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女神の玉座  作者: 天海りく
双つの蒼炎
30/67

 本局の東部資料庫の階段で、藍李は寝不足で痛む頭を押さえながら資料を読んでいた。

 幽霊騒動で白春公主が目撃された付近を、職務の合間を縫って調べているが一向に何も見つからない。

 これまで隠されたものがそう簡単に出てくるはずがないのは予測していたが。

「本当に砂巌の資料って妖魔の発生記録数ぐらいしか出てこないわね……」

 書棚にもたれかかると、一気に瞼が重くなってくる。

「んーもー、家の書庫をもっと漁った方が」

 眠気覚ましにぶつぶつとつぶやいていると、人の気配を感じて藍李は体を緊張させる。

「藍李ちゃん、仕事熱心だな」

 上からやってきたのは北部総局長のオレグだった。今日はいつも以上に飲んでいるのか、酒の匂いがやたら漂ってくる彼に、藍李は顔をしかめながら立ち上がる。

「ええ。総局長に就任したばかりで何かとやることが多くて。オレグ様はお酒が過ぎてうちの書庫に迷い込んでしまったのかしら?」

 取り澄ました嫌味に、彼はにやりと笑った。

「神殺し」

 そして何気なく落とされた言葉に藍李は表情を強張らせる。そんな彼女の様子をオレグは感心したようにうなずく。

「やっぱり、でたらめじゃなさそうだな。俺達の祖先が神を殺して回ってたっていうのは」

「神を殺して回った……?」

 藍李は鸚鵡返しにして、以前タナトムで異変があった時に九龍家の書庫にあった書物を思い出す。

 神が人と交わり魔族となった数を記録したものと思しき書物。

 その中で神から魔族への移行がならなかったという記述もあった。監理局に古くから伝わる伝承と照らし合わせてみれば、大規模な人と神の戦があっただろうことも知っている。

 その中で人が神を殺したことも確かにあっただろう。

 だが、オレグの言い回しでは、まるで祖先達が率先して神を殺したかに聞こえる。

「そう。俺らの先祖は神をひとつに統合するために、自分達に従わない数多の神を殺して処分したんだとさ」

「その話はどこでお聞きになりましたの……?」

 酔っ払いの戯言ではないと、藍李は目つきを険しくする。

「アデルだよ。といっても手紙でだけどな。あいつ、今は緑笙の体を乗っ取って生きてるって本当かって、その顔だと本当にみたいだな」

 アデルが予想外の人物に接触していることに、藍李は言葉を失い驚きを隠せないでいた。

「……全部事実だとして、あなたはどうなさるおつもりかしら」

「全部事実だったら、俺はアデルにつく。聞いたか? 俺達の腐蝕の正体」

 そこまでは知らず藍李は首を横に振る。

 神剣を引き継ぐ自分達は生きているだけで、世界の瘴気を浄化する役目を背負っている。ただ人の体にはやはり負担が重く、次第に体の内が腐って四十前後で寿命が尽きる。

「ご先祖様が殺した神様達の恨み辛みだとさ。神殺しの血脈にかけられら呪いだよ。神に代わり瘴気を浄化する崇高なお役目を己の身を犠牲にして果たす。なんて美化されすぎにもほどがあるよな」

 オレグが滑稽そうに喉を鳴らすのに、藍李は危ういものを覚える。

「それで、どうしてアデルにつくことになるの」

 問い詰める口調もついきついものに変わる。

「呪いを解くんだよ。アデルは女神に選ばれて、先に許された。どのみちこの歪められた世界はこれ以上保たないなら、全部元通りにして生き残る手段を選ぶだけだ。俺はこのまま、先祖の責任を押しつけられて大人しく死ぬのはごめんだからな」

「……そんなことをすれば瘴気が吹きだして多くの人間が犠牲になるかもしれないわ。それもどうにかなるっていうの?」

 タナトムでは妖魔が大量発生し砂巌でも同じだ。神の瘴気によって産まれた妖魔は、人に不安や畏れを与えて新たな瘴気を産む。

 その負の連鎖を止めて、神の瘴気すらおさめる。

 そんな都合のいい話があるだろうか。

「代償は必要だろう。一回歪んだものは全部壊さないとどうにもならない。綺麗事言って死んでいくか、卑怯でも生き残るか。どっちを選ぶかって言われたら俺は後者だ。藍李ちゃんはどうする」

