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女神の玉座  作者: 天海りく
双つの蒼炎
27/67

四ー2

 

***


 いったいどこまで連れて行く気なのだろうか。

 漓瑞は前後を男達に挟まれて暗い廊下を延々と歩き続けていた。

 最初の回廊や組格子の窓が絵画のように飾られている廊下は明るく風通しもよかった。しかし奥へ進むにつれて薄暗く空気が澱んでくる。

 どこか喉に手をかけられている息苦しさがたまらなく煩わしくなった頃、一枚の重たげな扉が前に立ち塞がり案内人の男がそれを開ける。

「先王陛下、連れて参りました」

 男達が声をかけた後に漓瑞ひとりを残して扉を閉める。

 部屋も薄暗く、慎重に足を進めると几帳があってそこをくぐると寝台がひとつあった。その上にはか細い呼吸をする老人が横たわっている。

 頬がそげ落ちるほどに痩せこけ、皮膚も見るからに硬く干からびていて、頭髪も白く薄いものがはらはらとあるだけのみすぼらしい老人。

 これが先の砂巌国王。玉陽への進軍の決定を下した男。胸の奥で燻っていた憎悪がゆるやかに熱を持っていく。

 砂巌の出兵で最初に起こした反乱は敗戦に終わった。多くの臣民の命と希望が失われてしまったのだ。

 あの時の悔しさと悲しみは、国を取り戻した今でも心に刻み込まれている。

 漓瑞は硬い表情で寝台の側まで寄って彼の顔を覗き込む。

 生きているのかどうかも怪しいほどに先王の表情は虚ろだった。しかし漓瑞の姿を認めるとおお、と掠れた声を喉から出した。

「東の、要の女神の末裔。玉陽の王……」

 途切れ途切れの言葉はかろうじて意味をなしていた。

「……あなたはなぜそれを知っているのですか」

 抑揚なく漓瑞は問いかける。

 驚きと怒りと憎しみと感情は交じり合ったが、それをぶつけるべき相手は、老いさらばえたひとりの老人でひどく気持ちが冷めた。

 こんな老いぼれひとりどうこうしても、なにひとつ気が晴れない。

「知っている。我らの王たる神は、要の女神に討ち滅ぼされた。……その苦しみ、怒りは国を押しつぶさんばかりの瘴気となっている! 復讐を果たさねば、果たさねば」

 虚ろだった目が爛々と光を宿し、枯れ木に似た腕が喉元に向かってくる。しかし届くはずもなく、その今にも腐り崩れ落ちそうな腕は宙をひっかくばかりだ。

 もがき苦しんでいるのか、嘆いているのか、嗚咽に似た荒い息をする老人を漓瑞は嫌悪の目で見る。

 醜悪以外のなにものでもない。

「復讐とはどういうことですか」

 しかし目の前の老人と自分が抱えているものが同じであることに、何よりも怖気を感じた。

 彼は自分だ。

 先王は視線をまた宙に彷徨わせ、顔を歪めてああ、と呻く。

「鎮めが失われる。この国も終わりだがお前達も終わりだ。神の怒りはもう誰にも抑えられん」

 先王がこふりと口の端から泡を吹く。

「終わりが来る、終わりが来るぞ!!」

 そして自分の胸をかきむしりながら、眼球を血走らせて絶望とも歓喜ともとれる声をあげた。

「終わり? 一体何が……。待ちなさい! まだ」

 漓瑞は先王の顔を覗き込んで歯噛みする。

 眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、苦痛の表情のまま先王は息絶えていた。

 あまりにも呆気ない終わりだった。まだ聞くべきことも言うべきこともあるというのに、彼は勝手に逝ってしまった。

 ふっと胸を穿つ空虚感に、感情も思考も消え去る。

 だが、それは一瞬のことだった。

「……誰か、こちらへ。お亡くなりになりました」

 我を取り戻した漓瑞は几帳の向こうへ静かに声を投げる。ほどなくして控えていた者達が顔を白くしてやってくる。

 そして彼らの疑惑の視線が向けられて、漓瑞は微かに眉を動かす。

 よもやこのいつ死んでもおかしくない状態の老人を、自分が殺したとでも彼らは思っているのか。

「……私はもう下がらせていただきます」

 厳かに告げると、男達が道を塞ぐように前に立ち塞がった

「先王陛下に何をなさいました」

 なんという短絡思考だろうかと、漓瑞はほとほとあきれ果てて彼らを見る。

