四ー2
***
一度警備係に戻ったイジュは早退を申し出て医務部に来ていた。
頭の中がぐるぐるする。あの資料の中にルークンの名前を見つけた瞬間に彼がただ熱心に捜査を続けていてくれたのではなかったのだと分かった。
それでもどこかで信じたい気持ちはあって、わずかな希望を持って黒羽達についていったが灰色だった疑惑は真っ黒に塗りつぶされただけだった。
「外にいますから何か変調が見られたらすぐに呼んでください」
イジュがルークンの病室に入ると常時付き添っている医務部の局員が入れ替わりに出て行き、それに頭を下げて寝台の傍らある籐椅子に腰を下ろす。
寝台の上にはルークンが眠っている。三十半ばというには髪に混じる白いものが多く、その顔に刻まれる皺も苦労の後が見える。
『大丈夫だ、犯人は俺が必ず捕まえてやる。だから思い出したことがあったならすぐに言いに来い』
そう言ってくれたルークンは立派な局員に見えた。この人ならいつかきっと本当に両親を殺害した魔族を捕縛してくれると信じていたのに。
「嘘つき」
口から漏れ出た言葉は自分でも驚くほどどす黒い感情が滲んだものだった。
この人を詰りたくてここに来たわけじゃなかった。まだ自分の口から全てを語ってくれことを確認したかっただけだ。
なのにもう胸の中は煤けていて、今は何を口にしても恨み言しか出なさそうだ。
「失礼、します」
もう自分の部屋に戻ろうか、それとも親代わりの先生の所へ行こうか。
迷いながらもその場から動けずにいると、簾をめくり上げ男が入ってきた。
見慣れない男だったが、局員の数は多く全員の顔を把握しているわけではないのでイジュは特に不思議がることもなくこんにちはと声をかける。
「君、イジュ君、かな。確かご両親が……」
「はい、そうです。あの、ルークン係長の同僚の方ですか?」
魔族監理課に属している雰囲気がない、細身で貧弱そうな男にイジュは首をかしげる。
「いや、同期だけど部署は違うんだ。ルークンがこんなことになってしまって驚いたよ」
男は部屋の隅から籐椅子を取り、イジュの隣に座る。
「ルークン係長はとは親しいんですね……」
隣に座られて出るに出られなくなったイジュは、男が膝の上で落ちつきなく何かを爪弾く動作をしていることに気づいて顔を強張らせる。
この男は経理部の人間だ。たまに職務中以外に気を落ち着かせるために、無意識にそろばんを弾く動作をしてしまうという人間がいるというのはいつか聞いたことがある。
「もしかして、経理部の方ですか? 前にルークン係長が知り合いがいるって話してたので」
声が上擦らないように気をつけながらそう問うと、男の頬がぴくりと動いて緊張しているのが見えた。
心臓がどくどくと激しく鼓動する。
なぜこの男はここに来たのだろう。
「そうだよ。ルークンから聞いたのか」
「はい。あまり詳しくは聞いてませんが、経理部に古い友人がいるって言ってました」
男が座っているのはちょうど自分の右側。短い黒髪のおかげで男の左耳に揺れる局員章は見える。
「そうか。君のことも聞いているよ。大変だったね。今回の事件は関わりがあると思うかい?」
「自分は担当外なのでよくはわかりません」
局員章の名前を読み取ろうとイジュは視線をあげる。
「そういえば君は警備係だったか。今は本局の人たちが来ていてそちらも大変だね。……君が彼らの案内をしてたけど向こうから指名されたのかい?」
薄暗い中で局員章の文字は読み取りづらかった。
「いいえ。ちょうど手が空いていたから係長に言われたんです」
イジュは少し目を細めてみた。そしてひとつひとつ文字を丁寧に拾って頭に焼き付ける。
あとは、どうするべきか。
「早く、よくなって目覚めて欲しいね」
