終
暗闇の中で黒羽はひとりきりひどく寒く寂しい思いをしていた。その中で蒼い炎の揺らめきを見つけ、無意識のうちに手を伸ばす。
指先に火が点いて呑まれる。火の中なのに氷水の中かと思うほど冷たくて凍え死にそうだ。
だけれど感覚すら凍り付いて、何も考えられない。
ぼんやりと炎に包まれていると、暖かなものが指先に触れて黒羽は反射的にそれを掴み取った。
優しい気持ちに満たされて胸の内から暖かくなる。柔らかい光が周囲を包み込む。
光の向こうはまだ遠いけれど、この手に掴んでいる限りは必ず戻れるだろう。
そうして黒羽が本当に深い眠りについて時は経つ。
目覚めは唐突で緩やかだった。
瞼を持ち上げて、黒羽はまばゆさに目を細めてゆっくりと呼吸をする。
「黒羽さん……」
名前を呼ばれて緩慢に黒羽はそちらへ目を向ける。
「漓瑞、ああ、よかった。無事みたいだな」
ぎこちなく笑いかけると、漓瑞が苦笑する。
「重篤だったのはあなたですよ。九日も意識が戻らなかったんですから。本当に、無事でよかった」
ぎゅっと手を握りしめられて、やっと黒羽は漓瑞が手に触れていてくれたことに気付く。
意識のない間に掴み取ったのは彼の手だった気がする。
自分が掴んだというより、彼が離さないでいてくれたからこうしてまた目覚めることができたのかもしれない。
「お前は体、大丈夫なのか?」
見る限り漓瑞は健康そうだが、見えないところに深手を負ってはいないだろうかと急に心配になる。
「ええ。私も数日動けませんでしたが、今はこの通りですよ」
優しい声音と微笑み。ひとまずはそれが真実だと受け止めて黒羽は安堵する。
「そうか。……あいつ、ムスタファだっけか。どうなった?」
自分達が生きていられるということは、本局の応援が間に合ったからだろうが。
そこで黒羽はムスタファが逃亡したことや、応急治療の後に本局に運ばれたこと、それから紅春の死を告げられる。
砂巌は完全に瘴気の噴出は収まり、水中に身を投げた紅春が全ての瘴気をおさめたことになっているらしい。
そうして白春の死因も言いづらそうに、だが隠さずに漓瑞は教えてくれた。
「……あたし、水に落ちたとき紅春に助けられたんだ。最後まで幸せそうだった。でもやっぱり悲しいな。そっか、紅春は自分で自分を……」
息苦しい思いで、黒羽は紅春の最期の笑みを思い起こして自分の唇に意識を向ける。
あの口づけを介して紅春の魂のようなものが自分の中に入り込んできた。自分の中で彼女の一部は息づいている。
水中で起こったことを漓瑞に話すと、彼は不安そうに眉尻を下げる。
「それが、あなたが自我を失った原因ですか……」
「ちょっと違うかもしれねえ。あたしの中に元々あるものを、紅春が引っ張り出してきたっていうのかな。上手く言えねえけど」
「……その話は、藍李さんも交えて後程しましょう。私は、医務部長を呼んできますね。すみません、先に診てもらうべきでしたのに」
「いや、いいよ。あたしもお前と一緒にいたかったからな」
本当はもっと一緒にいて欲しいのだが、と黒羽は離れていく手のぬくもりを惜しむ。
「私も、もう少しあなたの側にいたいのですが、診察の邪魔になってもいけませんから。少し用もあるので、それをすませてすぐに戻って来ますね。何か欲しいものはありますか?」
特に思いつかずに黒羽はなにもないと答える。それにできるだけ早く側に戻って来てほしかった。
子供の頃、風邪をひいたときに彼に側にいて欲しくてしかたなかったのと似ている。
かといってそんな駄々をこねるのは恥ずかしくて、彼が去って行くのを見送るしかできなかった。
少しすると、白衣を着た赤毛で三十前後の男が部屋に入ってくる。
「医務部長のレンドールだ。顔合わせるのは初めてだな。さて、具合はどうだ」
さらっとそんな風に挨拶して淡々と言うレンドールに、黒羽もごくごく普通の患者として話すわけだが。