「何もしていません。天寿をまっとうされたのでしょう」

 冷静に対応しても男達は疑り深い目で見てくるばかりだった。

 さてどうしたものかと男達と睨み合っていると、また新たな入室者があった。

「父上! なんという勝手なことを……」

 飛び込んできたのは現国王らしかった。彼は寝台の上で微動だにしない父を見つけその場で硬直する。

「……お前達、父上の葬儀の準備を始めろ。ご迷惑をおかけしました。こちらへどうぞ」

 国王はすぐに冷静な態度を取り戻したかと思うと、男達を下がらせて漓瑞を外へと誘う。彼の数歩後ろには黒峰の姿も見えた。

「伯父上……」

「黒峰、もういい。我々がこれ以上隠していても無駄だ。近いうちに、この国は滅びる」

 戸惑う黒峰に、国王がもはや何もかも諦めきった顔で首を横に振る。

「一体、あなた方は何を隠しているのですか?」

 漓瑞の問いかけに彼らは立ち止まり、近くの部屋に彼を案内した。長椅子に腰を下ろすと、国王はしばらくじっと黙っていた。

「何から、何から説明すれば良いのか。玉陽の皇子殿下、あなたはかつてこの世界に神が複数いたことを知っていますか?」

「ええ。それは、ごく最近ですが知りました。あなた方は一体いつから知っていたのですか?」

 先王の話といい、国王といい監理局ですら知らないことを知っていることが不可解だった。

「ずっとです。我々は先祖代々、玉陽の女神に滅ぼされた我らが神を鎮めるために存在しているのです」

 また国王が言葉に詰まって、漓瑞はもどかしく先を急かしそうになるのを抑えて彼が全てを語るのをじっと待つ。

「突如玉陽の女神に攻め込まれ、我らの神―壕龍ごうりゅう様と彼の神にお仕えする他の神々は滅ぼされてしまったということです。しかし壕龍様や他の神々の憎悪ははすさまじく、この国は瘴気に毒されていきました。そして玉陽の女神はこの国を囲む防壁を作り、隔離したのです」

 砂巌を囲む防壁がまさか自国のものだったのかと漓瑞は驚くと同時に、瘴気の溜まり場にあった離宮の壁一面の呪詛を思い起こす。

 そうしてタナトムの女神の怒りも。

「玉陽に出兵したのも、その頃の遺恨からですか。それに、私の存在を知っていたのはなぜでしょう?」

 漓瑞は硬い表情で問う。祖先のなした行為が自分達の代にかえってきたのなら、この恨みと憎しみはどこへ向ければいいというのだろう。

「……ええ。先王陛下がお決めになりました。先代に神を鎮める役目を担っていた叔母が少しでも我らの神の慰めになるようにと。先日の件も民を死なせることは止めたのですが、父はまだ亡くなられた叔母の言葉を引きずっていて。あなた様のことは、叔母から神を通じ名を知っていました。……申し訳ありません」

 国王が苦々しく答えて、漓瑞は私情を閉じる。

 もう、感情のぶつけ先はどこにもないのだ。未だに胸にわだかまる思いは過去のものとしてしまうより他ない。

「……なぜ、あなた方一族が鎮めに選ばれ、そして鎮めの役目を担う者は旧い神と会話ができるのですか?」

 そうして漓瑞は自分の今の役割を全うすることに気持ちを切り替えた。

「元より私の祖先は神にお仕えしていました。人でありながら、神の気を分け与えられていたのです。特に女が強く浄化の力を持つのです。そして一族のひとりの少女がこの王宮にて神の産む瘴気を浄化する役目を負いました。時々、彼女らは神の怨嗟を聞くこともありました。やがて、我々の一族は体面上国王となったのです。しかし、浄化にも限度がありました。そこへ監理局の方がやってきたのです。旧き神を捨て、自分達の神に従えば力を貸そうと」

「監理局が、ですか」

 アデルの言うには数多の神々から個々の名をとり、神を全て『女神』として単一化したのは監理局だという。

 しかし実際、多重構造だった世界をひとつに整えたのは現在の『女神』とされる神だ。

 監理局はこの『女神』の意志に従って動いていたのか。神の単一化には自分の祖先も関わっている。

 『女神』に従った神と、人。そうして封じられ、滅ぼされた神々。

 三百年もの長い歴史の空白に一体何が起っていたのか。

「ええ。ですが、私達は旧き神を捨てられませんでした。荒神となったとしても、我々にとっては唯一の主神だったのです。そして鎮めの役目も秘匿し、ひっそりと信仰を続けていました」

