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女神の玉座  作者: 天海りく
翠卵の皇子
3/67


 色づいた葉を落とす木々の間をすり抜け、木の根を飛び越えて道なき道を迷うことなく幼い黒羽は歩く。小さな手には無骨な木刀がある。

 てんで動かない木を相手にするのはもう飽きた。養父はそろそろ帰っているだろうから相手をしてもらおう。

 そんな期待を胸に大きな切り株が二つ並ぶ横を通る。家はもうすぐそこだ。黒羽は逸る気持ちのまま走り出した。そして、見慣れないたくさんの人影に足を止める。

 古びた小さな家の周りを取り囲んでいる十数人の大人達はどれも知らない顔だった。

 また『どうほう』とかいうのが増えたのだろうか。

 黒羽は木の陰に身を潜めて様子を窺う。大人達は動き始めて、中心あたりに養父の姿が見えた。彼の手は後ろに回され、黒い斑点の浮いた紐で縛られている。

 養父を助けなければと思うや否や、黒羽は木刀を握り締めて大人達の中に飛び込んだ。

「親父を放せ!」

 木刀を構えてそう言い放つと、大人達は驚いた顔をして養父に何事かを尋ねる。そして誰かが声をかけると、人形みたいに綺麗な一人の少女が黒羽の前に出てきた。

「少し、遠くに行かなければなりません。あなたも一緒に行きましょう」

 女のような男のような不思議な声音で言って少女は手を差し伸べてくる。

 黒羽は困惑と不安の目を養父に向けた。

「黒羽、大人しくついて来い」

 次に低い声で養父に言われ、黒羽は木刀を下ろす。少女の手はとらずにその後ろをついて列の後ろについた。そして近くにいる槍を背負った男が抱えている刀を見てあ、と声を上げる。

