四ー1
豪雨のせいで鎧戸が閉ざされ、湿った熱気がこもっている第九支局へと戻った黒羽と漓瑞は、先に本局に連絡を入れると言って、支局員達と別れ客室に戻っていた。
「……また面倒なことになりましたね」
黒羽がグリフィスの特殊な移動手段を告げると、漓瑞が物憂げにため息をつく。
「だから、来たいときにいつでも来るだろうし、止めてもあの調子じゃ無理だろ。それに、あいつの話だと日蝕は五日後らしいし、そのことも聞かないとなんねえだろ」
「五日ですか……玉陽の日蝕をアデルは正確に時刻まで知っていました。もし情報源がグリフィスなら、五日後というのが正しいかもしれません」
「じゃあ、やっぱりもう一回じっくり話を聞かなきゃなんねえな。あいつのことはあたしが責任もって面倒見るよ」
黒羽がそう言うと漓瑞は渋々と言った態でうなずいた。
やはり彼自身はあまり一緒に行動するのは気がすすまないのだろう。
「アデルのこともそうですが、侵入した魔族のこともどういうことか聞いておかねばなりませんしね」
「それ結局どうすんだよ。つーか、本当にこっちの支局の誰かが引き入れてるのか?」
あまり身内を疑いたくはないのだが、と黒羽は腕を組む。
「グリフィス自身は嘘を言っていないと思います。ただアデルが嘘を言ってそれを真実だと思い込んでいるという可能性もありますが、アデルがあまり動き回れないことは事実でしょう。それは信じていいと思います。そうなると侵入手段は監理局側の誰かしかありません。イジュさんにすでに侵入者がいることは知られていますし、支局員がんなんらかの目的を持って動いているとなると面倒なことにもなりますから、先にこちらが主導権を握って事を解決してからのほうが調査しやすいと思います。本局への報告はもう少し事を把握したらしましょう」
それでいいですか、と儀礼的に尋ねられて黒羽はうなずいた。
いいも悪いも困ったときの対処は漓瑞に任せておけと、藍李に言われているのでこの場合は大人しく従うまでだ。
そうしてふたりは警備係へと向かったが、部屋に入ると皆、複雑そうな顔でこちらを見ていた。
視線に息苦しい思いをしながら薄暗い部屋の奥へ進むと、燭台が置かれた机の上に書類が広げられていた。そこに集まっている局員達の雰囲気は重く、その中にいるイジュの顔は青ざめていた。
「どうした?」
イジュに声をかけると代わりに警備係の係長がその、と答える。
黒羽達の様子を見に来ていた局員が警備係長に侵入者の魔族のことを報告したところ、心当たりがあったそうだ。
「まだ自分が平だった頃の八年前、魔族が聖地に侵入してそれを捕縛したことがありました。その時にちょっと狙いがはずれて木の上にいた魔族の肩に大きな怪我を負わせてしまったんです。侵入者が魔族ということもあってそのとき魔族監理課のほうにもひとり、応援を頼んだんですが、その時応援に来てもらったのが……」
ほら、と警備係長が指し示す書類にはルークンという名があった。
「ルークン係長は符術師です」
イジュが感情の失せた声で言って、黒羽は漓瑞と顔を見合わせる。
八年前に目撃された魔族は樹上に逃げたということは、高い跳躍力を持っていたのかもしれない。
魔族であれば木に登ることぐらいは造作ないが、逃げるのに上を選んだと言うことはそちらの方に利があったと考えるべきだろう。
跳ぶ、というのが得意な魔族はそう珍しくない。しかしながら近場で同じ人物が関わっているとなると、逃走中の強盗殺人の犯人と八年前に不法侵入し捕まった魔族は同一である可能性は高い。
「……侵入した魔族の詳細が知りたいのですが、台帳係ですか?」
出された資料には侵入した魔族の名前しか載っておらず、簡易な覚え書き程度のものだった。
魔族は監理局に名前と刻印を登録する義務があり、それをまとめているのが魔族監理課台帳係だ。もちろん無登録の魔族は山ほどいるが、一度捕縛されたなら前科者名簿に登録されているはずである。
台帳係にはイジュが案内してくれるというので三人向かうことにした。
昨日の今日で魔族監理課は慌ただしく人が行き交いしているのが見えた。イジュの姿を見ると局員達は気遣わしげな視線を彼女に向けていた。
