六
空が近い。
欠けた太陽が元に戻ると同時に起きたすさまじい揺れの後、やっと立ち上がれた黒羽はそう思った。
「すごーい」
感情が追いつかないのか、平坦な口調で言いながらグリフィスがくるりと回る。
「これ全部、元に戻ったのか」
「そのようですね……。この層は王城だったんでしょうか」
周囲から瓦礫は消えていた。その代わりに赤茶色の石造りの建物が整然と並んでいる。どの建物にも枝が広く伸びる木や芙蓉に似た深紅の花が寄り添っていた。
そして中央にはひときわ大きな建物が見上げる高さにあって、頭上では巨木が枝を広げて笠になっている。
「黒羽、すごいよ! 高い!」
いつの間にか建物と建物の間の階段にいるグリフィスが興奮した声を上げた。
「だから勝手に動くなよ、お前は」
呆れる黒羽はグリフィスの元に駆け寄って口を半開きにする。
階段の奥には蔓草が絡んだ高い鉄製の柵があって、隙間から覗き込んだ下は果てしなかった。綿屑のように漂っているものは雲だろうか。
遠くに見えるタナトムの王都の家並みと、第九支局は親指の爪ほどの大きさにしか見えない。
「なにもかもが元に戻ったということですね」
最後に来た漓瑞が言うとおり、建物が元に戻っただけでなく地下に埋もれていたか崩れていたかしていた部分も再生したらしい。
「つーことは、下には行けるのか」
再生されたなら下層への道も元通りになっているはずだと、三人は再生された王城を巡ることにした。
「綺麗だけどなんか寂しいね」
緑と建物が調和する町並みは美しいのに、人が息づいている気配はまるでなく世界から取り残された気分になる。
警戒心だけは解かずに歩きながら、黒羽たちは舗装された道の通る森へと進んでいく。そこを抜ければ最初の日にやってきた巨大な像が左右にある通路にたどりつく。
「蜥蜴ですね」
漓瑞が像を見上げて黒羽もそれにつられて顔を上げる。
砕かれていた像の頭の部分は確かに蜥蜴の顔をしていて、瞳には大きな紅玉がはめ込まれている。
「蜥蜴は門番。ちょうど二十四体。あ、文字盤が再生されてる。黒羽、ちょっとこれ全部調べてみていい?」
「ああ。頼む」
グリフィスが言うのに黒羽は漓瑞と顔を見合わせてから答える。そうすると彼はすぐさま紙を取り出して、像の脇にある文字を丹念に写し取り始めた。
「何度見ても変な模様にしか見えねえな」
「理屈は分かっても上手く変換できませんね。アデルでも読めないということは、霊力があると読めないということかもしれません」
「また旧世界と現行世界の違いって奴か」
そもそも旧い世界と今の世界の区分というのがよく分からない。女神が眠る前と後では人も世界もまるで別物なのだろうか。
あまり難しい事を考えていると頭が痛くなってくるので、黒羽はそのあたりで考えるのを止めてグリフィスの動きを眺めていることにした。
全部を書き終えるたグリフィスは座り込んで書き上がったものを見つつ、別の紙になにか書き始めた。
「で、こうだから……ややこしいなあ」
ぶつくさと言いながらもグリフィスの手は止まらない。あっという間に紙面が埋まった数枚の紙が出来上がる。
「……あたしといい勝負だな」
黒羽はその紙を覗き込んでつぶやく。
かろうじて文字と判別できるものの、そこに並んでいるのはただの絡まった線に限りなく近い。考え事をしながら手を動かしているせいだろうがそれにしても酷い悪筆だ。
「昇降装置……回路……移動手段についてでしょうか」
「そう。ここは全部の階層の昇降装置とか通路の管理所。文字盤自体に仕掛けがあるみたいでなんかすごくややこしい。下まで降りないといけないんだよね」
「とりあえずしらみつぶしにするしかねえからな。でも地下って言ってたけど全部地上に出てきちまったからどうなるんだ、これ?」
地下に宝があるというがこの聖地丸ごと宝だとすると、さらに下があるかもよく分からない。
「降りてみるしかないですね。そもそも装置と言っても動くのですか?」
「わかんないよ。全部元に戻ってるんなら動くんじゃない? あれ、動力ってなんなんだろう。とりあえず試そうか。全部の階に行けるようにするから」
グリフィスが一番近くの像の脇の文字盤を押す。だが待てどもそれらしい反応がなく彼は首をかしげる。
「あってんのか?」
「あってるはずだよ。やっぱり動力に問題があるのかなって……なに?」