「あたしの冥炎! 返せよ!」

 養父に拾われたときに抱いていた大事な刀。こんな見ず知らずのやつに持たせるのは嫌だった。

「これ、嬢ちゃんのなのか。悪いけどちょっとだけ預からせてもらえないかな。すぐ返すから。な」

「本当か?」

 口調が軽すぎていまひとつ信頼できないと黒羽は疑り深い目を男に向ける。

「大丈夫です。千武せんぶさんは嘘はつきませんよ」

 隣でそう言う少女の片手の甲に紋様があることに黒羽は気づいた。養父や柳沙と同じだ。

「あんたが持っといてくれたらいい」

「信用ねえなあ。それじゃ漓瑞さん、頼んます。ああ、この人姉ちゃんじゃなく兄ちゃんだからなー。まあ嬢ちゃんも言われなきゃ分かんない見た目だけどな」

 千武から冥炎を受け取る漓瑞がなんとも曖昧な笑みを浮かべる。男がからかって嘘を言ったわけではないらしい。

「……ふうん。でもお前よりいいや」

 養父と同じ魔族というだけだが、なんとなく漓瑞のほうが安心感があった。

「そうかそうか。嬢ちゃん年、いくつだ」

 たぶん八つぐらいと応えると、たぶんとはどういうことかと千武から質問が返ってくる。

「いつ生まれたのか知らねえから。親父があたしのこと拾ったときふたつぐらいで六年経ったからそれぐらい」

「……嬢ちゃん捨て子かあ。珍しいことじゃねえけどまあ酷え親だなあ」

「別に本当の親のこと覚えてねえし、親父がいるからいい」

 それで十分なのだ。

「なあ、親父どうして縛られてんだ? あれすぐ外してくれるんだろ」

 そこでついさっきまでぽんぽんと言葉を発していた千武の口が急に重くなる。

 不安に眉根を寄せるとぐりぐりと頭を撫でられた。

「あっちについたらな」

 あっち、とはどこだろう。

 答えを求めて漓瑞を見ると、その表情に穏やかさはなかった。

「多いですね」

 ぽつりと漓瑞が言葉を漏らす。

「なにがっすか?」

「いえ、周りに役所の方々が張っているようですが……十、二十、まだいますね」

 そういえばやけに動物たちがしずかだと黒羽はあたりを見回すが、木々ばかりしか目に入らない。そんなにたくさんの人間がなぜまだ麓から遠いここにいるのだろう。

「お仲間が出てきたときのためだろ。あいつら腰抜けだよなあ、実際戦う俺らよりがっちり防具してやがるし。ほら、あの前のほうのやつら」

 千武が指差す方向を見やると、確かに重装備な者が数人いる。あれだけ固めたらかえって動きにくくてまずいだろうに。

 ふと、一番前を歩く人物の頭が沈む。

 どうやら倒れたらしい。

「係長! どういうつもりだ!」

 前の方で怒声が飛ぶ。

 何が起こっているのかと黒羽は前をよく見ようとしたが、急に漓瑞に抱き寄せられて地面に倒された。

 伏せろという漓瑞と養父の声が耳に届いたかと思うと目の前に細い棒が降ってくる。

 矢だ。

 顔のすぐ横にある漓瑞の刻印が淡く光を宿したかと思うと落ち葉が溶けて水になった。

「もう、起きて大丈夫ですよ」

 自分の上に覆いかぶさっていた漓瑞が体を起こして黒羽もようやく立てた。

 水が天幕となって自分達を降り注ぐ矢から護っているが、何人か矢が当たったらしく倒れている。

 うめき声と滲む赤に黒羽は体を震わせた。

「なんだよ、こいつら」

 木々の合間から前のほうにいる数人と同じ武装した人間が沸きでてきて天幕の周りを取り囲む。殺気だった男達に黒羽はすぐ傍の漓瑞の袖を無意識に握った。

「ただちに魏遼の身柄をこちらに渡せ!」

 幕の中にいる重装備の男が叫んで、黒羽はびくりと肩をすくめる。

 その男の仲間と思われる他の三人も剣を抜き始めている。このまま闘うつもりか。

「これどれぐらいもちます?」 

 千武が背の槍を手に取って漓瑞に訊く。

「あと、ほんの少し。……大丈夫です、私達はあなたも魏遼将軍も護ります」

 漓瑞が震える黒羽の肩を抱いた。

 天幕内で監理局側十名と役所側が睨みあっているうちに幕はどんどん薄くなる。そしてついには弾けた。

 一気に人が押し寄せてくる。

 漓瑞がいつの間にか落としてしまっていた黒羽の木刀を拾い上げると、それは水に姿を変えた。

 ずるりとそれは伸びて襲いかかってくる者たちの武器を絡めとり飲み込んで水にしてしまう。

 だがその触手が届く距離は短く、周りにいる数名にしかなかなか届かない。

 前方ではすでに人々が入り乱れていて血飛沫が飛んでいる。

 皆、養父を護ろうと奮闘しているが、いかんせん多勢に無勢で苦戦している。側では漓瑞と千武も黒羽を庇いながら戦っていた。

 このまま、足手まといは嫌だ。

 黒羽はすでに漓瑞の腕にない冥炎を探して地面に視線を這わすが見つからない。

 仕方なく地面に転がっている誰のものともわからない刀を取る。冥炎は鞘をつけたままでも木刀より軽いのにその刀はやけに重たかった。

 まずは養父を縛っているものを解いてしまえばいい。そうすればこんな奴ら養父がどうにかしてくれる。

「黒羽さん!!」

 漓瑞の制止の声をなど聞かず黒羽は養父の元へと駆ける。

 その縛がそう容易く解けるものではないとも知らずに。

 刃が向かってくる。

 受けて、後方へ転がるように身を引いた。

 だが剣の重さに引きずられてまともな体勢を取れなかった。それでもやられてたまるものかとがむしゃらに剣を動かす。

 視界が赤く染まる。

 刃はちょうど襲撃者の防具の隙間を突いて腹を割いたのだ。