「ここです。……一緒に記録の確認してもいいですか? なにが起こっているのか、ちゃんと知りたいんです」
真っ直ぐに顔を見ながら訴えながら、イジュが胸のすぐ下で両手を組む。震えるほどの力が入っているその手に触れて、黒羽はわずかに身を屈めて彼女との視線を合わす。
「イジュが大丈夫ならいい。でも、きついと思ったらいったん目をそらしたっていい。気持ちがちゃんと落ち着いたら後でちゃんと説明する」
「……大丈夫です」
視線を逸らさずに強い意思を込めてイジュが言う。
「漓瑞、頼む」
黒羽が短く言うと、漓瑞は困った顔をしながらも許可してくれた。
そうして書棚がずらりと並び、部屋の四分の一ほどに竹製の机と椅子が狭い間隔で敷き詰められた台帳係の部屋に入る。
担当局員に侵入者である魔族の資料を貸して欲しいと頼み、しばらくすると局員は手ぶらで戻って来た。
「申し訳ありませんが、前科者名簿に該当する『ハティムン』という名の魔族の資料はありません。名前は確かでしょうか?」
困惑した様子の担当局員に漓瑞が登録者名簿の確認を頼んで、また担当局員が棚の方へと向かう。しかし次に戻って来た時もその手には何もなかった。
「ないっておかしいな」
「ええ。……魔族監理係が場所を聞いて自分で名簿を取りに行く、ということはありますか? 昔、私も監理係にいたのですけれど、そこの支局ではそういうことはよくあったのですが」
漓瑞の質問に担当局員が苦笑いを浮かべる。
「あー、本来はあんまりやっちゃいけないんですけどまあ、ありますね。みんな顔なじみですし、こっちの手が空いてないときに声さえかけてくれたらご自由にってかんじで」
監理係と台帳係の関係は密接なので、そういう所でなあなあになりがちなのはどこも同じらしい。
「ありがとうございます。この件に関してはこちらから後ほど指示をしますので、口外しないようにお願いします。イジュさん、医務部の事務室に案内してもらえますか?」
またなんでそんな所に用があるのだろうかと黒羽が首をかしげるとあ、とイジュが声を上げる。
「捕縛の際に被疑者が負傷した場合、医務部で治療を行い、日時と怪我の詳細とそれに対する処置、被疑者の名前と刻印、負傷させた局員の担当部署と名前を記録する、っていうことでしたよね」
「ああ、そういやそんな決まりあったな」
黒羽がいた妖魔監理課では魔族を相手にすることもないし、規約も多いのであまり関わりのないことはすっかり忘れていた。
「……黒羽さん、あなたは室長だったのですから、そういう基本的なことはちゃんと覚えておかないといけませんよ」
「う、すいません」
漓瑞の呆れ混じりの小言に黒羽はうなだれる。
「まあ、それよりあたしの物覚えの悪さは置いといてさ、医務部の記録見てどうするんだ?」
「それはあまり脇に置いておくべき事ではないのでいずれ。……ひとまずは警備係の記録が事実である確認と刻印だけでも写しておくべきかと」
ちらりと漓瑞がイジュを一瞥して言葉を濁す。
おそらくグリフィスに刻印を見てもらって確認する、とうことなのだろうと理解して黒羽はなるほどとうなずく。
さすがにグリフィスのことは言うわけにはいかない。
「記録を抜いたのはルークン係長、なんでしょうか」
黒羽と漓瑞のやりとりに含みがあることには気づかなかったらしいイジュが、医務部に向かう途中で言う。
「状況からして間違いないでしょうね。普通は台帳係の記録を起点にして捜査にあたりますから、今回のように別部署の記録からという特殊な事態がない限り、露見はしないでしょう。医務部の記録までなかったら今度は警備係が怪しくなるわけですが、最初に述べた通り嘘も動揺も見られませんでしたから出てくるでしょう」
そう漓瑞が言うとおり、医務部の事務室で記録を見せてもらうとこんどはちゃんと書類が出てきた。
「右上腕部に裂傷。これだな」
名前も傷も一致。これで抜かれたのは台帳係の記録のみということになる。
漓瑞が用意してもらった白紙の紙に刻印を写し取るため、燭台の灯の落ちる場所へ書類を移動させる。
そうすると薄暗い中でははっきりしなかった文様が鮮明になった。
「っ!」
それを覗き込んだイジュが喉を引きつらせ、口元に手を当てる。そのまま彼女はその場にへたりこんでしまった。
