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女神の玉座  作者: 天海りく
双つの蒼炎
22/67

 人外監理局本局第八演習場は床から壁、天井に至るまで純白の滑らかな石で出来た箱に似ている。

 そこでは青年と女が向かい合っていた。

 灰色の髪の青年の方は細身の片刃の刀。

 対峙する赤毛の女の方は幅広の刃の背に龍を模した九つの環が揺れる、九環刀とよばれる太刀。

「絶対に、刃こぼれさせるんじゃねえぞ」

 見た目より少し幼い少年の声色で青年、もとい外見ではまったくわからないが正真正銘十七の乙女である黒羽くろばが、三つ年上の東部総局長である藍李に何度目かの念押しをする。

 黒羽の持つ妖刀、冥炎めいえん藍李らんりの持つ神剣、九龍くりゅうは相性が悪い。

 瘴気が凝り固まって出来た妖刀で瘴気を浄化する神剣に向かって行くのは、木切れで真剣に向かって行くのに等しい。

 神剣の持つ浄化の力を上手く抑えてもらわねば、刃こぼれどころか折れる可能性も十二分にある。

「しつこいわねえ。一級妖刀なんて刃こぼれさせたらもったいないし面倒なのは分かってるわよ。こないならこっちから行くわよ」

 藍李が足を一歩踏み出す。

「来いって言うんなら隙ぐらい見せろよ」

 黒羽は身構え、それと同時に藍李が来る。

 まず初めて藍李と対峙した相手は、この初撃で意表を突かれる。女性らしいしなやかで細い体格で大振りの太刀を振るっているのとは思えない迅さに、防御が遅れる。

 かと思えば二撃目は鈍重な動作で惑わされ、次には俊敏な動きに調子を狂わされる。

 藍李と初手合わせで勝利を収められる相手は皆無に等しい。

 だからといって二戦目なら勝てるかというとそれもまた、至難の業だ。

「っと」

 十年ほどのつきあいの中で数え切れないほど藍李と対峙してきた黒羽は、重たい上からの一撃を払いのけて踏み込む。

 予測は素早いなぎ払い。

 だが思っていたより位置が高く、受け止めたときに体勢を崩してしまう。

 しかし黒羽は動揺を見せず、高さと角度を微妙に変えた二撃目が間髪入れずに来るのを避けた。

 その流れのまま空いた斜め後ろへと回る。

 ここからが黒羽の反撃になる。

 針の先も通らないようなわずかな藍李の隙をついて、黒羽が腕力にものを言わせて突きを繰り出す。

 九龍を盾にして攻撃を受け止めた藍李の足が後ろに滑り、重心を取り直そうとして動きが一瞬だけ鈍った。

 一度流れを自分に持ってくれば藍李の挙動も予測しやすくなる。

 だがここで気を抜いたらまた主導権を持って行かれる。

 大きく藍李が太刀を薙ぐ。

 わざとらしい隙。

 誘いに乗るか否か。

 黒羽は前へと進む。

 刀身同士が激しくぶつかり腕が強く痺れたかと思うと、黒羽の首の横すれすれに九龍の刀身が添えられていた。

 冥炎の切っ先は拳ふたつ分以上、藍李から離れている。

「迷ったら突っ込んでいく癖、抜けないわねえ」

 藍李が九龍を降ろして黒羽を見上げる。

「前向きなんだよ、あたしは」

「それ全然意味が違うわよ。でも、腕は上がってるわね。回り込まれたときちょっとまずいと思ったわ」

「結果的に勝てなきゃ意味ねえよ」

 負けて褒められるのは面白くない。

 黒羽はその場にあぐらをかいて座り、刀身に目を滑らせて刃こぼれがないかじっくり確かめる。

 鈍く光る愛刀には傷ひとつなく安心した。

「黒羽! 終わったー?」

 三百人ほどは余裕で入れる演習場の片隅から声をかけられ、そういえばと黒羽は思いだしてそちらに終わったぞと手を振る。

 すると蜜色の髪と透明度の高い黄緑の瞳をした長身の青年、グリフィスが満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。