考え込むグリフィスの横を漓瑞が無言で通り、先ほど押された文字盤に触れると押された場所が淡く緑に発光した。そして足下の石畳も移動した。
「魔族でないと動かせないのかもしれませんね。二日目に来た時も反応があったでしょう」
そういえば足跡を調べていて漓瑞が同じように壁を押していて、何かが動いていたと黒羽は思い出す。
あれから妖魔に襲われ地下に落ちてグリフィスを見つけてと、ばたばたしていてすっかり忘れていた。
「あ、金貨があったところへの道ってそれで開いたんだ。俺が調べたとき絶対あんな道なかったもん。そうだ、黒羽もちょっと試してみてよ。霊力の有無も関係あるかどうか一応確認したいからさ」
グリフィスに言われるままに黒羽も文字盤を押してみたが反応はなく、やはりこの仕掛けは魔族に限定されているらしかった。
そして漓瑞がグリフィスの指示通に文字盤を押し、今度は昇降装置があるという場所へ行くことになった。
「今のとこ、なんにも襲ってこないな」
警戒はずっとしているが、蜥蜴の尻尾も見なければ葉擦れの音さえしない。ただ自分たちが石畳を歩く音だけがしている。
この静けさはかえって不気味だ。
「こちらが出向くのを待っているのかもしれませんね」
「それならそれでいいか。向こうから姿見せてくれた方が楽だしな」
「それって自分たちの有利な場所に誘い込もうとしてるって事だよね。大丈夫?」
楽観的に構えていた黒羽はグリフィスの言葉に少し考える。
「……そん時はそん時だな」
が、答えなど出るはずもなく言うと、グリフィスがきょとんとした後に小さく笑い声を上げた。
「俺、黒羽のそういうあんまり考えないところ好きだな。なんだか勢い任せって楽しい」
まるで褒められている気がしないが、グリフィスは邪気のない笑顔で自分を見ていて言い返す気力が萎えた。
「あまり勢い任せでも心配なのですけれど」
その代わり漓瑞がふっと遠い目をして言った。
学徒の頃や局員になったばかりの頃に、勢い任せにいろいろやらかしたことのある黒羽は返す言葉もなかった。
それからやはり襲撃はなく昇降装置のある場所へと近づいて、黒羽はふと見覚えのある景色に気づく。
中央に四角い蓮の浮いた池はおとつい探索した場所だ。
瓦礫が積み上がっていた四隅には、甘い芳香をそよがせる白い小花が咲く蔓草が絡んだ四阿がある。
青い空が視界いっぱいに広がるこの場所は先日とはまるで別の場所のようだ。
かつてはここで魔族達が四阿に置かれている籐の長椅子で、足を休めて景観を楽しんでいたのだろうか。
そんな風に遠い昔に思いを馳せながら黒羽は先へと進んでいく。
「これが昇降装置ですか」
道の片隅にある一昨日見た四角い石組みの暖炉の様なものに漓瑞が少し戸惑う。
「今は床があるな。よし」
最初に黒羽が乗り込んでグリフィス、漓瑞と続いた。そして漓瑞が内部の壁にある文字盤をグリフィスが言う通りうに押すとゆっくりと床が下がり始めた。
それと同時にふっと周りの壁が消える。
「消えたんじゃない、透明になったんだ……。すごい、街が見える」
グリフィスが見えない壁に両手をついて感嘆する。
「上の層まで続いてんのかな、あれ」
一番上の層と同じように眼下には、赤茶の石造りの家と緑が共存する町並みが広がっている。一部の建物は天井を貫くほどの高さがあった。
街の端とおぼしき場所には天井を支える大樹が何本もあり、樹と樹の間には蔓で出来た吊り橋が見える。
見える景色はなにもかも物珍しく、計算し尽くされた美しさがあって見入ってしまう。
「止まりませんね……」
二十三階層を通り抜けても各階層に止まるはずの昇降機は動き続けていた。
「俺、何にも間違ってないはずだよ」
「罠か? あの野郎のとこまで運んでくれるなら手っ取り早いんだけどな」
昇降機はどんどん下へと降りていく。
それに従って建物の規模は小さくなっていき、下層の方がどことなく慎ましやかな様相だ。
「階層ごとに住人の階級が違うんだろうね。すごいなあ」
黒羽達が見ていて飽きない景色を眺めているうちに、十二階層でようやく昇降機が止まる。周囲の壁が色を取り戻し外に出て驚いた。
辺りは森だった。
鬱蒼と蔦が絡みつく木々が覆い茂り、石畳も敷かれていない。
「中間層に森ってなんでだろう。全階層しらみつぶしに調べたいなあ……」
「それは全部終わってからだ」
黒羽は好奇心につられて、ひとりでふらふらと歩き始めたグリフィスの首根っこを掴んだ。