「イジュ?」
黒羽はしゃがんで、体を震わせるイジュを揺さぶる。そうすると大きく見開かれたその瞳から涙がこぼれ落ちた。
「その、刻印です。あたしが、見たのは。そいつが父さんと母さんを殺したの!」
悲鳴じみた叫び声をあげたイジュはそのまますすり泣き始める。
「なんで、なんで……絶対に犯人は見つけるって言ったのに……」
イジュがの瞳は見開かれて、大粒の涙が床に爪を立てる彼女の手の甲に落ちる。
「イジュ……」
黒羽は錯乱するイジュを抱き寄せて、子供をあやすように背を軽く叩いて落ち着かせる。
震える小さな体にルークンが負傷して泣いていた時を思い出して、黒羽は歯噛みした。
イジュが刻印を覚えていたとなると、捜査にあたっていたルークンが分からないはずはない。
彼は何かも知っていながら、彼女を騙していたのだ。
「……落ちついたら話を聞きましょう。私は刻印を写して魔族監理課へ行ってきますので黒羽さん達は客室で待っていてください」
「分かった。イジュ、立てるか?」
尋ねるとイジュは力なく首を縦に振って立ち上がったが、どうにも足下が危うく見えるので黒羽はその背を支えて自分たちに用意されている客室へとむかった。
***
黒羽は椅子に深く座りうつむくイジュをちらりとみる。
憔悴しきっていてもはや泣く気力もない、といった様子だ。
ここに置いておくよりは、一度警備係か今朝会った教務部の女性の所に連れて行った方がいいのではないだろうか。
「…………ごめんなさい」
黒羽が迷っていると、イジュが掠れた声でそう言った。
「大丈夫って言ったのに、本当にごめんなさい」
イジュの肩が震えるが、彼女は泣き出しはしなかった。
「いっぺんにいろんな事があったんだ。仕方ねえよ。どうする、今日はもう戻るか? 漓瑞にはあたしから言っとくから、無理はすんな」
「ここにいます。いさせてください」
イジュの意思は固く、黒羽は拒むことはできなかった。
彼女の気持ちは分かる。ほんの一日で、いままで信じてきたものが全部変わってしまって、混乱して何を信じたらいいのか分からなくなって。
たとえ目を背けてしまいたくなるものでも、真実を欲してしまう。
「あたし、駄目ですね。何かあるとすぐに動揺して動けなくなるんです。六年前に父さんと母さんが殺されたときも、そのとき符の使い方も習い始めてた所なのに母さんに言われるまま寝台の下でじっとしてることしかできなかったんです……」
「そういうもんだよ。子供の力なんてたかがしれてる。ちょっと囓った程度のものじゃ何もできやしないんだ……」
養父が首を切り落とされる瞬間が脳裏によぎって、言葉に詰まった。
「……でも犯人の特徴覚えてたってだけでも上等だろ。それがその時お前が出来た精一杯のことだ。生き延びられてよかったと思うよ」
きっと似たことは何度も言われたのだろう、イジュは何も答えずにうつむく。
「雨、すげえな」
黒羽は話題をそらして閉まっている鎧戸に目を向ける。雨音は依然として騒音を立てながら降り続いている。
「……今頃こんなに降るのは珍しいです。雨が降るときは女神様が寂しがってるんですよね」
イジュの言う女神の話は初めてきくものだった。黒羽がいた玉陽では雨は女神が自らの水瓶から分け与えてくれる恵みだ。
伝承に齟齬があるのは神がひとりではなかった頃の名残なのかもしれない。
そんなことを考えていると漓瑞が戻って来てmイジュを見てから黒羽の隣に座る。
「遅かったな」
「ええ、人事課まで行っていましたから。それは後で説明しますがまず今回の事件と六年前の事件についてです」
漓瑞の説明によると今回の事件に関しては被疑者である魔族は被害者宅に押し入ったわけではなく、事前に人払いがされ、裏口から客人として通されたということらしい。
ルークンが倒れていたのも裏口側の通路だということだ。
このことから監理係は彼が偶然通りかかったのではなく、被害者宅を訪問する途中だったと見ているらしい。
「内輪揉めって事か。ん、じゃあ、なんで最初強盗ってなってたんだ?」
「部屋が荒らされていくつか装飾品などがなくなっていたからだそうです。引き出しや戸棚のものは手つかずで、状況は殺害方法含めて六年前と一致しています」