 彼の後ろからは小柄で少女にも見える可憐な黒髪の少年、漓瑞りすいがため息混じりに歩いてくる。

 漓瑞と視線が合うと黒羽負けた、と苦笑いを浮かべる。

「ですがいつもよりは粘っていましたね」

 彼の方はグリフィスに向けていた渋い表情を和ませた。

「負けても黒羽すごかったよ! あんなおっきい剣に細いので戦えるんだね!!」

 グリフィスの瞳はそれこそ宝玉のようにきらきらと輝いていて、口調もいつも以上に幼い。

 大人しく見ていろと言ったことは素直にきいていたが、その反動のせいかかなり高揚している。

「さすがに霊力乗せられてると折れるけどな。このとおり無事だけどよ」

 黒羽は改めて愛刀に傷ひとつついていないことを確認して立ち上がり、鞘に収める。

「終わり? 黒羽と遊んでいいの?」

 今にも黒羽の手を取って走り出しそうな勢いのグリフィスに、藍李がにっこり微笑み返す。

「どうぞ。そのかわり私の黒羽には絶対に無駄に触らないことはお約束してくださいね、陛下」

 『私の』と『絶対に』を強調する藍李に、世界の三分の一を手中に収める大国、レイザス帝国皇帝のグリフィスは怯えを見せ首を縦に三度振る。

「ねえ、藍李って美人だけど恐いね」

 そしてこっそりと、と黒羽にそう耳打ちした。

「……じゃあ、行くか。案内つってもあたしもよく分かんないから大して見回れないぞ」

 いくら声を潜めもこの距離なら聞かれるだろう。

 藍李の顔色からそっと目をそらし、黒羽はグリフィスを見上げる。

「なら一緒にいろんなとこ探ろうよ」

「待て待て、そっちじゃなくてあっちから出るぞ」

 四つある出入り口の他に目指して歩き始めたグリフィスを追い駆ける前に、不安というか不服というかなんとも複雑な漓瑞の顔が見えた。

「心配しなくても迷子にはならねえぞ」

「いえ、あなたがこんな面倒なことを引き受けなければならない理不尽さに、少々納得がいかないだけですので」

「少々どころじゃないでしょ。私だってあんなのに黒羽貸し出すなんて嫌だけど仕方ないのよ」

 両腕を組んで藍李が憤然とする。

「……漓瑞はともかくお前はなんでそんなに嫌ってんだよ。アデルと仲いいつってもあいつに問題あるわけでもねえだろ」

 漓瑞の方は五十年近く前にレイザスに一族を滅ぼされた玉陽国の皇子である立場上、直接グリフィスがそれに関わってはいないとはいえ、いろいろと複雑なのは分かる。

 だが藍李に関してはよくは分からない。

 世界を混沌へと導こうとしているアデルと友人関係にあることは確かに不安材料だ。

 しかし優秀すぎる頭脳を持つがゆえに孤独なグリフィスにとって、アデルは唯一理解してくれる人物でその悪意はまるで知らない。

「子供以外で私に許可なく黒羽に触るのは許せないのよ。あんたに抱きつく前に足引っかけとくんだったわ」

 至極真面目に言う藍李の言葉に複雑なものはいっさいなく、黒羽は聞かなきゃ良かったかと思った。

「黒羽ー! はーやーくー!」

「悪い、すぐ行く」

 出入り口で両手を振るグリフィスに向けて黒羽は大股で歩く。

 そもそもなぜこんなことになっているかというと、時をこれより十日ほど遡ることになる。


***


 十日前の東部総局長執務室には黒羽、漓瑞が呼ばれていた。

「ふたりとも元気になった?」

 執務机に大量の書類を積んでいる藍李が背を伸ばしながら問うてくるのに、ふたりはどうにかと答える。

 東部第九支局の管轄区であるタナトム国の聖地での騒動を収めて数日間は、霊力を使い果たした後遺症でほとんど動けなかった。

 今は全快とまではいかないまでも日常生活に問題はない。

「冥炎も抜くのには問題ねえし、動けることは動けるぞ」

 長椅子に座る黒羽は拳をぐっと握って言った。

 戦わねばならない状況なら多少の無理ぐらいは押し通せる気力はある。

「次の目的地はまだ決まってないわ。アデルが聖地を引っかき回した後に何が起こるか、が大体見えてきたからそれについてね」

 藍李が執務机から黒羽達来客の座る長椅子の方へ移動し、長卓の上に世界地図を広げる。

「今分かっているのは、私達が女神と呼ぶ存在が世界を統合するのに自分と同等の力を持った神を従え、さらにその神に従う神々をも封じたってこと。おそらく大きな戦争になって一部の神は滅びたか、封印されたかで、残った神々は人間と交わりその力を弱めて今も生き残ってるのが魔族」

 元は本局のある島を取り囲んで環のような形していたが、今は上半分と下半分に割れて、それぞれが三日月の様な形をした大陸の上、北大陸の東部にある玉陽国を藍李が指差す。

「世界を統一した女神と同一の力を持っていたと今分かっているのは、この玉陽に君臨していた神。漓瑞の先祖ね。そしてその彼女の眷属がこの間のタナトムの女神」

 藍李の指が南大陸の東部に移動する。

「世界を統一することに反発した神は強い瘴気を抱えているけれど、それはいままで表面化してこなかった。他にも神が封じられている場所があるはずよ。封印の『要』の玉陽の神が変質した影響で皆既日蝕になると、一気に瘴気が吹き出す仕組みになってるのは間違いないわ。それがまずいのはわかるわね」

 問われて黒羽はタナトムでの事を思い出す。

 瘴気は尽きることなく溢れ出てそこから際限なく妖魔が産まれ出て人を襲う。監理局でもっても世界のあちこちでそんなことが起これば対処しきれない。

「玉陽の神の眷属は漓瑞が再封印できるみたいだからまだいいけど、問題は他にまだ要があるって事よ。それは絶対に護らないといけないわ。だけど他にいくつ要があるのか、どこにあるのかは全く分からないわ。アデルの目的はその大量の瘴気で女神を復活させることだと思うけど、日蝕は同時に起こるわけじゃないし、女神が目覚める頃には人間が生き残れてるかどうかも危ういわ。そこで、よ」

 藍李がおもむろに懐から封筒を取り出して黒羽に渡す。

「これあたし宛じゃねえかよ。……グリフィスか」

 送り主ははタナトムの騒動で友人となったレイザス皇帝からだった。

「そう。悪いけど中は読ませてもらったわ」

「見りゃ分かるよ」

 細かな翼の文様が描かれている封蝋がされているが、すでにそれは役目を果たしていない。

 黒羽は中身を取り出し、それを漓瑞が覗き込む。

 