子供と同じで好奇心を抑えられないこの性質は困りものだ。本当に子供なら小脇に抱えているところだがそうもいかない。
「なんかいるのか?」
グリフィスを捕まえたままの黒羽は、左手の刻印から水を溢れさせている漓瑞に不安になる。
彼に緊迫感のようなものは感じないし、自分自身もなにも琴線に触れるものもないので何かがおかしい。
「いえ、なにもいないと思うのですが、ただこうしなければいけない気がして……」
漓瑞自身よく分かっていないらしくますます不安は強まる。
「漓瑞!」
不意に周囲の木々がざわめいて、木々に絡んでいた緑の蔦が一斉に動き始める。それが狙っているのは漓瑞だ。
黒羽は冥炎を抜いて炎を放とうとする。
「待ってください!」
だが漓瑞に制止されて黒羽は動きを止めた。
その間に蔦は漓瑞が零す水へと吸い寄せられるて集まっていく。渇きを癒やすかのように。
漓瑞はその様子を半透明の瞳で見つめている。彼の様子は玉陽で神に変質されそうになり自我を失いかけていた時の目とよく似ている。
「漓瑞……」
あのときのどうしようもない恐怖が蘇って来てたまらず名前を呼ぶ。
「大丈夫ですよ」
緩やかに蔦が元いた場所に戻っていき、漓瑞が微笑む。いつもと変わらない彼に黒羽は安堵の息をもらした。
「……でもなんか変だよ」
グリフィスが言いながら子供が怯えて寄り添ってくるのと同じ動作で、黒羽の側に寄っていく。
ぎしぎしと蔦が樹を締め上げ始める。
枝が折れ、木くずがばらばらと落ちてくる。このままでは倒れた木の下敷きになると、黒羽は再び冥炎に炎を纏わせるがその必要はなかった。
表皮が剥がれた樹は石の柱に変わっていた。それは真っ直ぐに道を示している。
「声が……」
漓瑞がそんなことをつぶやき石の柱の奥に視線をやる。
「行ってみるか」
自分には何も聞こえなかったが、とにかく示された道を行くしかない。
「グリフィス、お前はここで引き返すか?」
ふと見上げたグリフィスの顔は強張っていて、黒羽が尋ねたところ彼は首を横に振った。
「扉が全部閉められちゃってる。こんなの初めてだよ」
「逃げられないってことか。仕方ねえな。絶対にあたしと漓瑞から離れるんじゃねえぞ」
予測外の事態だがもうこうなったら一緒にいるより他ない。
黒羽達は漓瑞を先頭に歩み始める。グリフィスはさっきとは一変して静かに黒羽にびぴったりとついて来ている。
前を歩く漓瑞の足取りは淀みないが、顔が見えないことがどことなく落ち着かない。
しばらく歩いていると急に視界が開けて円形の広場に出た。石畳の隙間という隙間から伸びている蔦以外は何もない。
「っ! なんだ!?」
だが少し歩みを進めると床が溶けた。
「え、うわ、沈んでる」
「ふたりとも、落ち着いて……」
足が沈み込んだかと思うと景色が漆黒に呑まれるがそれもわずかな間だった。
何かかさついたものを踏みつける感触と共に、緞帳があげられるように世界があらわになる。
庭園だ。周囲は石壁でその表面に水がさらさらと流れ落ちていている。
下草や花が枯れ、石畳もひび割れて、荒廃した光景の中で地面を這う十数本の蔦の緑だけが異様な鮮やかさを見せている。
蔦は奥の階段へと伸びていて、一番上には四本の支柱が見えた。
そうして、支柱の中央。
「女の人がいるよ……」
石の椅子の上に蔦で縛り付けられたひとりの女がいた。浅く焼けた肌と深い緑の髪の、二十歳前後とおぼしき美しい女。
うつむき加減だった女が緩やかに顔を持ち上げる。そして彼女の瞳は真っ直ぐに漓瑞を捉え朱唇で笑みを作る。
そして何事かをつぶやくと椅子の背後からハティムンが現れた。
「よく来たな」
相も変わらず余裕ぶった笑みでハティムンはそう言って、もったいつけるようにゆっくりと階段を下りてくる。
「女神様がそこのチビを人間共からお救いしろだとさ。そうしたら人間共は昔のように俺らに従うっていうんだぜ。ほら、こっち来いよ。そんな奴らと一緒にいるよりずっといいぞ」
なんだかよくは分からないが狙いは漓瑞らしいと、黒羽は冥炎を構えて前に出る。
「させねえよ。てめえがこっちにきやがれ、この屑野郎が」
わざと挑発すると男がふっと笑った。
「妖刀なんざもう恐くねえぞ」
ハティムンの近くにある蔦たちがざわめき、螺旋状になって細い円筒を彼の前に形作る。そしてそれはほどけ、蔦が元に戻るとそこには一本の剣ができあがっていた。
ハティムンが剣の柄を握り黒羽に切っ先を向けて瞳を興奮にぎらつかせる。
「こっちは神剣だ」
