一
遙か昔、地上を治め瘴気を浄化していた女神は、多くの瘴気の負荷に耐え切れず深い眠りに落ちた。
やがて女神の住処だった島を取り囲む円状の大陸は北と南の二つに割れた。
揺らいでいた大地が安定する頃、人々の言語は別たれ国が生まれる。
やがて人々は領土を奪い合い争い始めることになった。いかなる言葉も理解しうる女神の眷族であった魔族らは自らを女神の後継者と声をあげ、争いはさらに激化した。
そうして浄化されない瘴気は妖魔となって世界は崩壊の一途をたどり始めた。
その絶望の中、女神は眠りから覚めた。
しかし女神には瘴気を浄化し続ける力は残っていなかった。彼女は残された力で四振りの剣を生み、全ての言語を解する能力と剣を操るための高い破魔の霊力を四人の人間に与えた。
同時に彼らを支える者として、霊力とあゆる言語を解する能力を持った人間が一定数産まれるよう人の仕組みを変えて再び眠りについた。
それから人同士の争いはなくならなかったが、魔族は神剣を与えられた四人に膝を折って戦場から身を引いた。
その後、世界の中心にある女神の島には霊力を持つ者たちが呼び寄せられ、どの国にも属せず世界のためにあり続ける組織がうまれた。
組織をまとめるのが女神の神剣を手にした四人の子孫達だ。彼らは東西南北それぞれの支局をまとめる総局長となり、十年ごとに本局長の座を交代しながら均衡を保っている。
それが今もなお世界の妖魔を駆逐し魔族を監理している人外監理局の始まりである。
***
仮眠室の硬い寝台からおりた黒羽は軋む背中を伸ばし、冥炎を腰に差した。
結局事務処理だのなんだので床についたのは夜が白み始める頃。まだやることもあるので局のすぐ隣にある局員寮の私室に戻ることもできなかった。
窓もなく寝台だけを敷き詰めた部屋から出ると、廊下の向こうに見知った顔を見つけた。
「おつかれ」
黒羽はやってきた十年来の友人であるみっつ年上で二十歳の藍李に声をかける。
彼女の華やかな面立ちの中でも特に目立つ、愛嬌のある大きな丸いはしばみの瞳はいつもより輝きがない。
赤みの強いふわふわとした癖のある長い髪も、力なくぺたんとしていて彼女の疲労の度合いが分かる。
「ん、おつかれ。誰かいる?」
「男部屋のほうはわかんねえけどこっちはいねえ。そっちもなんか夕べ大変だったらしいな」
「そうなのよ。ああ、もう本当、最近忙しすぎるわ」
魔族監理課監理係、城藍室長である藍李はそう言いつつ、黒羽の薄い胸へ額をぽす、と当てて甘えるように寄りかかる。
「疲れてんなあ」
いつも通り藍李の頭を撫でて黒羽はいたわる。数年前に疲れているときはこうして欲しいと言われて以来、すっかり習慣になっている。
「本当、忙しいのよ。連続強盗の件も解決して一週間ぶりにゆっくり寝られると思ったら今度は誘拐。いやんなるわ。今役所の方に説明とかして終わったところ。ああ、もうあのおじ様達なんでいちいち嫌味ったらしいのよ。取り逃がしたこっちもこっちだから仕方ないけど」
人外監理局はどこの国家にも属さない組織ではあるが、当然ながら管轄区域の統治者とある程度の連携は必要である。
妖魔によって破壊された建物などを修繕するのは統治者側だ。もっと素早い対処は出来なったのか、被害を抑えられなかったのかなどとちくちくと言ってくるのが役所の常である。
「ここ最近の誘拐事件と同じか」
問うと黒羽から体を離して藍李が難しい顔でうなずいた。
ここ数ヶ月、東部第一支局が管轄する玉陽国内で官吏の家から乳児が消える事件が相次いでいる。昨夜は赤ん坊を連れ去ろうとする魔族を見つけ誘拐は防げたが肝心の犯人には逃げられたらしい。
「範囲は広いから組織的なものに違いないし、狙いは官吏の子供。これはねえ、揉めそうだわ。そっちは例の妖獣?」
「ああ。今から漓瑞と飯食ってから役所の人間交えて実地検証だ。先に係長が行ってる。査定がきつくなったからなあ。三割減できたらいいところだな」
農地などが妖魔の被害にあった場合、監理局が証書を書いて役所に減税を求める。昨夜もこの書類の下準備に手間取っていたのだ。脱税の防止で年々ややこしさを増している上に妖刀を持ち出したものだから面倒極まりない作業になった。
「最近厳しいわよね。また戦争でも始める気かしら。先月にあった黄樹の鉱山の崩落事故も無理に掘ったかららしいし、誘拐事件も反政府がらみっぽいしで今年の建国日はいつもより派手な暴動が起きてもおかしくないわね」
自分の言葉に顔をしかめて藍李が深いため息をつき、黒羽も顔を曇らせた。
割れた大陸の片割れである北大陸の東側に位置しているここ玉陽国は、上質な鉄の産地として南隣の砂巌と共に東の大国として栄えていた。
しかし四十八年前に侵略され皇家も滅ぼされて以来、実権は北大陸の実に三分の二を直轄領とするレイザス帝国に握られている。
王のいない宮中は帝国の選んだ高官と権威に目が眩んで彼らに追従する者たちで占められている。
その統治の横暴さや暴利をむさぼる官吏らに反発を持つ国民は多く、小さな暴動はめずらしくない。
「そうだな、と悪い。お前今から寝るんだろ。時間とっちまったな」
「別にかまわないわよ。まともに愚痴吐けるなんてあんたぐらいだし。早いうちに昇進なんてするもんじゃないわよねえ」
通例通り十五で局員になってからわずか四年で室長まで昇った藍李に、わずか一年で室長になった黒羽は苦笑した。
「あたしの場合はただの隔離措置だけどな。まだ漓瑞がいないと書類の処理が不安なんだよなあ」
人の精神を浸食し破壊の限りを尽くす妖刀、或いは魔剣と呼ばれる武器の力は強大だ。