 その時に王宮の三分の二を監理局へ譲渡した、ということになっているらしい。

「だから、霊力を持つ子供も少なく、神もほとんどが滅んでしまって魔族が少ないのですね……」

 未だにこの国は旧世界に近い存在なのかもしれない。

 グリフィスの使う『道』も旧世界のものであるから、扉があちこちにあるのも不思議ではない。それに、この国以外の者と婚姻を結んでも子を授かりにくいのも、現行世界と旧世界の違いと考えることができる。

 漓瑞は考えを巡らせしかし、と思う。

「監理局はこの現状を不審に思わなかったのですか?」

 神が統合されていくのを知っていた当時の監理局なら、女神の加護である霊力を持つ子供が少ないことで何か勘づきそうなものだが。

「分かりません。監理局をここに置ければそれでよかったのやもしれません」

 砂巌側にも記録が残っていないのだとしたら、本局側にも記録はないのかもしれない。

「そうですか。そして、今、鎮めの役割を担っているのが紅春公主なのですね。結局、白春公主は存在するのですか?」

 漓瑞が問いかけると、国王と黒峰が顔を見合わせて悩む素振りを見せる。

「……白春は存在します」

 先に口を開いたのは黒峰だった。彼はそのまま青ざめた顔で話し始める。

「ですが、彼女は紅春の双子の妹などではありません。ある日突然現れたのです。紅春が三のつ時です。私は紅春と一緒に遊んでいました。柱の陰に隠れる紅春を追い駆けていると、途中で何かがおかしいことに気付きました。さっきまで右の柱にいたのに、次は左の柱の陰にいるんです。そしてついに、左右両方の柱の影から同時に、紅春が現れたんです。彼女はふたりになっていたんです……」

 その時のことをまざまざと思い出してか、黒峰が唇を震わせる。

 漓瑞もまた彼の見た光景を想像して寒気が走った。

 薄暗い柱廊で駆け回る少女。右の柱に隠れ、左の柱から顔を覗かせ、追う者を惑乱させる。

 そして、そんなことがあるはずがないとひとつの可能性を振り払う者の前に、並んで現れるまるきり同じ姿の少女。

 彼女らは黒峰の恐怖と驚愕に満ちた顔を、無邪気に笑って見ている。

「……なぜそんなことが起ったのですか」

 漓瑞の感情を押し殺した声に、暗い表情で国王が首を横に振る。

「分かりません。実のところ、どちらが増えた『紅春』かの見分けもつきませんでした。名を呼んでもふたりとも返事をするんです。最終的に妻が確かに自分の娘だと選んだ方を紅春、もうひとりを白春と呼ぶことになったのです」

「その白春公主はなぜいなくなったのは、紅春公主がまたひとりに戻ったということなのですか?」

 びくりと黒峰の肩が揺れる。彼はそのまま膝の上に置いていた拳をきつく握りしめる。

「きっと、私の、私のせいです。紅春と白春は成長するにつれて、性格に差異がでてきていました。紅春はあのとおりいくつになっても幼いままでしたが、白春はずいぶん落ち着いて大人びた気性でした。私は紅春と婚約していましたが、白春へと心惹かれてしまったのです」

 黒峰が自分を責めるように、頭を抱えてうつむいた。

「婚儀が近づいて来て抑えきれず、白春に想いを打ち明けてしまったのです。紅春とでなく、白春と華燭の典をあげたいと。それを紅春に聞かれてしまいました。彼女はとても傷ついた顔をして、白春がそれを追い駆けて行って……白春を見たのはそれが最後です。その日を境に姿を消してしまったのです。そして、紅春も後で自室で倒れているのが見つかりました、私のせいなんです、きっと私の……」

 自責に駆られすすり泣きを始めた黒峰の肩を国王が抱く。彼らの姿は本当の親子のようでもあった。

「私も、もはや娘は最初から双子だったのだと思うほどに、白春の存在を受け入れていました。いなくなって改めてそのことを実感しましました……早く、黒峰の想いに気付いてやれていればと思います」