そう告げる声はすでに勝者のものだった。
***
枯れ果て死んだ花が、草が宙を踊り青い炎に葬られる。
その炎と同じ色の闘争心を燃やす黒羽の瞳は、対峙するハティムンの視線、四肢、指先のかすかの動きでさえ捉え放さない。
大ぶりに降ろされた刃を受け止めはじき返して黒羽は後ろへ下がる。
動きは雑だがさすがに魔族だけあって腕力や脚力が人並み外れていて手強い。力を上手く受け流さなければ余計な隙が出来てしまう。
ハティムンが躊躇いなく踏み込んでくる。
黒羽は剣を受け止める前に刀身に炎を纏わせるが、それを気にせずに攻撃がくる。
刀身の炎は剣戟に霧散してしまう。
(厄介だけど、神剣とは違うな)
火、水、風、氷、雷。
主だったその属性のいずれも持たず高い霊力を刀身に宿らせるハティムンの剣は、神剣似ているが妖刀や魔剣と同じく禍々しい瘴気が絡みついている。
「どうだ、神剣に妖刀はかなわねえんだよな」
強い浄化の力を持つ神剣に瘴気で出来た妖刀が勝ち得ることはまずない。だが炎の散らし方など見ているとやはり別の何かだ。
「さあ、それならとっくにこいつは折れてるはずだけどな」
刃こぼれひとつしていない冥炎をしっかり握り黒羽も護りから攻めに入る。
一分も揺るぎのない連戟。
相手に力で押し返される前に引いて、力を入れ損なった隙を突いて打ち込む。
繰り返す内にハティムンは自分の呼吸を乱され受けきれなくなる。
やはり剣を扱い慣れておらず正攻法で攻めるとすぐに崩れる。
ハティムンの動きが大きくぶれて、黒羽は手首めがけて突きを繰り出そうとする。
「ちっくしょう!」
だがハティムンが腕を引いた瞬間彼の持つ剣の刀身が伸びた。
黒羽は喉元を狙ったそれを躱し冥炎の炎を放つが、銀色の何かが花びらのように舞い散って炎は引き裂かれて消える。
そして黒羽の体にも無数の細かな傷が出来る。
「くそ、風か。やっぱり神剣じゃねえな」
緑笙の扱う魔剣ラーゼンを思い出しながら黒羽は冥炎に炎を纏わせる。
「風じゃねえよっ!」
ハティムンはそこから高く跳んだ。
頭上から真っ直ぐ刃が伸びて来るのを避けると、そのまま地面に突き刺さる。そして刀身に鱗に似たものが生えて飛散する。
「手も足も出ねえだろ」
「さあ、どうだろうな」
黒羽は血を滲ませ全身がぴりぴりと痛むのに眉根を寄せて、視線を背後に向ける。
漓瑞は現れた蜥蜴たちからグリフィスを護りながら、女神らしき女の方へと向かっている。
多少の心配はあるが彼には彼なりの策があるのだろう。こっちはこの男を倒すのに専念するまでだ。
「分かってたって何にも出来ねえだろうがよ!」
また来る。あれをこれ以上食らっていたらさすがに身がもたない。
黒羽は温存していた霊力の出力をあげる。
刃の鱗は半分ほど炎に溶かされ、残り半分も勢いを失い黒羽まで届くことはなかった。
「さっさと投降するんだな」
底光りする青鈍色の目で見据えられ、ハティムンが一歩下がると足下の蔦が蠢いた。
来るか、と思ったが蔦はハティムンの方へと向かって行って彼が持つ剣の刀身に絡みついて離れる。
「それだけの攻撃、いつまで保つんだろうな」
笑ってハティムンが再び刀身から鱗を撒き散らし、青い炎はそれを呑み込む。
確かにこんなもの何度も放たれたら霊力も体力も保たない。
「自分で歩いて投降させるつもりだったけど無理そうだな」
炎の波をハティムンと自分の周りを走らせる。
男がまた上に跳ぶ。
「多少の痛い目は我慢しろよ」
銀の花びらが散って、周囲でわだかまっていた炎が逆流する滝のようにハティムンめがけて昇っていく。
逃げ場はない。
ぎりぎりで炎がかき消えるが、迫り来る猛火にすでに彼の平常心はなかった。
ハティムンが降り立つ。
その爪先が地面につくと同時に背後に回っていた黒羽は、身を屈めて足の腱を狙って刀を薙ぐ。
血と不快な絶叫が同時にあがった。
「殺す気かてめえ!!」
ハティムンが前のめりに倒れてのたうち血走らせた目で見上げてくる。
黒羽は彼にはかまわず冥炎を鞘にしまう。
「殺すかよ。とっ捕まえて来るって約束したからな」
言いながら黒羽は落ちている剣を拾い上げた。
指先から伝わってくる感触は神剣でなければ妖刀や魔剣でもない。ただ長く握っているのは気味が悪く男から離れたところへ投げる。
「さ、あっちと合流しねえとな。治療は後でしてやるから大人しくしとけよ」
魔族なのでこの程度なら動けないだけで大丈夫だろう。