力を抑え込めるだけの高い霊力を持つ者だけが抜けるよう、監理局が封を施しているとはいえ暴発の危険が常にある。
だから書類に埋もれるのが主な室長の席に早々につけられたのだ。それが嫌で藍李は妖刀を手にしなかったが、しっかり室長になっているのはさすが局一の才媛といったところだ。
「もう就任から一年になるんだからこのままじゃ困るわよ。うちの係長の後任に漓瑞の名前が挙がってるんでしょ」
聞かれて黒羽は歯切れの悪い返事をしながら眉根を寄せる。
漓瑞は監理局員になって十数年ほどで仕事も出来るし、短いが魔族監理課にいたこともある。黒羽や藍李よりも二つ三つ下に見えるものの、実年齢は六十以上で魔族としての人生経験も豊富。魔族監理課が欲しがるのも道理だ。
「なあに、漓瑞がいなくなると寂しい?」
黒羽の眉間の深い縦皺を見て藍李がくすりと笑った。
「……別に、そういうわけじゃねえよ。あいつがが抜けた穴をどう埋めるかちょっと考えてただけだ」
漓瑞とは縁があって監理局に引き取られた八つの頃からずっと面倒を見てもらっている。
いわば保護者代わりだった。
そして彼と一緒に仕事をし始めて二年。共に過ごす時間が子供の頃より多くなった毎日にすっかり馴染んで、本音を言えばまた一緒にいられる時間が短くなるのは寂しかった。
だがそれを口にするのはとても子供じみている気がした。
「ふうん。まあ、あんたもいつまでも漓瑞の後にくっついてた子供じゃないしね」
下手な黒羽の嘘に気づいているらしく藍李の目は笑っている。
「お疲れ様です」
そこへ噂をすればなんとやらで漓瑞が藍李の後ろからやってきた。
「さてお迎えも来たことだし私は寝るわ。がんばってね」
口は元気でもやはり連日の不眠不休はこたえているらしく、藍李はおぼつかない足取りで仮眠室に入っていった。
「藍李さん、ずいぶんお疲れのようですね」
閉じた扉を見ながら漓瑞が気遣わしげに言う。
「だなあ。しばらく稽古の相手はしてもらえねえな」
腰の冥炎の柄に手を当てながら黒羽はぼやく。
藍李は強い。妖刀なしでも室長になれたのは頭脳明晰なだけではなく局でも五本指に入るだろう剣の実力もあった。
彼女が自分の身の丈の半分以上はある太刀を長い裳裾をひらめかせて舞うように振るうなど、初対面の人間には想像できないだろう。
霊力が高くそれを器用に使いこなせば武器の重量は関係ないのだ。
つまるところ藍李は知能、剣技、霊力どれも突出しているというわけだ。本来なら妖魔監理課が喉から手が出るほど欲しい人材だが、本人の希望は魔族監理課だった。
「そういえば連敗続きでしたね」
「ああ、前のもまぐれ勝ちだしな。なかなかあいつには追いつけねえ」
局の五本指のひとりである黒羽はぐっと拳を握る。
強くなりたい。そんな子供のころからの漠然とした思いはずっと胸にある。
そうでなければ大事なものはなにも護れない。
「黒羽さん?」
急に黙り込んだ黒羽に漓瑞が不思議そうに小首をかしげた。
「……お前さ、昇進はどうするんだ?」
休憩室に繋がる一本道の廊下を抜ければ、小波のような足音や声が入り交じった音が聞こえてくる。局内は落ち着いているらしい。
「他に志願している方もいますから辞退するつもりですよ」
経理課の前を通ると話し声はまるで聞こえず、カチカチとそろばんを弾く音だけが無機質に響いている。
「欲がねえなあ」
呆れた声を出しながらも黒羽の口元は安堵に緩んでいた。
そうしていくつか言葉を交わしながら進むうちに少しずつすれ違う人の数が増えていく。
手首に縄をかけられていても上機嫌な赤ら顔の魔族にそれに呆れかえる中年の局員。書類を抱えて急ぎ足のまだ新米らしき少女。
局員は皆、衣装は派手すぎず動きやすいものを纏っている以外はまばらだ。黒羽と同じ袖や裾の広がりの少ない男装に近い格好をしている女性もぽつぽつといる。さすがに女装した男は漓瑞ぐらいだが。
唯一の共通点は左耳で揺れる銀貨に似た耳飾りである。銀貨は裏に名前と入局日、表に所属局を示す文様――ここは東部第一支局なので絡み合う九匹の龍と一の数字が刻まれている。
これは正規に局員になるときに特殊な呪を用いて耳と銀貨を繋ぐ輪を溶接し、耳ごと切り落とさない限り外せない。
さて、局の中央を突き抜けるこの廊下を進めば出口である。
黒羽は外に出ると立ち止まり、夏を間近にした天中近くにある太陽の眩しさに目を細めた。
目を見開いた先に広がる街は二色に塗り分けられている。均等に敷き詰められた石畳と家々の漆喰の壁は少しくすんだ白、屋根瓦は空のものとも海のものとも違う藍。そして真正面には王宮の楼閣が高くそびえているのが見える。
後ろで漓瑞がそこに向けて小さく頭を下げた。
いまだに年寄りや魔族はかつて王が町を見渡していた楼閣に旧懐と敬意の目を向ける。
黒羽には彼らの目の奥に映るものが知りたくともわからない。だからといって、漓瑞には訊かない。
説明などされてもきっと同じものは見えない。
黒羽は陽光を受けて煌く藍から目を逸らし、足を踏み出した。
***
城藍州の王宮が位置する水掘りに囲まれた中央区は例えて言うなら一枚の葉である。東の橋に繋がる門扉から西の門扉に向けて大通りが中央に横たわり、そこを中心として左右に葉脈のように入り組んだ細い道が広がっている。
街の南側に位置する監理局から道を少し行くと市が開かれている大通りはすぐだ。
昼時ともあって人通も多いが、そんな中でもこの国では見かけない灰色の髪に加え、長身で見栄えのいい黒羽は目立つ。他州から行商や買い物に来た者達がもの珍しそうな視線を向けてくるのは日常茶飯事だ。