途中で本局の医務部長といえばと、思い出す。
「藍李の、親父さん……?」
「ああ。娘が世話になってる。母親似でいい性格してるから困らせてるだろう」
「いや、あたしの方こそあいつには世話になってますけど…………」
そんなことより目の前の三十ぐらいにしか見えない男に、二十になる娘がいるとは到底思えなくて困惑する。確かに髪色や顔立ちは似ているのだが。
「…………言っておくが、俺は尚燕よりふたつ年上だ」
あまりにも顔をまじまじと見ていると、不機嫌そうにレンドールが答えて黒羽は驚く。
支局のいたときの、いつでも眠たげな糸目の上司。彼は確か、四十だった。
ということは。
「し、四十二!? い、った!」
思わず声をあげてしまうと、腹部にずくりと痛みがあった。
「大声出すな。まだ腹の傷塞がりきってないんだからな。右肩の骨も粉々だったが、きちんと元にもどりかけてる。まったく、あの怪我でよく生きてたもんだ。もう一個、貫通した傷痕もあったが、相当の出血だっただろ。まったく、神子の体は頑丈だな。他に不調を感じるところはないか?」
童顔の医務部長はむくれながらも、自分の役目を果たしていく。問診を一通りしてから傷の状態を確認する。
その後、完治がいつ頃になるか、剣を持てるまでにどれぐらい要するかの説明も話し終える頃に扉が叩かれた。
どうやらグリフィスが訊ねてきたらしかった。
「黒羽! よかった、起きたんだ! 全然起きないからすっごい心配したよ!」
部屋に入るなりその場で飛び跳ねそうなぐらいにはしゃぐグリフィスに、黒羽は笑みを浮かべる。
「おう。心配かけて悪かった」
「病室ではお静かに。じゃあ、何か体調に支障があったら直ぐ呼ぶように」
レンドールがグリフィスを窘めて、早々に部屋を出て行く。そして入れ替わりにグリフィスが黒羽のすぐ側の椅子に腰掛けた。
「はい。お見舞い。黒羽の好きな花とか、黒羽の好きな色の花とか毎日持ってきてたんだよ。昨日と今日は蒼壱に手伝って貰ったんだ」
グリフィスが花を近くの卓に置かれている花瓶に生ける。青や白の花がそこには無数にあった。
彼が本局を尋ねて来た日に話した自分の好きな色や、好きな花で満たされている。
「あれ、お前が持ってきてたのか。ありがとうな。兄貴とも仲良くなったんだな」
グリフィスがにこにこと話すのを聞きながら、黒羽はちらりと扉の方を気にしてしまっていた。
「黒羽?」
彼女の様子に気付いたグリフィスが、不思議そうな顔をする。
「あ、いや。漓瑞の奴が戻ってくるはずなんだけどよ、まだかと思って」
用があると言っていたし、すぐには帰ってこないとは思っていたが気になるのだ。
「漓瑞は毎日ずーっと黒羽と一緒にいたんだから、ちょっとぐらい俺も黒羽とふたりっきりがいい」
「毎日いたのか?」
「そう。俺がお見舞いに来た時にはいっつもいた、黒羽、嬉しそう……」
なぜだかグリフィスが面白くなさそうに言って、つい口元を緩めてしまっていた黒羽は面はゆくなる。
「いいじゃねえかよ。あたしはお前より年下でガキだよ」
「あ、ずるい。俺のこといっつも子供扱いするくせに」
グリフィスとふたりでむくれたり、笑いあいながらも黒羽は頭の片隅で漓瑞がくるのを待ち続けてしまっていたのだった。
***
藍李は黒羽が目覚めたことを聞いて本局医務部の病棟に来ていた。黒羽の病室の近くまでくると漓瑞が神妙な顔で、軽く頭を垂れた。
「なによ。私も黒羽の顔、早く見たいんだけど」
面倒そうな話が来そうだと藍李は顔をしかめる。
「お忙しいところ、本当に申し訳ありません。ただ、私も四日は動けませんでしたし、ゆっくりお話しする機会もありませんでしたから」
「まあね。こっちも砂巌の対処やら、いろいろあってゆっくり話してる間はなかったわね」