黒羽は漓瑞達と合流するために男に背を向ける。
その時周囲の蔦がざわりと蠢いた。
「駄目よ、殺しなさい」
庭園中に女の声が静かに響く。
背後で何かが動く気配がして振り返った黒羽は、目にした光景に自ら倒れこむ。
放り捨てたはずの剣が伸びて来ていたのだ。
すぐに体勢を整えて黒羽は剣を抜いて、動けないはずのハティムンが立ち上がるのを目にして歯噛みする。
「くそ、死なれたら困るっつーのに」
ハティムンは蔦に手足を絡めとられて糸で動かされる人形のように体を動かされていた。足の痛みに悲鳴を上げもがいていた彼の目が次第に虚ろになっていく。
そして最後に蔦がハティムンの手に剣を握らせた。
一気に瘴気が吹き出す。
「こりゃ本気でいかねえとまずいな」
これまで感じたことのない、あまりにも強い毒を孕んだ瘴気に肌が粟立ち、黒羽は苦々しくつぶやいた。
***
「ねえ! どうするんだよ、あれ! もう黒羽ぼろぼろだよ!?」
漓瑞は狼狽するグリフィスを蜥蜴たちから護りつつ、女神らしき女の元へと向かっていた。
「あの子はそう簡単に負けはしないから落ち着きなさい。瘴気の元を止めることが先決です」
さきほどから騒がしいグリフィスに苛つきながら、漓瑞は黒羽を視界の端に写す。
傷は出血の割にはおそらくそう深くないだろう。それより鱗を撒き散らす攻撃を防ぐのに霊力を多量に消耗してしまう事が不安だ。
全ての瘴気の源はあの女だ。蔦を介していたるところに瘴気を振りまき妖魔を発生させているのだろう。
剣が出現するときに確かに強い瘴気を感じた。そうして今はもはや疑いようもなく濃い瘴気が蔦から噴出されている。
「止めるって、どうやるんだよ。うわ、危ない」
グリフィスの視線の先では黒羽が寸前で迫り来る切っ先を躱して、敵の懐に飛び込もうとしていた。
「見ていないで早く来なさい。置いていきますよ」
漓瑞は群がってくる蜥蜴たちに水を浴びせかけて滅し、立ち止まっているグリフィスを叱咤する。
この庭園は特殊な力が働いているせいか目測より遙かに広い。もたもたとはしていてはいつまで経ってもたどり着けない。
「うわあ、すごい。下が水路になってる」
階段の真下へ続いているだろう石畳は細い水路に浮いていた。水底には枯れた草花が沈んでいる。
これは利用できるかもしれない。
漓瑞は水路の周りの水に自分の手の甲から溢れさせている水を流し込み、一気に持ち上げる。すると瘴気を浄化する水の壁が道の左右に出来て、蜥蜴たちが入り込めなくなった。
周囲の水を自分の力と同化出来る、というのは何度か試したことはあるが、やはり以前よりずっと扱いやすくなっている。
「あと、少しならいいのですけどね」
階段が少しずつ近づいてくるものの、目で見える距離は頼りにならいのであとどれくらい行けばいいのか分からない。
そう不安に思っていたが思ったよりも早く階下にたどり着く。水を収めても蜥蜴たちは追ってくることはなかった。
「姉様」
声が聞こえて漓瑞は階段の上で笑っている女を見上げる。こちらを見ているようでどこも見ていない翡翠色の瞳に寒気がする。
「あの人なんか恐いよ」
小柄な漓瑞の後ろに長身のグリフィスが怯えて隠れた。
「早く、早くここから出して。迎えに来てくれたんでしょう。ずっとずっと待ってたのよ。姉様!」
椅子からは立ち上がれないらしく、女が上半身を少し前に出して叫んだ。
彼女に巻き付いている蔦は唯一外に通じるものであり、ここに縛り付けるためのものでもあるらしい。
漓瑞は振り返り、男と対峙する黒羽を見下ろす。
黒羽の動きはまだ鈍っていないしまだ拮抗している。むしろ勢いを増しているがそれは返って危うく見える。
焦りを覚えて漓瑞は躊躇わずに女の前に立つ。
緑の蔦は女の両手の甲の刻印から伸びている。よくよく見れば刻印は濃い緑色のものの上に剥がれかけた薄青のものが重なっていた。
剥がれかけている刻印に見覚えがあって漓瑞は自分の左の手の甲を見る。
同じだ。
魔族の刻印はひとりひとり異なるもので、同一の物があるなどあり得ない。自分とまるきり同じ存在がひとり歩きしているようで気味が悪い。
「……今すぐあれを止めてください。このままではあの男まで死んでしまいますよ」
会話が成立するのかは分からないものの声をかけてみると女が凝視してくる。
「姉様はいつもそうね。人間も同族も大事にしてる。でもわたしたちは決めたのよ。人の血を受け入れるぐらいなら何もかも一緒に終わらせるって」