 降り注ぐ生暖かい血と目の前で事切れていく人間に、腰が抜けた。

「このガキっ!」

 新たな襲撃者が刀を黒羽の頭上に振り下ろそうとする。

 声を上げることはおろか、目を閉じることすら出来ない。

 ふと、時が止まった。違う、襲撃者が動きを止めたのだ。

 そのわき腹に深々と槍が突き刺さっている。

「嬢ちゃん、大丈夫か?」

 襲撃者を蹴り飛ばして槍を抜く千武の背後に敵が迫る。

 いまだに恐怖に言葉をなくしている黒羽は忠告の声を発することは出来なかった。

 千武が倒れる。

「やったぞ!」

 歓声に首を動かせば地面に臥す養父が見えた。

 黒羽は目の前に倒れる千武と、どうにか立ち上がろうとする養父をただただ交互に見るのを繰り返す。

 死んでしまう、二人とも。

 漓瑞がうねる水の縄を向ける。だがそれを放ったと同時に、彼は斬りつけられて縄は霧散した。

 顔を上げた養父の顔は今まで見たことないほどに焦燥に駆られている。

「親父っ!」

 魏遼めがけて落ちる刃に黒羽は立ち上がる。

 しかし、間に合うはずがなかった。

 地面に魏遼の首が転がり落ちる。

 それはとてもゆったりとした動きに見えた。

「全員殺してこいつがやったことにしておけ」

 養父の首を斬り落とした男が養父の首を抱えて背を向ける。 

「あああああ――――――っ!!」

 黒羽の喉から獣じみた咆哮が出た。

 剣を手に地を蹴る。

 向かい来る襲撃者らを切り払い、突き進む。だが途中で手にした刃が折れた。

 そして、足元にあったのは冥炎だった。

 黒羽はそれを拾い上げ抜刀せんとする。だが上から強く押しつけられる感覚に動きを止めた。

 本能が警鐘を鳴らす。

 抗いようのない力がすぐ傍にある。

「間にあわなんだか」

 頭上で楽の音かと思うほど美しい声がした。

 振り返れば切れ長の目の凄みのある美女が、忌々しげにつぶやきながら背後に立っていた。

 強い力は女の持つ緩く湾曲する分厚い刀身の背に龍をかたどった九つの輪がついている九環刀きゅうかんとうと呼ばれる大振りの刀から感じられる。

 冥炎を抜こうとする黒羽の手はいつの間にかその女にきつく握られていた。

「こらえよ。抜くでないぞ。さて、これはどういうことか説明してもらおうか」

 胸元に落ちたゆるやかにうねる漆黒の髪を背にはらい、女は首を持つ男を睨む。

「……総局長殿、見てのとおり魏遼将軍が抵抗しましたので仕留めたまでですよ」

 女の眼光に怯みながらも男は堂々と嘘をついた。

「拘束されてどう暴れるというのだ」

 黒羽が手を振り解いて、冥炎を抜かんとするより先に総局長が静かに言い放つ。

 男が舌打ちして周りの者達をけしかける。

「下がりゃ!」

 総局長が九環刀――神剣九龍くりゅうを怒声と共に地面に突き刺す。

 土埃が舞い圧倒的な力の波動は全てを震わす。木々も草も、空気も。人の心までも畏怖ですくみ上がらせるほどの力に襲撃者達が足を踏み出すことはなかった。

「貴様らなど一振りで十分ぞ。神剣、くろうてみるか? 嫌ならば首を置いて引け。話は後でさせてもらう」

 傲然と言葉を放つ総局長はすでにこの場においての絶対的な支配者だった。

 男が地面に首を投げ捨て、他の者を率いて山を下っていく。

 その姿が小さくなる頃、何もない場所に突然暗い穴が開いてそこからわらわらと人が出てきた。渡し人が道を繋げたのだ。

「親父……」

 黒羽は冥炎の柄から手を離して二つに別れた養父に駆け寄る。

 首を抱えると足の力が抜けて頭の中が真っ白になる。

 そして流れた血が漆黒に変わるまでずっとそうやって座り込んでいた。やがて両の肩に手を置かれて背後から抱きしめられた。

「……約束を守れず申し訳ありません」

 受けた傷の苦痛のためか震える声は漓瑞のものだった。

 黒羽はそれに無言で首を振る。

 あんたのせいじゃないよ。あたしが弱いから駄目だったんだ。

 そう言いたかったが、唇からこぼれおちてくるのは嗚咽ばかりだった。


***


 ゆっくりと黒羽は瞼を持ち上げる。

 目の前にある白い布の波が記憶と結びつかず、思考が止まった。

「ん……あぁ」

 数度瞬きをしたところでさっきまでいたのは夢の中で、ここは局員寮の自室だときづいて重たい体を起こした。

 頬が濡れるほどではないが涙は瞳を覆っていて視界が滲んでいる。

 奥深くへと沈んでいた記憶はここ最近の出来事で浮かび上がり、ついには昨夜の事件で夢に見るほどまでに這い出てきた。

 乱暴に手の甲で涙をぬぐった黒羽は、寝台から降りて机にある水差しをとる。そして湯飲みに水を注いで一気に飲み干した。生ぬるい水は夢の余韻のように重く鈍い。

 九年前、養父は暴動を計画した首謀者として監理局に任意同行を求められ、抵抗することなく従った。

 監理局と役所の間では彼の身柄をどちらが預かり裁くか後で協議することになっていた。だが、役所は監理局の意見を聞くつもりなどなかったのだ。

 監理局側は出動した十二名の局員のうち真っ先に殺された妖刀使いであった監理係の係長や千武など七名が死亡し、残った四人も前線に立って戦える常態まで回復したのは魔族である漓瑞だけだった。

 それでも麓にいた局員の魔族が異変に気づき、そしてたまたま局の視察に来ていた総局長が近くにいて渡し人によって現場近くに道を開くことが出来たのは不幸中の幸いと言えるだろう。