藍李は諦めて廊下の長椅子に腰を下ろす。
この九日で東部局は大騒ぎだった。たったひとりの魔族に支局のおよそ三分の二が、全壊、あるいは半壊で壊滅状態に追い込まれたのだ。
一足遅れて藍李自身も第二支局にたどり着いたが、あれで死人が出なかったのは奇蹟だった。負傷者は相当数いたものの、重傷者は黒羽と漓瑞だけだった。
砂巌国側が王宮の一部を監理局に貸し出し、復旧にも尽力してくれているので再建はなんとかなりそうだ。
「もう、これはあなたひとりが内密におさめることのできない事態なのですね」
「そうね。まだ、東部局内でも話せていないけど、近い内に全部説明しないわけにはいかないわ」
長い歴史の間でも前例がない事態だ。魔族が監理局を襲撃するなど誰も想定していなかった。
絶対的な女神という唯一神に従った魔族。そして監理局は女神の意思を引き継ぎ、魔族を監理する者。魔族は監理局という組織には絶対に勝てない。
その認識が覆された。
今後、監理局が標的になることも考えれば神が複数いたこと、そしてなんらかの理由で監理局が初期に神殺しをしていたことを明かさねばならない。
「それに、アデルが北部総局長を引き込んだわ。監理局内部でも、たぶん向こうにつくかこっちにつくかで割れるわね」
何よりもの懸念がそれだった。これから何が起こるか全く予想できない。
「……黒羽さんは前線に立たされるのですか」
「そうね。わざわざ冥炎の複製を作ったのは明らかに黒羽に何かあるってことだから、これまで通り釣り餌になってもらうわ。それに、黒羽自身も今さら退かないでしょ」
黒羽は妖刀と使い手の霊力の波長を完全一致させる、『完全同期』の実験のためにアデルが固執しているかと思ったが、今回の件で目的は不明となった。
「本局長からは何か聞き出せましたか?」
「そう簡単には口割らないわよ。だけど、全部は知らなそうなのよね、ランバートも」
一度、ランバートはアデルの実験を暴露し投獄まで追い込んでいる。慎重なアデルなら情報を全て渡すことはしていないかもしれない。
「で、あんたの話って何?」
さっきから妙に静かすぎて反応が薄い漓瑞が不気味で、藍李はその顔を覗き込む。
黒羽のこととなると感情的になりやすい彼の表情は、まだ何かを迷っているかに見えた。
「……神剣の血族にある腐蝕が私にもあります」
そして自分の胸に手を当てて漓瑞が重々しく告げる。
「腐蝕は神殺しの呪いって言ってたわね。やっぱりあんたのあれ、腐蝕の症状だったの。知ってるなら先に言っときなさいよ」
砂巌で漓瑞の受けた外傷は骨の罅が何カ所もあった。しかし重傷だったのは体の内側だ。 喉のあたりまで焼け爛れた状態で、おそらく胃の腑などおなじではないかという見立てだった。
腐蝕の症状に似ているとの診断で、もしやとは思ったが。
「ねえ、まさか進行してて余命わずかなんて言うんじゃないでしょうね」
正直、こんな時に勘弁して欲しいと藍李は頭を抱える。
「私はアデルと会った時にはすでに起き上がれない状態でした。病を癒やす術と、国を取り戻す術と引き替えに私は彼に従っていました。それで彼の薬で延命していたものの、反乱の時には薬も効かなくなっていました。聖地で少し良くはなったのですが、本当に少しだけです。砂巌で神の瘴気を無理に取り込んでしまったので……」
「どれぐらい、進んでるか自分で分かる?」
「感覚として覚えている限りでは二、三年で動けなくなると思います。その後に急速に進んだので、寿命もそのあたりかと」
黙々と事実を告げる漓瑞に、藍李は腕を組んでため息をつく。
「詳しい症状言って、後で父様に診てもらって。腐蝕の症状には詳しいから、どれぐらい進行してるかもっと確実に分かるはずよ。で、黒羽には言ってるはずはないわよね」
これが一番の問題だ。考えるだけで嫌になる。