しかしもうそんなことに慣れた黒羽にとって気になるのは、視線よりも鼻をくすぐる肉饅頭やら羹やらの匂いだ。
「いらっしゃい。今日もいい男っぷりだねえ。はい、今日の分はお布施だよ」
馴染みの屋台に寄ると肉を詰めた蒸し饅頭を売るおばさんが、黒羽に愛想よく笑いながら肉の詰まった饅頭を渡す。
黒羽はどうもとそれを遠慮なく受け取る。
人々は女神に代わり妖魔を駆逐し魔族を管理する局員達へ感謝と畏敬を込めてお布施と称し食べ物を与える。基本的に局員個人への金品での布施は禁じられている。
商人や貴族などは年に一度、監理局の創立日にそれぞれ見栄や信仰心を示して金品を喜捨し運営費の半分はそれで賄われる。後の半分は本局のある島から産出される宝玉や金銀である。
「いたいた! 黒羽様ー!」
屋台を離れ次の店に向かう途中、賑やかな声をあげて数人の少女たちが黒羽の周りに集まる。それぞれ手には食べ物を抱えている。
「おう。毎度ありがとな、助かる」
黒羽が人懐こい無邪気な笑顔を浮かべると、少女たちは頬を紅潮させため息を零した。
とりとめのない少女たちの話に、女子供にはとことん甘い黒羽はそれぞれに愛想良く返していく。
少女たちにとっては容姿も中身も理想の恋人の姿で、夢を見させてくれる黒羽は布施の相手として局一の人気だった。
「……黒羽さん」
黒羽が話す合間に器用に食事をすませるる頃、五感の鋭い魔族である漓瑞が緊迫した声で人混みに目を向ける。
黒羽が漓瑞と同じ場所へ視線をむけると、やけにざわついていた。
人々が自然と空けた道の真ん中で、中肉中背の若い男がひとり腹を押さえてふらふらと歩いている。いまにも蹴躓いて転びそうなほど、足下がおぼついていない。
「あいつ、怪我してんじゃねえのか?」
腹を抑える男の服の袖が赤く染まっているのに気づき、黒羽が駆け寄る途中で男がついに倒れた。
「おい、大丈夫か! 誰にやられた」
うつ伏せに倒れた男を仰向けさせ、黒羽はその蒼白な顔に歯噛みする。手の甲に文様がある魔族の男の腹からは血が溢れていて止まらない。なにか言おうとしているその口からも、こぼれるのは血ばかりだ。
「黒羽さん、これはもう……」
共に男に駆け寄った漓瑞がちいさく頭を横に振った。
「くそっ!」
吐き捨てて顔を上げた黒羽は、野次馬の中に尋常でなく顔色を失くし震えている小太りの中年の男を目ざとく見つける。
「漓瑞、ここ頼んだ」
目があった途端駆けだした男を追いかけて黒羽は走る。追いつくにはたやすく、あっさり男の腕を掴み捉える。
「な、なにもしりません! 本当です!」
捕まえられた途端、さして抵抗もせずに悲鳴じみた声を上げられ黒羽は手の力を抜く。
「逃げといて知らないってことはねえだろ」
鈍く光らせた瞳で睨みをきかせると男がひぃと小さく呻いて肩をすくめた。その情けない様に黒羽はため息をつく。
間違いなくこの男はやっていない。しかしなにかをやましい事があるのは明らかだ。
「お、そいつか」
ふと声がかかって黒羽は振り返る。
声をかけてきたのは騒ぎを聞きつけ様子を見に来た、見廻り中の藍李の部下だった。魔族の男は事切れたらしくその亡骸は他の局員らが局へ収容しているということだ。
「ちょっと局のほうで話聞かせてもらいたいんでご同行お願いできますね」
穏やかながらも有無を言わせない口調の局員に男は小さくはい、と応えてうなだれた。
連行されていく男を見送り漓瑞の元に戻る途中、黒羽はふと振り返る。先ほどの一件で目立ったせいで注目は浴びているので視線は多く感じる。
ただその中にひとつ、妙な視線を感じた。
「黒羽さん、私達も戻りましょう」
探し始める前に漓瑞に声をかけられて、そちらに反応している内に奇妙な視線は感じなくなっていた。
***
人外監理局の地下には洞穴があり、そこには墨をぶちまけたように黒い水が一面に溜まっていて水路になっている。空中には蛍火に似た青白い光の玉がいくつも浮かび洞穴内を淡く照らす。
ここは次元が歪んでいるため、半刻もあれば玉陽のどこにだろうと行くことが出来る。局舎が城藍にしかなくてもさして不便がないにはこのためだ。
ただし道を知っているのは渡し人と呼ばれる一族のみだけで、他の人間が入り込めば永遠にここを彷徨いかねない。
船頭一人と黒羽と漓瑞が乗る舟上は静かで、櫂が水を跳ねる音や舟の軋みがよく響く。
「腹、減ったなあ」
黒羽がか細くつぶやいた。
それなりに食べたはずがもうすでに腹は朽ちていた。昨夜は妖刀を使うにしてもいつも以上に霊力を消耗したせいだろう。
「ひととおり検証が終わるまで我慢するしかありませんね」
「そうだな。さっさと終わるといいな」
暗くてよくはわからなかったが、被害は広範囲に渡っているのだけは確実だ。歩いて端から端まで見るとなると、どれくらいかかるだろう。
黒羽は結論にたどり着く前に思考を放棄して天井を仰いだ。
天井、といっても淡い光はそこまで届くことなく闇に沈んで見えない。視界いっぱいに広がる暗がりと点々としたとした光に夜空を浮遊している気分になる。
「……あのおっさんなんなんだろうな」
ぽつりと黒羽が零す。
捕まえた男のことは妙に気になっていた。
「気になりますか?」
「なんかすっきりしねえんだ」
知らずに蜘蛛の糸に指先を引っ掛けている不快感が胸に止まって、掃えど掃えど消えない。
ただの喧嘩の末のことでで終わればいいのだが、と黒羽が腕を組んだところで舟が停まった。着いたらしい。