 穏やかで優しげな王の人柄に、漓瑞は自分の父を思い起こして目を伏せる。

「……紅春公主の体調不良もその日からなのですか?」

「ええ。その日からろくに食事も取れず、徐々に衰弱していっています……」

 娘をひとり失い、またもうひとりを失いかけている父親の悲しみが声に染み渡っていた。

「……あなた方は、先祖より伝えられる特殊な通路をお持ちですか? 先日、紅春公主と私達が会ったのは、瘴気の溜まり場でした」

「いいえ……。娘達は時々、姿を見せなくなることはありましたが王宮のどこかに隠れているものと」

 国王と黒峰との表情は嘘を吐いているとは見えず、漓瑞は考え込む。

 娘達、ということは紅春と白春のふたり共、何らかの移動手段を持っているということになる。結局は本人から聞くしかない。

「しかし、鎮めが失われれば、今以上に瘴気が噴出するということなのですね……」

 これ以上の瘴気となると、もはや監理局であっても抑えきれないだろう。妖魔が人を襲い、そして人々の混乱と恐怖に新たな瘴気が産まれ、負の連鎖は止められない。

 自分の祖先たる女神もおそらく壕龍を完全に滅することもできなかった。はたして砂巌と玉陽を隔てる防壁に、全ての瘴気を封じ込めておける力があるのか。

 漓瑞は最悪の事態を想定して口を引き結ぶ。

「鎮めというのは本当に、紅春公主ひとりなのですか?」

「ええ。だから我々はもう滅びを待つのみです」

 国王がすでに諦観した様子でうなずく。

「全てお話しいただき、ありがとうございます。私と共に来た局員の黒羽さんが紅春公主と会っているはずですので、同席させていただきます」

 後は本人に聞くしかないと漓瑞は席を立つ。

 伯父と甥はふたりともすでに憔悴した様子でうつむいていたが、国王の方がふらりと立ち上がった。

「黒峰、我々も先王陛下の弔いの準備を。漓瑞殿下、案内をつけますので」

「……我が皇家おうけはすでに滅びました。私はただの監理局員ですので、殿下というのはおやめください」

 漓瑞と国王は複雑に入り交じる感情を湛える瞳で見つめ合い、どちらともなく頭を下げてその場で別れた。

(私は、もう玉陽には帰らない……)

 近いはずの故国は遠い。自分自身で決めたことなのに、今頃になって感傷に浸ってしまう。

 しかし、今、また玉陽も新たな危機に貧している。帰れずとも、自分にはまだ成さなければならない。

(これは、私が国のために最後にすべき始末かもしれない)

 かつて祖先が攻め滅ぼした者の怨嗟が玉陽に流れ込むことだけはしてはならない。

 漓瑞は決意を固め、全てを知っているだろう紅春の部屋へと急いだ。

 

