三
「終わった……」
黒羽は筆を置いて倒れこむように椅子にもたれかかった。出来上がったのは部長の温情である始末書だ。
昨日、あれから係長に小突かれ、尚燕にはあまり気にしなくていいと慰められ、魔族監理課長からはこってり絞られた。
最後に部長が命令違反だから処罰なしというわけにはいかないので、始末書だけでもということになった。
柳沙はまだ見つかっていないらしい。しかし堀に囲まれたこの中央区から出るにはすでに封鎖された東西にある橋を使う以外に方法はないので直に見つかるだろう。
誘拐された乳児も早く無事に保護できればいい。官吏らへの見せしめなら目につく形で遺体をさらすなりなんなりするだろうから、まだ生きているというのが魔族監理課の見解だ。
それが正しいと黒羽は信じていたかった。
「お疲れ様です。提出したら次はこれですね」
お目付け役にされた漓瑞が笑顔で月報用資料を置く。彼は昨日からはいつもと変わらない。だが覚えたいやな感覚はとどまったままで、かえってこの変化のなさが落ち着かない。
考えたところで仕方ないと黒羽は次の仕事に目を向けるが、これに目を通して纏め上げてと一連の作業を考えるだけで筆を持つ気力が萎える。
「……先に部長のとこ行ってくるか」
紙の束をじっとりと睨んでいた黒羽は視界からそれを追い出して漓瑞が確認をしていた始末書を受け取る。
さて、と腰を上げたとき、部屋に駆け込んでくる者があった。
「黄樹係から黒羽室長に応援要請です。早急に出動お願いします!」
切羽詰った様子の局員が部屋に飛び込んできて、黒羽は机の側に立てかけてあった冥炎を握り駆けだした。
***
始まりは鉱夫らが早朝から仕事を放棄し鉱山に座り込みをはじめたことから。そこへ役人らが訪れひと悶着あったうちに暴動に発展し、例の妖獣が衛士達の背後をつくように出て今に至るというわけらしい。
「なんでこんなたてつづけて」
舟に乗り込み船頭から詳しい状況を聞いて、黒羽がいらつきながらつぶやいたすぐ後に舟は止まった。
黄樹は城藍のすぐ隣なので水路を使えばたいした距離ではない。
「狭間に落ちぬようお気をつけください」
目の前の空間が歪んで鉱山が見えた。緊急時なのでできるだけ現場に近いところへ直接道を繋いだのだ。
黒羽と漓瑞は舟から灰色の岩肌の地に飛び降りる。
少し向こうの斜面の緩やかな広い場所に、巨体を揺すり咆哮をあげる獣がいた。鉱夫や衛士達の避難は終わっているらしい。
「黒羽室長!」
額から血を流す局員が安堵した顔で黒羽達に頭を下げる。
「今、うちのの室長がどうにか動きを止めてるんでお願いします」
黒羽は短い返答を投げて冥炎の柄を握る。
二人は隆起した地面に足を取られることもなく、急勾配の坂を走り抜けて黄樹係第一室室長である二十歳半ば過ぎの青年の隣で止まった。
岩肌の血の染みが目に入る。量が多い。死人の報告はまだ聞いていないが、状況から考えてないことはないだろう。
「大丈夫ですか?」
顔色の思わしくない黒羽に漓瑞が声をかける。
「……問題ねえ。とっとと片づけるぞ」
今、なすべきは目の前の敵のみだ。ほかの事は考えるなと自分に叱咤して黒羽は妖獣に目を向ける。
尾が届かない程度の距離にいる妖獣は足元を崩され、少し深い穴に片足が嵌って思うように動けないらしい。
「きたか。こいつ硬くて止めさせねえんだよ。手持ちの符もすくなくなってきやがったし」
黄樹第一室長が袂から長方形の紙片を数枚取り出す。文字に霊力を込め紙に書き、さらに投げるさいに力を増幅させて攻撃する高等技術だ。
「無傷っすね」
滑らかなその表皮に汚れは見えても傷はない。
「ちょっとやそっとじゃ再生しやがる。そっちのときはこんな厄介なのなかったよな?」
「ええ。やはり、成長しているようですね」
漓瑞が神妙な顔でうなずく。
「とにかく一気についたら片はつくだろ。漓瑞、障壁作んなくていいから下がっといてくれ」
黒羽は冥炎を構えて意識を集中する。こうして余裕がなければ霊力を高められないのは難点だ。
霧散しないように一点へ、一点へと。
ふわりと宙に浮く高揚感と共に冥炎と一体化した気分になる。