「……どうにもこうにも、アデルの言うこと鵜呑みにして馬鹿な真似だけはしないわ。私は自分が助かる道は考えない。あなたは酔いを覚ましてから考え直しなさい」

 何事も代償が必要なのは分かっている。だが私利私欲のために何かを犠牲にするなど、自分はけしてしない。

「藍李ちゃんは、潔癖だな」

「どうとでもお好きに」

 鼻で笑ってオレグをねめつけると、彼は大仰に肩をすくめた。

 怒鳴りつけてやりたいところだが、くだらない挑発に乗るまいとむっすりしていると慌ただしい足音がやってくる。

「総局長! 第二支局より神剣の応援要請です! 妖刀を持った魔族に支局が襲撃されています。負傷者多数、局舎に甚大な被害が及んでいるとのこと。現在黒羽と漓瑞が応戦中です!」

 早口でまくし立てる局員に藍李はオレグを見る。

「もう、始まってるんだよ。誰にも止められやしない」

「止めるわよ。ねえ、もう誰か出てる?」

 藍李はオレグは後回しにして現状を問う。神剣の宗主と分家の間で、緊急を要する時は総局長の命令を待たずに出てもいいことになっている。

 返答はすでに分家のひとりが緊急の水路を使って向かっているということだった。

 それと黒羽以外の妖刀、魔剣の使い手が出払っていることも伝え聞く。

「そう。念のため私も出るわ! でも、黒羽と漓瑞で足らないってなると相当ね」

 妖刀の能力は一級、それを扱う霊力も技量も高い黒羽の攻撃に加え、瘴気を浄化する神剣相応の能力を持つ漓瑞の護りがあって苦戦するのはただごとではない。

「じゃあ、俺は自分の仕事に戻るからな」

「ええ。後でランバート共々きっちり話を聞かせていただくから」

 藍李はそう言って傍らに置いていた九竜を背負い、その重みをしっかりと確信して駈け出した。


***


 王宮の中は遠くに見える局舎の炎上や、監理局からの避難勧告ににわかに騒がしくなったがすぐに落ち着きを取り戻した。

 誰もがこのまま全てを受け入れる覚悟でいた。

 黒峰が紅春の部屋を訪れると、すでに国王夫妻が眠る紅春の傍らにいた。

「伯父上、伯母上……」

 声をかけるとふたりは静かに黒峰を招き寄せる。三人は言葉もなく紅春の側で寄り添い合う。

 早くに両親を亡くした黒峰にとって伯父夫妻は実の両親同然だった。

 そして、紅春は可愛い妹だった。無邪気に懐いててきた彼女を確かに愛していた。白春へ抱く想いがあったからこそ、自分の紅春への感情が家族に対するものの域を出ないと気付いてしまった。