 おかげで少ない人数ながら助かり、養父に冤罪がかけられることもなかったのだから。

 それに、自分は生きて真相を知ることが出来た。あのまま意味もわからず殺されていたなら死んでも死にきれなかっただろう。

 黒羽は寝台に腰を下ろすが、またすぐに立ち上がった。

 気持ちが落ち着かない。

 惨劇の後に監理局は養父の首を刎ねた男に何らかの処罰を与えなければ、国事犯である魔族の身柄の引渡し要求を今後一切拒否するとした。

 しかしあの男は何の罰も与えられることもなく司法の頂点である刑部尚書の地位まで上り詰めてしまった。

 そして、その男を含め三人の高官が昨夜殺害された。

 全員首を切断されていて捕らえられた一人はその場で自害。他の仲間は刑部尚書の首を持って逃走したという。

「……っ」

 不意に人を斬った感触が腕に蘇ってきて黒羽はしゃがみこんだ。

 記憶の水に溺れる。どれだけもがいても息苦しさから開放されない。

 平常心がどこかへ消えうせそうになりながらも、どうにか目を閉じて数を一から順に数えて十に行き着いた頃に空気がちゃんと行き来を始めた。

「漓瑞……」

 気がつけば縋るようにその名を口にしていて、黒羽は顔を歪めた。


***


 最初に養父が死んだ日の夢を見たのは、監理局にきてひと月経った頃だった。

 毎日起きる度に、ここはどこだろうと考えるぐらいに養父がいなくなった実感を持てずにいた。それでも昼間は他の孤児と遊んだり、剣術の練習をしたりと楽しいこともたくさんあって、孤独感というのもそれほど感じなかった。

