三
黒羽と漓瑞が王宮に紅春を送り届けた頃、本局では週に一度の本局東部局議会が行われた。
東部総局長である藍李をはじめ分家の各当主、本局内で東部局員となっている課長以上の役職に就いている局員が集められていた。
とどこおりなく議会は進んで終盤にさしかかり、緊張も緩んでいる頃にそういえばと東書庫課長が声をひそめる。
「うちの部下達が幽霊を見たって言うんですよ。東風の衣装の黒髪の女の子」
「ああ、うちの生徒達も資料庫で見かけたって言ってましたけど、なにかの見間違いでは?」
教務部長がのんびりと言うのに資料用の書類をまとめていた藍李が顔を上げる。
「それ、いつのこと?」
聞けば二週間前に最初に第一書庫で局員が見たということらしかった。何かの見間違いだろうと特に気に留めなかったが、今週に入って多数の局員が目撃しているということらしい。
「しかし珍しい格好でもありませんですからね。ひとりが幽霊だと言って他の部下達もそういう格好の女の子を見たら、それは幽霊だという思い込みができあがったのだと思いますよ」
「なるほど。うちの生徒達も噂を聞いてそういう風に思ったのかもしれません。こんな女神様に一番近い場所で魂が迷子になるなどありませんしね」
ほがらかに笑いあうふたりと違って藍李の表情はかたいものだった。
黒羽が見た少女もおそらく同じだ。その正体はもちろんだが、二週間もさまよって今になって接触してきたことが気にかかる。
「……たちの悪い悪戯かもしれないわ。それぞれ目撃した場所と詳しい背格好を調べてくれる? このまま噂が広がって落ち着きがなくなるのも困るから」
適当な理由を取り付けて調査を命ずると、報告者のふたりは顔を見合わせて面倒くさそうな表情をしたものの、異論を述べることはなかった。
「総局長、仕事熱心で真面目なのはよろしいのですが、最大の役目をお忘れではありませんか?」
分家の当主のひとりが婉曲的に問いかけてくるのに、藍李はひきつった笑顔を浮かべる。
「ええ、覚えてますわよ。そこはご心配なく」
「ほう。ではご結婚は近々ということですね」
さらに他の分家の当主がそう言って一気に視線が集まってくる。
「跡継ぎは急いだ方がいいですよ。あまり遅いと総局長の半分が成人して間もないという事態になりかねませんからね」
現在の神剣の宗主で子供がいないのは、藍李と西部総局長のふたりだけである。
寿命が四十年ほどの神剣の血族で、二十歳になっても子供がいないというのは後々の事を考えるとあまりよいことではない。
「だからそろそろ自分から結婚を切り出そうかと思ってるわ」
視線を泳がせて答えると議場はにわかに盛り上がった。
「そうなるとお付き合いは長いのですか?…………ずいぶん長いのですね。それなら支局の方ですか」
「しかしそれだけ長い交際で求婚してこないというのもどうかと思うのですがね」
それはそうだろう。付き合いは長いが交際は一切していないのだから。
(いっそここで外堀を埋めちゃおうかしら)
藍李はひとり興味なさそうにあくびをしている、一番年の近い分家の当主をちらりと見る。
ふたつ年上だがまんまるい大きな瞳のせいか十代にも見える彼女は、目が合うと口を押さえて照れ笑いをした。
「とにかく正式に決まったら紹介するのでその時に。今日は以上で解散にしましょう。幽霊の件も他に話を聞いた人はお願い」
さすがにそれは相手にも酷な気がして無理矢理話を打ち切ると、まだ見ぬ総局長の伴侶や幽霊の話題に賑やかにしながら部屋を出て行った。
部屋に残っている藍李は卓に突っ伏せて嘆息する。
「ああ、もう、結婚ねえ。それどころじゃないんだけど、時間ないわよねえ」
これから幽霊の件の他に砂巌についても記録をあさらないといけない。
今緊急を要しているはそっちだ。無論結婚の方も猶予があるわけではない。母と同じ十八ぐらいの時に子供を産んでいるのが理想だったが、この通り恋人すらいない。
藍李は仕事の効率をあげるためにもさっさと結婚を頼み込もうかと煩悶しつつ、部屋を出た後に九龍の屋敷へと足を伸ばす。
腐蝕が進行して伏せっている前総局長である母の清藍の様子も見ようと、先にそちらに赴いた。扉の向こうで会話が聞こえる。