目の前に陽炎のような揺らめきが生まれ、船着場がその向こうに見え始める。そして舟は再び動き出し、黒羽達を船着場におろした。
足元の見えない石段を登った先の扉を開ければ、そこは監理局が間借りしている役所の一室である。
狭い部屋で卓子がひとつあり、そこには魔族監理課と妖魔監理課の者が一人ずつ座っている。局との連絡役だ。
「お疲れ様です。尚燕課長が来てますよ」
連絡役の少女の言葉に黒羽と漓瑞は顔を見合す。
「係長は来てないんですか?」
漓瑞の問いに少女が首を横に振る。
妖魔監理課長が来たということは面倒事だろうか。
「特に問題はないですよ。なんできたんでしょうね、課長」
二人の様子につられて少女は首をかしげる。
「行ってみりゃわかるだろ」
もう一度漓瑞と顔を見合わせて黒羽はよしとうなずいてそう言った。
***
「酷いな」
四方に広がる麦畑の惨状に黒羽は思わずそうこぼした。
妖獣が踏み荒らし尾で薙いだ場所の収穫を目前にした麦は、藁屑になって土にまみれている。そこを中心にして波紋が広がるように、無事だったものも瘴気にあてられ枯れ果てていた。
しばらくは瘴気の汚染によって畑は使いものにならず、畑の持ち主が頭を抱えている姿もあった。
その向こうには、高い石造りの壁が横へと広がっている。隣国の砂巖が築いた防壁だ。思いの他国境に近い。これで出現場所があと少しずれていたら東部第二支局の管轄である。
「おや、遅かったね」
役人と話していた、ひょろりとした四十前ぐらいの男が眠たげな目でこちらを見やり、片手を挙げる。その背に背負われている太刀は妖刀だ。
「いや、ちょっとごたごたに巻き込まれちまって遅くなりました。なんかあったんですか?」
男、妖魔監理課長の尚燕に黒羽は駆け寄り、書類を渡す。
「これで三体だからね。一応どんなものだったか様子見に来たんだよ。やっぱりどこかに瘴気のたまり場でもあるのかな。でも三件とも離れてるしなあ」
瘴気が濃ければ濃いほど妖獣は力を増すものだ。しかしいくら国内の情勢が不安定とはいえ、この短い期間であれだけのものが立て続けて出てくるのはたしかにおかしい。
「まだ出るんですかね」
文面を確認して役人に書類を渡した尚燕が顎に手を当て唸る。
「原因がわからないからなんともいえないけど出そうな気はするね。漓瑞君、黒羽君の戦いぶりはどうだったのかな」
「少々苦戦していましたね」
あまり面白くない言葉だがそのとおりなので黒羽は渋々うなずいた。
「特徴は硬い表皮……黒羽君は霊力を一点に集中させるのが苦手だから問題はそのあたりと、策が甘いところかな」
尚燕の指摘は的確で文句の言いようのないものだった。
霊力を操るのが苦手でとりあえず勢いと勘で向かっていっている自分の戦法に欠点があるのは重々承知である。
「まあそれでも妖刀で簡単に斬れないとなると三室には厳しいかな。赤海は二室の室長だったよねえ」
室の数字は戦闘力順で、一が最も実力あって三が一番下になる。とはいえ妖魔監理課に配属されるのは監理局でも戦闘能力の高い者たちばかりで、三室とてけして弱いわけではない。
「三室には救援が来るまで護りに徹してもらったほうがいいかもしれませんね」
漓瑞が言うのに、黒羽はどうだろうかと考える。
「つってもまた強くなってたら二室でも厳しくなるんじゃねえか?」
巨体のわりに素早くそこそこ知恵も回る妖獣だ。これ以上成長されたら相当厄介だろう。
「そのときはそのときで僕も出るよ。黒羽君にも他の州へ応援に出てもらって、いざとなったら呂氾も引っ張り出せばいいかな。まあ、引っ張り出すまでもなく彼は喜んで出てきそうだけど」
戦闘馬鹿だしねえと朗らかに旧友である教務部長のことを言う尚燕に、その教え子だった黒羽は師範ならそうだろうなと胸の内で同意する。
「あれ? ねえ漓瑞君、あそこに子鬼見えなかい?」
不意にただでさえ細い目をさらに細めて尚燕が少し離れた地面を指差す。そこを見て漓瑞が見てああ、とうなずいた。
僅かな瘴気でも発生する小鬼は老人の顔に子供ぐらいの体躯で人に姿が似ている。大きくても掌ぐらいだが、家畜や人に悪戯したり、ひどい時は家に火をつけたりするのでやっかいだ。
「いますね。……なにか持ってるようですが」
黒羽も二人同じ方向を見るが蠢く黒い点が見えるだけである。
日がな一日寝ぼけた顔をしていながらも、尚燕の勘と目はきっちり起きているらしい。
「あ、子鬼が持ってるものは一応回収しといてね」
黒羽がほんの十数歩ほど進んだところに子鬼はいた。瘴気の残り滓らしく人差し指程度しかない大きさだから遠くに思えたのだ。
その子鬼が抱えている白い塊を奪いとり、冥炎は抜かずに指先に霊力をこめてじたばたと暴れる子鬼を小突いて消した。
「なんでした?」
戻ってきた黒羽の手元を漓瑞が覗き込む。
「わかんねえ。石じゃねえし、牙にしちゃあへんだよなあ。妙に瘴気が染みてやがるし。妖獣が食ったもんか? 課長、わかります?」
黒羽から白いものを渡された尚燕が指先で表面を撫でたりして確認する。
「鹿の角、かなあ……」
そう言われても黒羽は角どころか鹿そのものを見たことがないのでよくわからなかった。
「この辺りに鹿なんていねえよな?」
「確か紫山と黒峰の端あたりぐらいにしかいないはずですね。そこから妖獣が移動してきたとは思えませんが」
漓瑞の言う二州はここから正反対の国境付近の山脈にある。あまりにも遠すぎるし、あんなものが移動したというのならすぐにわかるはずだ。
「……誰かこのあたりで紫山の出身者は?」
尚燕が後からやってきて役人と話していた疲れ果てた顔の住民に声をかける。その返答は否、だった。
