三
翌日、黒羽は聖地に向かう舟で口元に手をあててあくびをする。
明け方近くになってようやくルークン係長の治療は終わった。一命はとりとめたが、意識は戻っていない。
医務部の局員が定期的に霊力を送り込んで状態の維持をしている。だが五日以上目覚めなければ覚悟はしておいた方がいい、ということだ。
「イジュのやつ、大丈夫かな」
憔悴しきっていたイジュのことが気にかかる。両親を亡くしてから面倒を見てくれていたという教務部の女性局員が朝には来てくれたので、後はその人が上手く寄り添ってくれるだろうが。
「ルークン係長の意識が戻るまでは気が気ではないでしょうね。事件は私たちには関係なさそうですし、後は支局の方に任せるしかないですね」
「ああ。早く捕まるといいけどな」
犯人の魔族は跳躍能力が突出していて、街の囲いから出てしまった可能性があるらしいので捕縛には時間がかかりそうだ。
自分が気にかけても仕方ないと分かっているが、ついついそちらに意識を傾けてしまっているうちに舟は到着した。
「雲が出てきたな」
外に出て上空を見上げると、黒い雲が空の向こうから押し寄せて来ているのが見えた。今日は昨日にも増して空気が湿っぽく熱さがべたつく。
「降り出す前に少しでも何か見つけましょう」
そう言う漓瑞の記憶をあてにして昨日の足跡のあった場所へと向かう。その途中も注意深く地面を見るが足跡はない。
それどころか昨日見たものまでどこにあったか分からなくなっている。
「あれ、この辺じゃなかったか?」
たしか横たわる木の根のそばだったと黒羽は首をひねり漓瑞に確認を取る。
そのはずですが、と漓瑞も顎に手を当てて考え込みながら近くの床石に触れる。
「これが、動いているのかもしれません、これは石畳が剥がれているのでなくて元からこういう風になっているのだと思います」
地面の石畳は言われてみれば規則的に並んでいる。
「動くのか、これ?」
黒羽は試しに石を押してみるが、びくりともしない。
漓瑞がそれを確認してから巨人の並ぶ壁の方へ移動してじっと見つめ始めた。そしておもむろに壁の一部を押した。
そうすると黒羽の足下の石畳が一部むき出しの地面へとずるずると移動していく。
「お、動いたぞ。けどなんか意味あるのか?」
「少し奥で何か音がしたのでそちらになにかあるようですが……」
人より五感の優れている魔族の漓瑞が奥へと目を向ける。やはりそちらにはうかつに足を踏み入れたくないのか迷いが見える。
「あたしらが動かなきゃどうにもなんねえだろ。とりあえず行ってみようぜ」
黒羽は冥炎の柄に手をかけて奥へと歩き出して漓瑞に止められる。
「私が先を歩きます。なにか感じたらすぐに知らせますから」
行くなと言われるかと思ったが、実際漓瑞が言ったのはそんなことで黒羽はその通りに彼の後ろについた。
巨人の並ぶ区域を通り抜けると辺りは森だった。しかし点々と瓦礫が転がっていて道に迷うことはない。次にたどり着いたのは真四角い空間に塔が何十も並んでいる場所だった。 ところどころ崩れた周りの木々よりも高い石壁が周囲を囲い、塔も半分ほどは崩れ瓦礫が散乱して足場が悪い。
「黒羽さん……なにか来ます」
漓瑞が足を止めて塔と塔の間に目を凝らす。しばらくして黒羽の耳にも葉擦れに似たかさかさした音が届いた。
黒羽は息を詰めて鯉口を切る。
そうして奥の塔の影に白い蜥蜴の顔が覗いているのを見つけた。顔だけ見ても全長は大男ほどありそうだ。
深紅の瞳がふたりを捕まえる。
「妖魔、なわけねえよな」
あり得ないことだ。聖地には自浄作用があるので妖魔が発生することはない。
だがそう言いながらも黒羽は確かに瘴気を感じ取って冥炎を構える。
「来ますよ」