 どうして自分の想いをしまい込んでおけなかったのだろう。

「紅春……」

 後悔と懺悔の念はあれど言葉はならず、黒峰は万感の思いで従妹の名を呼ぶ。

 その呼びかけに応えたのか、ゆっくりと紅春の瞼が持ち上がった。

「紅春!」

 誰ともなく声をあげると、彼女はぼんやりした表情で誰の顔も見ずにふらりと起き上がる。

 彼女の姿を黒峰と国王夫妻は身じろぎひとつできずに、見ていることしかできなかった。

 何かに束縛されたかのように、自分達の意志ではどうにもできなかった。

 寝台から降りて、紅春が露台まで行ってやっと三人は身動きができた。

「紅春、大丈夫なのか?」

 露台で風に髪を遊ばせる紅春は振り向かなかった。

「わたくし、思い出したの。白春が居なくなってしまった日のこと」

 彼女が外を見ながら言って、黒峰は彼女に近づこうとしていた足を止める。

「黒峰兄様がわたくしでなくて、白春を選んだのがとても辛かったわ。もう白春の顔なんて見たくないって思うぐらいに。それで遠くへ行こうと思って走ったの」

 紅春がくるりと振り返って、面はゆそうな笑みを浮かべる。

「気がついたら陵墓にいたわ。白春はすぐに追い駆けてきたの。もう見たくないと思ったのに、すぐ側にいて谷底へ突き落としてしまった」

 ささやかな悪戯を告白する口ぶりで、己の片割れの殺害を口にする紅春に三人は戦慄する。

 目の前にいるのは自分達のよく知るあの無邪気で愛らしい紅春なのか。

「あんなにも胸が苦しくてたまらなかったのは、兄様のことが好きだったからと思ったの。でも、白春が消えてしまったらとても寂しくなって追い駆けようとして気付いたわ」

 紅春が露台の欄干に腰掛けて肩を震わせる。

「こんなにも辛いのは兄様のことが好きだったからじゃなくて、わたくしと白春を別にされたからなのよ。同じものなのに、わたくしだけがいらないものにされた気がして」

「違う! 決して紅春を蔑ろにしたわけじゃない。私は君のこともちゃんと愛しているんだ」

 黒峰は声を上げて紅春の言葉を遮る。

「ええ。でも、それは別の好き、でしょう。同じでなくては駄目なの。わたくしは白春で、白春はわたくし。同じでないといけないの」

「何を言ってるんだ。君は君で、白春は白春だった。ふたりとも同じだけ大事だ」

 従妹が求めることが理解できずに黒峰は首を横に降った。

「そうだ、紅春。お前はお前で、白春は白春だった。私達は同じだけお前達を愛していた」

「紅春、あなたも白春も私達の大切な娘よ」

 国王夫妻が呼びかけるのに、紅春がふっと寂しげな顔をして外へ目を向ける。

「父様、母様。そう、ふたりともわたくしのことを愛してくれていたのは知っていたわ。黒峰兄様も。でもね、全部同じでないと意味がないの。わたくしには意味がないの」

 紅春の髪が流れる風に巻き上げられて、ばさりと広がる。

「ずっと不安だったわ。本当の紅春はわたくしでなくて白春の方で、いつかわたくしはまた消えてしまうんじゃないかしらって。でも、同じなら消えない。最初からひとつなのだから、元に戻ったってわたくしはわたくし」

 紅春の囁く声は、細いながらも必死に自分の存在の拠り所を掴もうとしていた。

「紅春、すまない。私はなんということを」

 本当に酷いことをしてしまったのだと、黒峰は打ちのめされて震える。

 彼女が自分自身が消えてしまうのを恐れていたなど、気づきもしなかった。その恐怖心を自分は決定づけてしまったのだ。

「いいのよ。兄様。わたくし、今はとてもほっとしているわ。白春が消えて、わたくしの命も消えかけている。体の半分を失ったから当然だわ。わたくしたち、同じなのよ。ふたりとも『紅春』なの」