「紫山の方で子供が生まれたら鹿の角をお守りに持たすっていうの聞いたことあるんだけどなあ……。文字を彫った跡もあるし」
ほら、と尚燕に促されるままに黒羽はその鹿の角らしきもの表面を指の腹で撫でてみる。
確かに妙な引っ掛かりがある。
「文字っていうか傷じゃねえのか、これ」
目を凝らしてもくぼみが文字の形をなしているかどうかはわからない。
「ううん、気になるなあ。一応鑑識に回しとくかな。漓瑞君、何か包むものもってないかい?」
「はい。ですがそれほどこだわるものでしょうか?」
漓瑞から懐紙を受け取りながら尚燕は笑った。
「気になったら調べてみないとね。意外なところに手がかりはあるものだよ。結果が出たら君たちにも教えるから。さて、実地検証を始めようか」
尚燕に言われ本来の目的を思い出した黒羽はもう一度あたりを見回した。
これは役人の体力が続かずに日が暮れる頃までかかりそうだ。
空腹感が増すばかりの黒羽はひっそりとため息をついたのだった。
***
夜の局の休憩室は人が多い。それは人々が夕餉の時刻に合わせて、いろいろと食糧を持ち込んできてくれるからだ。
他にも本局から支給される食糧を経理課や教務部など夜勤のない担当課の者たち、それと教務部で訓練を受けている子供らが当番制で隣の厨で調理して持ってくる。
黒羽も他の局員と同様食事目当てで食堂に入った。
魔族である漓瑞は食事や睡眠時間はそう頻繁にとる必要がなく、今は三日ぶりの眠りについているので今日はひとりだ。
「悪い、今日はちょっとあいつと話があるからまた今度な」
料理を盆に載せていると数人の後輩の女性局員が、一緒に食事をしようと寄ってきたが黒羽は奥のほうの席にいる藍李を示して申し訳なさそうな顔をする。
少女たちは不満げながらも素直にうなずいた。
「でも、次は絶対ですからね」
「ああ。絶対だ」
約束を取りつける一番年下の少女の頭に手をのせて、少し屈んで瞳を見つめながら微笑むと彼女は頬を真っ赤に染めて何度もうなずいた。
「なんだか年々あしらい方が上手くなってきてるわね」
席につくと様子を見ていたらしい藍李が楽しげに笑っていた。
「……子供らとなんでああ反応が違うのかわかんねえ」
心底不思議そうに黒羽は言う。
暇なときは教務部で子供の相手をしていているのだが、その調子でつい年下の少女たちにも同じ対応をしてしまう。しかしなぜか彼女らは子供扱いされたと不機嫌になることもなく、黄色い悲鳴を上げたり頬を染めたりと未知の反応を返してくる。
「やあねえ。自覚のない女ったらしって」
「なんでそうなんだよ。ったく、ああ、そうだ。話したいのはそんなことじゃなくてな」
「魔族が殺された件でしょ。あんたが捕まえたおじさまは誘拐事件の被害者宅に雇われてた料理人だったわ。で、酒場で管巻いてたら殺された魔族に声をかけられて屋敷の見取り図を渡したってことらしいわ」
先に欲しい答を投げる藍李は不機嫌そうだった。
「あのガイシャは夕べの誘拐犯か」
「そう。被疑者死亡は痛いわね。あのおじさまは名前すら知らなかったからなんの手がかりにもならないし、取り逃がしたせいで殺されちゃったとなると、ね」
藍李がため息と共に椅子にもたれかかる。その姿は疲れと苛立ちのせいか毛を逆立てている猫に似ている。
「あんまり根詰めて無茶すんなよ。今日はまだ仕事か?」
黒羽が赤毛を撫でながら、柔らかい口調で訊ねる。藍李は甘えて黒羽の肩にもたれかかり、たらし、と聞こえない程度の声でつぶやく。
「……今日は終わり。明日は聞きこみの範囲も広げるから私も出なくちゃいけないわね。無登録だからややこしいわ」
魔族は刻印と名前、身体的特徴や各自の能力を監理局に登録する義務がある。
登録さえすれば、就労や住まいの援助を受けることが出来る。そのためきちんと登録している魔族も増えてはいるが、無登録の魔族の数はなかなか減らない。
「ならうちも協力したほうがいいんじゃねえのか?」
「それは台帳係から人員割くからまだ大丈夫。足りなくなったら正式に応援要請するわ。ん、ちょっと気分落ち着いた。ありがとう」
黒羽に寄せていた身体を離して藍李はゆっくり立ち上がる。そして一度瞳を伏せて黒羽に視線を向ける。
透き通るようなはしばみ色の大きな瞳は、見つめられると視線を外せなくなる引力を持っていた。
「……もうちょっと話してたいけど師範に呼ばれてるから行くわ。全部片付いたら稽古の相手してくれる?」
「おう。ちゃんと休めよ」
淡く溶ける笑みに黒羽はうなずいて別れ際にそう告げる。
いつもと変わらない風景の中で、藍李の背中だけが妙に浮いている気がした。
***
夜の廊下は魔族監理課、妖魔監理課などの監理部の局員がまだ多数仕事をしていて静けさはない。
すれ違う人も多いがその方が人気のないよりは目立たない。
そう思いながら漓瑞は局の出入り口に向けて歩いていた。
「お疲れ。今から見廻りかい?」
正面からやってきた尚燕に漓瑞はいいえ、と微笑み返す。
「眠ろうと思ったのですが、すぐに目が覚めてしまったので散歩に。課長はまだお仕事ですか?」
「いや、僕も今日はこれで終わりだよ。そうそう、昼のあれ、やっぱり紫山のお守りだったよ。その角に二文字刻まれていたんだけど、一文字だけわかったんだ」
すごいですね、と漓瑞は素直に感心する。
傷なのか彫り物なのかまるでわからないくらいだったのによくわかったものだ。東部局は鑑識の能力が随一というのも大げさな見栄でもないかもしれない。
「なんだったんですか?」