『いっぱい話したいし会いたいから玉滴月の二十日に会いに行くね』


「……音沙汰がないと思ったらこれですか」

 たった一行の短すぎる手紙に漓瑞が額を抑える。

「そういやまた会いに来るとか言ってたな。事前に連絡くれるだけいいだろう」

 急に来られても驚くが、これ自体は特に問題がないように思えて、黒羽は首を傾げて藍李を見やる。

「これが本題よ。今、アデルと関わっていてこっちに引き込めそうな重要人物はこの人だけなの。黒羽、上手く話を引き出してちょうだい」

 グリフィスはレイザス皇帝であると同時に、世界の天文学者が誰ひとりとして出来ていない日蝕の正確な予測をし、旧世界と呼ばれる数多の神がいた頃の文字を読み解くことも出来る有能すぎる学者だ。

 それを一方的に利用するとなると、アデルと同じで気乗りはしない。

「やり方はあんたの好きにしていいから。こっちの情報も隠さなくていいわ。いい、絶対にアデルを止めないと世界がどうなるかは分かってるわね」

 事の重大さを強調されて黒羽はわかってると重々しくうなずいたのだった。

 

***


 そして現在に至る。

 演習場内で黒羽とグリフィスを見送った藍李は漓瑞と顔を見合わせる。

「それで、黒羽さんに何か変化は感じましたか?」

「霊力は確かに上がってるわ。それなりに九龍にも霊力乗せたけど、あのとおり冥炎に傷ひとつつけられなかったし、まだ万全って言い切れない状態であれはちょっと恐いわね。訓練って分かってるからか変に戦闘に没頭ししすぎてる様子はなかったわ」

 黒羽はアデルにより妖刀と同調しやすくつくられた神子という存在だ。抱えている霊力は七人いる神子の内でもおそらく一番大きい。

 ここふたつきほどの訓練で潜在していた霊力は、表に引きずり出されている。

 力を黒羽は上手く使いこなしているように見えたが、本人からの報告では実戦ではそうではないらしい。

 戦っている内に理性では抑えきれない破壊衝動を覚え、生け捕りにしなくてはならないはずの魔族を殺しかけたというのだ。

「……あなたが危機感を覚えるというのはこちらとしては相当の不安を覚えるのですが」

 漓瑞が棘のある言い方をしてくるのに、藍李は唇を尖らせる。

「ほんのちょっとよ。タナトムの神剣だか妖刀だかよく分かんない剣を折ったのはまあちょっとどころじゃないかもしれないけど」

 今日、いつもの演習用の太刀でなく神剣で立ち合った理由はそれだ。

 タナトムの聖地に眠っていた女神が作り出した剣は回収して調べているところだ。試しに神剣で突いてみたところ、傷ひとつつけられず妖刀とは別物であることは確かだ。

 しかし神剣でそれだというのに、黒羽が妖刀でまっぷたつに折ったというのが不可解だ。

「あの子には出来るだけ穏やかな人生をおくって欲しいんですけれどね」

「それは無理よ。困った人間がいたら絶対に立ち止まって背負い込むんだから」

「それを逆手にとって利用しているあなたは本当にろくでもないですね」

 さらりと吐き出された漓瑞の毒づきに藍李は一瞬言葉につまった。

「……あんたさ、今まで一体どれだけ猫かぶってたのよ」

 少なくとも東部第二支局で死んだ姉を偲んで女装をしてた頃の漓瑞は、もう少し人当たりは穏やかで言葉も上品で清楚だった。

 男の格好になってからというものたまに言葉が乱暴だ。

 これが間違いなく地なのだろうが。

「悪目立ちしたり揉め事を起こしたりしてはいけない立場でしたから当然でしょう。それに、悪態をつかないとならない人間はいませんでしたからね」

 漓瑞が口元だけで微笑んで藍李は仕方なく勝ちを譲ることにした。

「いいわよ。私がろくでもないのは認めてあげるわよ。その調子であのお子様皇帝をぎっちりおさえておいて。それにしたってなんとなく子供の時の黒羽に似てるけど、全く可愛くないわね」