まるで感情のこもっていない男の言葉にイジュは背筋が冷たくなった。
怪しまれないようにルークンの容態を急変させることは、この状態なら可能かもしれない。
「あたし、まだしばらくここにいるつもりなんですけど邪魔ですか?」
作り笑いを浮かべて問いかけると男がいや、と言いながら立ち上がる。
「顔を見に来ただけだから。じゃあ、また」
男が部屋を出て行きイジュは緊張していた体を弛緩させる。
心臓はまだ激しく動いて、脇の下や背中が汗で冷たい。
呼吸が整うまでじっとしていたイジュはルークンの側から離れ、そっと簾をめくって部屋の外を窺う。あの男はもう近くにはいないだろう。
「どうされました?」
「えっ、あ。本局の方から言われていたことを思いだしたので。意識が戻るまでは医務部の方に、部屋の中でずっと待機してもらって下さいって言っていました」
外の長椅子で待機している医務部の局員へ咄嗟にそんな嘘をついた。
どことなく不審なまなざしを受けながらも、イジュはそのまま部屋を出て黒羽の所へと向かう。
急ぎ足で様々なことに考えを巡らす彼女は気づかなかった。
医務部から客室のある棟へ繋がる廊下が三本交わる場所、そのちょうどイジュから死角になる位置に潜んでいた先ほどの男と黒羽をつけていた男が共にそっとその後を追い始めたことには。
***
客室に入ったイジュは黒羽たちの姿見えずに戸惑っていた。
「どうしよう……待ってた方がいいかな」
ルークンのことも気になるので早く病室へと戻りたい、と考えてイジュは携帯用の文箱を帯から取り出す。
そして符を作るための紙に医務部であったことをしたためていると、簾をめくり上げる音がしてイジュは顔を上げる。
安堵の表情を浮かべかけた彼女は、部屋に入ってきたふたりの男の姿に顔を凍り付かせた。
「なんの、用ですか?」
片方は医務であった男。もう片方のぽっちゃりとした男は知らないが、ふたりとも目的は同じだろう。
男達が無言で近づいてきて椅子から立ち上がったイジュは後退る。
「お前だろ。本局に横領を密告しやがったのは」
「知りません。何のことですか?」
見覚えのないほうの男が憎々しげに言うのにイジュは首を横に振って腰帯の裏側に仕込んである符をそっと取り出す。
相手は経理部の人間だ。自分でもどうにかできるはずだ。
「だったら、これは何かな。僕がルークンの口封じしに来たのかもしれないって書いてあるけど」
医務部に来ていた男が机の上の書きかけの紙をとった。
「くそっ、あの野郎やっぱり裏切ってやがったか。自分になんかあったら本局の連中に洗いざらい全部喋れって言われてたんだろっ!」
唾を飛ばして詰る男に足が竦む。
頭では勝てると確信を持っているのに、自分より体格のある男ふたりを前にするとどうしても恐怖が先立ってしまっていた。
「大人しく一緒に聖地に来てくれないか。そうしないとみんなあいつに殺されてしまう」
片方の男の表情は落ち着いて見えるが、声に焦りが出ていた。
「どういうことですか。あたし本当に何も知らないんです。ちゃんと説明してださい」
本当に訳が分からないとイジュは混乱しながらも、いつでも符を放てるように指先に霊力を集める。
「ルークンから聞いてるだろうが。俺らの家族が人質に取られてるって! いいから来い!!」
大きい方の男の手が伸びてきてイジュは符を放つ。的は大きく外れることはなく、男が悲鳴をあげて焼け爛れた腕を押さえて倒れ込んだ。
そこまではよかった。
だが人に向けて符を放つのは初めてで、負傷し目の前で痛みに呻く姿と独特の匂いに足が震えて動けなくなった。
「親子揃って邪魔しやがって。お前も殺してやる。この際、死体でもいいんだっ!」
その間にもうひとりの男が短刀を取り出して向かってきていた。