 露台に腰掛けたまま紅春が背中を後ろに倒してその場の全員が息を呑む。このままでは落ちてしまう。

「紅春、降りなさい。そして私達の所へ戻って来ておくれ。せめて終わりは一緒に迎えよう」

 父の懇願に紅春は静かに淡く溶けてしまいそうな儚い笑みを浮かべる。

「この国はまだ滅びはしないわ。白春がすぐそこにいるの。わたくしもいかなければ。父様、母様、ずっと一緒にいられなくてごめんなさい。愛してくれてありがとう」

 紅春の母は全てを諦めたのかその場に泣き崩れる。

「黒峰兄様。大好きだったわ。苦しませてごめんなさい。わたくしね、運命のひとを見つけたの、だから心配しないで。今はとても満ち足りて幸せよ」

 嘘偽りない子供の頃と変わりない無邪気な満面の笑みで、紅春が欄干から手を離す。

「紅春!!」

 黒峰は闇雲に届かない手を伸ばして紅春を引き止めんとする。

「さようなら」

 笑顔を残して紅春は欄干の向こうへ落下する。

 真下は水だが、まるで花びらでも落としたかのように音もなかった。三人が下を覗きこんでも、もはや彼らが愛した少女の姿はどこにもなかった。


***


 崩れた瓦屋根が水に飲まれて溶ける。その下から黒羽はどうにか立ち上がる。彼女の腕や脚、体の至る所に火傷と剣で裂かれた傷ができている。

 ムスタファとはすでに勝負になっていなかった。

 できるだけ水路のある方向から引き離しながら、攻撃を防ぐのが精一杯だ。

「黒羽さん! 動けますか!?」

 駆け寄ってくる同じく満身創痍の漓瑞の呼びかけに黒羽は荒い息を整え、硬く冥炎の柄を握る。

「まだ、な。漓瑞、霊力保ちそうか? あたしはちょっときつい」

「私も、かなり消耗してきました。周りの水が使えればいいのですが……」

 黒羽も漓瑞も、ムスタファの放つ炎を防ぐだけで相当量の霊力を消耗していた。今も漓瑞が防ぎ切れなかった残りが局舎に当たり、黒羽は半ば瓦の下敷きになってしまった。

 普通の水ならば漓瑞の力の足しになるが、どうやら彼の祖先に対する怨嗟を含んでいるらしく、局舎を取り囲む水は上手く使えないらしい。

 向かいの回廊に見えるムスタファは悠然とした立ち姿でこちらを見ている。

 手負いの獲物をいたぶっているのとは何かが違う。

 黒羽は金の瞳を見返して、冥炎を構える。

「応援来るまでは持ち堪えるぞ。こんなところでくたばるわけにもいかねえからな。来るぞ」

 ムスタファが欄干を蹴り、こちらへ躍り込んでくる。

 黒羽は受けるより避けるのに徹して、ムスタファの斜め後ろに回り込む。肩を狙った突きは軽く腕を裂いただけに留まった。

 外したと思う間もなく反撃が来る。

 身を翻したムスタファの刃に危うく首を飛ばされそうになる。

 顎を浅く切られつつ、黒羽はぎりぎりで避けて漓瑞がムスタファの背後で動くのを視界の片隅で捕らえた。

 至近距離から冥炎の炎を放つ。

 漓瑞がムスタファの持つ冥炎に水の蔓を伸ばしたのは同時だった。

 黒羽は反撃を予測して距離を空け、一気に冥炎を放てるように構える。

 ムスタファの冥炎に絡んだ水の蔓と黒羽の放った炎が、向こうの炎に引きちぎられかき消される。

 黒羽は全ての攻撃がかき消える寸前を見逃さず、一気に炎の大浪をぶち当てに行く。

「くそ!!」