 局に引き取られたばかりの頃に一番懐いていた漓瑞が顔を見せるたびに駆け寄っていた黒羽と、グリフィスの姿に重なる物はあれど胸にわいてくる感情は真逆だ。

 あの図体の大きさもそうだが、やはりなんであれ黒羽に気安くだきつくのは子供以外は許せない。

 自分だけのの特権なのだ。

「黒羽さんはもっと素直で聞き分けのいい子でしたよ。あんなのと一緒にしないで下さい」

 私情まみれの苛立ちを募らせる藍李の横で漓瑞が眉をひそめる。

「そうね。私今人生で二番目ぐらいの間違いを口にしたわ。ところでそろそろ頃合いじゃない?」

「そうですね。では失礼します」

 漓瑞が少し早足で黒羽とグリフィスが出て行った方へと歩き出す。

 五感が優れている魔族である漓瑞なら、尾行に気づかれない距離で会話を拾える。

 突発的な事態にすぐに助けを出すために、彼女には秘密で事前に後をつけることを提案したのは漓瑞だった。

「過保護になれていいわねえ」

 藍李はため息混じりにつぶやく。

 今の漓瑞にとって最優先して護るべきは黒羽である。彼と同じく何事にも優先順位を明確にする自分からすれば、私情を最優先出来る彼が妬ましい。

「……さあ、仕事、仕事」

 相対する為すべき事と感情にうんざりする前に、藍李は執務室でたまっている書類に意識を切り替える。

 第九支局での横領事件の後に東部支局全てで行った緊急監査の報告に目を通して、台帳管理の見直し案の最終調整。やるべきことは他にも山ほどある。

 大好きな親友と戯れて息抜きも出来たし頑張れる。

 藍李は自分に暗示をかけるように言い聞かせて、黒羽達が出て行った方とは別の出入り口へと足を向けた。


***

 

「それでね、余裕が出来たらハルイット山に天文台造っていいって言われたんだ。だから俺、この頃は皇帝の仕事頑張ってるんだ。望遠鏡も、もっと小さな星が見えるのを開発したいんだ。でも、皇帝の仕事っていっぱいあってなかなかはかどらないんだよね」

 黒羽はグリフィスの小難しい話に軽い頭痛と、それを語る表情の無邪気さに罪悪感を覚えつつ、話を切り出すのを見計らっていた。

 演習場までの一本道になっている曲がりくねった廊下には、他に通行人はおらず声を潜めたりしなくてはいいが、上手く話を聞き出すというのはどうにも勝手が分からない。

「よくわかんねえけどなんか大変そうだな。アデルからは何の連絡もないのか?」

「ないよ。手紙を出したけど返事が来ないんだ。よくある事だけどね。つまんないから黒羽に手紙書こうと思ったけど、我慢したんだよ。だってせっかく居場所が分かっててすぐ会えるんだから、会いに来ようと思って。友達に会いに行くって一回やってみたかったんだよね。思ったよりずっとわくわくするし我慢した分黒羽に会えてすっごく嬉しかった」

 どこまでも純真できらきらと笑顔を向けられて黒羽は後ろ頭をかく。

「……こういうのは無理なんだよな。よし、正直なことを言うとだな、あたしはお前に会うだけが目的じゃなかった。アデルが次にどこに行こうとしてるか知りたいからその手がかりを持ってそうなお前にいろいろ聞きたいんだ」

 黒羽は藍李から聞いたアデルのやろうとしていることを、拙いながらもどうにか説明する。

 幸いグリフィスはすぐに理解はしてくれたが、その表情からさっきの明るさは薄らいでいた。

「日蝕の予測は教えてあげられるけど、アデルのことよく知らない。友達だけどアデルの研究は詳しく教えてもらったことないんだ。……これぐらいしか知らないなら黒羽は俺ともう会ってくれない?」

 立ち止まって不安そうにグリフィスが見下ろしてくる。

「そういうわけじゃねえよ。分かんないならそれはそれでいい。よし、もうちょっと行ったら庭園、ええっと花籠っていうところだっけか。いろいろ変わってるから面白いと思うぞ」

