが、それでも今回の緋梛の件といい信用はできない。

 監理局の内情に通じている協力者。

 それははたして大いなる女神からの慈悲か、それとも――。

 不意に呑まれそうな大きな影を足元に感じ、柳沙は身を震わせた。


***

 

 午後、本局の局員が東部第一支局に到着し、回収部隊の人員として選ばれた局員たちは先日監理部の部会で使われた部屋に呼ばれた。

 尚燕と本局から派遣された局員はまだ来ていないが、他の局員はほぼ揃っておりその中で最後に入室してきたのは漓瑞だった。

「こんなに遅いなんて珍しいわね」

 左隣で座っている藍李にそう耳打ちされ、黒羽は漓瑞の方を見たままうなずく。

 夕べは元気そうに見えたがやはりあれだけの傷を負ったので、まだ体調は優れないのだろうか。

 そう心配に思うが、漓瑞は後ろの方で自分たちは最前列と離れていて声のかけようがない。

「ええっと、みんな揃ってるかなー」

 机に視線を落とし疲れた様子の漓瑞を見ていた黒羽は、尚燕の声に視線を前に引き戻される。

 東部第一支局の代表として前に立つ尚燕の後に入ってきた人物に、集められた二十一名の局員達は一様に不思議そうな顔をした。

 本局の局員は長身と隆々とした筋肉に威圧感を覚える三十前後の彫りの深い男だった。短めに刈り込まれた髪は稲穂色でその色彩と面立ち、それに身に纏っているゆとりの少ない体の線にあった衣装はどれも西の方のものだ。

「カイル=グランだ。これより部隊の指揮に私があたる」

 男が低く重みのある声で名乗り、東部第一支局員はにわかに驚いた。

 局員は入局と同時に家名を捨てるが、神剣の血族だけは神剣の銘を家名として使う。すなわちカイルが腰に差している幅広の剣は神剣グランというわけである。

 しかしこの神剣グランは女神の残した四振りの一つではない。

 女神の神剣があらたに神剣を産むことがあり、女神の残した神剣を継ぐ血族を宗家、その子の神剣を継ぐ血族を分家と呼ぶ。

 そしてグランの宗家は現在本局長を勤める西部総局長のオルフェである。

「普通は九龍の分家だよなあ」

 怪訝そうにつぶやいたのは黒羽の右隣に座る呂氾だった。

「なんで西がしゃしゃり出てくるのかしら」

 刺々しく藍李が言うとカイルが不愉快そうに彼女に視線を向けて、そしてその表情のまま尚燕に顔を向ける。

「……尚燕殿、聞いていたよりひとり多いようですが」

「聞き間違いじゃないかな」

 いつもの調子でにこにこと笑って尚燕が言うと、カイルはもう一度藍李を見やって諦めたようなため息をついた。

「では今回の件の詳細を話そう。妖刀の銘は火蛇。報告による身体的特徴と合わせてみて本局武器監理部回収課の緋梛で間違いないだろう。彼女は出奔でなく、半月前に何者かに拉致された。他に本局教務部の学徒である十二歳の緑笙ろくしょうも同時に拉致された。緑笙の身体的特徴は髪の色が金茶、瞳は明るい緑色。同時に彼の使用する魔剣ラーゼンも持ち去られている。ふたりを拉致した者については不明である。犯人確保より妖刀の回収を最優先とする。事態が収束するまでこのことは口外禁止だ」

 一息に言ってカイルは部屋の中を見回して何か質問のある者はと問う。

 予想外の事態の大きさに東部支局員たちが戸惑う中、藍李だけが冷静に口を開く。

「なぜ拉致されたと明言されるのですか。本局の妖刀の使い手を拉致できるような人間などそうそうはいないでしょう。拉致された被害者である局員が、明らかに我々へ敵意を持って攻撃を仕掛けてきたのも不可解です」