姉様、というのは自分の祖先である女神のことか。
「要の変質……」
漓瑞は藍李から聞いたことを思い出しながら、自分の刻印と女の手の甲にある刻印を見比べる。
自分の祖先たる玉陽の女神は、世界を統合した神に並びうる力を持つ世界の要となる四人の神のひとり。
アデルによって要のひとつの封が解かれ、すでに世界は変質し始めているという。
それによって、この女神は目覚めたのか。
「姉様、ほら、早くして。出して、一緒に…………姉様、じゃない?」
不意に女の瞳が揺らぐ。
「ねえ、ねえ。ちょっとまずいよ」
「大人しくしていなさい」
漓瑞はグリフィスが腕を引っ張って来るのをを振り解いて身構える。
「どうして、姉様と同じなのに違う、違う。どうして。取り除かないと。あの子達のように汚らわしい人の血を取り除かないと」
蔦が一斉に向かって来て漓瑞は水の膜を自分とグリフィスの周囲に張り巡らす。
緑が水に溶け込んで、水の膜に今まで見ていたものと別の景色が映し出された。
それは玉座の間。
旧い、旧い失われた歴史の断片がそこにはあった――。
***
水鏡に映り込んだ女の後ろ姿が姉に似ていて漓瑞は息を呑む。
だがその横顔はかすかな面影はあっても姉とは全くの別人だった。おそらくこの女性が自分の祖先たる女神。
祖先の女神と対峙するのは酷く疲れた顔で玉座にもたれかかるタナトムの聖地の女神。
『裏切り者』
瞳だけに異様な生気をぎらつかせてタナトムの女神は口を開く。
『……最善の策です。何も失わないために、このままでは――のようになってしまう』
言葉が意図されたかのように乱れて一部が聞こえない。
『いいのよ。わたしたちも人間達を道連れに滅んでやるわ。あんな家畜の血を受け入れるなんでごめんだわ』
タナトムの女神が唇を歪めて笑みを作ると、玉陽の女神は刻印の刻まれた両手を水を掬う形にして持ち上げる。
そこからゆっくりと水がわき上がってきて、タナトムの女神が哄笑をあげながらゆらりと立ち上がる。
『もうすっかりあの女の言いなりなのね。それとも与えられた伴侶がそんなにも気に入ったのかしら』
玉陽の女神は痛ましげに目を細めて掌から水を溢れさせる。
翡翠色の水が玉座の間に広がっていく。立ち上がったままだったタナトムの女神は両手の甲から蔦を伸ばすがそれは彼女自身に向かっていき、彼女の体を玉座に縛り付ける。
『いつか、いつか時が満ちるときがきたらいずれまた会いましょう』
穏やかに玉陽の女神は言う。
『おやすみなさい、トゥイリャ』
そうして最後に優しく妹の名を囁いた。
タナトムの女神はその言葉を聞きながら小さく笑って、そして瞳を閉じる瞬間に涙をこぼす。
滴は波紋となって水鏡が揺らぐ。
そして弾ける。
次に漓瑞が目にしたのは瞳を見開いて唇をわななかせているタナトムの女神だった。
「ねえ、なんで水の壁が消えたの? 勝ったの?」
グリフィスが問いかけてきて、漓瑞はあの過去の景色が自分にしか見えなかったらしいと知る。
それより、タナトムの女神の異変が気になった。
「おかしいわ。人間じゃない、同族でもない、妖魔? 違う、どれも違うあれは、何?」
女神の視線の先をたどり、漓瑞は眉根を寄せる。
「なんだか、黒羽さっきよりすごいね」
グリフィスも気づいたらしく、蒼い炎の奔流の中心にいる黒羽に不安を滲ませた声でつぶやく。
冥炎の勢いが尋常ではない。暴発しているわけでもなく器用に操っていている。
しかしいくらなんでもあれだけ放出していると霊力も体力も危ういのはもちろんだが、対峙するハティムンまで消炭になりかねない。
黒羽の精神ははたして正常なのだろうか。
「あ、敵の剣が折れた! 勝てそうだね!」
興奮気味のグリフィスが黒羽の頭上で旋回する刀身を目で追う。
「……終わらせないわ」
タナトムの女神がまた瘴気を送り込もうとしている気配を肌で感じて、漓瑞は手の甲から残る霊力全てを注ぎ込んで水を溢れさせる。
もう一度、封印をすることは出来るはずだ。
扉を閉めて、鍵をかける。
脳裏には知らなかったはずのことが知識として浮き上がってきていた。
水の流れで蔦を包み込むとそれらが従属するのを感じる。
「下がりなさい」
命じると蔦は全てタナトムの女神の元へと帰っていく。
「嘘よ。どうして……」
蔦が思い通りにならなくなり、タナトムの女神が体を揺り動かす。
あとは、鍵をかければいい。