 黒羽がめいっぱいの笑顔を見せて廊下の向こう指し示すと、グリフィスは目を瞬かせてくしゃりと笑った。

「俺、黒羽が笑ってるの楽しくなるから好きだな」

 どうやら下降しかけていた気持ちは上向いたらしい。

 言葉の意味は深く考えずに黒羽はグリフィスと共に廊下の先へと急ぐ。

「あ、庭には人が多いから皇帝っていうのは、ばれないようにしろよ」

「分かった。でも顔知ってる人なんて総局長達ぐらいしかいないから大丈夫だよ。名前も珍しくないしね……うわあすっごい」

 扉も何もなく急に視界が開けてグリフィスが目を輝かせる。

 庭園は釣り鐘の様な形をしていている。青みがかった色の壁から天井まで蔓が所々に薄紅色や薄紫、薄水色などの淡い色をした花を咲かせ規則的な網目を描いている。

 花で編まれた籠に似ているので『花籠』とよばれているのだ。

 庭園の地面は柔らかな芝生で、人が腰掛けるのにちょうどいい円筒状の石があちこちにあり、休憩中の局員達が実際腰掛けていた。

「マルテルとロイエルが同時に咲いてる。あっちは寒炎だ。無茶苦茶だね、ここ」

 すごいすごいとグリフィスは上を見ながらふらふらと歩く。

「こら、前見て歩かねえと危ないぞ」

 そんな黒羽の忠告は時すでに遅しで、おしゃべりに夢中なまだ若い女性局員のふたりづれとぶつかる。

「ごめん。大丈夫?」

 女性局員ふたりが大丈夫です、こちらこそと言ってからグリフィスを見て目を丸くする。その頬は赤く色づいていた。

「ちゃんと前見てないからだぞ。連れが悪いな」

 黒羽がグリフィスの隣に立つと、少女達がふたりを見上げてまごまごする。

「い、いいえ。こっちも話しながらだったので失礼します!」

 少女達は一目散に庭園の端へと向かって行った。彼女たちが無理、難易度高すぎる、どっちが好みだった、などきゃっきゃ騒ぐ声を背後に聞いて黒羽は苦笑するしかなかった。

「黒羽ってさ、女の子にもてるでしょ」

「まず男に見られるな。女に好かれる顔って言われても自分の顔ってよくわかんねえけどさ。つうかお前は正真正銘もてそうだな」

「……黒羽から見て俺ってかっこいい?」

 なぜか緊張した面持ちで聞いてくるグリフィスに黒羽はまあとうなずく。

「見てくれがいいのは間違いねえと思うぞ。それよりお前はもうちょっと大人にならねえとな」

 黙って立っていれば目立つ美男子であるが、いかんせん中身がそれに伴っていない。

「俺、大人だもん。黒羽より一個年上だし……あ、あれってクルエイ草かな。あんなのまであるんだ……」

 言った側から次の新しい興味を見つけてグリフィスが円柱の隅に向かいしゃがみこむ。

 どう見ても子供だなと黒羽は同じ場所を立ったまま覗きこむ。他の芝草の細長い葉とは少し違い、周囲がぎざぎざしているものが群れているのが見えた。

「お前、本当に何でも知ってるな。あたしから見たら草って事しかわからねえ」

「うん。俺も不思議。植物のこといつ勉強したか覚えてないんだ。いくつかの国の言葉もいつの間にか知ってたな」

 学習した覚えがないのに知識はあるとはどういうことだろう。

 黒羽が疑問を口にするとグリフィスもなんでだろうねと首を傾げる。

「自分が最初に言葉を話したときのことを覚えてないのと一緒って考えてるけどなんだか違う気もする」

 グリフィスがクルエイ草の茎を撫でて目を瞬かせる。

「あれ、クルエイ草じゃない? 繊毛はもっと柔らかいはずだけど、葉の生え方、形、葉脈全部特徴いっしょなのになあ」

 ぶつぶつとつぶやくグリフィスが一瞬動きを止めて背後を振り返り、黒羽もそれにつられるようにして背後を見て目を見開く。

 そこにはグリフィスの肩を叩く腰まで伸びた長い黒髪の青年がいた。

 彼は袖が幅広く、裾が踝まである長い一枚布を前で合わせ、腰帯で締めた服を纏っている。構造は玉陽で見る女性のものとよく似ているが、あまり見慣れない格好だ。

「こいつになんか用か?」

 いくら局内で警戒していなかったとはいえ、ここまで接近されて気づけないほど気配の薄い青年に不信感を抱いた黒羽は立ち上がる。

 彼は眠たげな一重の眼で黒羽を一瞥した後に、懐から紙と携帯用の筆記具を取り出して何か書き始める。

『クルエイ草の原種。ハルエイ草』

「原種は絶滅したって聞いたけどここには残ってるんだ。……君、喋れないの?」

 グリフィスの問いかけに青年がこくりとうなずく。

「でも文字が書けるならどうにかなるね。他にも珍しい植物ってある?」

 また青年が首を縦に振る。

「ねえ、ねえ、黒羽、この人に案内してもらおうよ」

 ふたりのやりとりに警戒をといた黒羽はどうするべきかかと困る。

 見たところ青年はグリフィスと同じ年頃だし、共通の話題もある。これは新しい友達づくりのいい機会だが、不用意に局員と仲良くさせていいものか。

「お兄様ー! 蒼壱あおいお兄様ー!」

 悩んでいる内に少女が聞き覚えのある名前を呼ぶ声が聞こえた。

 もしかしてと黒羽が青年見ると彼は非常に不満そうな顔をして、こちらをじっと見ていた。

「えっと、もしかしかて、兄貴か」

 アデルに造られ同期実験に失敗し、妖刀が破砕された後に喋ることが出来なくなった最初の神子。血は繋がらないが黒羽にとっては兄のようなものである。

「黒羽って兄弟いたの?」

「いや、血の繋がりはねえけどまあ、そんなかんじのもんだ」

 最初にあった緋梛以外の神子のほとんどは支局に散らばっているが、蒼壱は唯一本局に残っている。

 会おうと思っていたものの、あまり人と会わず気まぐれに自分の部屋から出たのを追い駆けて捕まえるしかないということで、これまで会えずにいた。

「いた! ハイダル様、見つけましたよ! あら、美形」

 蒼壱を探していたらしい褐色の肌とさらりとした黄金色の髪の少女が、翠玉の瞳を丸くして黒羽とグリフィスを見る。

(……すごい格好だな)

 片耳に局員章が見当たらないから十四ぐらいだろう少女の上半身は、脇のあたりからくびれまでしかない薄紅の布をまいただけで肌の露出が多い。その代わりに下半身はゆったりした下袴を纏っている。