 ひととおり局員が疑念に思っていることを訪ねる藍李の横顔に、黒羽は目を瞬かせる。静かながらもその瞳は鈍く光り怒気が見えた。

 対するカイルがどこか感情を押し殺した声で答える。

「深夜に連れ出される姿を見たとの目撃情報があった。現在反乱に荷担している事実に関しては不明だ」

 短く答えた後、彼は藍色の瞳を黒羽に向ける。

「東部第一支局監理部妖魔監理課、城藍係第一室室長、黒羽」

「え、あ、はい」

 急に長ったらしい役職名つきで呼ばれた黒羽は、突然のことに困惑し少し間の抜けた声を上げる。

「本局武器監理部回収課への転属を命じる。今この瞬間からだ」

 言われた意味を飲み込むのに一呼吸ほどかかった。

 監理局創立の月に優秀で実績を残している支局員が、ごくまれに本局へ引き抜かれることはある。それは半年も先な上に今のこの状況では不自然すぎる昇進だ。

「……それはいくらなんでも急すぎるよ。うちの総局長にちゃんと承認もらってる?」

 不平をこぼす尚燕の表情は相変わらずの寝ぼけ眼では読み取れないものの、妙な緊張感が漂い室内の空気が張り詰める。

「本局長命令です。私は本局長が手順を踏まずにそのような命を出したとは思いません」

「ならいいけど」」

 尚燕が肩をすくめあっさりと引いてどこからともなく安堵のため息が漏れた。

「でも、なんで急に……あたしがあっち側と関係があるからですか」

 すっかり出遅れた黒羽が立ち上がる。

 こんな無茶なことを言い出される心当たりは、監視目的だとかそういうことしか思いつかなかった。

「その件については後で話す。では、これより回収の手順についての説明を行う」

 ろくな答えが得られず立ち尽くしていた黒羽は藍李に袖を引かれ緩慢に腰を下ろす。そしてそのまま机の下で手を握られた。

「何言われても鵜呑みにしちゃだめよ」

 なんだろうかと顔を向けた黒羽に藍李はそう囁いたのだった。


***


 尚燕、呂氾、カイルを長とする三つの班に人員が分けられ、暴動の規模の大きなほうから優先的に出動し妖刀を探すことが決定した。

 その後に黒羽はカイルに命じられひとり部屋に残ることになった。

「やっぱり監視ですか」

 不満を隠しもせずに立ち上がった黒羽は挑む目でカイルを見上げる。

 班分けの際、自分は長となることはなくカイルの班に入れられることになった。もはやそうとしか考えられない。

「監視ではない。保護だ。拉致されたふたりとお前に共通点がある」

 共通点、と黒羽は鸚鵡返しに問う。

「本局内で妖刀の使い手となる七人の子供の霊力と妖刀の霊力を完全に同調させる実験を行っていた。緋梛と緑笙、そしてお前はその被験者だ。お前は十五年前に本局から連れ去られて冥炎と共に行方知れずになっていた」

 突如告げられた自分の素性は信じがたいものだった。

 何から訊いていいかも分からず黒羽は唖然としたままカイルを凝視する。

「お前をここへ拉致してきた男が死んでその遺品から居場所が知れた。被験者は全員身寄りのない孤児で、本来ならば本局で教育がなされるはずだった。東部総局長がこの支局で預かると言いだして今お前はここにいる」

 カイルの言葉に黒羽の顔から血の気が引いた。

 あの日、養父が殺されたとき総局長が居たのは偶然などではなかった。そうして自分の存在により養父の居場所も一緒に知られてしまったのだ。

「そんな、ならあたしを拾ったりしなけりゃ、親父は……」

 死ぬことはなかった。

 そう口に出す前にカイルが首を横に振った。

「男の記録には魏遼将軍に預けた、という記述があった。妖刀とそれを扱える子供。使い道は分かるだろう。仕方のなかったことだ」

 黒羽はうつむき拳を強く握る。

 あのまま監理局に見つからなければ、反政府組織の一員として戦わされていただろうとは保護されてすぐに教えられた。それは事実だろう。そして自分はためらわずに前線に出ていたとは思う。

 だが六年の間に養父や柳沙から与えられたものが打算の上でのものであっても、自分は優しい思い出として胸におさめている。

 仕方ない、の一言で感情は治まらない。

「過ぎたことは考えるな。今は自分の身を守ることを優先しろ。お前の周りには注意すべき人間が多い。この支局の者とは事が収束まで接触禁止だ」

「待ってください! 注意すべき人間ってどういうことですか!?」

 黒羽は声を荒げる。今日初めて会った人間に九年間慣れ親しんだ者たちと隔離されるなんて事は納得いかなかった。

「……本局に出入りできるのは局員だけだ。誰に疑いをかけられることもなくここと本局を移動できて、実験のことを知るのは尚燕殿しかいない。彼はお前の監視のためにここに派遣されたのだ」