蜥蜴が塔の影に消えて、漓瑞が左手をあげて刻印から水をあふれさす。
次の瞬間には一番すぐ側の塔の背後から飛び出てくる。
紫色の舌が迫ってきて黒羽はそれを切り落とそうと刃を振り下ろすが、目にも止まらぬ速さで舌を引っ込めて蜥蜴はまた姿を消す。
かと思えば正反対の方向から舌が飛んできて黒羽は青い炎を纏わせた冥炎でそれを受け止める。
妖魔の舌がかすめたと思われる石の塊は溶けている。
「一体だけではありません。黒羽さん、出来るだけ私の近くに」
黒羽はうなずいて漓瑞の側によると水の天幕が周囲に張り巡らされた。
「場所が悪いな。いつまでこうしてても埒があかねえぞ」
とにかく視界が悪い。その中で向こうもすばしっこく動き回っていて何匹いるのかもよく分からない。
「…………これ、壊せたら楽なんだけどよ、さすがにまずいか?」
一気に冥炎の炎で全てを押し流してしまえばすぐに片をつけられるが、その際周りの塔も破壊することになる。
「ここは一応森ですしね。加減はしていただかないと……」
確かに闇雲に炎を放つと大惨事になりかねない。
「厄介だな、どうする?」
「どうしましょうね。すでにこの幕を消し去ったらすぐにでも攻撃されそうな気がしますが…………黒羽さん、合図をしたら前に向けて、出来るだけ塔の真ん中をめがけて加減して冥炎を放ってもらえますか。塔はこのさい非常事態ということで仕方ないですから藍李さんに事後処理は任せましょう」
任せる、というより押しつけるではなかろうかと考えつつ黒羽は冥炎に炎を纏わせる。以前より格段に力の制御は出来るのでたぶん、大丈夫だろう。
漓瑞が今です、と言うと前方の水の幕が消える。
青い炎の奔流がそこから塔の上方めがけて滝が逆方向へ流れるのと同時に幕はまた閉じる。そして塔を築き上げる石が熱に溶かされて変形し、一気に崩壊していく。
ざらついたか細い鳴き声がいくつかあがった。
「…………よし、見晴らしはよくなったな」
あたりは瓦礫だらけだが、物陰はこれで少なくなっている。何匹か崩壊に巻き込まれて瓦礫に埋まってもがいているのが見えた。
そして漓瑞が水の幕を背後へと丸めた反物を広げるようにして伸ばす。
「残りは逃げたようですね」
かすかな物音を探りながら漓瑞が言って、黒羽は冥炎をしまう。
「あれ、妖魔だよな」
「ええ、そうですが、なにか普通のものとは違う気もします」
瘴気は感じるが、なにか違和感を覚えるのは漓瑞も同らしかった。
黒羽は瓦礫に挟まれて呻く蜥蜴に近づいて、とどめを刺す。そうすると普通の妖魔と変わらない黒い霧となってそれは消えた。
「黒羽さん!」
急に切羽詰まった漓瑞の声が聞こえて黒羽は振り返る。それと同時に足下がぐらぐらと揺れ動いた。
何事かと思っていると瓦礫が一気に地中に引きずり込まれる。それと同時に黒羽の足下の地面も落下した。
「っと、なんだこれ。漓瑞! 大丈夫か!」
衝撃で尻餅をついた黒羽は砂塵に咳き込みながらも体を起こし、姿の見えない漓瑞を呼ぶ。
「大丈夫です。周りの様子は分かりますか?」
落ち着いた声で言われて立ち上がった黒羽は首を巡らすと、直方体の石を重ねた壁が周囲に見えた。
地下室か何かの回廊だろう。
頭上には樹の根が張り巡らされていて、隙間は床石ひとつ分かふたつ分はあるの。全く何も見えないというわけではないが、曇天のせいで樹の根の影は濃く周囲に滲み出している。
「地下室みたいだけどそっちも同じか?」
「ええ。そちらに行く道はあるのですが瓦礫で埋まってしまっていて通れそうにないです。……塔を壊すのは短慮だったかもしれませんね」
漓瑞の自らの失策についたため息が聞こえてくる。
思ったより近いところにいることに安心しながら、黒羽は壁に背をもたれて頭上を見上げる。魔族である漓瑞でも跳躍力に特化しているわけではないのでこれは飛び越えられないだろう。