「すみません、兄がご迷惑をおかけしました。私、白雪しらゆきと言います。あの、あなたは……?」

 もじもじとしながらも大胆に身を寄せてくる白雪の肩を押さえ、黒羽がため息混じりに名乗ると彼女はえ、と固まる。

「黒羽……」

 白雪が黒羽の顔の顔を見た後に視線を胸元に落とす。

「お姉様?」

「こんななりだけど、一応な」

 白雪の名前だけは神子のひとりとして聞いている。それは彼女も同じらしいが、彼女の顔はまだ微妙に納得していない。

「えい」

 そしてその愛らしいかけ声と共に白雪が黒羽の胸に両手を当てた。

「し、白雪――――っ!」

 そんな素っ頓狂な声で叫んだのは胸を触られた黒羽ではなく、白雪の後ろからやってきた褐色の肌の少年だった。

 白雪の行動は特に驚かなかったが、その叫び声にはびくりとしてしまった。

「……硬くはないわ。一応ある?」

 しかしそんなことはまるで気にせずに白雪が黒羽のささやかすぎる胸の感触をつぶやく。

「君はいきなり何をしているんだ。申し訳ない」

 遅れてやってきた少年の片耳には、銀の局員章が揺れているので十五歳以上だろう。しかし背丈はそれより下に見える。そして態度はずっと大人びていた。

「いや、別に子供に触られる事はよくあるから大丈夫だ」

「それでも初対面で失礼なことをした」

 慇懃な態度にグリフィスより大人だなと感心していて、黒羽はふと彼がいないことに気づく。

 蒼壱もいないので一緒にその辺にいるだろう。見渡すといつの間にかずいぶん離れたところにいた。

 そしてその傍らになぜか漓瑞がいてこちらへと視線で語りかけてくる。

「悪い、白雪また今度な」

 黒羽は白雪の頭を撫でて漓瑞の方へと急ぐ。

「なんでここにいるんだ?」

「それは後で。あちらにいる少年は次期南部総局長のハイダル様です。面倒なことになる前に別の場所へ移りましょう」

 どうりでしっかりしているわけだ。

 黒羽は白雪と話しているハイダルをちらりと見てから、なにやら一本の草を前に蒼壱と激論しているグリフィスの肩を叩く。

「ふたりとも邪魔して悪い。ここにいちゃまずいから他に移るぞ」

「待って、理論の構築があとちょっとで……うう、先回りされた」

 蒼壱が示す紙にびっしりと書かれた文字にグリフィスが悔しそうに唸る。

『相手にならない。出直して来い』

 そして新しい紙に大きく書かれた文字に、グリフィスがむっとした顔になる。紙を掲げている蒼壱の表情は薄いものの生気を感じられた。

「今日は黒羽が駄目って言うから中断するだけだからな。絶対また来るからその時は絶対に勝つ」

 捨て台詞にしかならないようなことを言いながらも、グリフィスはちゃんと黒羽の言うことを聞いて入ってきたのとは別の出入り口へと行くのについていく。

「せっかく友達が出来そうだったのに本当に邪魔して悪かったな」

「友達? 俺、あんまり仲良くならなかったよ」

 グリフィスが訝しげな顔をするのに黒羽は小さく笑う。

「ああいうのは友達でいいと思うぞ。何やってるかよくわからねえけど、あたしと藍李が剣で勝負してたのと一緒だろう。それに兄貴と話してて楽しいっていうのはあっただろ」

「……うん。あった。議論しあうっていうのは初めてだったし勝てなくて悔しかったけど、楽しかった」

「よし、友達また増えたな」

 グリフィスが新しい友達、とつぶやいて楽しげに相好を崩した。

 ゆっくりと話をさせてやれなかったことは残念だが、蒼壱の方にもまた会う気もあるようだし、いずれまた機会をつくってあげられればいい。

 ささやかでもグリフィスの世界が広がったことを喜ぶ黒羽の傍らで、それはいいのですが、とやんわりと漓瑞が言う。

「ハイダル様は局員章がないことに気づいていましたね。南部総局長の耳に入るとややこしいことになるかもしれませんが、そこは藍李さんの責任ですね」

「そういうのはあいつに任せるしかねえけどよ、お前は結局ついてきてたのか」

 信用されていないと思うと不満がつい口調に表れてしまう。

「大丈夫だとは思っていたんですけれど、どうしても気になってしまって」

「確かに対処しきれてなかったけどよ……」

 胸にわだかまる感情をどう言葉にしていいか分からずに黒羽は語尾を濁す。

 そんな自分の態度が子供じみているきがして余計にもやもやとしてしまう。

「……藍李さんに報告に行ってきます。蓮庭のほうは人通りが少ないですから、そちらか第三書庫あたりでいてください」

 漓瑞が身を翻して行くときに覗き見えた表情は複雑なもので感情は読み取れなかった。

 元より彼が何を考えているかなんてまともに把握出来ている気はしないが、今日はいつも以上に分からない。

「黒羽? 気にすることないよ。漓瑞が言った以外のところ行こうよ」

 グリフィスに呼ばれて漓瑞の後ろ姿を見ていた黒羽は、前を向き直して駄目だと答える。

「あいつの言うことはちゃんときいといた方がいい。お前はどっちがいい?」

「……なら書庫。ねえ、漓瑞って黒羽の教育係? 俺が子供の時についてたのと似てる」

「ああ、そんなかんじだけど違うかな」

「じゃあ、なに?」

「何、って言われてもなあ」

 あらためてきかれると困る。便宜上親子のようなものと言うこともあるがそれも違う。兄妹だとか親友だとかいう言葉もしっくり来ない。

「分からないならいいよ。せっかく黒羽と一緒に遊べるのに漓瑞のこと考えるのに時間使うなんてもったいないし。行こう」

 グリフィスが自分から聞いておいて勝手に不機嫌になってずんずん歩き出す。

 黒羽は迷子になるぞと声をかけて前を行くグリフィスに集中する。しかしその胸の片隅には答が出なかった質問がしこりとなって残っていた。


***


 本局第三書庫はこじんまりした部屋だ。

 黒羽は椅子の上にあぐらをかいて、書棚と書棚の間をうろうろとするグリフィスを目で追う。

 立ち止まる時間が短いのに本の中身など分かるのだろうかと思っていると、彼がいる反対側の書棚と書棚の間を移動する人影が見えた。来た時は誰もいかなかったと思うが気づかなかっただけだろうか。