医務部長である父が先に来ているらしかった。
藍李は扉を叩こうとしたが、楽しげなふたりの邪魔をするのも気がひけて自分の部屋に戻る。
自室と言ってもここで過ごすことはほとんどなく、必要最低限の調度品しか置いていない。元より余計なものは極力置かないようにしているので特段侘びしいとも思わない。
組格子の窓を開けると潮の匂いが部屋に入り込んでくる。だが窓の外に見える景色は中庭の蓮が浮かぶ池だ。さらにその向こうに見えるのは別の棟で、さらにその向こうが海である。
「いらないものは捨てる主義なのよ、私は」
藍李はひとりごちて卓の上の小箱を手に取って開く。
そこにあるのは虹色の欠けた貴石だった。光彩は美しいが傷も多く価値としてそれほど高くない。
だが捨てるというにはもったいなく、譲るにしても中途半端な粗悪品。
「もっと後先考えるべきだったわよね……」
もう何度目かも覚えていない自己嫌悪に、藍李は初めて手にしたときのように光にそれを翳した。
***
「綺麗。これ虹色よ」
天井から降り注ぐ月光とも陽光ともつかない光に拾い上げた石を翳して、六歳の藍李は背後に微笑みかける。
そこではかけなれない少し大きな眼鏡の蔓を抑えて所在なさげにしている、八歳のランバートがいた。
「だめだよ、勝手に触っちゃ」
ふたりがいるのは監理局の財源ともなっている宝石の採石場だ。足下の地面には玉砂利のように様々な宝石が散らばっていて、星のごとく瞬いている。
際限なく宝石が湧き続けるここは局内ではあるが、厳重にその場所は隠されていて神剣の宗主家と採石を行うごく限られた人間しか知らない。
「ちょっとぐらい大丈夫よ。ね」
藍李が宝石にも負けない美しく輝かしい、それでいて暖かみのある笑顔をみせると離れた場所で採石をしている局員達は表情を和ませる。
「藍李はずるいよ。そうすると大人はみんな騙される」
「ひどい言い方ね。あんたはもうちょっと可愛く笑ってみなさいよ。きらきらした色ばっかり持ってるのになんでそんなにじめじめしてるの」
ランバートの金色のさらさらした髪と鮮やかな青色の瞳は羨ましい。自分の赤毛とはしばみの瞳は本局にいるとそう珍しくもない地味な色だが、支局にいると目立つ半端さがあまり好きではない。
「してない。君が明るすぎるんだ。ほら、宝石はちゃんと元のところに戻して」
こういうときだけ年上ぶった物言いをするランバートに、むくれた藍李は地面に石を戻そうとするが、つい手が滑って落としてしまう。
「どうしよう、割れちゃった……」
虹色の貴石は地面でまっぷたつになっていて藍李もさすがにうろたえる。
「だから触っちゃだめだって言ったんだ。一緒に謝ろう」
ランバートに促されて藍李は欠けた貴石を持って局員達にしょげてそれを見せる。
ごめんなさいと言って上目でちらりと彼らの顔色を窺うが、怒ってはいなかった。
「ああ、これは元から罅が入っていたんでしょう。そうでなければこんなに綺麗に割れたりしませんよ。傷も多いし、差し上げますよ。総局長様方には内緒でこれっきりですよ」
ここの責任者である老齢の男が顔の笑い皺を深くしてそう言うと、藍李はぱっと表情を明るいものに戻した。
「ありがとう。ランバート、半分ずつね」
藍李は当然のことのように片割れをランバートに持たせる。
彼はいいんだろうかと戸惑いの顔を見せながらも、掌の上に乗った虹色の光に目を細めた。
***
ランバートは自室の本の山の隙間に落ちた首飾りを拾い上げる。切れた鎖の先についている、子供の頃に藍李から貰った虹色の貴石は無事でほっとする。
「そうだ。眼鏡、眼鏡……」
一週間前に片付けを腹心の部下に手伝ってもらったので足の踏み場はあれど、あちこちに本が散乱していて一向に眼鏡が見つからない。
兄からの手紙を読み、その後手近にあった本を広げているうちにうたた寝して、眼鏡はどこへやっただろうか。
記憶を反芻していると扉が叩かれる。
「ランバート様、お客様がいらっしゃっていますので開けますよ」
入っていいと言うと扉が開き、鳶色の髪と新緑の瞳の二十歳ぐらいの女性が立っていた。表向きは婚約者となっているライサだ。