***


「じゃあ、このままだと瘴気で妖魔が大量に出てくるってことか」

 黒羽は紅春から王家の役目と、瘴気の発生原因を聞いておののいた。

「ええ。わたくしはもう、死んでしまうの。だから、誰も神の怒りを止められない。どんな風にこの国は壊れていくのかしら」

 紅春が無邪気で楽しげな笑い声をあげる。

「紅春、お前……なんでだ。お前の故郷も、家族も大事な人も全部なくなっちまうんだぞ!」

 理解出来なかった。産まれ育った家が、景色が、大切な誰かが消えてしまうのに、こんなにも楽しそうに紅春が分からない。

「なあ、そんなの嫌だろ」

 紅春の寝台に腰掛ける黒羽はすぐ側にいる紅春の手を握り、大切なものが失われることがどれだけ辛いか懸命に訴える。

「だってそれが神のご意志ですもの。全てを破壊し尽くしてまわないと。黒羽様、あなたはどうしてそんな悲しそうな顔をなさるの?」

 紅春があどけない仕草で黒羽の頬に片手を当てて首を傾ける。

「お前にとって親父もおふくろも、従兄も大事じゃねえのか?」

「……好きよ。父様も、母様も。黒峰、兄様は……兄様は」

 紅春が唇をわななかせたあと、瞳を大きく見開いて凍り付く。そしてよろけたかとおもうと、黒羽の胸ね倒れ込んだ。

「紅春!? 大丈夫か、紅春」

 無理をさせたのかと黒羽は狼狽して彼女に声をかける。そうすると紅春は体を震わせて、狂ったように笑い出した。

「わたくし、兄様のこと好きだったと思っていたけど、違ったのよね。わたくしがずっと待っていたのはあなただったのだわ」

 顔を上げた紅春が恍惚とした表情で黒羽に魅入る。

「こう、しゅん……?」

 きつく腕を握られて黒羽は紅春の異様さに動揺しながらも。彼女の火が灯った瞳から目をそらせない。

「ああ、そうだわ。あなたは破壊そのものだわ。とても、素敵。その剣で何もかも壊してしまう」

 紅春の手が黒羽の腕を滑りやせ細った指先が冥炎の柄へと触れる。

 その瞬間、タナトムの聖地で戦闘中に覚えた破壊衝動を鮮明に思い出して、黒羽はついに動けなくなった。

 その間にも紅春は艶然とした顔をそっと寄せてくる。

「失礼します」

 唇が触れ合うか否かの瞬間、漓瑞が部屋へと入ってきて紅春が黒羽から離れる。黒羽もまた、馴染んだ存在に安堵の息をついた。

「漓瑞、大丈夫だったか」

「ええ。しかし、先王陛下は先ほど亡くなりました。もう、ずいぶん体調が良くなかったようなので……」

「寿命、か」

 黒羽はつぶやきながら、紅春の様子を窺う。親族が没したというのに、驚きもせず彼女の表情は平静なままだった。

「お爺様は、やっと安らかな眠りにつけたのですね。あまりにも鎮めから伝え聞く神の言葉に、同調されすぎていらっしゃった」

 紅春はどこか安堵した表情で胸を撫で下ろす。病に苦しむ身内が苦痛から解放されたことに対する、ごく普通の様子で黒羽はほんの少しほっとした。

「……そうだ。漓瑞、このままだと今より瘴気が吹き出すって」

「黒羽さんも紅春公主から聞きましたか。紅春公主、あなたに聞きたいことがあってきました。白春公主は、どへ行ったのですか? 最後に一緒にいたのはあなたですよね。監理局の本局で黒羽さんに接触したのは、あなたと白春公主、どちらなのですか?」

 漓瑞の質問に黒羽もどういうことか聞きたかったが、こらえて紅春の返答を待つ。

「そうだったの、白春が黒羽様を連れて来たのね! ああ、やっぱりわたくしなんだわ。白春はわたくしなの」

 紅春が嬉しそうにはしゃいぎながら、はらはらと涙をこぼす。

 あまりにも感情の揺れが激しすぎる彼女を、黒羽と漓瑞は見ていることしかできなかった。

「よかった。わたくしなのよ。白春なんていなかった。わたくしとあの子で紅春なのよ……」

 そして今度こそ本当に紅春は倒れてしまった。

「紅春!?」

 黒羽は慌てて状態を確かめて、紅春が眠りについてしまっていることに気づき戸惑う。

「とにかく、侍医と女官を……」

 漓瑞が先に動いて女官達を呼びに行く。

「一体、お前はなんだっていうんだよ……」

 残された黒羽は紅春の寝顔を見つめ、頬をまだ濡らしている涙を拭って途方にくれるのだった。


***


 黒羽達が王宮に招かれたその夜。

 砂巌の現状や砂巌王家の秘密、本局に現れたのがおそらく白春だということなどが認められた書簡が藍李の元に届いていた。

 執務室で全てに目を通した藍李は、くしゃりと自分の髪を握ってうつむき考え込む。

「どうすればいいのよ……」

 このまま瘴気が吹き出してしまえば手の施しようがない。漓瑞なら神の封印ができるかと思ったが、要の女神すら防壁を作るだけが精一杯だったとなると期待はできない。

 砂巌の国民全員を国外へ出すのも到底無理な話だ。

「防壁が使えるなら、砂巌を切り捨てて……」

 藍李は思考を口に出して首を横に振る。

 百人を確実に救うためにひとりを犠牲にしろと言われれば、自分は躊躇わない。だがこれがひとりを犠牲にして、百人が潰えるのを少し先延ばしにするだけというのなら無意味だ。

「……師範?」

 ふと人の気配がして藍李は顔を上げる。呼びつけていた尚燕かと思ったが違った。

 目の前に長椅子の上に、少女が座っていた。東風の衣装で十五前後の長い黒髪の彼女は、本局で目撃された幽霊そのものだった。

「白春、公主」

 藍李は側にたてかけてある九竜の柄を握り、警戒心と共に立ち上がる。

「ええ。初めまして、藍李様。わたくしは砂巌公主、白春です。とはいえ、この名前は両親が後からつけたもので、本当の名は紅春ですけれど……」

 悪戯でもしかけているような笑みを白春が浮かべて藍李を真っ直ぐに見る。

「あなたはいったいなんなの」

 人の気配はするのに、彼女はどこか異質だった。じんわりと嫌な汗が滲んできて、藍李は一歩後退る。

「わたくしは紅春だったもの。永い時をかけて神の瘴気を受け続けてもはや人でも神でもなくなってしまった不純物。だから、紅春と分離してしまった」

 だからと言われていきなり人が分離するなど、そう簡単に納得はいかなかった。

「……分離して、あなたはまた消えたのはなぜ」

 しかしいつまでも現実を拒否しても仕方ないと、藍李は話を前へ進める。

「わたくしは死んでしまったの。肉体は塵となって消えたわ。だけれど半身である紅春が生きているから、魂は半端に消えずに残っている。でも、肉体の半分を失って紅春も魂が疲弊していて、もう長くない」