「親父……」

 しかし夢の中にあの日の光景が蘇って、夜中にひとり目覚めるとたまらなく寂しくなった。

 一緒に寝ているの孤児達数人の寝息が聞こえているのに、ひとりぼっちになってしまった気がした。

「……っ、ぐ」

 黒羽はぼたぼたと落ちてくる涙を拭い、他の子供を起こさないように嗚咽を我慢する。

 だけれど、堪えきれずに部屋の外へと飛び出す。

「親父……」

 月明かりすら届かない廊下は真っ暗で、記憶にこびりつく血生臭さに吐き気がするし、目を閉じても開けても養父の首が切り落とされる瞬間しか見えない。

 それと、人を斬った瞬間の感覚が重なって、まるで自分が養父を斬ったかにも思えてくる。

「ぅぐ、親父、親父……」

 もういない養父を求めて黒羽は立ち尽くして、涙声で養父を呼ぶ。だけれど答えてくれる声など、ありはしなかった。

 寂しくて、寂しくて、寒くもないのに暖かいものが欲しくてたまらなくなる。

「……あいつ、どこだろ」

 そしてふっと、養父の首を抱いていた自分を慰めるように抱きしめてくれた局員を思い出した。

 怪我は良くなったと翌日に一度だけ顔を見せてくれて、それからはもう会っていない。

 でも、この広い建物のどこかにいるはずだ。

 黒羽は泣きながら漓瑞を探すがどこに向かっていいかまるで分からない。

「あら、まあ、どうしたの。迷子になったの? 大丈夫よ、ほらもう大丈夫」

 迷っている間に見廻りの教務部の局員の女性が慌てた様子で駆け寄ってきて抱きしめて背を撫でてくれた。

 それで少しほっとしたが、でもやはり求めているのと少し違った。

「あいつ、どこにいるんだ? 漓瑞、どこ?」

「え、漓瑞さん? 大丈夫よ。元気にしているわ。ほら、一緒にいてあげるから部屋に戻りましょう」

 優しく諭す局員に黒羽は首を横に振る。

「漓瑞に会いたい。どこに行けば会えるんだ?」

「もう遅いし、魔族の方だからお仕事をしてるかもしれないわ。明日、連れて行ってあげるから今日はもう寝ましょう」

「いやだ。やだぁっ」

 黒羽はごねてまた、ぐずぐずと泣き始める。

 こんなに我が儘を言うのは初めてだった。だけれど、どうしてもまた漓瑞に会いたかった。今、抱きしめてもらっていても心はひとりぼっちのままで、寂しくてたまらない。

 ぐずっていると、局員の女性はため息をついて少し会うだけならと連れて行ってくれた。

 しかし仕事をしているらしい部屋にはおらず、私室で待機しているとのことだった。

 そして気を利かせた漓瑞の同僚である少女が、女性に変わって漓瑞の部屋まで案内してくれた。

「どうしたんですか?」

 まず部屋からでてきた漓瑞は、自分を見て目を丸くした。

「漓瑞さんを探して、泣いてあちこちふらふらしてたらしいんですよ。ちょっとだけ、一緒にいてあげてもらってもいいですかって、教務の方が」

「ええ。いいですよ。黒羽さん、久しぶりですね」

 少し屈んで目を合わせてくれてから、漓瑞が柔らかく微笑む。黒羽はこくりとうなずいて彼の袖を握る。

 それでやっと落ち着けると思ったが、すぐにまたひとりにされると思うと無性に心細くなって黒羽は部屋の中に駆け込んで、奥に見えていた寝台に潜り込んだ。

「……嫌な夢、見るんだ」

 それだけやっと言うと、漓瑞が近づいて来る足音がする。追い出されるかもしれないと、黒羽は頭から被っている上掛けをぎゅっと握りしめた。

「今夜は私が黒羽さんを預かります。申し訳ありませんが、教務部へ伝言お願いできますか?」

 そして漓瑞が同僚に向けて言うのを聞いて、黒羽は上掛けから顔を出す。涙に歪む視界で漓瑞を見ると、彼はそっと頭をなでてくれた。

 途端にまだ涙と嗚咽が溢れて止らなくなった。

「私はずっとここにいますから」

 そうして寝台に腰掛けてそう言う漓瑞は微笑んでいたが、瞳はとても悲しそうだった。だけれど、なおさらそれに安心する自分がいた。

 この人はなにも聞かないけれど、自分でもよく分からないこの苦しくて寂しい気持ちがなんだか知っている気がした。

 ひとりぼっちじゃない。

 そう思うと眠気が一気にやってきて、黒羽は目を閉じた。

 それから何度となく漓瑞の部屋を訪れるようになった。いつでも何も問わずに彼は自分を部屋に迎えてくれて、漓瑞の側がどこよりも安心できる場所になった。


***


「……もう、子供じゃねえんだからな」

 どうにか気持ちを抑えつけて、黒羽はつぶやく。

 あれからもう九年だ。夢に見る間隔が長くなった頃には、どうにかひとりでやりすごせることも多くなった。実際、五年ほど前からもうずっとひとりでいた。

 いつまでも甘えていてはいけないし、漓瑞に心配もさせたくない。

 黒羽はふらりと立ち上がる。

「天気、いいな」 

 ふと目を向けた組格子の窓の外には濃い青が広がっている。

 部屋にいてもただただ記憶の沼に沈むだけになるぐらいなら、外に出て見廻りでもしたほうがましだろう。

 そして黒羽は寝台の脇に立てかけられた冥炎を手にして部屋を出た。


***


 渡し人は一族同士で声を飛ばし瞬時に情報を伝達できる。

 昨夜のうちに起きた暴動もすぐに伝えられ、早朝には魔族監理課は緊急会議が開かれた。そして昼近い今はどの局員も慌しく動いている。

 ことは上手くいっているようだと廊下を歩く漓瑞は耳を澄まして局内で飛び交う情報を拾い集めながら胸を撫で下ろした。

 伯父の仇は討った。

 九年前、スリで捕縛された魔族から伯父の居所がわかったときに確かに焦りはしたもののそう大きな不安はなかった。監理局から抜け出す手立てがあったからだ。

 しかしいくら役所でもあれほどまでに卑劣なことをするとは想像もしなかった。

 監理局に刃を向けるなど女神への冒涜以外のなにものでもない。そもそもこの玉陽の土地は女神から受託されたものだというのにう。

「りすーい!」

 歯噛みしかけたとき、後ろから呼び止められて振り向くと早足でやってくる藍李が見えた。

「お疲れ様です。会議は終わったんですか?」

 内乱となれば監理局が魔族の監理義務を放棄することになる。

 監理局は暴動を魔族が起こそうとすれば止めるが、人間が関わって大きなものになればいっさいそこには介入しない。

 戦乱は世の常だ。世界に生きる以上魔族もまた関わる権利がある。人を超えた力を持つとはいえそれが戦闘に特化している者は少ない上に、総人口の一割もいないからこその放棄である。

 ただその基準は時によりけりなので、魔族監理課は今後どう対処するか緊急会議が開かれたのだ。

「うん。とりあえずは、ね。本局の指示が来るまでは暴動に加わる魔族の検挙は続けることになったわ。状況は前のときと似てるんだけど、どう考えたって兵力が足りないのよねえ」