「これ予想しろって行っても無理だろうしな。崩れたっていうかなんか動いたってかんじだしよ」
床石ひとつひとつが意思を持っているかのように下に降りたのだ。実際足下に床石が割れたり崩れたりしたあとはない。
「……侵入者避け、でしょうか。どのみち派手に暴れるとなんらかの仕掛けが発動するかもしれないので、以後は気をつけないといけませんね。とにかくそちらに行くので黒羽さんはそこにいてください。登れそうな瓦礫を探します」
「分かった。またさっきのやつが出てくるかもしれねえから気をつけろよ」
「ええ。黒羽さんも」
そう言って彼の足音が遠ざかっていく。黒羽はいつでも抜けるよう冥炎の柄に手を置いたまま、その場で言われたとおりじっとしていた。
それから少し経った頃、奥の方で石を蹴飛ばす音がする。さっきの妖魔かと思い黒羽は息を詰めるが、そこに足音が混じってきて眉根を寄せた。
足音は少し離れたところで止まり、次に麻袋か何かをがさごそと探る音が聞こえる。
漓瑞ではない。そうなると足跡の主かもしれない。
向こうが近づいてこないならここで息を潜めていた方がいいとは思うが気になる。
道はそう複雑そうでもなさそうだし離れた場所でもないだろう。
黒羽は音の方へ足音を忍ばせて近寄る。
すると壁の影から灯が零れているのが見えた。黒羽は背を壁にあて、そろりと向こう側を覗き込む。
そこには座り込み何か腕を動かしてる男の姿が見えた。側には光源と見られる硝子の器に蝋燭が入った角灯がある。
その灯と上から射すわずかな光に照らされる少し癖のある髪は蜜の色をしていた。まずこの国の人間ではないし、見知った者でもなさそうだ。
何よりも彼の背はあまりにも無防備すぎる。
「……お前、誰だ。ここで何してる?」
黒羽は念のため冥炎を抜いて男に近づく。
「え? わあ、びっくりした。俺はグリフィス。記録してるんだよ」
肩をすくめてきょとんとした顔をしている男は思っていたより若かった。二十になるかそこらだろうその面立ちは、人の目を強く惹きつける優美なものだ。
カンラン石に似た透明度の高い新緑色の瞳は面立ちより幼い印象を受ける。
グリフィスという名前は妙に記憶に引っかかったが思い出せない。
彼が持っているものは紙の束と、細長い墨のようなものに何かを巻き付けているものだということを確認して、黒羽は冥炎を鞘に収めた。
「記録ってなんのだ?」
警戒を解かないまま黒羽はグリフィスの隣に立って手元の紙を覗き込む。そこには奇妙な文様が書き付けられていた。
「これ。ここで昔使われてた文字。ほら、ここに刻まれてるやつだよ」
グリフィスが壁を示すと確かにそこには同じ文様が刻まれていた。記録しているのは嘘ではないみたいだ。それにしても、と黒羽は男を見下ろす。
妙に反応が子供っぽい。そう、局にいる五歳児が自分の興味を示しているものに相手も関心を持ったときと似ている。
「これ文字なのか?」
グリフィスの隣であぐらをかいて黒羽は壁を見る。
薄明かりに映し出された中で並ぶ文様はやはり模様にしか見えない。そもそも監理局員は女神の恩恵により、ひとつの言語さえ覚えればあとはどんな言語も読めるし、喋れる。これが読めないということは文字ではないということではないだろうか。
「文字だよ。まだこっち来て一週間ぐらいしか経ってないから法則はまだちゃんとわかんないけど規則性や使われ方からして文字だってことに間違いないんだ! こういうのを俺は古代文字って呼んでる。きっと女神様が眠る前の世界、旧世界の言語なんだ」
力説する様子はまさしく子供だった。