 何かが引っかかる気がしながらも黒羽はそれほど考え込むことなく、グリフィスを追うことに戻る。

「識ってることばっかりでつまんないや」

 そしてしばらくすると、ひととおり見終えたのかグリフィスが黒羽の隣の椅子に腰掛ける。

「じゃあ、別の所に行くか?」

「歩くの疲れたからちょっと休憩してからそうする。……そうだ! 俺の識らないことあった。黒羽のこと教えてよ」

「あたしのこと? 例えばなんだ?」

 漠然としすぎていてよく分からず問い返すと、矢継ぎ早にグリフィスが質問をしてくる。

 内容は難しいものではない。

 好きな花や、食べ物や色。細々しているが単純な質問だ。

「そんないっぺんに急いで聞くこともないだろう」

 しかしながら量が多すぎて答えるのも大変になってくる。ぱっとおもいつく答もあれば、今まで特に考えたこともなかったことに順位をつけろと言われて困る質問もある。

「でも、俺、黒羽のこともっと知りたいし」

「そういうのは長いつきあいでちょっとずつ分かっていくもんだと思うぞ」

 グリフィスは目を瞬かせてうん、とうなずく。

「そういうのなんだ、友達って。けどアデルとはずっと友達だけど全然知らないや」

 そうつぶやいた後にグリフィスがしょげた様子を見せ黙り込む。

「友達だからって全部知ってなきゃいけないってことはないぞ。どうしても話せないこともある。あたしも藍李と十年近く一緒にいるけど九龍家の人間だったって知ったのつい最近だったからな」

 でもな、と黒羽は続ける。

「お前とアデルの付き合いはあたしが聞く限りじゃ、友達とはちょっと違うかもな」

 グリフィスが顔を上げて眉を八の字にした。

「……なんとなく、さ。黒羽と話してる楽しいとアデルと話してる楽しいは違うのは分かるよ。アデルは質問してばっかで何にも教えてくれないし、友達じゃないかもっってちょっとだけ思う。すごく胸の中とかぐちゃぐちゃして嫌な気持ちになるからそういうのあんまり考えないけど」

 黒羽は椅子の上で両膝を抱えるグリフィスの姿に半眼を伏せる。

 彼は感情、というものをまだよく分かっていない。膨大な知識をため込む代わりに心の成長が犠牲になっているのだろう。

 教育係はいたというのに肝心なことはなにも教えてやらなかったのだろうか。

「いますぐなんでもかんでも答えを出さなきゃいけないわけじゃねえから、そういうのはゆっくりでいいぞ。なにか困ったらあたしも相談に乗るしな」

 グリフィスがあどけない仕草で首を縦に振って椅子に乗せていた足を降ろす。

「黒羽はずーっと友達だよね」

「ああ。そうだな。それにあたしだけじゃなくてお前ならもっとたくさん友達はつくれるぞ」

 根は優しくて人なつっこい性格だ。もう少し自分の感情を制御して周りを見ることが出来ればそう難しい事ではないだろう。

 黒羽が微笑みかけるとグリフィスはいっぱい出来るなといいな、とはにかんだ。

 だがその表情は訝しげなもの変わる。

「どうした?」

「変。どこかの扉が壊れたみたいな音がする」

 グリフィスが立ち上がってあたりを見回す。

 彼にしか行き来の出来ない特殊な『道』に繋がる見えない扉を探しているらしい。

「待て、人がいるからその話は……」

 あまり聞かれないほうがいいと黒羽が声を潜めて忠告すると、グリフィスが不思議そうな顔を向けて来る。

「誰もいないよ。俺この部屋全部回ったけど誰とも会わなかったし。足音とか物音も聞いてないよ」

 言われて人影は見たが物音はまったく聞いていなかったことに気づく。だが、入り組んだ書棚のどこからか視線は感じる。

 黒羽は視線の方へと歩く。書棚の間に長い黒髪の後ろ姿が見えた。それを追っているとばさりと本が落ちる音が聞こえて、そちらに視線を向けると袖口の様なものがちらついていた。

「誰だ?」

 声をかけて書棚の間を覗き込むが誰もいなかった。書棚の端は壁にくっついていて袋小路になっている。

「だ、誰かいた?」

 びくびくと後ろをついてきていたグリフィスに黒羽は表紙が白紙の本を見せる。

「ほとんど塗りつぶされてるな」

 一緒に中を覗いてみるがどのページも墨につけ込んだように黒い。その中で塗りつぶされていないのは地図が描かれた二頁だけだった。

「ええっと、ここは砂巌さがん、かな。地名は全部古代文字だ。紙に記録されてるのなんて始めて見たよ」

 グリフィスが山と見られる線や文字らしきものを指でなぞり感嘆する。

「今のとちょっと違うとこも多いな。ねえ、黒羽、これ持って帰っていい?」

「先に藍李に見せてからな。それより、お前みたいに道をつかえる奴って他にいるのか?」

 本はもちろんだがこれを見つけさせた人影が気にかかる。

「知らない。俺は監理局に通じてる道ってまだ見つけてないし、扉も見つけたのは全部鍵がかかってるよ」

 思っているより事は重大かもしれない。

 監理局本局は世界の中央に位置する絶海の孤島だ。往き来するには次元が歪んでいて短時間で様々な場所へ行ける地下水路以外に道はなく、順路を知っているのも渡し人と呼ばれる一族のみである。