 藍李が腕を組んで柳眉を寄せる。

 帝国内の統治不和と、南大陸の列強三国の連合軍と帝国が交戦するという噂が流れていることは今回も前回も同じである。

 だが以前の反乱の際に北大陸東部の安定のために援助をしてくれた近隣諸国は、今は帝国に呑まれてしまって敵に回ることはあっても味方にはついてくれないだろう。

「そうですね。帝国より先に砂巖さがんも出てくるでしょうし」

 南隣の大国、砂巖は今も昔も敵にまわっている。

 砂巖と玉陽に確執はなかったが、親交もなかった。

 一体帝国が保守的な砂巖を揺り動かすのになにを差し出したかはわからない。しかし以前の反乱の時砂巖は兵を差し向け帝国と共に玉陽を挟み撃ちにした。そして玉陽は降服せざるをえなかった。今もこの協定は生きているらしい。

 それから多少は締めつけが緩んだものの、時を経るほどに元に戻ってきてしまって今のレイザスの皇帝が即位してからはさらにきつくなっている。

 そのあげく敗戦の翌年、自分は正体のわからない病に倒れた。しかしもう寝台から起き上がることすら苦痛になった十五年前、救いの手は差し伸べられた。

 暗澹とした迷いと疑心の果てにわずかな光を求め、自分はその手をとった。

 そして、今がある。

「んー、やっぱり勝ち目もないわよね。それはそうと黒羽はどう?」

「まだ、今日は会っていません。そろそろ出勤しているころでしょう」

 この事態で黒羽には外出するなら室の誰かに声をかけてからふたりで行動することとの命令も出ているはずだ。

「あ、いたいた!」

 人の間をすり抜けて同僚のまだ若い女性局員がほっとしたような顔で駆けてきた。

「あの、黒羽先輩どこに行ったか知りませんか? 部長が呼んでるんですけ、ど」

 何も知らないといった顔をする漓瑞と藍李に局員の顔から血の気が引く。

「局にいないの?」

「受付の子が出て行くのは見たって言ってたんですけど、どこに行ったかはわからないんですよ。どうしよう、漓瑞さんなら知ってると思ったのに……」

「私が探しに行きます。大丈夫ですよ。目立つからすぐに見つかるでしょう」

 泣き出しそうな顔でうろたえ始めた同僚を宥めて漓瑞は局の出入り口に向かう。その胸にゆるやかに不安が渦巻いてきていた。

 黒羽はあまり物覚えが良くない方ではあるが、こんな重要事項を忘れることはない。

(どうして、私に一言もなく)

 漓瑞は身勝手な自分の思考に口を引き結んで、黒羽が最初に部屋を訪ねてきた時のことを思い起こす。

 黒羽が泣きはらした目で自分を見上げ袖を掴んできたとき、自分の感情が剥き出しになってそこにある気がした。

 唯一の皇家の生き残りとして泣き喚くことも、誰かに縋ることも自分はできなかった。

 部屋に招き入れたのは、行き場のない自分の感情の代わりを見つけて、自分自身を慰めるも同然だった。

 最初は確かにそれだけだった。しかし、黒羽が心に受けた傷に歪むことなく、明るく真っ直ぐに育っていくのを見守っている内に、彼女は自分の感情の代価ではなくなっていった。

(……もう、大丈夫だと思っていたのに)

 身長が追いつかれる頃には夜に訪ねてくることもなければ、落ち込んだ様子を見せる日もなかった。

 癒えることはなくとも、傷は傷跡へと変化しているものだと勝手に安心していた。

 今回も重要事項を忘れるほどまでに傷を深く抉ることはならないと過信していた。

(急がなければ)

 とにかく、これから起きることは黒羽の目には触れさせたくはない。

 漓瑞はただ一カ所を目指して足早に歩いた。

 