話している内容の突飛さはアデルに通じるものがある。というか符もなしにここに進入してこんなことをしているとなれば、アデルと何らかの関わりがあるのではないだろうか。
「お前をここに入れたのはアデルか?」
「そうだよ。友達だから特別。ってだけじゃないけど日蝕の正確な日付と時刻を割り出したお礼に入れてくれたんだ。君、監理局の人だからアデルのことも知ってるの?」
黒羽の耳に揺れる局員章を見ながらグリフィスが首をかしげる。
「ああ。知ってる。友達ってわけじゃねえけどな。アデルとはいつ知り合ったんだ?」
「アデルと会ったのは確か八歳の時だから十年前だね。かくれんぼしてて変な入り口を見つけてそこで古代文字を見つけて、他にもないか探してそこを探検してたら迷子になったんだ。そのときに助けてくれたのがアデル。いわば命の恩人だよ。で、そこで意気投合していろいろ話して、それからは手紙でやりとりしてたんだけど一年前に急に遊びに来たんだ。その時俺より小さくなっててびっくりした。君は小さいアデルともう会った?」
早口でまくし立てるグリフィスをちょっと待てと黒羽は制する。
聞いたのは自分だがこうも一気に喋られると頭の中で整理しきれない。
「あー、そのなんだ。偶然会って、友達になって、今も会ってる、でいいのか?」
どうにか理解出来た部分だけ口にすると、グリフィスが首を縦に振る。
「今度の日蝕も一緒に見るつもりだったんだけど、無理そうだって言ってた」
そして寂しそうに彼はうなだれた。
「仲いいんだな」
見る限りアデルとはとても親密そうで、黒羽は複雑な心境で表情を曇らせる。
「うん。俺のたったひとりの友達なんだ」
言いながらグリフィスが膝を抱える。伏せた長い睫の下の瞳の影は、彼の孤独の深さを如実に示している。
「そうなのか。アデルがなんの研究してるかは知ってるか?」
知っていながらも、友人だと言い張るのなら考えものだが。
「知らない。でも、俺の話はたくさん聞いてくれるし、もっと聞きたいって言ってくれるよ」
「でもなあ、お前が思ってるより、アデルは危ない奴だから気をつけた方がいいぞ」
無意識のうちに黒羽の口調は子供を宥めるものへと変わっていた。
「友達だから大丈夫だよ」
拗ねるグリフィスが頑なになっていくのに、黒羽は腕を組む。
「そうだよな。いきなり今日会ったばかりの奴にあれこれ言われてもなあ……他に仲のいい奴、もいねえんだよな。ううん」
アデルのやっていることを具体的に話すのはまずいし、しかしそれを隠して何がどう危険か分からせるにはどうしたらいいのか。
(漓瑞か藍李なら、もうちょっとうまくやれそうだけどな……)
こういうのに自分は本当に向いていない。
「ねえ、君は? 俺と友達になってくれる?」
ふと顔を上げてグリフィスがくすみのない瞳でまっすぐにみつめてくる。
「ん、ああ。別に問題ねえぞ」
答えると、グリフィスが満面の笑顔を浮かべた。
「やった! じゃあ俺のふたり目の友達、だね。えっと、名前は?」
黒羽は名乗りながらなんか妙なことになったなと頭をかく。
とりあえずグリフィスには害意はなさそうだし、ただの図体の大きい子供だ。漓瑞が脱出路を見つけるまでは相手でもしているかと思ってふと気づく。
「お前、上に戻る道ってわかるか?」
「うん。なんか魔族らしい人がうろうろしてて、見つかったら恐いなと思って隠れた所に階段があったんだ。そういえばなんだかさっき揺れたけどなにかあったの?」
「よくわかんねえけど、床が落ちてたんだ。お前が見た魔族と一緒に落ちたんだ」
「俺が魔族を見たのって、揺れが起る前だよ」
「ん、漓瑞じゃねえのか? 背はそんなに高くなくて、肌とか髪とか人形みたいに綺麗で、男だけどすげえ可愛い女の子にも見える奴じゃないのか」
漓瑞の目立つ特徴を挙げていくとグリフィスは首を横に振った。