(やっぱり父さんと母さんは口封じに殺されたんだ……)
男の言葉に両親の最期の姿がよぎる。
「いや。やだ。あんたらに殺されるなって絶対に嫌!!」
イジュは間近に迫る切っ先を避け、勢いを殺せずに前につんのめる男に体当たりして部屋の外に向かう。
しかし床で倒れて呻いている男に足を掴まれて転ぶ。
「いや、離して! こんなところであたしを殺したって聖地まで行けないわよ。すぐに捕まるわ!」
石の床の強かに打ちつけた肩や顎の痛みをこらえてイジュは叫ぶが、短刀を持った方の男はじりじりと近づいてくる。
その目は血走っていて、すでに冷静さの欠片も見えなかった。
「全部、全部お前とルークンのせいだ。お前らの、お前らの」
ぶつぶつと言いながら男が短刀を振りかざす。
イジュは自分の足を掴んでいる男の手を蹴り飛ばして急いで符を投げつける。
だが中途半端にしか霊力を込められなかった符は、男の肩口に当たれどたいした威力は発揮できなかった。
それでもわずかながらも男が怯んでイジュは駈け出す。
そして簾の外に出ようとして誰かとぶつかったかと思うと、そのまま片手で抱き寄せられた。
真っ暗な視界の外で石と金属がぶつかる音と、男がひしゃげたうめき声を上げるのが同時に聞こえる。
そのあと体を解放されると刀を持った黒羽が、床に倒れた男の側に落ちている短刀を拾い上げている様子が見えた。
「大丈夫か?」
男が動けないのを確認して振り返った黒羽に、イジュは、はい、と声を震わせて小刻みに首を縦に振った。
「怪我、はちょっとしてるか。ったく、こいつら局内で何やってんだ」
擦り傷の出来たイジュの顎に眉根を寄せて黒羽が倒れた男に目をやる。
一瞬、黒羽が斬ってしまったのだろうかと思ったが、血は流れておらずよく見れば妖刀に鞘はついたままだ。
「おい、大人しくしてねえと無理矢理黙らせるぞ」
大きい方の男が立ち上がろうとしていたが、黒羽にねめつけられその場に座り込んだ。
「わ、わかった。そいつは大丈夫なのか? 手首が……」
短刀を持ってきた男の片手が、本来ならあり得ない角度で曲がっている方ことに気づいた大きい方の男が戦く。
「向こうも勢いついてたし、こっちも加減出来なかったから折れてるだろうけど、二撃目は加減したから肋は大丈夫だろ」
どうやら黒羽は最初に短刀を持っている手首を鞘のついたままの妖刀で打ちつけ、その流れで男の体に突きを入れたらしい。
一瞬で的確に男を打ちのめした黒羽をすごいと思うと同時に、自分の戦い方の不格好さが情けなくてイジュはうなだれる。
「どうした、どっか痛いか?」
さっき男を睨みつけていた目とはまるで違う、心底心配そうな優しい青鈍色の瞳にイジュは首を横に振った。
「怪我は、たいしたことないです。あの、この人達経理部の人たちみたいです。ルークン係長とあたしが本局に横領のことを密告したって。あと、家族が人質に取られてるって」
「人質? どういうことだ?」
黒羽が大きい方の男に問う。
「あんたら運び屋の魔族捕まえただろう。それで、あいつが怒って」
「いや、ちょっと待て。そんなの知らねえぞ。いつの話だよ」
「聖地の調査なんて嘘で横領の内偵に来たんじゃないのか?」
手首が折れている方のどうにか男が身を起こし、近くの机にもたれかかりながら呆然と言う。
「あー、もう訳わかんねえよ。最初からちゃんと説明しろ」
黒羽が額を押さえて言うと、男達はのろのろと喋り始めた。
一週間前、いつものように横領した金貨などを聖地に隠しに行ったふたりの魔族が、消息を絶ったということだ。
「殺された財務官が国が横領について探りを入れ始めたかもしれないって言ってたし、ルークンの野郎も、もう関わりたくないって言い始めてたから運び屋共は逃げたと思ったんだ」