 だがムスタファが二撃目を放つのが早かった。

 黒羽の炎は丸呑みにされる。

 咄嗟に漓瑞が水の膜で炎を包むが弱い。

 縺れあった力は一気に破裂して水柱が上がり、黒羽と漓瑞も衝撃で吹き飛ばされる。

 近くの壁に強かに背をぶつけて黒羽の息が一瞬止まった。

 激痛に体を動かすこともできずにずるずるとその場に崩れ落ちてむせ込む。それだけで体中が悲鳴を上げた。

「漓瑞……」

 苦痛に顔を歪め呻きながらも、黒羽は漓瑞が無事であるかどうか首を巡らす。

 離れた場所の床板だけがかろうじて残る瓦礫が散乱する場所で、倒れ伏しながらも体を起こそうとする姿が見えた。

 黒羽は荒い呼吸の中に安堵の息を交ぜ、近づいて来るムスタファを見てよろよろと立つ。

 もう、大きな炎を放てる霊力は残っていない。

 次に炎を喰らえば消炭どころか、跡形も残らないだろう。

「弱いな。汝はなぜ力を出し惜しみする。剣が憐れと思わないか」

 ムスタファが不愉快そうに黒羽を見下ろす。

「この状況で出し惜しみする余裕なんざねえよ」

 今、自分は全力であることには違いない。神を相手にしているとはいえ、全力で向かってこの様は悔しい。

「気づきもしていないとは、愚かな」

 ムスタファが剣を構えて、黒羽は足を踏ん張る。

 ふたつの刃がぶつかる。

 霊力はもちろんだが、体力も消耗していて容易く黒羽は力で打ち負ける。

 無理に押し返すことは諦めて、押される力を利用して後ろへ飛び退る。そのまま二撃が来るのを体を捻って避ける。

 ぎしぎしと体は悲鳴をあげるものの、動きを止めた瞬間に腕なり首なり飛ぶ。

 黒羽は防御と回避に徹しながら、攻めに転じる機会を窺う。

 ムスタファは加減しているつもりなのか、一向に炎を撃ってはこない。

 しかし、それで安心などできない。以前タナトムで対峙した魔族と違って剣を扱う動きも、無駄も隙もない。

 元から手練れの剣士だ。

「ぐ、」

 消耗しきった体は剣を避けきれずについに、右脇腹を切り裂かれる。致命傷というほど深くはないが、確実に動きを止められる。

 黒羽は次の攻撃を転がるようにして避け、床に冥炎を突き立てて炎を放つ。

 蒼い火は弱いものの、ムスタファの足下を崩すには十分だった。

 残った体力を振り絞って、黒羽はムスタファの懐に飛び込む。

 が、気がつけば体は宙に投げ出されていた。

 一瞬で体勢を整えたムスタファに剣を受けられ、蹴り飛ばされたのだ。

 欄干がなくなった回廊で、黒羽はそのまま水中へと落ちた。


***


 熱くも冷たくもない水の中で冥炎が軋んで悲鳴じみた甲高い音を出す。

 黒羽は沈みながら歯噛みする。

(この水、あの時のと同じか……!)

 玉陽の聖地で漓瑞を探し求める途中で廊下がこんな風な水溜まりになっていた。浄化の力が具象化したという水に浸かっていては、冥炎が折れてしまう。

 分かっていても体にまとわりつく水は重たく、もがくこともできずに黒羽は沈んでいく。

 呼吸は苦しくなく、意識を失うこともない。

 それがなおさら恐怖になる。

 どこまで続いていくかも分からない真白い水の中へと引きずり込まれていく。片手にある冥炎の刃も酸にやられたかのごとく、腐り朽ち始めていた。

(漓瑞……!)