「全然違うよ。えっと。この国の人っぽかった」
グリフィスが言うには左手に魔族特有の刻印がある、黒髪で浅黒い肌の見た目は中年ぐらいの中肉中背の男。ということだ。
それに右肩になにか大きい傷跡のようなものが見えたらしい。
「……アデルは魔族についてなんか言ってたか?」
「たまに入り込んでるから気をつけてとは言われたけど、アデルも新しい体はあんまり長く動かせないし起きていられる時間も限られてるから目的とかまでは調べられてないんだってさ。ここ来てすぐにもふたりぐらい見たよ」
有益な情報がひとつと謎がひとつ。
黒羽は顎に手を当てて考える。たまに入り込む者がいるというのは聞いたが最近ではなかったはずだ。
アデルが関わりないとなるとまるで分からない。こういうのは漓瑞に任せるのが一番だろう。
そう思っていると足音が聞こえてきて黒羽は立ち上がる。
この音の小さい規則正しい歩き方はたぶん漓瑞だろうとは思うが、念のために冥炎の柄に手は添えておく。
「なんだ、やっぱりお前か」
来たのは予想通りの漓瑞で黒羽は肩から力を抜いて片手をあげる。
「……黒羽さん、そちらの方は?」
「アデルの友達のグリフィスだ」
「黒羽とも友達、だよ!」
不機嫌そうな口調でグリフィスが口を挟んでああ、そうだな悪いと黒羽は返す。
「グリフィス……? 偽名ではなくそれは本名ですか?」
「友達に嘘の名前なんか教えたりしないよ。黒羽、なんか俺あいつ嫌い」
黒羽の指を引っ張ってグリフィスがじとっと漓瑞を見る。彼はそれにわずかに眉を上げて一瞬だけ不快そうな表情をつくる。
「こら、初対面の人間に向かってそんなこと言うんじゃねえよ。漓瑞は悪い奴じゃないぞ」
澱んだ空気に頬をかきながら黒羽はグリフィスを嗜めた。
「残念ながら、そちらの方がグリフィス・ジルディアラルド・レイザスであるならあまり友好的にはなれませんが」
漓瑞の言っていることの意味を咀嚼するのに黒羽はしばらくかかった。
「……帝国の新しい皇帝、なのか?」
そしてたどりついた答えを唖然と口にする。
「うん。そうだよ。俺、皇帝もやってるんだ」
グリフィスが世界の三分の一を手中に収める大帝国の主には到底見えない、無邪気な笑顔で答えたのだった。
***
偶然、なんてことはきっとないのだろう。
白紙の符を腫れた目でぼうっと見つめながらイジュは考える。持った筆はまだ墨にすら浸されずに宙に浮いている。
「おい、大丈夫か。今日はルークン係長のとこにいてもいいぞ」
近くを通りがかった上司に言われて大丈夫です、とイジュは泣きすぎて傷む喉で答える。
さすがに一晩中泣いて疲れて昼近くまでは寝ていたが、起き出すとたまらなく不安でそれをどうにかしたくて無理にでも日常をすごうそうとした。
だけれど新たに耳に入ってきた被害者の情報に感情はぐらつくばかりだ。
強盗に殺されたのは父の上司であった官僚だった。
捜査に当たっている局員達もルークン係長が、六年前に両親が殺された事件について何らかの手がかりをえて被害者宅に向かっていたのではないかとみて動いているようだ。
そうなると両親を殺した魔族と同じ魔族の犯行なのかもしれない。
(進展があったなら、どうしてあたしに何もいってくれなかったんだろう)
考えれば考えるほど苦しくなってくる。はやくはっきりさせて欲しいのに、自分は何も出来ないことがもどかしい。
イジュは下唇を噛む。悔しいのと悲しいのでまた涙があふれそうだった。
「おい、ちょっと何人か来てくれ。聖地でなんか揺れがあったらしくてもしかしたら建物が崩れたのかもしれないってことだ」
ふと上司のそんな声が聞こえてイジュは涙を手の甲でぬぐって顔を上げる。