 少し間を置いてそしてもう一つ、とカイルは続ける。

「尚燕殿が容疑者として上がっている最大の理由として漓瑞という魔族が魏遼将軍の身内である可能性が高いということを知っていながらお前に近づけたことがある。妖魔監理課の課長として漓瑞とお前を同じ室にしたのも尚燕殿だ」

 いくつもの事を同時に告げられ頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 養父の首を抱いて座り込んだ自分を抱きしめた漓瑞はあのとき泣いていたのではないのだろうか。

 不意に何度か覚えた疑念の答が示されて、黒羽はすぐにそれを否定する。

 何も疑いたくはなかった。

 養父との六年も、ここでの九年も自分が感じたありのままだけを信じていたかった。

「……急にそんなこと信じろって言われても無理です……!」

 どこか自分自身に言い聞かせるように黒羽は強い語調で告げる。

「それなら今はそれでいい。いずれすべて分かるだろう。どのみち会う時間を作る気もない。妖刀との同調率を上げる訓練をこれより毎日行う。完全に同期できるまでだ。これは命令だ。逆らえば処罰の対象となる」

 容赦なく黒羽の意思を切り捨ててカイルが高みから冷淡な視線を向けてくる。

 それは見えない檻で囲まれたも同然で、黒羽は奥歯を強くかみしめた。

 