***


 空の一番高いところにかかる太陽は寝不足の頭には少々きついものがあった。

 黒羽はあくびをしながら城藍の市街をふらりと巡る。

 官吏三名の魔族による殺害は市中で話題に上っているが、今日の天気や店の繁盛具合を語る口調と何一つ変わらない。

 ほぼ同時刻に他の四州で役所や州長官の邸宅に火がつけられたことから、暴動が拡大しそうだと思われていることはほとんど伝わっていないのだろう。

「おにいちゃん!」

 ふいに下の方から声が聞こえる。なんとなくそちらを見ると、まだ五つかそこらの痩せた少女がじっと自分を見ていた。

「あたしに用か?」

 黒羽が屈むとその一人称に少女があ、とつぶやく。

「ごめんなさい、おねえちゃんだったんだ」

「間違えられるのは慣れてっから気にすんな。それよりなんだ?」

 落ち込む少女の頭をそっと撫でてやるとその表情から緊張が取れた。

「あっちで見せ物やるから呼んできてってお願いされたの」

 芸人が子供に呼び込みをさせることはよくあることだ。報酬は飴あたりだろうか。

 期待に満ちた瞳に黒羽がさして悩まずにうなずくと、ぱっと笑顔をみせた少女がこっちと黒羽の手を引いた。

「あ。やばい」

 少し歩いたところで黒羽は唐突に思い出した。

 うっかり誰にも行き先を告げずに冥炎を持って局を出てしまったことを。

 そして辺りを見回してみるが局員らしき人もなく、どうしようかと迷っているうちに結局城門までたどり着いてしまった。

「あいつ……?」

 人だかりの中央に据えられた卓子の隣に立つ頬がこけた初老の男には見覚えがあった。

 前の反乱で故郷と両親を失くし自分と同じく養父に拾われたという男だ。両の手でたるほどしか顔を見ていないが、言葉は多く交わしたのでよく覚えている。

「さあ、皆様は九年前のなんとも痛ましい出来事を覚えておいででしょうか!」

 ひきつれて狂気染みた声の呼びかけに観客が色めき立つ。

 間違いない。昨夜の件に彼は関わっている。

 取り押さえるにしても魔族ではないし、彼を役所に引き渡すのも躊躇われる。

 黒羽は己を抑えるよう冥炎の柄を握った。

「帝国はわれらから英雄を、希望を奪い取った!」

 ぎょろりとした濁った目で周囲を見渡しながら、男が箱の中から布に包まれた丸いものを取り出す。白い布には赤黒い染みが下のほうに広がっている。

 包みの中のものはおそらく持ち出された刑部尚書の首だ。

 黒羽は傍にいた少女の頭を片手で引き寄せ、視界を塞ぐ。

 もう片手は冥炎を握り締めたままで。

「これこそが大罪人だ!」

 布が解かれ、悲鳴が上がった。

 その瞬間、黒羽はそこに魏遼将軍――養父の顔を見た。

 だが現実にあるのは誰よりも憎んだ顔だった。

「将軍の復讐は果たした!」

 首が卓子に無造作に置かれる。

 伏せられることもないその目は虚ろに観客を眺めていた。

「お姉ちゃん、痛い。なに?」

 少女が呻いて黒羽は力を入れすぎた腕を緩める。

「見なくていいもんだ」

 言いながら、黒羽は首から目が離せなかった。今あるこの感情は何と呼ぶものだろうか。暗く淀みながらも甘い蜜を潜ませているこの、感情は。

「黒羽」

 耳覚えのある声。

 ゆるりと黒羽は背後に首をめぐらす。

 そこには女がいた。その左の手の甲には刻印があり、中指の先がない。

柳沙りゅうさ……」

 黒羽は苦々しく言う。

 こんな状況で再会したくなかった。

「話があるの、来て」

 記憶にある頃には見上げていたその顔は頭一つ分下にあって、その縋ってくる瞳に黒羽は首を横には振れなかった。

 騒ぎが大きくなり、衛士らが駆けつけてくる。

 首がもう見えないことを確認して黒羽は少女を解放した。

「悪かったな。今日のことは忘れとけ」

 怯えきった顔で一度だけうなずき少女が駆け去るのを見届け、黒羽は騒ぎの中心に目をやる。

「あいつはどうすんだ」

 答える代わりに柳沙が黒羽の腕を引いた。男のいる場所と真逆へと。

「我等は必ず国を取り戻す!」

 背を向けた場所から聞こえてきたその声は天を突いた。

 黒羽は弾かれたように振り返る。

 そこには地面に倒れこむ男の姿があった。その背には赤い色の散った銀が見えた。

 自刃したのだとわかったと同時に黒羽は吐き出しかけた悪態を歯噛みして潰した。

「もう、長くなかったの。あの子の最期の望みよ。……行こう」

 言いながら黒羽の腕を引く柳沙の力は魔族だけあって華奢な腕からは想像がつかないほど強い。

 黒羽はその手を振り払って渋面で狭い路地を顎で示す。

 あそこなら人通りはないだろう。

「本当に、大きくなったわね。何度か見かけてたけど、声かけてあげられなくてごめんね」

 先程までの血生臭い出来事など忘れたかのように柳沙は穏やかに微笑んだ。

 よく優しく髪を梳いてくれていたあの頃のままだ。何一つ変わらない。

「今、何やってんだ?」