そういえば今日も本局のふたりは聖地に行っているのだ。それなに夕べは一晩中付き添わせてしまった。魔族である漓瑞はまだしもずっと肩を抱いて寄り添ってくれた黒羽は寝不足だろう。
それなのにまともにお礼も言えなかった。
「あー、あちこちがたがいってるからなあ。本局の人たち大丈夫ですかね」
「何が起こっても自分たちで対処するって言ってませんでしたっけ」
「生き埋めになってたら何にも出来ないだろ。様子見に行くだけ行ってみるぞ」
「あの、あたしも行きます」
同僚達が言葉に不安を膨らませながらイジュは立ち上がった。
なにも出来ずにここでぼんやり報告を待つよりそのほうがいいと思った。
不安げな上司はイジュが行くのに無理はするなと言われたが、それでもついていくことに決めた。
***
黒羽はレイザスの皇帝だということをあっさり認めたグリフィスから無表情の漓瑞へと視線を移す。
「……で、結局どうすりゃいいんだよ」
皇帝がこんなところで護衛もつけずにひとりでうろうろしているのは一大事である。
「どうと言われましても、こんな所で何をしているんですかこの方は」
胡乱げな漓瑞の表情にグリフィスが頬を膨らませてすっと立ち上がる。
その身長は平均的な男の背丈ある黒羽よりも高く、長い手足と体躯は均整がとれていてよく目立つ美男子ではあるが。
「だから古代文字の記録だって。別に皇帝だって学者しててもいいじゃん。黒羽、俺こいつと友達になるのやだ」
中身はただの駄々っ子だ。
「…………あなたと友人になりたいとは思いませんし、誰もなれとは言っていません。黒羽さん、何があったか説明していただけますか」
ここまで不機嫌さを隠さない漓瑞も珍しいが、仕方ないだろうと黒羽は思う。
滅ぼされた国の皇子と、攻め入った国の皇帝。
グリフィスの祖父の代の事だから直接の関わりはないとはいえ心情は相当複雑に違いない。
湿った空気と薄暗い地下が漓瑞とグリフィスによってさらに空気がどんよりとする中、地上へと戻る道を歩きながら黒羽は経緯を説明する。
「グリフィスが見た魔族はアデルが関わってないってことはこっちの支局の仕事になるだろ。なんかすげえややこしいことにならねえか?」
「なりますね。侵入者対策の結界に穴があるということですからそれは言っておかねばなりませんが、これからどういう事態になるかも分からないので中に入って調査されるわけにいきませんし……あなたはここで何が起こるかご存じですか?」
一歩先を歩く漓瑞が黒羽の隣にいるグリフィスに質問を振る。
「日蝕とそれに連動してなんかおもしろいことになるってきいたけど、あとは全然分からないよ。黒羽、日蝕見るのって、あいつも一緒?」
不服そうにグリフィスが漓瑞を指差した。
「こら、人を指差すんじゃねえ。だいたい物見遊山にきてんじゃねえんだ。お前の身になんかあっても困るから一緒には無理かもしれねえ」
「それって俺が皇帝だから、駄目ってこと? だったら皇帝やめる」
あまりにも無責任な発言に前を行く漓瑞の足が止まった。
「あなたはいったい帝位をなんだと思っているのですか。臣民の命運を背負う覚悟もなく即位したのですか」
振り返った漓瑞の視線の厳しさからグリフィスが黒羽の後ろに逃げ込む。
「か、覚悟とかそういうのは知らないよ。俺は傾いてる財政なんとかしたいって元老院のやつらが言うから手伝ってやってるだけだもん。あ、漓瑞ってそういえば玉陽の皇子だ! だったら俺にちょっとは感謝してよ。東側の要所としておさえときたいっていうの説得して独立させたの俺なんだからね。まともに統治できないの遠隔地を属国にしておくのは無駄だって分からせるのに二日もかかったんだぞ」
子犬のように吠えるグリフィスに漓瑞が困惑した顔を見せた。口を挟むわけにもいかず黙って話を聞いている黒羽は彼の心の中は察せた。