「……カイル様、お掃除したのは一週間前では?」
至る所に本が散らばっている部屋の惨状を見て、ライサが背後に立つ大柄な稲穂色の髪の男、この部屋の片付けをしたカイルを振り返る。
「綺麗なほうです」
「普通の人間の感覚じゃこれを綺麗とは言わないぞ」
さらにそこから白金の髪の軽薄そうな男、北部総局長のオレグが紫がかった青い瞳で部屋を覗き込む。
「オレグ殿、なぜあなたがここに……」
珍しい来客にランバートは身構えた。
「ちょっとな。座るところぐらいはあるか」
空いている寝台を見つけてオレグが勝手に部屋に入ってくるのをランバートは止めてカイルを見る。
「眼鏡を探しているんだが、俺が置きそうな所はどこだろうか」
問うとあたりが静まりかえった。
「あの、予備の眼鏡ですか?」
聞きにくそうにライサが言うのに、ランバートは普段使っているものだと答える。
「お前が顔につけてるのはなんだよ」
呆れかえった顔でオレグに指摘されて、自分が眼鏡をかけていることに気付く。
そういえばうたた寝したことは覚えているが、眼鏡を外した記憶はなかった。寝るときは外すものだから起きたときについ習慣で探してしまっていたのだ。
「本局長、以前から眼鏡を探すときはまず自分がかけているかどうかから確認して下さいと言っているでしょう」
「あいかわらず呆けてるな。そんなんだと兄貴も安心して女神様のところいけないぞ。幽霊になってその辺うろついてたりな」
オレグがアデルを話題に出してランバートは眉をひそめる。
彼と兄はさして親しいわけではなかったのになぜ急に。
警戒心を見せるランバートに、オレグが意地悪く目を光らせて口角を上げた。そして知ってるか、とライサに声をかける。
「今、本局で幽霊が出てるんだってよ」
「まあ、幽霊? 本当ですの?」
ライサは怖がる様子は見せずに興味深そうにオレグを見上げた。
「そう。東風の格好した女の子が書庫とか資料庫をうろついてるらしいぜ。捜し物かなーって親切な局員が声かけようとするとすうっと消えちまうんだとよ」
まあ、まあ、と言いつつもますますライサは目を輝かせていく。どうやらこの手の話は好きらしい。
「……オレグ殿、その話をしにわざわざここまで来たのですか?」
いくら気まぐれなこの男でもそれはないだろうとランバートが問うと、彼は胸ポケットから一通の封筒を取り出す。
よく見覚えのあるものだった。
「幽霊から手紙をもらってな」
ランバートはカイルと顔を見合わせて、ライサに大事な話があるのでと下がってもらうことにした。
「と、なると下手な悪戯ってわけじゃねえな。生きてるのか、あいつ」
扉を閉めると一番座りやすい寝台にオレグが我が物顔で座る。
「兄上と直接会ったわけではないのですね」
「ああ。部屋に手紙が置いてあって誰かと思ったらアデルからだった。弟が頼りないからよろしく、だとよ」
兄の意図がまるで読めずにランバートは困惑する。
自分は兄のために精一杯やっているつもりだ。必要以上は踏み込まず、命じられたままに動きどこまでも忠実だと自負している。
それでもあの一度の裏切りは許されていないのか。
「この不条理で歪んだ世界を変えるために。いい誘い文句だ。このまま体の内から腐って死んでいくのを待つなんて俺はまっぴらごめんだからな。この計画乗ったぞ」
「そんな軽々しく……」
カイルが眉をひそめると、すでに『腐蝕』が始まっているオレグは鼻を鳴らした。
「軽々しくはねえよ。命とそれ以上に大事なものをかけるんだ。お前だってだいたいは俺と同じだろ、カイル」
言い返されたカイルが何も言わぬままランバートへ視線を向ける。
「兄上が誘い込んだのなら仕方ないだろう」
正直なところオレグと共謀するのは嫌だった。具体的にどうこうあるわけではないのだけれど、昔から彼が苦手だった。
そんなランバートの考えは顔に出てしまっていたらしく、オレグが寝台から跳ねるようにして立ち上がって彼の頬を片手で潰す。
「あからさまに嫌そうな顔しやがって。アデルは直接会いに来ないのか? さらに詳しいことはお前に聞けって書いてたけど、顔出さないのは気にくわないな」