問いかけると尚燕が華、と答える。
女性の名前によく使われる文字だ。
「珍しいわけじゃないんだけどちょっと引っかかってね。ほら、例の誘拐事件、紫山でも起きただろう」
「その被害者の名前にも同じ字が使われていたのですか?」
「そう、偶然の一致だといいんだけどね」
尚燕の口調こそはいつもと変わらず緊張感の欠片もないが、その表情は硬い。
「……そうですね」」
深刻そうに答える自分はどう見えているのだろう。
漓瑞は尚燕の表情をうかがう。普段からそう表情豊かでない彼は細い目を瞬かせただけだった。
「じゃあ、僕はもう行くね。藍李君は待たせると怖いんだよなあ」
元教務部所属で藍李の師である尚燕はそうこぼして急ぎ足で行ってしまった。
その普段通りの姿に胸をなで下ろして、漓瑞は行き交う人に交じりながら局の外に出る。
見上げた空に月はなく、星たちの光は夜空に藍色の紗を掛けるだけで地上は漆黒一色。門前の篝火はその漆黒にたやすく呑まれて周囲をわずかに照らす程度だ。
それでも漓瑞の視線は城の楼閣へと迷いなく向かっていた。
「あと、少し」
微かな声でつぶやいて漓瑞は楼閣に背を向け、南側の廃れた区域へと足を伸ばす。壁の漆喰が剥がれ落ちた空き家が大半で、陰の気が克つこの場所は瘴気が凝りやすい。
小鬼がぱたぱたと廃屋で走り回る音がする。
それを無視して漓瑞は暗がりの中、迷うことなく歩いて行くが次第にその息が上がってくる。
この場所はやはり苦手だ。瘴気が濃いせいだろうか。
焼けるように熱くなってくる胸を押さえながら、漓瑞は家と家の隙間の狭い路地に入り込んで息を整える。
しかし瘴気混じりの空気は胸焼けを悪化させるばかりで痛みに脂汗が浮いてくる。
冥炎の炎の瘴気にあてられたせいもあるかもしれない。
漓瑞は懐から小さな包みを取り出す。しかしそれを開く前にひゅっと喉が鳴った。
しゃがみ込んだ漓瑞は咳き込み喉の奥からせり上がってくる液体を掌に吐き出す。闇の中で色を持たないそれが鮮明な緋色をしていることはよく知っていた。
呼吸を整え漓瑞は包みから丸薬を取り出し口に含む。血と唾液とともに飲み込むと次第に体の内から熱と痛みがひいて疲労感が四肢に残るだけになった。
立ち上がる気になれるまでその場で膝を抱えてうずくまる。
前に発作が起きたのは三月前だったか。
床について起き上がれなかった頃を思えば、普段は発作を忘れたように動けるだけでも御の字だ。だがこの頃発作と発作の感覚が短くなっていることが気がかりだった。
しかし一年も生きられないこともないだろう。
それだけの時間さえあればいいのだ。
ふと足音が聞こえて漓瑞は息を詰める。だが知っている人物だとわかると立ち上がる。
「どうされたのです?」
声を潜めて言いながら近づいてきた三十前後の女が漓瑞の顔を見ると息を呑んだ。
夜目の利く彼女のことだから口元に残る血にすぐに気がついたのだろう。
「大丈夫です。薬を飲みましたから」
笑みを作ると悲しげに女が目を細めるのがぼんやりと見えた。
「……どうか、ご無理はなさいませんように」
中指のない右手で手巾を差し出しひそやかな声で漓瑞を呼ぶ。
『皇子』と。
***
建国日を三日後に控え、監理部は午前から部会を開いていた。
長卓と椅子が並べられる会議室には、五十名近い各室長と係長が集まり部屋は満杯だった。
最前列は長卓がひとつで残りの席と向かい合っている。その中央に魔族監理課長と妖魔監理課長に挟まれ、監理部長である男がひとり立って最後尾にぎりぎり届くぐらいの声で話していた。
「ええ、ということで例年通り見廻りの強化、各室長は常時待機をお願いします。これまで三体出現した巨大妖獣の対処につきましては発見次第局に報告し、付近の民間人の安全確保を優先させてください。駆逐に関しては妖刀で対応するということになりましたので黒羽室長、要請がありましたら担当区外でも出動お願いします」
部長が四十を超えてから一気に薄らいできた頭を下げて黒羽は了解しましたと答える。
「あとは、魔族監理課監理係、城藍室長から連続乳児誘拐事件についての報告があります」
自分の役目が無事終わりほっとした顔で部長が着席すると、指名された藍李が立ち上がりよく通る声で話し始める。
「乳児誘拐の被疑者の死亡現場にいた男の元に十歳前後の子供が訪ねてきていました。人間で局員が声を掛けると、魔族の女性に頼まれて金銭の受け渡しをしていたとのことです。子供は帝国の出身だそうで、反政府組織との関わりはないようです。魔族の女性の容姿ですが髪は黒で肩口までの長さ。見た目は二十代後半から三十代前半ぐらいで。左の中指か薬指に欠損があったそうです。無登録の可能性は高く…………」
淡々と報告する藍李の言葉の後半を黒羽はまともに聞けずに表情をこわばらせる。
髪の長さ以外は一致する人物を知っていた。反政府組織がらみとなると彼女で間違いない。
藍李が席に着く音で机の上をじっと見ていた黒羽は顔を上げる。目の前では部長が座ったまま他に何か報告がある者はと問いかけるが声は上がらなかった。
会議の終了する雰囲気にあたりの緊張が緩んでいく中、黒羽はひとり机に置いて組んである手に汗をにじませながらめまぐるしく頭を流れる光景に眉根を寄せる。
「……重要参考人の魔族の女、知ってます」
そうして険しい顔のまま立ち上がり静かにそう告げる。
「それはあなたのお父様の関係者、ということですか」
おずおずと問いかけてくる部長に黒羽が言葉もなくうなずくと場内がどよめいた。
魏遼将軍の、とどこかでつぶやく声が聞こえる。