グリフィスの子供の様な態度と彼がやったということとが上手く噛み合わないのだ。
「……おおーい、大丈夫かー?」
そこで不意に上の方から声が聞こえてくる。
「あれは、警備係の方の声ですね。私が先に行きますから黒羽さんはその人が見つからないようにしてください」
「分かった。グリフィス、こっち来い」
黒羽は上から降りてきている太い木の根の影にグリフィスを誘導する。彼は大人しくついてきて石壁にぴったりと背を合わしてその場にしゃがみ込む。
さて、一時的に隠すことは出来たがこれからどうするべきかと黒羽が考える側でぽつぽつと水滴が石を打つ音が聞こえ始めた。
天井の石畳は隙間だらけであっという間に水が入り込んでくる。
「ああ、降って来ちゃった……。もう帰らないとなあ」
グリフィスが記録を取っていた紙を麻袋にしまい、水がかからないようにしっかりとそれを抱きすくめる。
「帰るって、そういやお前どこで寝泊まりしてんだ?」
よく見ればグリフィスは汚れたところがなく、荷物も筆記具や灯ぐらいしか持っていない。
「ん、王宮だよ。さすがによくわかんない魔族がうろうろしてるのに野宿は出来ないし、俺がいないとみんなうるさいしね」
「……王宮って帝国のか?」
「俺は特別な道を知ってるんだ。扉の開け方とか道の繋ぎ方はアデルが教えてくれたんだよ。子供の頃に迷子になっちゃったのは道の歩き方をよく知らなかったからなんだよね」
特別な道、について詳しく聞いてみるとどうやら監理局の地下水路と同じく特殊な空間らしかった。
また自分の目的のためだけに、あの男は人の隙に入り込んで利用しようとしているのかもしれない。
「黒羽? あれ、なにか俺、嫌なこと言った?」
黒羽が表情を険しくするとグリフィスが少し怯えて肩をすくめた。
「いや、悪い。そうじゃない。……明日もここに来るか?」
「うーん、二、三日は無理かなあ。街道整備の議案とか農地の利率試算とか、関税の調整とかなんか楽しくない計算いっぱいして、それを元老院に説明してあげないといけないから忙しいんだ。四日後に雨が降ってなかったら来るよ。まだ見れてないとこいっぱいあるし」
グリフィスに話はいろいろ聞いておきたいが、妖魔や不審な魔族がいるここにひとりでいさせたくはない。しかし来るなと言っても無理そうだし、と考えて黒羽はよし、とつぶやく。
「じゃあ、ひとりじゃ危ねえから一緒に行動するぞ。四日後の朝、そうだなこの上がり口あたりに隠れられる場所あるか?…………うん、じゃあそこで待ってろ」
どうせ自分たちも調査するのなら一緒にいた方がいいだろうと黒羽が提案するとグリフィスが瞳をきらきらとさせて満面の笑みを浮かべる。
「待ち合わせってやつだね! じゃあここ上がってすぐの建物の中で待ってるね。五日後の日蝕は晴れるといいな」
「ああ。そうだな……ん、五日後? 日蝕って二週間後じゃねえのか?」
予定がだいぶ食い違っているのだが、どういうことなのか。
「ん、俺の計算だと五日後の朝だよ。二週間って旧式の算出じゃないかな? あ、あった」
グリフィスが雨漏りを避けながら見えない何かを探るようにして周囲をうろつく。そして何かを見つたかと思うと、その体の半分の輪郭が曖昧になっていた。
「じゃあ、またね、黒羽!」
黒羽が日蝕のことを聞きくことも忘れて唖然としていると、彼は完全に姿を消してしまった。
「大事なこと聞き逃しちまった……それにしても、なんにもねえよな」
半ば唖然とその様子を見ていた黒羽は、そろりとグリフィスが消えた場所に手を伸べてみるがただ空を撫でるだけだった。
こういった訳の分からないことは深く考えないに限る。日蝕のことも、四日後に会えるのならその時にまだ機会もあるだろう。