「ちょっと、それじゃあ本当に幽霊だっていうの」

 白春は見かけだけは生きた人間にしか見えなかった。

「そうね。ほら揺らいでいる」

 白春が片手を差し出して自分の手を差し出すと、彼女の手はまるで絵の具が水に溶けるように、薄くなって滲んでいく。

 藍李は息を呑んでその様子を凝視する。

「……なぜ、あなたは死んだの」

「さあ。気がついたら、死んでいたわ……」

 ふっと、白春が視線をそらして言う。彼女は意図的に隠したかに見えた。

 藍李は訝しげに彼女を見ながら、九竜から手を離して腕組みする。

「それで、なぜ私の前に現れたのかしら。こんなまどろっこしいことしなくてもよかったんじゃないかしら」

 最初に白春が本局に姿を見せて二十日以上が経っている。これほど容易く姿を見せられるなら、さっさとくればいいものを。

「ええ。わたくし、死んだばかりの頃は何がどうなっているか分からなくて。その内に思い出したの。何を成すべきか。あなた方は自らの身で知らなければならない。己らが何をしてきたのか」

「……監理局が一体何をしたというの」

「世界を歪めた。あなたが正しいと思っているものは過ちでしかない」

 白春が朗々と告げる言葉への反論はすぐにでてこなかった。

 監理局創設に関わった神剣の血族である九竜の屋敷にあった、空白の期間のものと思われる記録。後ろめたい何かを隠すように、文面の一部が黒く文字が塗りつぶされていた。

 三百年の長い時の記録を全て消してしまいきれなかったというより、罪悪感から消せずにいた風にも思えた。

「…………私がこの世界の現状を維持すること自体、間違いだっていうの。このまま瘴気が全て噴きだしたら、人間なんて簡単に滅びるわ」

 だけれど、この先に起こりうることを考えれば自分のやっていることが過ちだと認めらられない。

 そうして。

 脳裏で虹色の貴石が煌めく。

(私は導になるの。私が迷ったらあの馬鹿まで迷うのよ)

 一度目を閉じて、藍李は九竜をきつく握る。

「白春公主、あなたが言っていることって、私の大っ嫌いな奴と一緒ね」

 そうだ。彼女の言いぐさはアデルとまるきり同じだ。

 ぐらつきかけていた心はひとりへの敵意に支えられて、落ち着きを取り戻す。

「それ、彼のこと? アデル。わたくしと同じ役目を負ったひと」

 白春が静かに告げて小首を傾げた。

「そう。何もかもアデルの仕組んだことなの。あなた、もしかしてアデルにいい様に言い含められて殺されたの……?」

 アデルが白春を拐かし余計なことを吹き込んで、死へ追いやったのではと藍李は疑る。

 しかし白春はきょとんとした後に、顔を逸らして笑い声をあげた。

「違う。あなたは何も分かっていない。わたくしはもちろん、彼もまた世界の歪みが限度に達したからこそ、存在しているのよ。わたくし達は神に選ばれて、世界を正すために生まれ落ちた者なの」

 言いながら白春がその姿を揺らめかせる。

「ちょっと、待ちなさい! まだ聞きたいことがこっちは山ほどあるの!」

 こんな訳が分からないまま逃げられてたまるものか。

 藍李は九竜を握ったまま白春に詰め寄ろうとする。

「わたくしはもう、消える命運。ああ、ひとつだけいいことを教えてあげる。砂巌は神の怒りに押し流されることはないでしょう。ただ、監理局はどうなるかは知らないけれど」

 ふふっと不吉な笑みを残して白春の姿が消え去る。

 藍李は彼女が確かにいたはずの場所に立つが、まるでそこに誰かがいたという痕跡はなかった。

 ともすれば、自分がまるで白昼夢でもみていた気分にすらなる。

「ああ、もうっ!」

 藍李は側の長机をひっぱたたいて八つ当たりし、その場にへたり込む。

 しかしすぐに気を取り直して、執務机に戻り眉間に深い皺を刻んだまますぐにその場から動きはじめた。


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