 まだ、死ねない。こんなところで死ねない。

 約束したのだ。できるだけ長生きして、一緒に笑いあおうと。

 必死に生にしがみつく黒羽にするりと伸びる手があった。

 黒羽は霧の中に似た視界の中でぼんやりと見える手を取り、やがて手の主の姿に目を見張る。

「紅春」

 思わず口をついた言葉はちゃんと声として発せられた。体に纏わりつく重みも消えて、身軽になる。

「黒羽様。わたくしの運命のひと」

 黒羽の指に自分の細い指を絡めて紅春がうっとりと言う。

「紅春、なんだな。なんで、まさかお前……」

「ええ。わたくしの命は尽きました。悲しい顔をなさらないで。わたくしに宿命を果たす時が訪れたのです」

 そのまま紅春が黒羽の胸に心臓の鼓動に耳を寄せるように、頭をもたれかけさせる。

「宿命?」

 何が何だか分からないと黒羽は眉根を寄せる。

「それはあなたの宿命でもあるの。破壊を恐れてはいけないわ。それは再生への通り道。全てを打ち砕く力をあなたは持っている」

 紅春の手が腐蝕した冥炎の刀身を指先で優しく撫ぜる。彼女の指が這う場所から刃は再生され、真新しく生まれ変わっていく。

「あたしは、護るために戦うんだ」

 大事な場所、大事な誰か、大切な心。失えない未来。

 いつでも破壊するためでなく、護り抜くために自分は強くなろうとしてきた。それ以外に戦う理由などない。

「でも、恐れるがためにあなたは今、護るべきものさえ失おうとしているわ」

 反論できずに黒羽は押し黙る。

 今、水の上では漓瑞がいて、他にも大勢の局員達がいる。まだ本局の応援がたどり着いていなければ、彼らの命が危うい。

 そして自分も、こんな所にいる。

「そういやあたし、死にかけてるのか?」

「ええ。このままではあなたの命も尽きてしまうわ。どうか受け入れて。あなたの持つ力を」

 紅春が顔を上げて目を細め、黒羽を見つめる。

「そうして、わたくしを」

 唇に柔らかなものが触れる。そこから何かが流れ込んでくる。

 紅春に口づけられた黒羽は彼女を引きはがそうとするが、指一本動かせなかった。

 体の内へ熱の塊が落ちてくる。燃え盛る蒼い炎が脳裏に浮かぶ。

 体が中から焼かれる感覚があるのに苦痛がなかった。

 黒羽は陶然と熱を受け入れる。

 この熱いものは純然たる力だ。体の奥の奥に仕舞い込まれているものを包み込んで、それを糧にさらに火は燃える。

 冥炎の刀身から炎が吹き出す。

 すでに黒羽の目の前に紅春はいなかった。

 気がつけば、冥炎を片手に持つ彼女は、水上の崩れた局舎の上でしっかりと立っていた。


***


 傷も癒え、地上に戻された黒羽は眼前にいるムスタファを見据える。

 黄金の瞳と、灰青の瞳の視線が交わる。

 互いに言葉はなく、次に響いたのは剣戟の音。

「……力を受け入れたか」

「あたしは護らなきゃならないものがあるんだ。そのための力だ」

 刃をがっちり噛み合わせてふたりは睨み合う。

 どちらともなく、刀身から炎を放つ。

 黒羽の身の内からこんこんと湧き出る力は、青い炎の波となってムスタファの炎とぶつかる。

 敵に意識は向けたまま黒羽は漓瑞の姿を探す。

 近くの建物の影で壁にもたれかかっている姿が見えて視線が合った。

 お互い安堵した笑みを交わして、黒羽は戦闘に戻る。

 ムスタファの二撃目がくる。

 受けて、力を流して間髪入れずに炎を繰り出す。

 打ち消されて炎がかき消えると、切っ先が目の前にあった。

 後ろに退いて、さらに踏み込まれると同時に正面でなく脇へ回り込む。

 ムスタファが次の動きをするのと一緒に炎を放って、さらに背後を取りに行く。

 背中を斬りつけようとするが、向こうの放った炎が来て回避を取らざるを得なくなる。

 僅差で炎を打ち消しきれずに、熱の余波で左肩が焼けた。

「……勝つのは厳しいか」

 痛みを歯を食いしばって、剣を構えなおす。