そして被疑者の魔族のハティムン聖地を確認しに行ったところ、消えたふたりはいつも裸足なのに靴痕があった。監理局に密告が入りふたりが捕まったのだと考え、ルークン達を問いただしたそうだ。
「でも、あいつも知らないって言い張って、そしたら俺らの家族が消えた。返して欲しかったら捕まえたふたりと裏切り者を連れてこいって。本当に知らないってみんな言ってたんだが、昨日あんたたちが来て、ルークンが話し合いに行ったらあんなことに……」
「あんたらの家族が誘拐されたのはいつだ?」
「三日前だ……」
イジュは目の前の男達が憔悴し困っている様子を見ても、どうにかしてやりたいと気持ちは湧いてこなかった。
彼らの家族の安否すら心配にはならなかった。むしろ、と考えてイジュは唇を一度噛んでゆっくりと口を開く。
「あんたたちの家族なんて殺されればいいんだわ」
どろりとした怨嗟の声が自分の喉を通り落ちる。
「イジュ……」
黒羽が悲しそうに眉をひそめる。
「悪かった。謝るからどうにかしてくれ。娘はまだ四つなんだよ」
縋る男には嫌悪しか湧かなかった。幼い子供がいても知ったことではないのだ。
「助けには行く。けど、お前らなんでもっと早く言ってこずにイジュを襲ったんだ」
男達は黙りこくった後、ぼそぼそと監理局に拘束されるのが嫌だった。イジュを新しい人質にして自分たちは家族と共にどこかに逃げ隠れるつもりだったと話す。
そして思い通りにならず自棄になって殺害しようとした、と。
「てめえらどこまで根性腐りきってんだっ! 家族のためだって言うんならこっちに助け求めるのが先だろうが、この糞野郎共っ!!」
黒羽の恫喝に男達が身をすくめ、イジュは吐き出そうとした言葉を呑み込んだ。
「た、頼む見捨てないでくれ、どうにかしてくれ」
半泣きになりながら懇願する男に黒羽が息を吐く。
「助けには行くってさっき言っただろうが。けどどっから手、つけるかな。本局に連絡と、手当も一応しねえとだな。あとは総務部か。イジュ、とりあえず医務行って怪我、見てもらって、ついでにこっちに誰か呼んできてくれるか? こいつらはあたしが見張っとくからさ」
「……助けるんですか。あたしの父さんと母さんは死んだのに、この人たちの家族は助かるんですか」
黒羽は局員として当然の行動をしているのは分かっている。それでも言わずにはいられなかった。
罪を暴いた両親が殺されて身勝手な罪人は救われる。
そんなのは理不尽だ。
黒羽が困ったようで悲しそうな顔をして、すっと男から取り上げた短刀の柄をイジュに向ける。
「……殺したいぐらい、憎いか?」
イジュは鈍く光る刃と男達を交互に見る。
今なら、この柄を取って彼らに向かって行くことが出来そうだと思った。
「あたしは、親父が目の前で殺されて六人斬った。けど親父を首を落とした奴と指示した奴は総局長に止められて殺せなかった。あのとき止めてもらってよかったと思ってる」
「復讐は、無意味だからですか。何をしたってふたりとも返ってこないことも、あたしじゃあの魔族を殺せないのも分かってます。でも、でも」
イジュは顔を歪めてぼろぼろと涙をこぼす。自分でもなぜ泣いているかよくは分からなかった。
「……あたしにとっては嫌なものしか残らないものだったよ。でも、敵も味方も犠牲にして大事なもの少しだけ取り返した奴もいる。……だから、無意味って言い方は出来ねえ。それでもやっぱり嫌なものが残るのは一緒なんだろうな」
そこで黒羽が言葉を切ってイジュに短刀を握らせる。
「何が一番正しいかはわからねえ。ただ、あたしはお前に同じ気持ちを抱えて欲しくない」
黒羽の手が離れて短刀が自分ひとりの物になる。
柄を握る指先が震えた。
すっと立ち塞がるように目の前にいた黒羽が脇に移動して男達の顔がよく見えた。