静かに燃える青白い炎が刃を包む。
いける。
黒羽がそう思い足を踏み出しかけたときだった。
紅蓮の炎が地を抉るり進んで来て妖獣の足元の地面を砕く。少し窪みが広がったせいか、妖獣の足は穴から抜けてしまった。
「畜生、なんなんだよ」
妖獣が動き出して、黒羽は後方へ退避する。
あの炎はどこから来たのか。
地面のえぐれを辿ろうとするが妖獣の巨体に阻まれ出来ない。
「なにがあった?」
「わかりません。漓瑞、なんか見えたか?」
漓瑞は困惑の表情を浮かべて首を横に振る。
「来るぞ」
妖獣が三人を見つけ動き始める。
「先に行く」
黒羽は踏み込んで尾を避け、その横腹に刃を当てて冥炎に炎を纏わせる。
気のせいでなく以前より硬い。
妖獣の水ぶくれが蠢き元の滑らかな表皮にもどった。黄樹第一室長の言ったとおりこのぐらいの攻撃では意味がない。
「この程度に手間取るの」
呆れ果てた声と共に妖獣の背後から小柄な人影が現れる。
無造作に肩より上で切りそろえられた黒髪のせいで一瞬少年に見えたが、猫を思わせるその面立ちはまだ幼い十五、六といったところの少女だった。その片手には小太刀が握られている。
見覚えはないが左耳の下でちらちらと揺れる銀貨からして局員だろうか。
「先輩……」
黄樹第一室長に確認をとろうと振り返りかけたとき、刃が襲ってきた。
黒羽は寸前でかわしたがわずかに鈍色の髪が散った。
「敵か味方かもわからないうちに隙を見せるもんじゃないわよ」
言いながら少女は攻撃の手を緩めない。
迅い。
体勢を整える間はなく黒羽は冥炎で刃を受け止めるのが精一杯だった。
ふっと少女の後ろに光弾が見えた。
黄樹第一室長の符だ。
黒羽は護りを固めながら少女を誘いこむ。
「甘い」
少女が打ち合わせていた刃を引いて体を捻る。
ほんの一瞬で小太刀の刀身に蛇が巻きつくように赤い炎が螺旋状に走った。
光弾が弾かれ燃え尽きて、そこからまた少女が体を回転させ刃を振り下ろす。
それはゆっくりと一度深呼吸したほどの短い間のこと。
わずかな隙だったが黒羽はどうにか冥炎を構えなおした。そして地を削りながら向かってくる、小太刀から解き放たれた炎の蛇を冥炎の炎の波で押しとどめる。
赤と薄青の炎はせめぎあい、岩肌を溶かして燃え尽きた。
「そいつ、妖刀か」
陽炎の向こうで少女がそうよと答えながら刀身に炎を巻きつける。
「あっちは大変ね」
少女が目を向ける先では妖獣が地団駄を踏みながら巨体を揺らし暴れている。さっきまで妖獣の頭の方にいたのに、気がつけば尾よりも少し離れたところまで誘導されていることに気づき黒羽は舌打ちする。
「どけ!」
あの二人ならばある程度動きは抑えられるだろうが止めとなると厳しい。
「あんたがこっちに加わるんならいいわよ。妖刀は出来るだけ多い方がいいし、魏遼将軍の娘がいるんなら士気も高まるわ」
魏遼将軍など知らない。自分が知る養父は口数の少ないただの魔族だ。
黒羽は目をすわらせて冥炎の柄をきつく握った。
「誰がそんなこと聞くかよ。公務執行妨害と妖刀不当使用罪でしょっぴかせてもらうぞ」
陽炎が消え少女の不服そうな表情が鮮明になる。
「やれるものならどうぞ」
二つの妖刀が大きくぶつかり、一際高い音が鳴り響いた。
***
黒羽は肩で息をしながら散りそうな霊力を引き戻す。
妖刀が吸い取る霊力は甚大だ。あまり数多く炎など固有の能力を引き出すと霊力がすり減り体力を削られる。
うまく力の放出の加減が出来ない黒羽の疲労は少女より上だった。
「第一級って疲れるのね。あたしのは第二級で不利かと思ったけどそうでもないみたいね」
少女が言いながら踏み込んでくる。刀を打ち合わせて弾く。
腕力で黒羽より劣る少女は後退するが、足りない距離と力を埋めるため螺旋を描く深紅の炎を解き放つ。
「てめえ、本当に局員か」
それを冥炎の炎で飲み込んで黒羽は少女を睨む。
妖刀に等級をつけるのは監理局だ。すべての妖刀、魔剣は本局で管理され、紛失、盗難があればすぐさま全支局に通達があるはずである。
「最初から偽物とも本物ともいってないわよ」