漓瑞はゆっくりと口を開いて頭の中で鳴り響く音をひとつひとつ丁寧に紡いでいく。
「トゥイリャ」
名は個を個とさせるもの。
明確に世界との区別をつけて分離し闇の奥底へと誘う。
力が自分の内側で鬩ぎ合う感覚に足下がぐらついた。
「眠りなさい」
それでも支配権を握り、漓瑞は慈悲もなく冷ややかに命じる。
タナトムの女神の両の手の甲の薄まっている刻印が色濃くなり、放たれた淡い光は庭園内を満たしていった。
***
(物足りない……)
黒羽は叩き折った刃が宙を跳ぶのを見ながら、どこか霞がかかった頭でそう思った。
どくどくと体の中心からわき起こってくる霊力をぶつける先が欲しい。
もっと、確かな手応えが欲しい。
対峙していたハティムンが蔦に操られながら折れた剣を構えるのを、黒羽は冷めた目で見る。
冥炎をしまい、蔦に操られ襲い来るハティムンを躱す。そしてそのままその背中を蹴り飛ばす。
枯れた花に埋もれたハティムンが蔦に引っ張り上げられようとしていたが、動きは鈍く半端に持ち上げられていた体がまた地面に落ちる。
その姿にひとつの思考が閃いて黒羽は冥炎を握り直す。
だが思考は周囲に溢れる光によってかき消された。顔を上げて黒羽は光源を見る。
「漓瑞……」
ぼんやりと名前を呼んで、彼の体が膝から崩れ落ちるのを見て、頭の芯が痺れている感覚が吹き飛ぶ。
「漓瑞!!」
駆け寄ろうとしたときに光が一気に周囲の全ての色を呑み込んで真白くなった。
眩すぎる周囲に反射的に目を瞑らずにはいられない。
そして次に目を開けたときには辺りの景色が緑の森に一変していた。
黒羽のすぐ近くで漓瑞がよろめきながら、グリフィスに背を支えられて立ち上がっている姿があった。
さらにその後ろには蔦にがんじがらめにされている男ふたりが倒れている。
「漓瑞、大丈夫か?」
黒羽は青ざめた顔で声をかけながら近づくと、漓瑞が呼吸をひとつ吐いて顔を上げる。
汗ばんで息が上がっているものの、彼の体に大きな以上はないようだった。
「霊力は使い果たしましたが、タナトムの女神を封じることは出来ました。これでもう妖魔は出現しないはずです。あのふたりはおそらく運び屋でしょう。黒羽さんも、大丈夫ですか? 深手を負ったりはしていませんね」
「……問題ない」
それは嘘だったがここで話すより後でゆっくりと聞いてもらいたいことだったので、黒羽はそのひとことでこの場はすませた。
漓瑞は全てくみ取ったのか、かすかにに瞳を不安に揺らめかせた。
「ねえ、あの魔族たち生きてるの?」
グリフィスに言われて黒羽は慌てて生死の確認をとって、とくに問題なく意識を失っているだけだと分かって安堵する。他のふたりも特に問題なさそうだ。
「さあ、こいつ連れて帰るか……」
運ぶにしてもさすがに大人の男三人は応援を呼ばないといけないと考えていると、少し遠くで声が聞こえてくる。
「……尚燕課長のようですね。あと緋梛さんも。どうやって入ってきたんでしょうか。むしろここは聖地の内側ではないかもしれませんが」
「聖地の中だよ。扉の位置とかちょっとかわっちゃってるけど間違いない」
よく分からないがとにかく黒羽は声を上げてふたりを呼ぶ。しばらくすると疲労困憊といった様子のふたりが森の奥から出てきた。
「ああ、やっぱり黒羽君達だ。よかったー。なんか光が見えたと思ったら妖魔が消えたからそうじゃないかなあと思ったんだよ」
「ちょっと、ぼろぼろじゃない。血、いっぱい出てるし。ああ、もう。あんな蜥蜴に手間取るんじゃなかった」
詰め寄ってきた涙目の緋梛の頭を撫でて黒羽は落ち着けとうながす。
「心配かけて悪い。地味に痛いけどこの通り無事だからよ。それは後にして、今、何がどうなってるかだな」
尚燕の話では日蝕の後から聖地の周囲にあの蜥蜴の妖魔が大量発生し、支局員総出で処理にあたっていたということだった。
そして光の柱が聖地を貫くと同時に妖魔が消滅したという。
「もうこっちも霊力すかすかになっちゃうところだったから助かったよ」
尚燕と緋梛が霊力を使い果たすほどとなれば、途方もない数の妖魔がわきでていたのだろう。
もしこのふたりが応援に駆けつけてなければ、酷い惨状になったかも知れないと考えるとぞっとした。
「この聖地は要の変質の一端ということでしょうか」
聖地は高層の不可解な建物の状態を保っていて、ここは一階層であることを聞いた漓瑞がそうつぶやいて自分たちの現状も少し話す。