このふたりを殺して得るものはなんだろう。
あるいは彼らの家族を殺したら救われるのだろうか。
自分はそれを抱えて生きていけるんだろうか。
考えれば考えるほど短刀が重たくなっていって指先からこぼれ落ちた。
「それが、きっとお前にとって一番いい答えだよ」
その声はただただ優しくて、イジュは最後に涙を一つこぼして嗚咽を呑み込む。
うつむいた視界の端に短刀が映るがそれを再び握る気は起きなかった。
「人、呼んできます」
そうして顔をあげたイジュは手の甲で濡れた頬をぬぐって歩き出した。
***
本局に戻った漓瑞は東部総局長の執務室でひとりでいた。
一族同士で瞬時に声を飛ばすことの出来る渡し人に、戻ることを先に伝えてもらっていたが、藍李は急な用件で部屋にはおらず待たされることになったのだ。
「お待たせ。レイザス側から例の元総督官が首吊ったから本局へ訪問が出来なくなったってわざわざ使者立ててきたのよ。律儀なのはいいけど、後味悪いわねえ」
用意されていた花茶を半分ほど飲んだところで藍李が来て、彼女は漓瑞の向かい側の長椅子に腰を下ろしため息をつく。
九年前、黒羽の養父で漓瑞の伯父は監理局に捕縛され連行される途中で同行していた役人達の奇襲によって殺害された。その際に監理局側も多数の犠牲者が出ていた。
レイザス側は監理局の抗議に応じず、指揮をとった官吏の処分はなく帝国内にいる総督官もあずかり知らぬ事として誰ひとりとして罪を問われることはなかった。
だが皇帝が変わり、すでに任を終えていた元総督官は爵位剥奪、領地没収の上私財も全て監理局へ喜捨するという厳罰が与えられたということを、一週間ほど前に漓瑞は藍李から聞いていた。
「……そうですか。六代以上続く名家だと聞いていましたが、家を潰したあげくに官舎住まいの木っ端役人になることは矜恃が許さなかったのでしょうかね」
さしたる感慨もなく漓瑞は言う。
いまさらだ。そもそも向こうは監理局への謝罪のみで、伯父の死についての非は認めていない形だ。征服者と支配下に置かれた国の関係上、当然のことだろう。
それに、あの場にいた黒羽の受けた傷が癒えることもないだろうし、この結末はむしろ彼女を悩ませるだけだ。
「……藍李さん、戴冠式には出席されていますよね。現レイザス皇帝は長身で濃い蜜色の髪にカンラン石の瞳、で間違いないですか」
「間違いないわよ。黒羽には敵わないけど結構ないい男、だったわね。ちょっと喋った印象では子供っぽいかんじだけど頭の回転は良さそうだったわ…………会ったの?」
まさかと言う顔をする藍李に漓瑞はうなずく。
「聖地の内部にいました。アデルとは友人だと言っていました。それに、日蝕の日取りもこちらが得ている情報とは食い違っていました」
そうしてこの二日に起こったことを順序立てて説明して行く。
「……要するに今聖地にはいるはずのない妖魔が出現してて、レイザスの皇帝がうろついている上に凶悪犯が潜んでるかもしれないわけね。おまけに横領事件も発覚。日蝕まであと五日。頭が痛いわね」
藍李が長椅子の背にもたれかかて、顔を顰める。
「ひとまず魔族を見つけて妖獣の出現の原因を探り、レイザス皇帝に関しては後回しでいいでしょうか。横領の件はどうしましょう」
「そうね。おおかた横領だろうけど曖昧なとこだし、何らかの証言を引き出しておいたほうがいいわね。本当なら総務部三課の仕事けれど……この状況だし人数が少ない方が動きやすいだろうから、緊急会合開いてそのあたりは何とかしとくわ。それにしたって少なくとも八年、ねえ。こういう言い方するのはなんだけど、タナトムは国を挙げて寄進してくれるお得意様、だから結構な額になるわね」
「今までの本局側でも気づかなかったのですか?」