漓瑞がイジュに確認をとると、六年前も部屋の荒らし方が不自然だったということだ。 盗みではなく殺害が目的だったのではということで調べが進められたが、結局進展がないまま強盗殺人となった。
「父は真面目で信仰心の厚い人でした。誰かに恨まれる人じゃなかったんです」
イジュが強い口調で言うのに漓瑞が静かに質問をする。
「被害者は財務官でした。タナトム国では毎月監理局への寄進のために、一定額を国民から徴収して創立日にまとめて監理局へと寄進していますね。被害者がとりまとめていた部署の中にそれに関する部署はありますか?」
ひきつれた声であります、と返事がする。
「横領、ってことか。でもそれって経理部の仕事だから監理係は関係ねえだろ」
直接は関係ないですね、と漓瑞がうなずいて黒羽は首を傾ける。
「今回の事件の被害者は財産を別の場所に保管していたので、盗まれるものはほとんどなかったとの奥方の証言がありました。そのことは奥方と被害者しか知らず、場所も被害者以外は知らないそうです」
ゆるやかに沈黙が降りて、イジュがあ、と目を見張る。
「……その保管場所が、聖地、なんですか」
「おそらくは。そこまでして隠す理由は脱税か横領でしょう。ルークン係長との繋がりを探るために人事課まで行って個人記録を見せていただいたのですが、彼は特別貸与を利用していました」
局員は毎月給与をもらっているが、食事の大半は布施として民衆からもらい衣類もある程度までは支給されるので額はそう多くはない。
とはいえ贅沢をしない限りは暮らしに困ることはないぐらいは貰える。
だが、家族が多く働ける者が局員しかなく生活に困窮した場合や、病などで医者にかかるときの薬代。
給与では支払いきれない場合、審査の上で一定の額まで監理局が局員に無利息で貸付けを行う制度を特別貸与という。
「不治の病で伏せっていた奥方の苦痛を和らげるための薬代でしたが、年ごとの貸付額が限度に近づいてきた八年前から減っていました。貸付けの詳細については経理部が詳しいでしょう」
「そこで経理部が繋がるのか。でもまだそれだけじゃ横領はとはいいきれねえだろう」
「ええ。まだ決定的なものがありません。今の状況から予測できる可能性に過ぎません。遅かれ早かれ調べを進めれば、監理係もその可能性に気づくでしょうが、ひとまずは詳しい事情は伏せて被疑者の刻印の写しを渡て、聖地周辺に緊急配備をかけてもらっています。しかしこの雨ですからね。内部を熟知しているだろう聖地に留まっている可能性が高いと思われます。聖地の建物の内部に関しては警備係で把握していますか?」
イジュが首を横に振る。
「表層に出ている建物ぐらいしか把握はしていません。黒羽さん達がいた地下のことも今日初めて知りました」
当然といえば当然だろう。
神域にみだりに人が足を踏み入れないために警備するのが仕事で、建物の保全や調査は別だ。それをする権限があるのは各管轄区の総局長のみである。
「父は結局、なんらかの不正を知ってしまったためにあんなことになってしまったのでしょうか。それに、ルークン係長が親身になってくれたのは、あたしが唯一の目撃者だから、余計な情報が他に回らないようにするために……」
そう問うイジュの声は震えていた。
「詳しく調査しないことにはまだはっきりとは分かりませんが、ルークン係長に関してはそうだと思います。イジュさんはここまでにしましょう。この件に関しては本局側で事を進めるので内密にお願いします」
イジュがわかりましたと言って立ち上がりお辞儀をする。
「ひとりで大丈夫か?」
「はい。出来れば、今はひとりになりたいです。本当に、ありがとうございます」
黒羽はイジュを部屋の外まで見送るが、頼りない少女の小さな背は無性に不安と心細さを覚えて追いかけたくなる。
だが、こんな知り合ってたった一日やそこらの他人より側にいるならば慣れ親しんだ人間がいいだろうし、なによりもひとりになりたいならそうしてやるのが一番だ。
そう思い黒羽は漓瑞の隣に戻る。
「ルークン係長は奥さんのために手を貸しちまったんだろ。悪くないとはいわねえけど何だかな」
全てを知りながら辛い思いをしていたイジュを監視していたなら、腹立たしい限りだがどうにも怒りきれない。