「ううん、本局でゆっくり考えた方がよさそうだねえ。よし、支局の人たちのところに戻ろうか。いつまでも姿くらましてるわけにもいかないしね。後は……レイザスの皇帝陛下っていうのは君かな」
尚燕が黒羽と漓瑞の後ろにいるグリフィスに声をかける。
「うん、そう。俺は出ちゃまずいんだよね。もうちょっとあちこち見て回りたいしそれからひとりで帰るよ」
「瘴気ももう出てねえし、道も使えるなら問題ないだろうけど今日のところはもうこれで終いにしといて休んどけ」
一同の中で一番負傷している黒羽が言うのに、グリフィスが唇をとがらせた。
「わかった。また明日にする。黒羽は……明日は無理だよね。いつならいい?」
「護衛に関しては西部局側にお願いします」
黒羽に向けられた問いかけを漓瑞が事務的な口調で笑顔で切り捨てる。
「護衛とかじゃないよ。友達だから一緒にいろいろ見て回ろうって言ってるんだよ。だからお前はいらないからな」
「聖地の中に特に理由もなく入るのは出来ねえからそれは無理だぞ。仕事って理由つけるなら漓瑞は一緒にいなきゃなんねえしな」
黒羽にまで無理と言われてグリフィスがえー、と不満の声をもらす。
「じゃあ、別のとこで遊ぼうよ。そうだ、俺の家とか。広いし!」
それはレイザス皇帝の城といえば想像もつかないほどの敷地をほこるだろうが。
その敷地内で十八のいい年をした男とかくれんぼなり鬼ごっこなりするんだろうか。
それなら他に子供を集めた方がよさそうだ、などとくだらないことをつい本気で考えてしまう。
「それはまた……」
言っている途中で視界が暗転して黒羽がその場にしゃがみ込む。思ったより血が流れていて貧血を起こしたらしい。
「黒羽!? え、怪我痛いの?」
グリフィスが目をまん丸くしてうろたえ、冷静ながらも心配そうな表情で漓瑞が冥炎を支えにして立ち上がろうとしていた黒羽を止める。
「貧血でしょう。黒羽さん、無理はしないで座っていてください」
「おう。そうしとく」
疲労感もあって黒羽は素直に座り込む。
「ちょっと、大丈夫じゃないじゃない! もう、医務部呼んでくるからそこでじっとしててよね」
緋梛が言うや否やすぐに背を翻して森の奥に消えていった。
「なんかすげえ、あとで抱きしめときたいな……」
可愛い妹の後ろ姿をたまらなく愛おしく感じて、黒羽は口元を緩めた。
「さて人が来るから皇帝陛下は隠れてほしいんだけど」
「……じゃあ、帰る。黒羽、遊べなくてもこれからもずっと友達でいてくれるん、だよね」
屈んで視線を合わせてグリフィスが幼い瞳で恐る恐る問うてくる。
「ああ。連絡くれたら返事はする。……お前のこと、もうちょっといろいろ知りたいし友達なんだからもっと仲良くはなりたいからな」
淡く微笑んで黒羽が局の子供達にするようにグリフィスの蜜色の髪を撫でると、彼は照れくさそうに乱れた髪を直してうなずいた。
「俺も黒羽のこともっと知りたいから、また会いに行くよ。お大事にね。ばいばい」
グリフィスが立ち上がって次の瞬間には輪郭を朧気にして消える。
「これは、すごいね」
その様子を尚燕が糸目をいつもより少しばかり開いて感心する横で、漓瑞が呆れ混じりのため息をつく。
「黒羽さん、あなたという人はまた面倒なことを引き受けて……」
「あいつ自身悪い奴じゃねえしな。ああいうのはなんかほっとけねえし」
「放って置いてかまわないんですよ。本当にあなたは……」
漓瑞が少し不機嫌そうに言うのに黒羽は苦笑する。
事情が事情なので漓瑞とグリフィスが仲良くなるのは当面無理だろう。
そしてそれから少し経つと緋梛が医務部の局員や他数名を引き連れて戻ってくる。その中にイジュの姿も見えて黒羽は手を振る。
「片付いたぞ。これでどうにか約束は果たせたな」
イジュが泣き笑いの表情を浮かべて局員に運ばれていく両親殺しの魔族を見る。
「ありがとうございます。黒羽さんも無事でよかったです」
治療を受ける黒羽の傍らに座り込んでイジュはぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「でも、でも、ルークン係長は……」
周りの局員達が顔を伏せ、全てを察した黒羽がイジュを抱き寄せる。
黒羽は言葉はかけずにその慟哭を受け止めて彼女が泣き止むまで、ずっとその背に手を当てていた。
見上げた木々の隙間から覗く青く澄んだ空のように、出来るだけ早くイジュの心にも光が差し込むことを強く願いながら。