黒羽は漓瑞と合流するために上へと向かう。
雨は激しく水滴が打ちつけてきていて、滝のようなごうごうとした音を立てている。階段が見える頃には床は水浸しだった。
地上に出ると周囲が白くけぶるほどに雨が降り注いでいた。
そして黒羽はグリフィスとの待ち合わせ場所にした小さな石造りの苔生した小屋の隣、入り口の木戸がなくなっている真四角い貯蔵庫のらしき建物に、漓瑞と局員達を見つけてそこに駆け込んだ。
局員の面々の中にイジュの姿があった。視線が合うと隈が出来ている顔で彼女は、大丈夫と言うかわりに口元だけで笑顔を作った。
あまり大丈夫そうには見えないが、ここはあまり深く入り込むことはせずに黒羽はお疲れ様です、と現地の局員に声をかけて漓瑞の隣に立つ。
「黒羽さん、私たちが見た魔族の特徴は浅黒い肌に黒髪、肩に傷、でしたね」
漓瑞にそんなふうに声をかけられて黒羽は一瞬間を置いてうなずく。
状況がよく分からずに話を聞いていると、自分たちは魔族を見つけて追いかけていたが、床が崩落して取り逃がしてしまった、ということになっているらしい。
「まあ、ふたりとも怪我なくてよかった。しっかし、侵入者、ですか。符の点検は毎日やってますけど異常はなかったはずなんですがね」
「ええ。それは昨日イジュさんから聞きました。中へ入るための符は誰でも持ち出せるものでしょうか? 複製などは」
漓瑞の質問に周囲の雰囲気が澱む。
「……いや、毎日枚数の点検はしますし持ち出しのときは係長に必ず確認をとることになってます。複製も符術師なら出来ます。どっちにしろうちの人間が渡したことになりますね」
「申し訳ありません。あまり同じ局員を疑いたくはないのですが、結界に不備がないとしたらそういうことでしょう。どちらにせよ、こちらの支局の不手際によるものであることは間違いないかと思われます」
「おい、漓瑞」
さすがにこれは少し言い方がきつくないだろうかと、黒羽は批難の意図を込めて漓瑞の名を呼ぶ。
「いや、いいですよ。実際そういうわけですからね」
「でも、こんなところに魔族を引き入れる意味ってあるんでしょうか」
少しかすれた声でイジュが言いながら首をかしげる。
「そうですね。目的はここに引き入れた人物を見つければ分かるでしょう。この雨ですし、中も崩落の危険が増しているので、問題の魔族を捕らえるよりそちらのほうが早いと思います」
漓瑞の提案を局員達が緩慢に首を縦に振って、渋々といった体で受け入れる。そうして現地の局員の提案に黒羽達はそれに同意し支局に戻ることになった。
船着き場まで戻る際に濡れないように藁で出来た外套を用意してくれていたので、二人はそれを羽織り、局員の後ろを離れて歩く。
「……あの人はどうしました?」
声を潜めて問いかけてくる漓瑞に黒羽は帰った、と同じく小声で返す。
「長いから後で説明する」
いろいろと聞きたげな漓瑞にそう返して黒羽は前を向く。そうするとこちらが気になるのか、ちらちらと振り向いているイジュに気づいた。
「悪いな、わざわざ見に来てもらっちまって」
漓瑞から離れて黒羽はイジュに声をかける。
「いいえ。無事でよかったです。あの、夕べは本当にありがとうございました。すいません、お仕事があるのに朝までつきあわせてしまって……あんまり、寝てないですよね」
「いや、最近まで支局の妖魔監理課にいたから問題ねえよ。なんか、いい変化はあったか?」
訊ねるとイジュが首を横に振ってうつむいた。
「でも、大丈夫だって信じてます」
その言葉とは裏腹に彼女の声も表情も陰鬱に沈んでいて、周囲も重苦しく口を閉ざしたまま誰も何も言わない。
ただ雨が石や木々を打つ音だけがけたたましいばかりだった。