少女が再び斬り込んでくる前に黒羽は冥炎を薙いで、自分の背丈よりも高い大波を起こす。それを壁にして身を隠し、妖獣へと近づく。
とにかく余力のあるうちにあれを片付けなければならない。挑発に乗っている場合ではないのだ。
だが、目の前の敵を倒したい。
妖刀のせいなのか、あるいは自分の内からわき上がってくるものなのかよくわからない高揚感に焼き切れそうになる理性を押しとどめて黒羽はゆっくりと後退する。
彼女の動きに気づいた漓瑞らも距離を詰めて、妖獣の気を引く。
「よし……」
黒羽は右手側の地面を平すように揺れ動いている妖獣の長い尾に飛び乗り、冥炎を突き立てた。
妖獣が不快げなうなり声を上げて尾を大きく揺らす。黒羽は地面に降りて、少女から陰になる胴体の方へと回った。
少女が自分に向かってくる妖獣の尾に炎が巻き付けているのが見える。
いまならいける。
そう思い黒羽が冥炎に残った霊力を乗せて解き放とうとする。だがそれより妖獣の尾が飛んで炭になる方が早かった。
「畜生っ!」
妖獣が体をひねって顔をこちら側に向けてくる。その視界に入る前に黒羽は漓瑞らと合流する。
「局に応援を要請しています。課長がもうすぐ来るでしょうからそれまで……」
漓瑞の言葉を切って足下に転がる崩れた岩の欠片を水に変える。
それは妖獣の腹の下を這ってきた炎を阻んだ。半ば顔をこちらに向けていた妖獣は再び体をひねり炎が向かってきた側へ頭を向けようとする。
「妖獣は課長に任せといてさきにあっち片付けろ。俺たちはこのままこいつの相手するから」
黄樹第一室長が妖獣の尾の焼け焦げた場所へ符を放ちながら言うのにうなずき、黒羽は妖獣から距離を取っている少女のほうにむけて駆け出す。こうなったら一気に片をつけるまでだ。
青白い炎のさざ波を起こして、少女の妖刀の攻撃を防ぎながら長い足で一気に距離を詰める。
少女が小太刀に炎をまとわせると同時に刃を打ち合わせた。
黒羽の腕を炎の舌先が舐める。
うめき声が食いしばった歯の隙間から漏れるが、そのまま怯まず刀をがっちり合わせたまま黒羽は引かない。
力押しに先ほどの妖獣への攻撃で霊力と体力を削がれた少女の体勢が崩れる。
すかさずその膝に蹴りを入れると、少女は地面に尻をついた。その喉元に切っ先を当て黒羽は大きく息を吐く。
「終いだ。剣をおいて大人しく投降しやがれ」
しかし少女は動じることなく唇の端を持ち上げる。
そうして自ら喉を突かんとしてぐっとその切っ先に首を近づけた。
黒羽が目を丸くして冥炎を引くと少女は素早く後方に下がる。
おそらく残りの霊力ありったけだろう力を込めて、ぴんと伸びた縄に似た炎を高速で放ってきた。
冥炎の炎で消すしかないが、加減を間違えれば少女ごと飲み込んでしまう。
甘い躊躇いが黒羽の行動を鈍らせた。
「くぅっ」
直撃は避けられたものの、右足を絡め取られる。炎は弱まりながらも焼き尽くそうと小蛇のごとく這い回ろうとする。
しかしそれは背後から飛んできた水の粒に取り込まれ消滅する。
「漓瑞さん!」
それと同時に黄樹第一室長の切羽詰まった声が聞こえて黒羽は振り返る。背後では再生した妖獣の尾に漓瑞が地面に叩きつけられていた。
こめかみのあたりがどくどくと脈打つ。
目の前の光景に思考がぶつりと途切れてしまう。
「漓瑞!」
焦る気持ちのまま冥炎を構えるものの乱れた感情と、右足を舐め回す激痛に集中ができなかった。
妖獣の尾が起き上がれずにいる漓瑞を叩き潰そうと高く上がる。
そこに天啓のように雷が落ちた。
妖獣の胴体にも次々と青白い雷光は雨の如く降り注ぎ、最期に地を震わす轟音と眩い光の後、妖獣の姿は漆黒の霧となって消え去った。
「師範……」
霧が晴れ見えた姿に黒羽は安堵の息を漏らして、その場にへたりこんだ。
***
「本当に硬えな」
妖獣を消し去ってぼやく、尚燕と同じ四十前後で上背のある体格のいい男は教務部長の呂氾だ。腰の鞘にしまわれるのは妖刀である。
「師範、助かった。おい! 漓瑞大丈夫か」
師へぞんざいに言葉を投げて、黒羽は黄樹第一室長に背を支えられ半身を起こす漓瑞の元へ痛む足を引きずっていく。