ランバートはオレグの手を振り解いて眼鏡のずれを直し、今知っているだけの兄の事を話す。
オレグは危うい光を帯びたその瞳でそれを楽しげに訊いていた。ランバートは知らず内に、手に握ったままの首飾りを強く掴んでしまう。
それに気付いて手の力を緩めるとするりと手から滑り落ちてしまう。
「……なんだ、お前が装飾品って珍しいな」
オレグが首飾りを器用に受け止めて物珍しそうにする。
「兄上に貰ったものです。カイル、鎖の修理を頼んでおいてくれ」
ランバートは半分ほど嘘を吐いて、オレグから首飾りを取り返して安全なカイルに手渡す。
藍李から石を貰ったはいいが、とにかく自分はすぐに物をなくしてしまうので相談したのが兄だった。
指輪のように目立たず、成長して体の大きさが変わっても大丈夫な首飾りにして身につけておけばいいと加工してくれたのだ。
出来るだけ早く、とカイルに付け足してランバートは無意識の内にいつも鎖が触れている首筋から鎖骨の少し上を指で撫でた。
***
椅子を置く場所がないので寝台に座る十六歳のランバートは、隣に座るこの間十四歳になったばかりの藍李の細い指が首元に触れて肩をすくめた。
「な、何?」
「首飾り、まだしてるのね。こうしないでも物無くさないようになってくれればいいんだけど」
藍李があらかた片付いたランバートの部屋を見渡してから無理ね、と嘆息する。一応部屋は片付いているが書棚に収まらない本が部屋の隅に積み上げられていて、数日で崩壊してしまうのが自分でも分かる。
「捨てちゃいなさいよ。あの人の物なんて」
藍李は名前を口にするのすら厭うほど死んだ兄の事を嫌っている。
だから兄の部屋から持ち出してきた本を見つけるたびに捨てようとする。自分がうんと言わずに言葉を濁していれば無理強いはしないが、怒ってるというより悲しそうな顔をする。
「まだ、大事にしてたいんだ。俺は。兄上は絶対に許されないことをしたけど、俺のためにいいこともしてくれた」
首飾りの鎖を指先で絡めて持ち上げる。
「いいこと? 全部あんたを使うために甘い顔してただけでしょ。もういい加減しっかりして。おじ様だって長くはないのよ。あんたは西部総局長だけじゃなくて本局長にもなるのを分かってる? それにどれだけ責任があることなのか、自覚しなさい。私だってもうすぐ正式に局員として支局でやっていかなきゃならないんだから、これまでみたいに頻繁には帰ってこられなくるわ」
そこまで一息で言って藍李がランバートの目の前に立つ。
「心配させないで。お願いだから」
ふたつ年下の彼女にそんなことを言わせてしまって悪いとは思っているけれど、それでも捨てられない物は捨てられない。
「心配はしなくていい。俺は兄上と同じ事はしないから。部屋は綺麗には出来ないと思うけど、片付けはカイルにしてもらえる。だから俺のために何かしてくれるのはもういい。今までごめん」
藍李が喪裾を握りしめ下唇を噛んでうつむく。
怒っているのか泣きそうなのかよく分からなくてランバートはおろおろと立ち上がり、そのつむじを見下ろした。
「藍李……」
名前を呼んでも何も答えてくれなくてますます困ってしまう。
「……もういいとかごめんとかそうやって中途半端なことばっかり。口うるさいのは嫌いだとか、鬱陶しいとか思ってるんならちゃんと言いなさい。どうして嫌なことは嫌っていつまでたっても言えないの」
「そういうわけじゃない。藍李がいてくれた方が俺はいい。でも、忙しいだろうし、俺だっていつまでも君に甘えているのは駄目だっていうことぐらい分かってる」
それに、そろそろ結婚も考えなければならないのに、周りの計らいで引き合わされる女の子達を彼女と比べてしまうのは困りものだ。
藍李は誰よりも綺麗なのだ。
柔らかい赤毛も、はしばみの瞳も、薄紅の唇も、全部誰とも比べものにならない。
ただそれ以上に彼女自身から発せられる生気が眩い。表情ひとつひとつがきらきらしていて、笑顔は大輪の花のようだ。
「……いいわ。仕事抜きであんたと会うことはやめにするわよ」