「新政府の発足よ。国主を置かずに各州の州長官を民衆から選んで一定年数ごとにその中から国の代表を順番にやる。ほら、監理局と同じことよ」

 ではそれを成すために帝国が構成した今の政府はどうする。

 武力をもっての排除。それしか黒羽は思いつかなかった。

 そして、それは間違いないらしい。

「だからね、協力して」

 柳沙の視線の先には冥炎がある。

「言っとくけど、こいつはお前らのためには使わねえぞ」

 養父が残してくれた唯一のものだった剣術と冥炎を捨てずにいられる場所として、監理局を選んだのだ。

 もう二度と誰かの命を奪うために剣を振るうつもりはない。復讐に誘われるものはあるがそこに光は見えないのだ。

「お願い。勝つためにはそれが必要なのよ」

 必死にすがってくる柳沙に強い意志をもって黒羽は答える。

「出来ない。赤ん坊を攫ってたのはお前らか? 何のためにやってる」

 問いかけに柳沙の表情が強張る。

「だったらあたしを捕縛するの?」

「頼むからこれ以上罪を重ねるな。先に役所に捕まったらどうなるかわかってんだろ」

 悲痛な声で言って黒羽は柳沙の両肩を掴む。

 監理局は魔族を死刑とすることはない。だが、政府は違う。嘘を並べ立てて仕方なかったと始末することもありうる。

「それでも、やらなきゃいけないの!」

 痛いほどにその必死さは感情に響いてくるが、自分は協力は出来ない。

 どうすればうまく説得できる。

 自分の機転の利かなさに黒羽は苛立つ。

「こんなところで何をされているんですか?」

 ふと、後ろから耳馴染んだ声がした。

「漓瑞……? あ、おい、柳沙!」

 黒羽がそう言っているうちに柳沙は反対側に駆け出していた。

 その後姿が見えたのはほんの一瞬だった。

「逃げられましたね。局に報告はしますか?」

 黙しておきたいなら見逃すと漓瑞の目は言っている。

「……赤ん坊のことがあるから言わなきゃなんねえな。え、とお前は探しにきた……んだよな」

 漓瑞がため息のあとで口元を引き結んだので黒羽は身を竦めた。

 説教が来ると思ったのだ。

「……まだ、夢は見るんですか?」

 しかしかえってきたのは悲しそうな顔だった。答えを迷いながらも嘘をつくことは出来ずに黒羽が首を縦に振ると、漓瑞は小さくごめんなさいとつぶやいた。

 彼の謝罪の意味はわからず、言いようのない不安と悲しみがない交ぜになった感情が胸に染み渡っただけだった。

 

***


 局舎の二階にある資料室の奥まった場所に藍李がいた。

 中央の閲覧所から持ってきたらしき椅子に腰かけた彼女は尚燕が近づいても手元の本から目を離そうとはしなかった。

「黒羽君戻ったってさ」

 声をかけても顔を上げる気配はない。

「そう。漓瑞は関係ないみたいだし心配することはないんじゃない?」

「でも巻き込む気に見えるけどね」

「それなんかひっかかるのよね。監理局を混乱させたいにしても中途半端だし、目をつけられる危険のほうが高いでしょ。ほんとわかんないわねえ」

 藍李が床に置いていた書物を拾い上げる。数年分の妖魔発生数と時事のまとめだ。

 それならば自分も何度も目を通している。

「なんか面白い発見あった?」

「ないわね。ひっかかりは師範と一緒。ここ二年の間の暴動件数は三年前の半分に近いけど妖魔は少しだけ増えてることだけよ」

 不満げな顔で藍李が膝に資料を置いて上体を反らす。

「で、君は黒だと思う?」

 尚燕は埃をかぶった史書の並ぶ書棚にもたれかかり、上から藍李の顔を覗き込む。

 無感情な皮膜をかぶった褐色の瞳の奥では、きっといろいろな想いが煩雑に絡み合っているのだろう。

「……黒なんだろうけど、どこまで通じてるかよ。下手に動くと余計にややこしくなりそうだから動向を静観したほうがいいかしら? 向こうには連絡してるわよね」

「抜かりないよ。黒羽君はどうする?」

 いまはさして気にかけるほどのことはないと思うが、念には念を押しておいたほうがいいかもしれない。

「部長のことだから謹慎は出さないだろうけど……とにかく出来るだけ漓瑞と一緒にいるようにしといてもらえる? うちの課長がいろいろ言いそうだけどあしらっといてね」

「もちろん。でも歯止めになるかな?」

「多少はなるんじゃないの…………」

 足音が聞こえ、藍李が口を噤む。

 尚燕がなにか別の話題を出そうとしたが、その前に資料室の担当の女性がこちらまで来てしまった。

「あ、すいません。特に用ってわけじゃないんですけど、え、と。椅子はもとにもどしておいてくださいね。お、お邪魔しましたー」

 なんとも不自然な抑揚でそれだけ言って女性はさっさと出ていてしまった。

「……酷いわ。私そこまで男の趣味悪くないのに」

 嫌がらせじみた軽口に尚燕はわざとらしく肩を落としてみせる。

「そんなにいや?」

「当たり前じゃない」

 答える藍李の表情は至極真面目なものだった。




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