毎年一定額収めているとなれば多少は変化に気づきそうなものだが、と漓瑞は問う。
「寄進って強制じゃなくてあくまで国や個人の信仰心からくる善意でされるものでしょ。大幅に減ってるとさすがに疑うことはあっても、ちょっとぐらいの変動だと向こうの事情があるだろうしで、あんまりせせこましいことは言えないのよ。だから寄進額についてはこうやって収める側と受け取る側が協力して巧妙に隠しとくと発覚しづらいのよねえ」
むくれた顔をした藍李が首を横に傾ける。
「それも面倒くさいけどレイザスの皇帝ももっと面倒くさいわ。変な能力持ってるのがアデルに目をつけられた原因で間違いないわね。結局帝位についたのもあの人の差し金かしら」
「グリフィス皇子が帝位に就いた経緯は、元老院の強い後押しだったんですよね。本人が継承権を主張したわけでもなく、引っ張り出されてきたというのは事実なのでしょう」
レイザスの前皇帝の急死と、今まで存在がかろうじて認識されているだけで目立つことのなかった第五皇子の即位の不自然さは藍李がすでに探っていた。
皇帝の諮問機関である元老院の権力は近年強まっているとは聞いていたが、次期継承者として最有力候補であった軍で権威を握っている、第二皇子を押さえ込めるほどの力があるのかは疑問だ。
しかし今は他に何も情報は出てきていない。
「頭はいいけど、権力に執着がなくて精神は幼児同然で扱いやすいっていうのは傀儡政権にはもってこいよね……。アデル出て来ないんだったらそっちから何か切り崩すしかないかしら。黒羽には懐いてるんでしょ」
漓瑞は苦虫を噛み潰したような顔でそう見えました、と答える。
黒羽は女子供にとことん甘く懐かれやすい。まだ敵か味方もはっきりしないグリフィスに対する態度がすでに局で子供を相手にするときと同じで気にかかる。
知能が高いひとつ年上の人間である事が頭から抜けているのか、口約束だけでも友人になった義理もあるのか、とにかくあまりいい状況ではない。
「あの子ももう少し警戒心というものを持ったらと思うのですが……」
「まあ、黒羽に懐くって事は子供っていう証明だし大丈夫じゃない? 後はあんたがしっかり見とけばいいのよ」
事もなさげに言って藍李が姿勢を正してぬるくなった花茶をすする。
「あなたにとってはその方が都合がいいんでしょうね。とりあえず釣餌に有益なものが引っかかったのですから」
鋭い棘をたっぷりと含ませて言うと、藍李が目を細め不服そうに眉を上げ湯飲みを静かに机に置く。
アデルはまだ黒羽の完全同期を成し遂げていない。だからこそ藍李は彼を引っ張り出すために黒羽を餌にして聖地を探らせているのだ。
「そのおかげであんたはこうしていられるんでしょ。離叛は重罪だけど、公的な立場である上にアデルのことがあるから粛正はなし。投獄も黒羽のお守り役になって貰う変わりに無期限猶予でものすごく寛大な処置よ。ついでに柳沙も監視処分ですませてあげてるわけだし」
そう、本来ならば自分は投獄されて然るべき立場だ。
しかし藍李は利用価値があると見てそれをしなかった。自分とて黒羽が自ら危険に飛び込むのを知りながら牢獄でじっと待つことはできない。
黒羽は自分に助けられたからちゃんと返したいと言ったけれど、それは自分のほうだ。
彼女のの真っ直ぐすぎて時に魂の奥底まで貫いてくる言葉や、澄んだ笑顔がどれほどの価値を持っているか黒羽自身は知らないだろう。
出来るだけ彼女の透明な心を曇らせたくはなかったけれど、ずいぶん傷つけてしまった。その分だけでもちゃんと返したかった。
彼女が望むことが自分が隣にいることならそうしたい。残った命は全て黒羽のためにつぎ込む気ではいる。
しかしそれが枷になってしまうのも分かっているのでもどかしい。