特に何の感情もこめずに藍李がそう言って部屋から出て行こうとする。
そうなると後どれだけ会えないのだろうか。会ってもほとんど話すこともなくなるのか。
そんなことを考えている内に自分の体は勝手に動いていた。
「それは、嫌だ」
追い駆けて、手首を掴んでしまうだけに留まらずそんなことまで言ってしまうと藍李は柳眉をつり上げた。
「なんで今、そういうこと言うのよ! 自分が言ったことには責任持ちなさいよ」
「で、でも嫌なことは嫌って言えって……」
自分でも何が何だかよく分からなかった。それでも藍李の手首を握ったまま離せない。 見つめ合ったままふたりは硬直する。
踏み越えてはならないと分かっているのに、雁字搦めにされたかのように瞳をそらせない。
この一瞬が永遠になればいいとさえ願っている。
「……ずっとは一緒にいられないのよ」
震える唇で願いを切り捨てたのは藍李だった。
宗家、分家に関わらず神剣を継ぐ家の当主同士の間に子供が出来ることはない。だから当主同士の婚姻は不可能だ。
「分かってる。ほんの少しの間だけでいいから一番近くにいて欲しい」
それでも永遠に抱いていられる思い出が欲しかった。
言葉とは裏腹に手を離すと藍李は、迷う仕草を見せながらもこちらに歩み寄ってくる。そしてその額が自分の肩口に預けられる。
「少しの間、ね」
細い肩を抱くと顔を上げて藍李がつぶやく。
はしばみの瞳がじんわりと滲んでいて、甘く苦い想いが胸に広がる。
目の前のある幸福も、先にある苦しさも全部呑み込むようにランバートはその朱唇へ口づけを落とした。
***
藍李は貴石を掌の上で転がし若気の過ちに目を細める。
もしあそこでランバートを振り払っていたなら、自分は今頃誰かと結婚して子供を抱えていたんだろうか。
「……ないわね。大体忙しかったし。無理よ、無理」
ひとしきり思案して藍李は自分の考えを否定した。
ランバートと付き合っていた三年と別れてからの三年の併せて六年。
東部第一支局の魔族監理課は忙しかった。あげくにうっかり仕事に打ち込みすぎてさっさと昇進してしまい、総局長の伴侶を務められる男を見つけている余裕はなかった。
母のように顔が好きだったからと、単に見た目で選ぶことも考えなかったでもないが。
「黒羽のせいでもあるわよね」
支局にいて見た目が好みだったといえば黒羽だ。背は高すぎず低すぎずでちょうどよく、毎日眺めても飽きない綺麗な顔。
そこに加え性格は単純で分かりやすく掌の上で転がしやすい。そして好きなだけ甘えさせてくれる。
あんな理想の塊が目の前にいて、その辺のとるにたらない男に目移りするのは難しい。
「黒羽のせい以外のなにものでもないわね。別に眼鏡かけたまま眼鏡探す抜けた男のせいで独り身ってわけじゃないのよ」
恋人が出来ない責任を勝手に親友に押しつけて藍李は貴石を箱にしまう。
だからこれを捨てなくたって自分は結婚を迷うことはないのだ。
「藍李様、第二支局に派遣された局員より至急の手紙です」
書庫に向かおうとしていた藍李は、部屋の外から声をかけられて局員が持ってきた手紙を広げる。
丁寧で整然とした字は悪筆な黒羽の代わりに漓瑞がしたためたものだった。
文字を目で追い、藍李は前髪をかき上げる。
「二週間前……白春公主が幽霊の正体かもしれない、か」
砂巌の公主、白春が行方不明になった時期と本局の幽霊の目撃された時期は今のところ重なっている。ただ幽霊に関してはまだ情報不足で、調査している内に齟齬が出てくるかもしれない。
「でも、特殊な移動手段があるなら、紅春公主本人の可能性も否定はできないわね」
考えながらもすでに藍李は筆をとって返信を書き始めていた。
それを外で控えていた局員に第二支局へ送ることと、ついでに第一支局から師の尚燕を呼んでほしいと頼む。
「ああ、師範にはこれそうだったらって言っといて。向こうが忙しいなら落ち着いてからでいいって」
調べ物をするのにひとりは手間取るが、第一支局も忙しいので無理に引き抜いてくるわけにもいかない。
それに。
「結婚してって言っても簡単には落ちないわよね」
藍李は局員がいなくなってからそうつぶやいて乾いた笑みを零した。