黒羽は捨て子だ。
冥炎を抱えて山中で意識をなくし倒れていた幼い黒羽を拾い養父となったのは、玉陽の皇家に仕えていた魏遼将軍だった。彼は三十二年前に反乱を起こした反政府組織の実質の頭目とされる人物だった。
反政府組織の表だっての頭目は人間で代替わりしていまも存続しているが、魏遼将軍が九年前に捕縛され、不足の事態で死亡してからはなりを潜めていて目立った動きはしていなかった。
「あたしみたいな捨て子や孤児の面倒を見てた人です。名前は柳沙。監理局に引き取られてからは会ってないので居場所は知りません」
局に引き取られたあとに会いたくて探そうとしたが手がかりもなく、漓瑞にも探さない方がいいと諭されてあきらめた。
ただ、今でも綺麗だから伸ばしていなさいと言われた髪は邪魔くさいと思いながらも背の半ばより短くすることなくときおり彼女のことを思い出している。
こんな形で消息を知るかもしれないと全く思っていなかったわけではないが、いざそうなるとやはり胸が痛んだ。
「彼女の役目はそれだけでしたか?」
「あたしが知ってるのはそれだけです。あのときは、親父たちが何をしてるのかよくわからなかったんで詳しいことは何も知りません」
この国の状況を知ったのも局で教わってからだ。あのときは何も知らずに養父が教えてくれる剣に夢中になっていただけだった。
「本当に、知らないのか。この九年、その魔族はお前に一度も接触してはこなかったのか」
そんな尖った言葉を差し込んできたのは、いつも不機嫌そうに顔をしかめている魔族監理課の課長だった。
黒羽が知りません、と答えると魔族監理課長がそれは真実かとさらに口調をきつくしてくる。
「知りません!」
もとよりさして気が長い方ではない黒羽は睨みながら再び語調を荒げて返す。
「……反抗的だな。部長、黒羽室長には別室で時間を取って話を聞く必要があるのではありませんか」
この課長が自分のことを嫌っているのはよく知っている。
かといってこんな子供じみた嫌がらせをされるいわれはないし、我慢もできない。
「ちょっと横暴じゃない?」
黒羽が怒鳴りだす前に藍李がつぶやく。
小さな声ではあったが、静かな室内でその声は周りに届いた。そこから女性陣から魔族監理課長への非難の声が上がり始める。
全体の一割ほどしかいないが、女性陣の声は大きかった。難しい顔で黙していた男性陣もそれにつられ、自分が妖刀持てなかったからって、などとぶちぶちと文句を連ねていく。
「だいたいこいつがそんなややこしいことわかるほど頭よくないし」
となりの第二室の室長がそうつぶやけば、あとに男性陣がおおいにうなずき剣術馬鹿だからと付け足す。
庇ってもらっているのはわかるが、こう全員に頭が悪いと言われるのも複雑である。事実であろうと。
「現状で尋問は不当でしょう」
部長がうん、うんと首を縦に振る。
「そうですねえ。黒羽君もちょっと無茶しすぎるところもあるけど基本的にまじめな子ですし、今日もこうしてちゃんと情報提供してくれてるし、ね」
尚燕もそれに同意し、孤立無援となった魔族監理課長は苦虫をつぶした顔で黙り込んだ。
そうして会議は終わり、黒羽は部屋から出るとき最初に抗議の声を上げてくれた藍李の元へ行こうとした。しかし、その前に他の女性陣に囲まれてしまった。
「ほんとにね、ひどいわよねえ。大丈夫、いじめられたらお姉さんたちが何とかしてあげるから言いなさいよ」
「そうそう。顔も実力もいいもんだから妬んでるのよ、あのおっさん。ああ、けどやっぱり間近で見るといいわあ。年下の男と一夜の過ちって言うのも悪くないわねえ。一回どう?」
「……すんません、あたし一応女です」
うっとりと見上げてくる人妻にいつものことと冷静に声を返すと、夢見たっていいじゃないと言われてしまう。
「あいかわらず侍らせてるなあ、おまえ。おら、庇ってやったんだから誰かひとりぐらい間取り持てよ。藍李とか贅沢いわねえからよ、あの饅頭屋の子とか」
そこへ割ってきたのは、さきほど隣で黒羽のことを頭が悪いと言った同期の城藍係第二室長だった。
「あら、私ってそんな高値の花かしら」
藍李が息を呑むほど鮮やかで美しいのに、どこか人なつこく近寄りがたさを感じさせない笑顔で加わる。
「……俺が知ってるだけで二十人はお前に振られてるぞ」
「そんなにいたかしら? やっぱり身近にとびきりのいい男がいるせいで目が肥えるのかしら」
ちらりと黒羽を見ながら藍李がわざとらしいため息をつく。
「……おまえを敵に回したら局の女ども全員敵に回すことになるのになあ」
仏頂面で部屋を出て行く魔族監理課長に第二室長が声を潜めていった。
「……味方してくれんのはありがたく思っとく。でも本当に助かった。藍李が口挟んでくれなきゃあたしぶち切れてたからなあ。いっぺん剣で勝負して決着つけたいけど、相手はしてくれねえだろうな」
負けることを想定して勝負から逃げるのも気にくわない。おそらくこの先そりが合うことはないだろう。
「君たちそろそろ自分の持ち場に戻って報告しなさい。行動は迅速な方がなにかといいからね」
尚燕に軽い口調でたしなめられて、一同は表情を引き締めてはい、と応えた。
廊下に出て少しずつ共に歩く人間が減ってくると黒羽の表情は自然と強ばっていく。
みんなが自分の元に集まって賑やかにしてくれたのは気を遣ってくれてのことだろう。だが脳裏にこびりついている記憶はぬぐいきれない。
とにかく、早く監理局側で柳沙の身柄を確保してもらわなければならない。養父の二の舞にはさせない。