「私を足枷にして救う気のない緑笙のことも余計な期待をさせて。そこまでしなくても正直に協力して欲しいと言えば、あの子はあなたのために動いたでしょう」
「そうねえ。でも念には念を入れておきたいじゃない。それに、いざとなったとき、最初から卑怯な方がいいわよね?」
小首をかしげて藍李が高潔で鮮やかな笑みを浮かべる。
「もし、黒羽さんがアデルの計画の一端となって、障害となるのなら緑笙と同じように切り捨てる気ですか」
漓瑞は緩やかに憎悪を燃やす瞳で藍李を睨みつける。
「それ以外に何があるの」
その視線を真正面から受け止めて藍李は穏やかな声で肯定した。
「私は個人的な感情より総局長としての立場を優先するつもりよ。あんたならよく分かるでしょう」
そう言われて黒羽を見殺しにしかけた漓瑞は反論の言葉を失った。
「出来れば、そんなことにはなりたくはないわよ。でも、どうしようもないときはどうしようもないのよ」
軽い口調で藍李がそう言った時、扉が叩かれた。
そうして支局よりもたらされた連絡にふたりは一度睨み合いをやめることにした。
「横領で確定、被疑者は人質取って聖地に立てこもり中……もうやだ、面倒くさい。とにかく今回の強盗殺人の捜査は支局に手を引かせて。後は人質の保護を最優先にしてやり方は現場の判断に任せるわ」
「……黒羽さんのことは時間があるときに」
「話聞くだけは聞いてあげるわ。……このこと黒羽に言っちゃう?」
どこまでも気楽な物言いの藍李に、答が分かっているから手の内を明かしたのだろうににと漓瑞は眉をひそめる。
まだ可能性の段階で不必要に黒羽を悩ませる気はない。
「言いませんよ。ただ、あの子のためなら私はもう一度監理局を離叛する覚悟はありますのでお忘れなく」
言葉を投げつけて、漓瑞は席を立った。
***
黒羽は経理部のふたりを捕まえてから慌ただしく動いていた。
治療を施されたふたりは人質や横領について話を聞き出した後に、懲罰房に入れておくことになった。
それから渡し人を通じて黒羽は本局に連絡をし、本局側から指示された通り総務部に行って支局長に事の詳細を告げ、本局に全てを一任して貰えるよう頼みに行った。
その後魔族監理課にも念のための緊急配備はとかずにいてもらい、被疑者の捕縛には本局側ですることを告げると案の定、嫌な顔をされた。
捜査中の件を横から本局側に割って入られ、主導権を持っていかれることがおもしろくないのはつい最近まで向こうの立場だったのでよく分かる。同僚が負傷したならなおさらだ。
それは申し訳なくて胸が痛む。
そんな風に各所を周り一息ついた頃には日も落ちて雨は小雨になり、鎧戸も開けられ風が流れてずいぶん局内は涼しくなっていた。
ようやく手の空いた黒羽は医務部にいるイジュの元に向かう。
イジュはあちこちすりむいてはいるがどれも軽傷だった。手当を終えた後はルークン係長の病室の前の長椅子に座ってじっとしているらしかった。
「中、入らないのか?」
とても近くて遠いところを眺めているイジュの横顔に声をかけて黒羽は隣に腰掛ける。
「……近くにいるのは嫌なんです。でも、このまま何もあの人自身の口から聞けなくなるかもしれないって思うとなんだか落ち着かなくて」
そういうイジュの様子は沈んだものだが、思い詰めた様子はなくて黒羽は安心する。
「そっか。早くよくなって証言してもらわないとな」
「はい。……あの、人質ってどうやって助けるんですか?」
「ん、それは漓瑞が帰ってきてから一緒にに考えるつもりだ。まず聖地にいるのは間違いないし……子供もいるし出来るだけ早く助けないとな」
捕まえたふたりによると片方の男は妻と幼い娘、もう片方は母親と妻の併せて四人が連れ去られているという。