***


 異動から三日。カイルの訓練は、想像以上に厳しかった。

 黒羽は冥炎から炎を放出し、カイルへと向ける。

 カイルが透明な刀身を持つ神剣グランを振り下ろした。一度見た宗主の持つ神剣に程ではないにしろ、そこから放たれる力の波動は圧倒的だった。

 全力で放った青白い炎は一瞬でかき消された。

 それは当然と言えば当然だ。神剣は瘴気を払うもので、瘴気からできた妖刀や魔剣が太刀打ち出来るはずがない。

「遅い! たかだかこの程度放出するのにどれだけかかっている!!」

「分かってるよ!」

 黒羽は怒声に怒声で答えながら、次を放つ。

 この訓練の目的はいかに素早く、いかに多くの霊力を冥炎に乗せられるかだ。

 すでに十を超える連撃に、黒羽の体力は削ぎ落とされて息も荒い。剣を握るどころか、立っていることさえ苦痛だった。

 それでも意地でも剣は降ろさない。

 カイルのことは気に食わないが、ここ数日で進歩は確実にあった。今できることは強くなることだ。

 強くなって護りたいものは変わらない。

 カイルの言葉はひとつたりとも信じていない。監理局で過ごして得たものは全て大切で護りたいものだ。

「体力が先に尽きるということは、まだ霊力を放出するのに無駄な力を使っているということだ。立っているのはいいが、それでまだ放てるか?」

 挑発する言葉に黒羽はぐっと柄を握る手に力を込めるができなかった。霊力はまだ余裕があるのが分かるだけに、尚更悔しい。

「畜生……」

 自分自身に悪態をついて、黒羽は残った体力を振り絞る。どくりと心臓が大きく跳ねた。

 ひとつ脈打つ度に体の奥底に眠るものが目覚めてゆっくりと、指先へ流れ始める。大きな糧を感じてか、冥炎の狂暴な瘴気が内側へと入って霊力を貪らんとする。

 もっと、もっと、力を。

 黒羽の意志と、冥炎の本能が重なる。

「おいこら、黒羽! 止めろ! 黒羽!!」

 冥炎の刀身から炎が吹く瞬間、呂氾の声が割ってきて黒羽の集中が途切れる。

 師範。

 呂氾を呼んだつもりが声にならなかった。黒羽はそのまま膝から崩れ落ちる。手から冥炎が滑り落ちて、床に当たる音がやけに頭に響いて吐き気を覚えた。

「……頭いてえ、気持ちわりい」

 やっと出せた声は枯れきっていった。

「当たり前だ! 体力切れで無茶するからそうなるんだよ! おい、本局の命令かなんだか知らねえけどな、万一のことがあったらどんすんだ、てめえ!!」

 側でする呂氾の怒鳴り声が頭にがんがん響く。それだけ心配させたのだと、頭と胸が痛い。

「悪い、後先考えねえで無茶やった」

 謝ると、呂氾に軽く小突かれる。

「てめえが馬鹿なのはいつものことだろうが。だが、それを分かってて止めねえ方はもっと馬鹿だ」

 呂氾がねめつけるのに、カイルは眉ひとつ動かさない。

「訓練中は立ち入り禁止と、命じたはずです。この程度なら、暴発する前に剣を握る力がもたない」

「だいたいな、これだけ消耗させたら緊急時に使い物にならねえだろうが」

「三人いれば、十分です。本日の訓練はここまでとする」

 カイルが剣を収めて立ち去る。

「くそ、なんだ、あの野郎。黒羽、大丈夫か? 医務室行くか?」

 毒づいた後に呂氾が黒羽の顔を覗き込む。

「ちょっと休んだら、大丈夫そうだ」

 しばらく座っていたらなんとかなるだろうと、黒羽は首を横に振って冥炎に視線を向ける。

「……黒羽、慣れて忘れちまいがちだけどな、こいつは使い方を間違ったら危険なもんだ。てめえは特にガキの時からずっと持ってたから愛着もあるだろうが、結局はこいつも妖魔だ。妖魔で妖魔を斬ってるのも、妙な話だけどな。絶対に裏切らない相棒じゃねえ。そこんとこもう一度しっかり考えとけ」

 呂氾が冥炎を鞘にしまって、黒羽に渡す。子供の頃から慣れ親しんだ愛刀は物言わず自分の両手にじっとおさまっている。

「師範はたまに師範らしいこと言うな」

 黒羽は顔を上げて笑む。

「たまにじゃねえよ。いつもだろうが」

 呂氾が乱暴にぐしゃぐしゃと頭を撫でてきて、笑い声まで零れる。

「師範、あたしさ、強くなりたいんだ。訓練は無茶しない程度に頑張る」

 思いの分だけきつく冥炎を握りしめて、黒羽は師を真っ直ぐに見つめた。

「そうかよ。本当に無茶だけはすんな」

 仕方ないと諦めきった顔で呂氾が言って、黒羽の頭をまた乱暴に撫でた。


***



「ちょっとツラ貸せ」

 本局よりカイルが来て五日目の夕刻、目立った進展もなく通常業務をこなしていた尚燕は課長室にやってきた呂氾に無遠慮に呼ばれる。

「ん、ちょっと待って……」

 尚燕は筆を置き、執務用の卓の前に据えられている長椅子に挟まれた卓の方へ移動する。呂氾もそれに倣い尚燕とは反対側に乱暴に腰を下ろす。

「……あの本局の野郎は何考えてやがる。黒羽の訓練覗いてきたけど無茶すぎる。あいつの持ってる霊力全部引きずり出す気だ」

 そう吐き捨てて呂氾が尚燕を睨みつける。

 その鉛のような瞳は自分が何か知っているのを確信している目だった。この同期は直感は鋭いし馬鹿そうに見えて意外と頭も使える男だ。

 こうなったら引っ張り込むのも手だろうと尚燕はいつもの眠たげな顔を崩さず計算する。

「まだはっきりとした意図が見えないから何とも言えないねえ。まあ、黒羽君の移動はまずうちの総局長の許可は取ってないだろうけど。黒羽君に関しては僕が責任持つよう言われてるのに特に何の連絡もないなんておかしいよ。結構いい加減で人使い荒い人だけどそういうところは抜かりないはずだし」

「……ということはてめえは黒羽の師範の役目を俺に押しつけた訳か」

「ああ、それは別に押しつけたわけじゃなくてもとからそのつもりで。黒羽君と君は合いそうだったし、実際気に入ってるでしょ。今僕のところに文句言いにくるぐらい」

 そう茶化すと決まり悪そうに呂氾が視線をそらした。

「まあ、教えた端からこっちが驚くぐらい伸びるわ、根性も座ってるわで教え甲斐はある。んなことより本局勤めってそんなにあっちこっちの神剣の分家だとか宗家だとかと顔見知りになれるもんなのか」