「監理局とて資金が潤沢、というわけではありませんからね。局員の家族ということである程度は治療費が融通されていたらしいですから、十分すぎる恩恵は受けていたはずです。それに額からしてよほどの位階についている貴族でなければ、支払いきれるものではなかったでしょう。……綺麗事だけではどうにもならないこともあります」
最後の言葉は実感のこもったものだった。
黒羽が返す言葉を見つけられずにいると漓瑞が微苦笑を浮かべた。
「そういう所は深く考えなくていいんですよ。理解出来ないなら出来ない方がいいことですから」
「……そりゃ、そういうのは分かんないままでいられたらいいだろうけどよ。なんていうか、それでお前が辛かったり苦しかったりするときは分かってた方が、ちょっとは助けになるだろ。いや、あんまり頼りにならねえかもしんねえけど、いままでいっぱい助けてもらったし」
自分でも何が言いたいのか分からなくなってぐだぐだとしていると、漓瑞が目を細めて優しいまなざしを向けてくる。
「あなたがあなたであることが私にとっては一番の助けですよ。それに、何も恩に感じることはないんです。私には打算があって、そしてたくさんあなたを傷つけた」
「それは別にいいんだよ。ちゃんと、お前が隣にいるってだけでもういいんだ」
黒羽はまっすぐに漓瑞の瞳を捕らえて断言する。
それに漓瑞が一瞬虚を衝かれた顔をしたあと、黒羽から顔をそらしため息をついた。
「なんだよ」
「……いえ。あなたのその素直さと優しさに甘えている自分に、ちょっとした呆れを感じたというかなんというか。ええ、まあ私もあなたの側にいたいのは山々なのですが本局に一度戻って来ますね」
珍しく下手な逃げ方だと思いながら、黒羽は立ち上がった漓瑞を見上げる。
少し動揺が見られた漓瑞の表情はすでにいつも通りのものに変わっていた。
「私が帰ってくるまでは刑務係に行って、被疑者の事を調べていてください。聖地への不法侵入なら猶予なしで一年は投獄されていたはずです。出来るだけ早く戻って来ますが、なにかあったら連絡してください。では、行ってきます」
そして矢継ぎ早に指示して漓瑞は出て行ってしまったのだった。
***
(これは横領、か?)
廊下を刑務係に向かって歩きながら黒羽は思う。
五本の廊下が交わり、二階へと続く螺旋階段が岩壁から突き出ている吹き抜けの広間からずっと同じ人物がつけてきている。
夕刻間近で交替や休憩などで混雑する中に上手く紛れ込んでいるつもりだろうが、ぴったりと背中に張り付く視線がうるさすぎる。
局員に道を聞くついでに視線をさりげなく背後に向けると、不自然に視線をどこか遠くにやる中年ぐらいのぽっちゃりとした男がいた。
これだけ人が多い中ですぐに感づかれるほど下手な尾行の仕方は内勤担当の局員だろう。
状況から考えるに経理部の可能性は高い。
「どうすっかな」
黒羽は歩幅を変えずに歩きながらひっそりぼやく。
こういう面倒な事態で先の見通しなく動くのはまずいと分かっているが、と考えている内に人通りが少ない廊下にさしかかる。
そこでこれ以上は無理と考えたのか後をつけてくる気配はなくなった。
角を曲がるときに後ろを見やると、尾行していた局員の後ろ姿が遠くに見えた。
人の顔を覚えるのだけは得意な黒羽は、顔は覚えたのでいいかと目的通り廊下の奥へ進む。
魔族監理課のある棟から少し離れた場所の廊下の突き当たりに刑務係はあった。その部屋の正面には錠前つきの鉄の扉がいかめしくある。
「失礼します」
黒羽は簾をめくりあげに入ると一斉に注目を浴びた。
ぽうっとしている近くの女性局員に、この部署に勤めて八年以上になる局員はいるか聞くと、係長、とよばれ十二年ほどいるという初老の男が奥から出てくる。
「……ああ、覚えてますよ。あいつですね」
黒羽が被疑者の罪状と名前を言うと刑務係長が鷹揚にうなずいた。
「八年前に戻って来た時はびっくりしましたよ、なんせ三〇年投獄されててようやく出てたった二年後でしたからね」
どうやら被疑者は前科がまだあり、刑務係長によれば強盗致傷とその他もろもろの窃盗で捕まっていたらしい。
「また何かやったんですか? まさか今回のルークン係長がやられた事件っていうのは」