今は、あの頃より力があるのだと九年前には抜くことすら出来なかった冥炎の柄をきつく握り黒羽は城藍係第一室と木札のかかった扉を開ける。
「お疲れ様です」
ちょうど扉の前を書類を抱えて歩いていた漓瑞にいつもと変わらぬ笑顔で出迎えられ、ふっと張り詰めていたものが緩んだ。
そんな自分の単純さに自分自身で驚いてしまう。
返事もなく入り口に立つ黒羽に漓瑞が小首をかしげ、部屋で書類を片付けている部下たちも不思議そうな視線をよこしてくる。
「……ん、ああ。ちょっと誘拐事件に進展があった」
気を取り直して黒羽は会議での報告をする。
自分の席に戻った漓瑞の表情に一瞬陰が落ちたことに彼女は気づかなかった。
***
かつて女神は豊かな緑と水に恵まれた現在の江翠州の奥地を避暑の庭のひとつとし、一人の人間を庭番とした。庭番となった人間は住処として江翠の隣の城藍に城を与えられ、残り六州の土地も預けられた。
そして女神が消えた後に八州をまとめ玉陽という名をつけ庭番が王となったのが今日、この日だという。
つまるところ今日は建国日なのだ。
にわかに宮城の周辺の人々は浮き足立っている。王はおらずとも人々はこの日をひっそりと祝う。魔族も例外でなく、酔っ払いの喧嘩だの騒ぎすぎて器物破損だのは多い。そして暴動がもっとも起きやすい日でもあるので魔族監理課はもちろん、妖魔管理課も総出で役所のある場所を中心に見回り、各室長は丸一日局内で待機している。
例に漏れず漓瑞も担当区域をゆったりとした足取りで巡っていた。
市に群がる人々はいつもより多くの買い物をし、その顔は屈託ない。だが、役人の姿を見つけるとうつむいて表情を強張らせる。
そうして役人が通り過ぎると高楼を何かを乞う目をして見るのだ。
漓瑞は郷愁の思いを込めて高楼を見上げる。
あの高楼から町を見下ろした日はふりかえればあまりに遠く、しかしその光景は瞼を閉じずとも鮮明に浮かんでくる。
本来ならば十五まで皇族は民の目の前に姿を見せてはいけないが、この日だけは特別だった。全身をすっぽりと覆う外套と目だけ開いた白木の仮面は着用せねばならなかったものの、町を一望できる日を双子の姉と共に毎年楽しみにしていた。
――次は漓瑞よ。
姉の漓玲が屈んで仮面を外す。仮面の下の顔はまるきり同じなのに、外套を手渡してくるその手だけが違っていた。
刻印がないのだ。
人と魔族の間に双子が生まれたときに、人と魔族に別れてしまうことが稀にあることだそうだ。
物心ついたときはまだその違いに問題があるとはまるでわからなかった。
しかし祭典に母ではなく別の人が皇妃として出る意味を、自分の存在を国民の誰一人として知らない理由を知るのにそう時間はかからなかった。
監理局の取り決めで魔族は国主となれない。魔族と人間の混血ならば、その性質が人間に近ければ許されるが、そこまでの審査は厳しくもめごとも多いのだ。
――いずれ、お前と漓玲が護るべきものだ。ちゃんと見ておくんだぞ。
父は毎年必ずこれを言った。
もし、自分も姉も人ではなかったならどうするつもりだったのだろう。
それを訊いてみると何もかわらないと父は笑った。
魔族に関しては王位のほかに官吏としての登用の規制も厳しい。実際重職についている魔族は、祖父の代から何度も秀でた軍略をもって国を護り続けた将軍である伯父の魏遼と、戸部尚書の二人だけだった。
父は祖父の代に歪んだ国政の建て直しのなかで、監理局と交渉し規制を緩めんとしていたらしい。
しかしそれは叶わなかった。
父が二〇年近くかけて編んだ新しい税制の施行も、固まってきた各州との繋がりも、やっとできた監理局との交渉の場も、なにもかもがほんの半年足らずで帝国によって壊された。
女神の恵みといわれる鉄で作られた盾も剣も、蜜に群がる蟻の如く押し寄せてくる敵兵を潰すことは出来なかった。
城にまで戦火が及ぶ直前に戦場に出向いた父はそのまま戻らず、まだ十四だった姉も城から逃れる際に負った傷が元で数ヵ月後に帰らぬ人となってしまった。
あれから五十年近く経つ。
漓瑞は意識を今に戻す。
すれ違う人々の髪も瞳も黒くこの国にはありふれた色だ。しかし、色は同じでも明らかに面立ちがもっと西のほうの人間も多い。
ここ近年帝国側からは人がどんどん流れてきている。中央の官吏も半数以上が帝国から派遣された者ばかりだ。
このままでは玉陽の民は政から排除され帝国に搾取されるだけになってしまう。
そんなことは許せない。許してはいけない。
「お疲れ様です。こちらは異常なしです」
向かい側からやってきた局員に声をかけられ、漓瑞は固くなっていた表情をほぐす。
「こちらも特に何もありませんでした」
「このまま何もないといいですよねえ」
局員に漓瑞はそうですねと憂い顔で返す。
柳沙のことが漏れたのは予想外だった。しかしそう心配はいらないだろう。中央区から出るための東側と西側のふたつだけの橋は検問が厳しくなっているが、そちらに目が向いているなら隠し通路を使うのにはむしろ好都合だ。
ただ黒羽のことが胸に引っかかっていた。どうしてもあの子に辛いことを思い出させることになる。
もう背丈を追い越されて数年経つというのに、心細げに自分の袖を引いてただたどしく甘えてきていた幼い姿の印象が強い。しかし、実際黒羽も子供ではないし、局にはたくさん彼女の味方はいるのだ。
だから、大丈夫だ。置き去りにしたって黒羽は自分の道をまっすぐに歩いて行ける。
自分はただ烽火があがるのを待つだけだ。
「あの子は、大丈夫」
漓瑞はひっそりとつぶやき、水面に浮かべられた小舟のように不安定に揺れる心をなだめた。