「以外とね。ほら、僕あそこの出身で総局長と同い年だからなにかとこき使われるんだよ」

 本当に、いろいろと。

 幼少期からのあれやこれやを思い出しながら遠い目になりながら尚燕は話題を元に戻す。

「ん、まあ。ぼくの身の上話はいいや。とにかく黒羽君のことは任せておいて。今本局の方でもいろいろ動いてもらってるからさ。君の方は漓瑞君に注意しておいて」

「漓瑞? なんかあんのか」

 漓瑞を自分の班の人員に振り分けられている呂氾が目を瞬かせる。

「反政府組織の実質の長は彼だよ。玉陽の滅んだ皇家の皇妃は公表されてるのは偽物で本物は魏遼将軍の妹。で、世継ぎの姫には双子の弟がいた。それが漓瑞君。ごく希に人と魔族の間に産まれた双子で綺麗に魔族と人に分かれることあるのは知ってるよね」

 目を丸くして尚燕の話を聞いていた呂氾は弾かれたように立ち上がった。

「ちょ、待て。もしかしてあれか。お前がいったん本局呼び戻されてこっち戻って来たのはあいつの監視のためなのかよ」

 漓瑞が入局した年と自分が支局に戻ってきた年はちょうど重なる。あの一瞬の間でそこに考えがいたった呂氾に感心しつつ尚燕はうなずく。

 実はそれは偶然で別目的でこちらにまた派遣されたのだが、今はそうしておいた方が都合がいい。

「……黒羽のやつにはどう説明すんだよ」

 苦渋の顔で呂氾が立ち上がったままそう声を絞り出す。

「そのときが来たら、説明せざるを得ないだろうね。今全部話して黒羽君に動かれると面倒だしね。けど、漓瑞君が自分から言うかな。ずいぶん黒羽君のことかわいがっているし、彼自身もいろいろ複雑だろうね」

 自然と尚燕の口調も重々しくなる。

 たまたま黒羽が漓瑞に懐いていて、ちょうどいいと彼に時々相手をしてやってくれないかと頼んだ自分はふたりにとって残酷なことをしたと今更になって思う。

「……畜生が」

 詰る呂氾のつぶやきを自分に対する物と受け止めて尚燕は全くだねえと胸の内でひとりごちだ。


***

 

 それから三日後、紫山州の北、国の最北端の国境付近の山裾で暴動は起きた。その後に湧き出た妖魔の処理を終え、局へ帰るための舟を待っていた呂氾はふと漓瑞の姿が見えないことに気づいた。

 焦りもしたが、すぐに側の林から出てくる後ろ姿を見つけて安堵して近寄る。

「そんなとこでなにやってんだ?」

 何気なく肩に手をかけると漓瑞の体がかしいでそのまま倒れそうになった。

「すまん、大丈夫か? なんだ顔色悪いぞ」

 慌てて崩れ落ちる漓瑞を抱きとめた呂氾はその顔を見て表情を曇らせた。

 頬の傷は注視しなければ分からないほど癒えているが、ただでさえ白い肌はことさら色を無くし普段は淡い桜桃色の唇もくすんでいる。

「大丈夫です。少し疲れただけですから」

 呂氾の腕を支えにして体勢を立て直した漓瑞が口元に淡く笑みを作る。散りかけの花のような風情に、呂氾はことさら表情を険しくした。

 局員として真面目に働く傍らで反乱の指揮もしているともなれば疲れも相当だろうとはいえ、いくら何でもこれでは重病人だ。

「おまえ、どっか悪いんじゃねえのか?」

「いいえ。ただ先日の怪我で少し霊力を消耗しすぎていたところでこの忙しさなので……」

 納得のいく言い訳ではなかったが、そうかと仕方なしに呂氾はうなずく。

 尚燕からは西部局側の目的が分かるまで下手に漓瑞に手を出すと、何が起こるかわからないというので深入りするのも気が引けた。

「呂氾部長、道が開きました!」

 渡し人が到着し、呼ばれた呂氾は片手をあげて今行くと返す。背を支えてやろうと思った漓瑞は自力でどうにか歩いていた。

 しかしやはり辛いのか舟に乗り込み腰を下ろしたところで彼はため息をついていた。

 同じ舟に乗っている数人にも気遣われながら、漓瑞は大丈夫、と呂氾に対していたのと同じ態度で返していた。

「戻ったらちゃんと休めよ」

 声をかけると漓瑞は無言で首を縦に振った。

 彼の横顔は繊細そうな少女そのものである。ただその細い双肩に背負うものの重さは計り知れない。

 漓瑞のことを尚燕に聞かされたときは驚いたが、全部飲み込んでしまえば育ちの良さそうな物腰や口調、そうしていつまでも姉の喪に服し続けることにも納得がいく。ただそれはそこまで深い繋がりを漓瑞と持っていないからこその飲み込みの早さだった。