「いや、まだそれははっきりしてないです。それより三十年って今結構年いってんですか?」
「十年前に出たときたしか六〇ぐらいだったからまだ若いですよ。台帳係に記録は返還してあるんですけど、そちらにはいかれなかったんですか?」
おや、首をかしげる刑務係長に黒羽はしまったと思いながらも、もうちょっと込み入った人となりを知りたいと誤魔化す。
「ああ、そういうことですか。うーん、そうですねえわりと大人しい囚人でしたよ。でも戻って来た時にはふてぶてしいやつだと思いましたねえ。三〇年も毎日女神様へ忠節を尽くします、ってお祈りしてたのに今度は聖地に不法侵入ですよ。あげくにご先祖様が住んでた場所が見たかっただけで、捕まる道理がねえとか言ってました」
魔族とは女神の眷属だったというのが通説なので、かつて先祖が住んでいたというのはあながち間違いではないかもしれない。
「他になんか聖地のことについてなんか言ってなかったですか」
他に、と刑務係長が腕組みして考え込む。
「……ああ、そうだ。聖地には宝があるっていうのは本当だって言ってましたね。先祖が隠してうっかり忘れてきたって。まあ、よくある言い伝えですね。魔族でたまにそう言う奴がいるんですよ。牢屋に長くいると退屈でしょうがなくて、みんなあることないこと言って気を紛らわそうとするんです」
「聖地の宝って、具体的になんなんですか?」
最初は横領したものの事を指し示しているのかと思ったが、どうやら少し違うらしい。
「さあ。でっかい宝石だって言うやつもいれば、金塊とか言う奴もいますね。ああ、けどそろいもそろってみんな地下にあるって言ってたかな。お宝と言えば地下っていうのはありがちですかね。ん、あの魔族のこと聞きに来たんですよね」
「えっと、聖地の調査もやってるんで……」
話がずれていることに気づいた刑務係長に言われて、慌てて黒羽は答えた。
幸い不審な目を向けられることもなく胸を撫で下ろす。
肝心の被疑者自身についてはあまり聞くべき事がないと考えながら、黒羽はそうだと思い出した。
もうふたり、グリフィスが魔族を見ている。
「仲良かった囚人とかいました?」
「ああ、八年前は刑期が一年だったから大部屋にいたんで、そのとき何人かとはなかよさげでしたね」
「そいつらはもう出所してますよね。すいません、名前と罪状覚えてますか?」
「ちょっと待ってください、簡易記録がたしか、あっちに。お-い」
刑務係長に呼ばれて魔族の女性局員がやってくる。そして持ってきた資料から必要な名前と罪状を紙に記しながら彼女は躊躇いがちに口を開く。
「あの、本局はまさか聖地の宝を回収するおつもりですか?」
「いや、そういうわけじゃないです。ただ調査の参考にと思って」
「……それならよいのですが。私も親から聖地の宝については聞かされましたけど、人が手にするべきものではないと言われたので」
女性の声はやけに重みがあった。
「気をつけます。あの、その宝ってどんなものかは聞いてますか?」
「いいえ、それは。ただ金や宝石のようなそんな単純なものではないそうです」
ますます宝のことはあやふやになったが、ひとまずの収穫はあった。
黒羽は覚え書きを持って台帳係へとまた行くことにした。再び現れた彼女に担当局員が怪訝な顔をしながらも、渡した覚え書きを持って棚の奥へ消える。
そして困り顔をして彼は書類を何枚か抱えて戻って来た。
「ふたり、見つかりませんでした」
覚え書きにあった名前を局員が指し示す。
「ああ、そっか。ないのが正解、なのか」
グリフィスに確認をとってもらうのに特徴を覚えて、刻印を控えさせてもらおうと思った黒羽はそうつぶやく。
共犯なら被疑者同様記録が抜かれていてもおかしくない。
そうなると他の資料は特に必要ないわけで、黒羽が申し訳ないと頭を下げると局員は苦笑した。
「いや、いいんですけど。……これって重大な過失、ですよね。処分とかどうなるんですか?」
「あー、それはちょっと分かんないです。すいません」
台帳の管理の甘さは大きな問題だ。藍李がどう判断するかはさっぱり見当がつかないがそれなりの処罰はあるだろう。
向こうもそれは重々承知のらしく、まいったなあと重苦しいため息をついていた。