人質、という形なので命の心配はまだないだろうが、三日となると疲労も相当だろう。幼い子供は大人の比ではないだろうし一刻も早いほうがいい。
「あたしが行けば交換で解放されるかも、しれないんですよね」
イジュが固い声で言うのに黒羽は一抹の不安を感じて、彼女の顔を覗き込むが畏れていた暗いものはなかった。
「どうしても父さんと母さんを殺した魔族を捕まえたいんです。でも、弱いから……自分の手でなんて無理だって分かってます。それでも出来ることがあるならしたいんです。人質さえ解放されれば黒羽さん達も戦いやすくなるんですよね」
「一対一なら、な。……漓瑞に相談してみるよ」
本当は危険な所にイジュを連れ出したくはなかったが、自暴自棄でもなく彼女自身が前に進もうとしているように見えて、止める言葉は呑み込んだ。
「ありがとうございます。あ、そういえば犯人が見た靴痕って昨日あたし達が見た物と一緒ですよね。彼らに関係がないっていうことはどういうことなんでしょう」
そんなことを聞かれて黒羽は言葉に詰まった。
十中八九、グリフィスだろう。
凶悪犯とグリフィスが鉢合せしなかったことだけは幸いであるがなんとも厄介なことだ。
「……それは全部片付いた後に調べる」
適当に誤魔化して黒羽はイジュとたわいない会話をする。そのうちに疲労が滲む彼女の表情がほんの少しでも和らいで自分も口元を緩めた。
そうしているうちに漓瑞が戻って来て黒羽は客室に戻る。
荒れた部屋は気を利かせてくれた局員によって騒動の後で椅子や机がもとに戻され、燭台にも炎が灯されて何事もなかったように片付いていた。
「お疲れ様です。大変でしたね」
黒羽は窓辺に佇む漓瑞に大事になったな、と返しながら彼の隣に立つ。
「言われたことは全部やったぜ。後は人質保護して犯人とっ捕まえるだけだな。で、それだけどよ……」
黒羽はイジュの両親の死が不正に気づいたための口封じだったことなど、伝え切れなかった詳細を告げた後にイジュの提案を切り出す。
「……囮、ですか。そうですね、イジュさんも符術を使える局員ですから私達が出来るだけ近くにいれば問題はないでしょう。しかし、消えたふたりが気になりますね」
「ああ、あたしもそれが気になるんだよ。ばれそうで金だけ持ってとんずらしたんなら捕まえるのは難しいよな。そいつらの記録も抜かれてたし」
消えたのが一週間前となると見つけるのには骨が折れるだろう。国外に出られてなければいいが。
「状況は厳しいですね。そのふたりに関しては刑務係の記録と、あとは監理係で捕縛した局員も覚えているでしょうから支局の方に探してもらいましょう。私たちは人質の保護と被疑者の確保、ですね。私は懲罰房のふたりの事情聴取に当たりますから黒羽さんはイジュさんに明日には聖地に向かうことと、護身用よりも強力な符の準備をしておくよう伝えておいてください」
事態を呑み込むなりさくさくと次の行動の指示をする漓瑞の顔を黒羽はまじまじと見る。
「やっぱりお前がいないと駄目だな」
そしてしみじみとつぶやくと漓瑞が戸惑った顔をした。
「なんですか、急に」
「あたしに足りてないとこはお前が補ってくれてるからな。お前みたいに頭使うのは苦手だけどそのかわり戦闘は任せてくれ」
「ええ。頼りにしてますよ」
漓瑞が楽しげに笑ってから表情を穏やかで優しいものに変える。
その瞳には表情の柔らかさとは反対に頑なな何かがあって、黒羽の胸がさざめいた。
不安とは違うが、どこか落ち着かない。
息苦しさを覚えて黒羽が視線を外すより先に漓瑞が動き出す。彼はいつも通りの表情でさっき話した通りにお願いしますと言って出て行く。
黒羽はなんとなしに自分の胸を押さえるが覚えた不思議な感覚の名残はどこにもなかった。