 黒羽はどう受け止めるのだろうと呂氾は素直に人を信じすぎる弟子のことを思う。

 後輩に対してはもちろん同輩や先輩相手ですら甘えるより甘やかす側だった黒羽が、唯一甘えていたのは漓瑞だった。

 その姿を思い出すとどうにもやりきれない思いが胸にわいてくる。

「そういや、黒羽のほうもだいぶ疲れてるみたいだな」

 少々不自然かと思いながらも呂氾は漓瑞に話題を振ってみる。

「……本局の方と訓練しているんですよね。無理はしてないといいんですけれど」

 漓瑞が物憂げにため息をついた。

 その気遣いは本物に見えた。本来の上品さと物腰の柔らかさで誤魔化されがちだが、漓瑞の表情は時々尚燕に通ずる胡散臭さがある。

「まあ、無茶するのがあいつだけどな」

「そうですね」

 うなずく漓瑞の口元に浮かぶ笑みに慈しみが滲んでいた。

 これだから余計にもやもやとするのだと呂氾は腕組みする。

 漓瑞が黒羽を大切にしているだろうことは間違いないと思う。それでも裏切らねばならない彼の心情も想像するとやはりやりきれない。

 呂氾はそれ以上漓瑞と交わす言葉はなく、じっとしている内に舟は監理局についた。

 壁に掛けられた松明の明かりにぼんやり浮かび上がる石畳の船着き場にそれぞれが降りていく。

 呂氾が先に降り、後に続いた漓瑞も先ほどよりかはしっかりとした足取りで舟から降りていた。

「お疲れ様です」

 舟を待ったり降りたりしている局員の中に松明の炎に照らされ、ただでさえ目立つ赤毛が鮮明になって周囲から浮いている藍李が声をかけてくる。

「おう。お前は今からか。どこだ」

「いえ、仕事じゃなくて休憩の間に実家に戻ってこようと思って……どうしたの、なんか顔色悪くない?」

 藍李が言葉の途中で漓瑞を見つけて目を丸くする。

 漓瑞が何度目かの大丈夫を言った後に、自分の部屋で休んでくると言って先に行ってしまう。

「……大丈夫かしら?」

「まあ、本人が大丈夫って言ってるんだからほっとくしかねえだろ。お前実家ってどこだ?」

黒峰こくほうの田舎の方です。まだ静かなんですけれどちょっと家の方で揉め事があったみたいで……」

 あまり訊かれたくなさそうに藍李が言葉を濁す。

 思い返してみればよく喋る藍李だが、学徒の頃は通いだったのに実家の話題はほとんど聞いたことが無い。髪色や瞳の色が西よりなのでいろいろあるのかもしれないとは思っていたが。

 ふと呂氾は藍李が学徒として教務部に来たのも、尚燕が本局から再び戻ってきた十五年前だったことだと思い出す。

 黒羽が本局から拉致されたことも後に訊いたがそれも同じ年、漓瑞が入局したのもまた同じ。

 尚燕が知っていることを包み隠さず告げているとは全く思っていない呂氾は、無意識のうちに藍李の顔をずっと眺めていた。

「私の顔に何かついてます? あら、それとも私の顔に見蕩れてたのかしら。いやだわ奥様に告げ口してしまいますわよ」

 わざとらしく顔をそらして恥じらってみせる藍李は限りなく胡散臭かった。

「……お前、だんだん尚燕の野郎に似てくるな」

 あの師にしてこの弟子ありである。

「いやだわ。私あんなに糸目でぼんやりした顔なんてしてませんのに。あ、すみません、渡し人の方待たせてるので私はこれで」

 艶やかな笑顔を残して藍李は体よく逃げた。残された呂氾は後ろ頭をかき今更ながらに思う。

 とんでもなく面倒なことに首をつっこんでしまったのではないのだろうかと。



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