膝をついてその顔を覗くと、流れる漆黒の髪が乱れ散る右頬には擦り傷があり鬱血していた。
黒羽は痛々しい様に頬の内側を噛む。
よく見れば右の腕もだらりとしていて折れているらしかった。
あそこで自分の防御に力を使って足止めされていなかったら漓瑞は避けられたはずだ。
そう思うとなおさら悔しくて拳を強く握りしめる。
「大丈夫ですよ。人より丈夫ですからすぐに治ります。それよりあの少女は……」
漓瑞が視線を向け、はっとして黒羽は同じ方向を見る。そこには誰もいなかった。少し遠くまで見渡すが、あたりは拓けているのに逃げる姿さえ見えない。
「どれぐらい目、離してた」
「ほんの、少しです。しかしあれだけ妖刀を使ってこんなすぐに姿を消すのはどう考えても無理です」
呂氾の問いに黄樹第一室長が困惑した様子で答える。
「……どっかに隠し通路でもあるのかもしれねえな。穴はあちこち空いてるだろうしな。手、空いてる奴らに探させるか。お前ら怪我人は治療受けろ」
腕と背中に怪我を負っていながら立ち上がり捜索に加わろうとする黄樹第一室長を呂氾が座らせ、少し遅れてやってきた医務部の者たちを呼ぶ。
「治癒術、施してもいいですね」
やってきた医務部の女性局員に黒羽は頼むと返答する。
女性が手をかざし膝から踝まで焼け爛れている右足が柔らかな白い光に包まれる。それに少しだけ熱を感じるがぬるま湯につかっている感覚があるだけで痛みはない。
光が消えると火傷は赤い皮膚がひきつれた程度の軽いものになった。
それと同時に黒羽の体からすとんと力が抜けた。倒れそうになるその背を女が支え、火傷を負った手にも治療を施す。
治療術は負傷者本人の霊力に治癒者が霊力を含ませて、本来の治癒力を高め傷の治りを少し早めるものだ。霊力はその間傷口一点に集中し、治療後に脱力感を伴う程度に体力も消耗される。
「半日は安静にしていてくださいね」
黒羽は地面に手をついて自分の体を支えなおし、漓瑞の治療の様子をじっと見つめる。
どうやら右足も折れていたらしく、じんわりと汗を滴らせながら別の医務部の局員が治癒している。
骨折の治療は時間もかかる上に霊力も多量にいる。とはいえ漓瑞が魔族であるので丸一日でなんとかなるかもしれない。
「黒羽さん、いつまでもそんな顔をされているほうが辛いですから、ね」
心配そうな黒羽の視線に気がついた漓瑞が苦笑して優しく諭す。
黒羽はそれに子供のようにこくりと頷いて漓瑞に背を向けた。
そうは言われても気になるものは気になるし、自分を責める気持ちも変わらないのでそうするしかなかった。
黒羽はおもむろに冥炎の柄を握り抜こうとする。だが鞘と刀身はぴったりとくっついて離れなかった。
やはり冥炎を振るうのに消耗した上に、怪我の治癒後となると霊力は枯渇してしまって刀を抜くことさえできない。局に帰った後の自主訓練は無理だろう。
「安静にしとけって言われただろうが、馬鹿野郎」
そんな黒羽の意図を察して彼女の頭を呂氾がはたいた。
「いってえな、ちょっと試しただけじゃねえかよ。そういや課長どうしたんだ?」
教務部はあくまで局員になろうとする子供達の教育係である。呂氾が出てくるのは尚燕が出られないときだけだ。
「青楼でもさっきのが出やがったらしくてそっち行ってる」
同時にあれが二体。いくら暴動が起きているとはいえ異常だ。
「変といえば部下の話じゃ妖獣が出た状況もおかしかったみたいです。急に鉱夫たちが後退した直後に衛士の後ろに妖獣が出たんですよ」
そこで黄樹第一室長が一旦言葉を切って視線を血の染みる地面に向ける。
「……到着時に受けた報告では死者八名。重軽傷者二十名以上。いずれも衛士のようです」
それは、まるで。
黒羽がその続きを言葉にする前に呂氾が口を開いた。
「妖獣が出るのを知ってたみてえだな。黒羽、お前が戦ったっていう女は暴動起こした側か?」
はっきりと少女はそう言っていた。
監理局から妖刀を持ち出した局員である可能性が高いことも伝えると呂氾が思案顔でぼそりとつぶやく。
「どうもきな臭えな」