 水底から上がってきてからは怪我も癒えたせいだけでなく体自体が軽い。霊力も以前に増して増大しているのが分かる。

 それでも、まだムスタファには届かない。

 炎がまた襲い来る。

 黒羽は打ち消すより呑み込まんと、大量の霊力を冥炎に注ぎ込む。

「くそ、欲張るんじゃねえよ」

 それもまだ足りないのか冥炎がもっと欲しいと入り込んできて、貪欲に食らい付いてくる。

 冥炎を制御しつつ黒羽は全霊で炎を放つ。

 しかし渾身の一撃でもムスタファの炎を凌駕することはできない。

「やはりお前の剣は憐れだな」

 ムスタファが布きれのような炎を名残を払って、刀身に新たな蒼炎を纏わせる。

 炎は膨れあがり、視界が白むほどの巨大なものに変わる。

「くそ、本当に底なしじゃねえか」

 黒羽もそれに応じるべく残った霊力を全て冥炎に流し込む。

 冥炎も嬉々として黒羽の内へ見えない触手を伸ばし、与えられるものをがつがつと取り込んでいく。

 黒羽の奥に眠る本能と、妖刀の本質が霊力を介して解け合う。

 そのうちに異様な高揚感が全身を駆け巡って、理性が飛びそうになる。

「駄目だ。これ以上は入り込んでくるな」

 黒羽はどうにか冥炎を押しとどめて、頭を振った。

 だけれど、本能は破壊を望む。

 この力で、目の前にあるありとあらゆるものを壊し尽くしたい。

 自分自身が消えてしまう恐怖感と、破壊衝動が鬩ぎ合う。

 目の前に迫る、炎の波。

 圧倒的な力の前に理性がついに焼き切れた。

 破壊への欲求は炎の奔流となって流れ出る。

 黒羽はムスタファの炎ごと引き寄せ、自分の物とする。

 そして炎を放ちながら自分も斬り込む。

 鋼が打ち合わされる音が鳴り響き、ふたりが混じる蒼炎を奪い合う。

 ムスタファの刃が黒羽の右腕を深く裂く。

 己の腕から吹く血飛沫に頬を濡らしながら、黒羽は淡く笑って怯まずムスタファに向かってく。

 破壊衝動に支配された黒羽に、もはや痛覚もなければ、死への恐怖すらなかった。

 彼の左腕に一太刀浴びせて、さらに傷口を炎で舐める。

 もう一撃入れる前に反撃が来て黒羽の左腕がざっくりと切れた。

「……なるほど。汝は人でありながら人ではない」

 黒羽の右腕の出血が少なくなっているのに気付いて、ムスタファが言う。

 緩やかではあるものの黒羽の傷は治癒され始めていた。

「だが、まだ不完全だ」

 ムスタファの瞳がぎらつき、さらに黒羽に刃を浴びせていく。

 ひとつひとつは致命傷には届かないが、治癒の速度が追いつかず黒羽の動きは次第に鈍くなる。

 しかしどれだけ傷つけられても黒羽も退かない。

 ただひたすら攻め続けてムスタファに攻撃を加えていくが、受けている分の半分も彼に傷をつけていられない。

「黒羽さん!!」

 もはや捨て身状態の黒羽に危機を覚えた漓瑞が声を振り絞って叫んだ。

 黒羽が声にに反応して動きを止める。

 そこへムスタファの一撃が襲うが、流れる水がそれを防ぐ。

 頬に水飛沫が触れて、黒羽は無意識のうちに漓瑞が居る場所へ視線を向ける。

「漓瑞……」

 最後の力を振り絞ったのか彼はその場に膝から崩れ落ちる。

 自我を取り戻した黒羽はムスタファの攻撃がくるのを避けて、彼と距離を取るが痛覚も戻って、身を屈めた体勢のまま動けなくなった。

「力を出せば剣に引きずられるか。未熟な」

 ほとんど体を動かす間もなく、ムスタファの刃が黒羽の腿を貫く。

「――――っ!!」

 激痛に声も出せずに黒羽は仰向けに倒れた。

「く、そ。っが」

 どうにかムスタファの剣から逃れようと、冥炎に霊力を送ろうとする。しかし冥炎を持つ右肩を踏み砕かれ、腹部に刃が突き刺さる。

 悲鳴を上げかけた黒羽の口から血が溢れた。

「この程度で終わるのか」

 不服そうなムスタファの声が朦朧とする意識の中で遠く聞こえる。

 死にたくない。

 そう強く思えど、黒羽の意識はあまりにも呆気なく暗闇に引きずり込まれた。

 