「できるだけ早く、伝えなければならないと思ってはいます……。だけれどどう伝えていいかが分からないんです。先延ばしにすればするほど、あの子に辛い思いをさせるのは分かってはいます。分かってはいるんです」
苦悩を吐き出す漓瑞に、藍李は自分にどうしろというのだと途方に暮れる。
「あんたが私にこんなこと言うなんて、よっぽどね。でも、結局言わなきゃならないなら早く言いなさい。回りくどい言葉なんていらないから、事実だけ言えばいいわ。黒羽も子供じゃないんだから」
「ええ、そうですね。近いうちに話します。彼女が体をゆっくり休められた後に」
これは誰かに話して自分の決意を固めるだけだったのかと気付いて、藍李は深々とため息をつく。
「どうして面倒事ばっかしかないのよ、私の周りは。もういや、黒羽の顔見に行くわ」
これから起こるだろうあらゆることを思って、藍李は何もかも投げ出したい衝動に駆られる。
だが、そういうわけにはいかない。
自分は自分の正義を信じ抜くと決めたのだから。
***
黒羽はひとり病室で天井を見上げて、自分の右の指先を動かす。肩は固定されて動かないものの、感覚もちゃんとあって一安心する。
目覚めてひとりきりになってやっと、じわじわと敗北への悔しさと死の恐怖が迫って来ていた。
何よりも冥炎に引きずられて破壊衝動に支配され、自分を見失った間の記憶がないことが恐ろしかった。
自分が消えて、別のものになってしまう。
谷底へ自分自身の分身を突き落としてしまったほどの紅春の怖れが、なんとく分かってしまう自分がいた。
(最初にあたしは自分自身に負けたんだ……)
自分の中に眠る大きな力は使いこなせれば必ず強くなれるという確信もあった。
もっと強くなりたい。誰にも何も奪わせないだけの力が欲しい。
「黒羽、ご飯持ってきたよ」
食事を持ってくるのを局員に頼みに言っていたグリフィスが、食事を抱えて持ってくる。その後ろでは緋梛が困り顔でその様子を見ていた。
「おう。悪いな。局員に声かけてくれるだけでよかったんだけどな。緋梛、久しぶりか?」
「早く戻ってくるってあたし言ったのに、姉さんごめん、生きててよかった……」
緋梛が今にも泣きだしそうに顔を歪めて、近くに来て黒羽はその頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「いいんだよ。お前はお前で一生懸命戦ってたんだからよ。ほら泣かなくていいからな」
涙目になってしまった緋梛が無言でうなずいて、嗚咽を呑み込む。
「黒羽、起きるの手伝うよ」
卓に一旦食事を置いてグリフィスが黒羽が上体を起こすのを手伝い、緋梛が背もたれになるようにクッションを黒羽の後ろに積み重ねる。
「皇帝陛下に給仕させるなんて、姉さんぐらいね」
「そういや、お前皇帝だったな」
緋梛がやっと笑って、黒羽はグリフィスを見て苦笑する。
「俺は黒羽の主君じゃなくて友達だからいいの」
そうして三人で笑っていると、次には藍李が入ってくる。
「あら。楽しそうね。黒羽、元気そうでよかったわ。思いっきり抱きつきたいところだけど、全快してからね。あ、ごはんは私が食べさせてあげる! はい。あーん」
藍李が目ざとく食事をみつけて緋梛に場所を譲ってもらい、黒羽に口に匙を寄せる。
「…………おう。まあ、ありがたく世話になっとく」
右手が動かせない以上仕方ないが、何とも言えない微妙な気分にさせられながら黒羽は粥を咀嚼した。
「また、賑やかですね」
笑い声と共に入ってきたのは漓瑞で、黒羽はやっと戻って来てくれた彼に笑みを返す。
それからはとりとめない話を五人でして、束の間の穏やかな時を過ごす。
強くならなければ。
この愛おしくてとても大切な一達や、共に過ごす時間を護り抜くために。
黒羽は上掛けの下に隠れたまだ上手くは動かない右手を、強い思いで握りしめた。
―第一部了―