 グリフィスも今日は水路を使って来たのだ。

 他に自由に往き来出来るのはアデルぐらいしかいないはずである。

「でも、アデルじゃなかったよな」

 背丈と髪からすると女の後ろ姿だった。

 考えても絶対に答は出ないな、と黒羽はそのままグリフィスを連れて藍李の元へと向かった。

 

***


 そしてその翌日、黒羽は藍李に呼び出されて東部総局長執務室へと出向いた。そこには漓瑞と藍李の他に緋梛がいた。

「東部第二支局から妖魔の対処が追いつかないから応援要請が出たわ。砂巌に三人でいってちょうだい」

 開口一番に藍李がそう言って黒羽は眉根を寄せる。

「アデルか?」

 昨日の今日だ。さすがに何かあるのだろうと問い返すと藍李は渋面を作った。

「分からないわ。元から砂巌は瘴気の溜まり場が多くて東部局で一番妖魔の出没が多いのよ。玉陽の一件以来妖魔はちょっと増えたらしいけど、向こうも兵を出したし要因はいくらでも他に見つけられるからなんとも言えないわ。でも昨日見つけたあの本からいって裏がありそうね」

 限りなく黒には近そうだと思い黒羽はなにげなく漓瑞に視線をやって、彼の顔色があまり芳しくない気がした。

「……まだ本調子じゃないのか?」

「そんなことはありませんよ。ただ少し、砂巌には思うところもあるので……」

「そうか。そうだよな……」

 漓瑞が玉陽の独立を目指して反乱を起こした数十年前、砂巌はレイザス帝国から何らかの取引をしてそれを鎮圧するに兵を出した。

 不意打ちで背後を突かれた玉陽はそれで一度敗退したのだ。ふたつき前の二度目の反乱の時も兵を出しているが、これは緑笙によって撤退を余儀なくされている。

「そこまで気にしているというわけでもないので大丈夫ですよ」

「ならいいけどよ」

 腑に落ちないながらも黒羽はひとまず引き下がり、緋梛からの視線に気づいて小首を傾げる。

「あたしも一緒に行くんだからね」

「分かってる、分かってる。よし、頑張ろうな」

 どうやら声をかけてもらえずに拗ねていたらしい。むくれた様子が可愛くて黒羽は緋梛の頭を撫でる。

「だから! そういう子供扱いはやめてって」

 文句を言いつつ割と大人しく撫でられているので嫌ではないらしい。

「仲良くていいわねー。白雪にも早速気に入られたみたいだし、さすがに女ったらしな顔だわ」

 どこか棒読みで言ってから藍李がそれと、とつけ加える。

「妖刀持ちの黒羽と緋梛は分散してね。漓瑞はいつもどおり黒羽と一緒に行動すること。お子様皇帝もそっちにむかわせるから黒羽はお守りもよろしく」

「ちょっと待てよ。そんな危険地帯に民間人放り込む気かよ」

 さすがにそれは無茶だろうと黒羽は抗議する。

「この間だって大丈夫だったし、逃げようと思えばすぐに逃げられるでしょ、あのひと。砂巌の瘴気の溜まり場は特殊なのよ。一般的なものは大雨が降った後の水たまりみたいな出来かたをして長くても数年もすれば消えるものだけど、砂巌のは監理局創立時からずっとあるのよ。砂巌の妖魔は主にそこからわいて出てるわ。ねえ、何かに似てると思わない?」

「封印の解けたタナトムの聖地ですか」

 藍李の問いかけに口を開いたのは漓瑞だった。

「そう。調べれば何か出てくるかもしれないわ。古代文字っていうやつもね」

「つうことはやっぱりアデル絡みじゃねえかよ」

 どう考えたって理解不能の異常事態はそうに決まっている。

「アデルなら直接あの本をグリフィスに渡せばすむでしょう。他に何らかの意図はあるかもしれませんが」

 漓瑞に言われてなるほど、と黒羽は唸る。

「そういうことで何が起こるか予測不可能だから十分警戒して。なにか分かったら速やかに私に連絡すること。以上。他になにか質問は?」

 藍李が問いかけるが異論はなくその足で全員、砂巌にある東部第二支局へと向かった。

 黒羽はその途中首の後ろに違和感を覚えて振り返る。

「何?」

 緋梛と漓瑞がそれにつられて背後を見る。

「……いや、誰かいる気がして」

 真っ直ぐな一本道の廊下には誰もいない。漓瑞と緋梛のふたりも何も感じなかったらしいので気のせいだろう。

「や、やめてよね。そういうの。早くいくわよ」

 緋梛がまくしたてて先を急ぐのに黒羽は漓瑞と顔を見合わせて小さく笑う。

 三人は少し先にある角を右に曲がる。

 それをいつの間にか廊下に出現した少女が見送っていることに、誰ひとりとして気づきはしなかった。


 


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