***


 黒羽を護るために残った霊力を失った漓瑞は、吹き飛ばされたときに傷めた足を引きずって黒羽の側まで行こうとしていた。

 だが、たどり着く前に黒羽に刃が突き立てられる。抗おうとしていた体は、ぴくりとも動かなくなった。

「黒羽、さん……」

 全身を苛んでいく絶望感に、体を動かす気力さえ尽きてくる。

 黒羽の体から剣が引き抜かれる。

 だが、予測したほどの出血はなかった。じんわりと床板に広がる血も少ない。もしやと漓瑞は僅かな希望を見いだす。

 黒羽の肉体は自己治癒を行っているのではないだろうか。

 まだ黒羽は生きるのを諦めていない。

 彼女は生きようとしている。

「これ以上、あの子を傷つけられるわけには」

 漓瑞は自分の刻印に意識を集中させるが、やはりムスタファを相手に戦うなど到底厳しい。それでも何もしないわけにはいかない。

 漓瑞は水に刻印のある片手を水につける。じゅっと、焼ける音がして痛みが走る。それでもかまわず残った霊力を流し込んで水面を持ち上げる。

 どこまでも周囲の水は自分に反発してくる。

 流れ込んで来るのは滅ぼされた神々の憎悪の念。内から肉体を食い破らんと神の瘴気が臓腑に牙を立てる。

 ずくりと体の内側が傷むのを堪え、漓瑞は水飛沫をムスタファにぶつけた。本当に気を退く程度のものだったが、彼の視線は確かに自分に向いた。

「……裏切り者の女神の末よ。なぜに人に従う。なぜ罪を認めない」

「私は、人に従っているわけではありません。私の意志です。私の祖には護るべきものがあった。結果がどうであっただろうと、全てを罪だと決めつけることはできません」

 なんの犠牲もなく護り通せるものなどないと、嫌と言うほど知っている。奪って、奪われて、憎んで、憎まれて。

 どうにもならないことを繰り返しながらこの世界はある。

 何かを護るためには、何かを犠牲にしなければならない。

 ただ、と漓瑞は意識を失い倒れる黒羽を見る。

 彼女は護るために自分自身を犠牲にしている。誰も傷つかないように、自分だけが傷つくように。

 自分ではまるで気付いていないことが、ことさら危うくて心配だ。

「我らが護り通すは、神の純血。主が滅ぼされたのち、我が祖達は身を潜めいずれ訪れるこの時までに、血を繋いできた。我は全ての神々の血を受けここに立つ者。汝が己の意志で護るは何ぞ」

 血に濡れた刀身を向けられた漓瑞は、視線を黒羽に向けたまま考える。

 この想いは贖罪に似ている。

 黒羽が瀕死の状態でいるのを見限った時、自分には護るべきものがあった。あの選択を過ちとは思ってはない。

 それでも彼女のためにできることを、残った僅かな命をかけてしたいと願う心がある。

「彼女を。そして彼女の望むものを、私は護るためにいます」

 しかし、どれだけ考えても結局はそれだけだった。

 理由はなんであれ、護りたいのだ。黒羽のことも、彼女が幸福でいられる未来を。

 今、そのために自分はここに必死に立っている。

「汝は神に近い身で、人に近い」

 ムスタファが抑揚なく言って、再び黒羽に刃を向ける。

 今度は心臓へと。

「させません……!」

 漓瑞は再び、水に刻印のある手をつける。神の放つ瘴気はどんどんと身の内に入り込んできて、胃の腑が焼け付く。

 それでも歯を食いしばって、水を持ち上げてムスタファの持つ刃に巻き付ける。

「汝から死するか」

 ムスタファが刀身に炎を纏わせ水の縄を引きちぎる。

 漓瑞は肩で息をしながら、さらに周囲の水を引き寄せようとするが限界が来た。焼ける感覚は喉までせり上がってきて、咳き込み血を吐く。

「ええ。そうですね。先に始末すというなら、私の方でしょう」

 荒い呼吸の中で漓瑞は一秒でも時間稼ぎをせんと、ムスタファをきつく睨む。

 ムスタファが炎を漓瑞へと向ける。

 炎が放たれる直前、目に見えぬ何かがムスタファめがけて打ち付けられた。

 その『何か』が破裂して、ごうっと風が巻き起こる。

 強い浄化の力がその場に満たされる。神剣による力に違いなく、漓瑞はやっと応援が来たことに安堵する。

「……またいずれ、相まみえよう。この程度ならここで殺してもよしと思ったが、あれに対峙するならば必要か」

 ムスタファが崩れた局舎の奥からやってくる局員達に目を向けてから、黒羽を見下ろし剣を鞘に収める。

 そしてすっと宙が割れて、その中へ彼の姿は消えていった。

「お二方とも無事ですか!?」

 二十歳前後の女性が太刀を背の鞘に収めてばたばたと駆け寄ってくる。おそらく神剣の分家の局員だろう。

 先ほどの攻撃も彼女らしかった。

「黒羽さんの治癒を急いで下さい!」

 医務部の局員も数人一緒に居るらしく、さっそく彼らが黒羽の治癒にあたる。

「助かりますよね……」

 ふたりがかりで失われた血の補給を行っているのをじっと見守りながら、漓瑞は祈る気持ちで言う。

 漓瑞の治癒に当たる局員が黒羽の状態に気休め程度の言葉も言えずに、硬い表情で押し黙る。

 もっと黒羽の側に寄ろうとした体はいうことを聞かず、漓瑞もまたその場で意識を失った。



 

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