二
各局の地下にある次元の歪んだ水路を、渡し人とよばれる一族の船頭が漕ぐ舟に揺られて進むこと一刻あまり。
黒羽と漓瑞は南大陸東部に位置する小国、タナトム王国の東部第九支局にたどりついた。
「なんか変わった建物だな」
地下水路の船着き場から局舎へ上がり、黒羽は物珍しげにあたりを見回す。
洞穴の内部の壁を滑らかにしたような内壁だ。天井も半球状でなにやら複雑な文様が刻まれている。
「山っていうか丘の上なのか」
一定間隔でうがたれている木製の鎧戸は人ひとり分ぐらいの大きさがあり、開け放たれている。目線を戸へやれば外を一望できる。
支局は小高いところに立っているらしく、木の柵に囲まれた赤茶色の町並みが眼下に広がっていた。
中央にはやはり赤茶色の外壁でドングリの帽子の形をした屋根を持つ、建物が両翼を広げる様にしてそびえている。あれが王宮だろう。
そしてその向こう、柵の外には水田が広がっているのが見えてさらに奥には森がある。
「あの森の中に聖地があるそうですよ。それにしても思っていたより暑いですね」
確かに暑い。
玉陽ならばそろそろ上掛けを一枚増やそうかという時期なのに、肌にまとわりついてくる熱に汗ばむ。大きな窓から風は吹き込んでくるものの、湿っていていまひとつ涼しくない。
事前に蒸し暑いとは聞いていたがここまでだとは思わなかった。
「こればっかりは仕方ねえな。よし、まずは支局長に挨拶して案内つけてもらう、だな」
「ええ。この通路をまっすぐ行って左手に曲がって…………」
船着き場に見回りに出ようとしている局員がいたので、支局長室の場所をきいたが黒羽は覚えきれなかったので漓瑞に前を任せて進む。
すれ違う局員は皆浅黒く焼けた肌と黒や焦げ茶の髪の色がほとんどで、見るからに他からやってきたと分かる色彩と目立つ容姿の黒羽に物珍しげ視線を向けてくる。
そして隣にいる漓瑞にも気づいて容姿の可憐さにもう一度感嘆した表情をする。
「で、こっちですね」
黒羽が目立つのはいつものことなので、ふたりは気にせず真四角い柱が並ぶ柱廊を渡る。そうしているとすぐに目的の場所にたどり着いた。
扉がなく簾がかかっている部屋の入り口の脇には、局長室という文字が書かれた板がかけてあり、その下に小さな鐘が吊されている。
どうやら叩く扉がないかわりにこれを鳴らすらしいと黒羽は鐘を鳴らす。
「はい、どうぞ」
落ち着いた初老の女性の声が聞こえて黒羽達は失礼しますと中に入る。
「すいません、本局から聖地の査察に来たんですけど」
黒羽が言うと髪に白いものが混ざる恰幅のいい東部第九支局長が、重たげに体を揺すって立ち上がる。
「ええ、伺っています。さあそちらへどうぞ」
竹で出来た椅子に促され、黒羽と漓瑞が従う。
「すぐにあちらに行かれるのですか?」
「はい。だから案内に人を貸してほしいんですけど、いいですか」
黒羽が問うともちろんと第九支局長がにっこりと微笑む。話はすんなり進み、ふたりは隣の部屋から呼ばれた総務部の男性局員に、聖地警備係という部署に案内されることになった。
その時に持っていた着替えなどが入った荷物は客室に運んでもらえることになり、冥炎以外は持たずに東部第一支局にはなかった部署に向かう。
「聖地を管理する部署っていうのもあるんだな」
「玉陽の聖地は見張っていなくもてうかつに立ち入れる場所ではなかったですからね」
聖地はかつて女神が降り立った神聖な場所で、みだりに人が踏み込んでいることを禁じられている。こうしてきちんと部署が設けられているということは、よほど入りやすい場所なのだろう。
聖地警備係の部屋に入ると、幾人かの女性局員の視線が一気に集まった。
見られるのには慣れているが、ちらほらとかっこいいだの可愛いだの単語が聞こえてくるのは少々居づらい。
「イジュ! ちょっとこっちへ」
係長という男性がそう言うと奥の棚の影から十六、七の少女が三つ編みにしたおさげ髪を揺らしてやってくる。
そして口を半開きにして黒羽を見上げた。
「か、係長、この方達は…………本局の、は、はい! 責任持ってご案内します!」
自分が呼ばれた理由を係長から聞いたイジュが、黒羽達に向き直ってぺこりと頭を下げる。
「黒羽だ。イジュ、よろしくな」
イジュの仕草の愛らしさに黒羽が自然と顔を綻ばすと、イジュはぱっと頬を赤らめてうなずいた。
漓瑞も自己紹介をして挨拶をすませ、三人で船着き場へと行くことになった。
「イジュはいくつなんだ? あたしは十七だ」
「あたしも同い年です! って、え?」
黒羽の一人称に気づいたイジュが首を傾げ、漓瑞が鈴を振るような笑い声を漏らす。
「黒羽さんは女性ですよ」
そう言われたイジュがまん丸い目をさらに見開いて黒羽を見上げる。
「え、嘘。ごめんなさい! てっきり男の人と思っちゃって……」
「慣れてるから気にすんな。初対面で女だって気付いてもらったことねえからな」
もう何度きいたか分からない言葉に、黒羽は明るく笑う。
「ごめんなさい。本当にかっこよかったんで……あ、持っているのは妖刀、ですか」
少し羨ましそうな視線でイジュが黒羽の腰の冥炎を見る。うなずいた黒羽は幅広の帯が締められているが、他には何もないしていないイジュの腰を見る。
「イジュ、剣は使うのか?」
剣を扱うものならやはり妖刀や魔剣を持ちたいと思うものなので、もしかしたらイジュも今は帯剣していないだけで多少は腕に覚えがあるのだろうか。
「いえ、全然。剣だけじゃなくて武術全般苦手で……本当は魔族監理課の監理係志望だったんです。符術は使えても、実戦には向かないって事で警備に配属されたんです。警備でも戦える人は人員不足とかで監理係とかに移動は見込めるんですけど、あたしみたいなのはまずないんですよねえ」
時に魔族は人間と同じく罪を犯す。それを取り締まるのが管理係で、妖魔を滅する妖魔監理課の次に戦闘能力を求められる部署だ。選抜試験もあるので武術が苦手となると確かに希望が通るのは難しい。
符術は文字に霊力を込め紙に書き、さらに投げるさいに力を増幅させて攻撃する高等技術であるため試験では有利だ。
しかしある程度体術が出来なければ現場では足手まといになるので、別部署で台帳係などの使う護符書きに回される。
「戦闘以外で符術を使うということは聖地に結界を張っているということなんですか?」
漓瑞が興味深そうに問う。
「そうです。ええと、よく侵入者を察知するために紐に足引っかけたら鈴が鳴るって奴があるじゃないですか。あんなかんじで進入があった場所の近くの符と連動させてる符から音が出る仕組みになってるんです。ああ、そうだ。だから反応しないようにこれ持ってないと」
イジュがどうやら内袋がついているらしい腰帯から符を取り出して黒羽と漓瑞に渡す。
「絶対にこれを肌身離さず持っていてください。一回警鐘が鳴るとそこの符はまた作り直さなくちゃならなくなるんです」
これがけっこうたいへんでとイジュが笑う。
「そう頻繁に人が入ってくるのか、そこ」
まるで作り直したことがあるかのような言い方に黒羽が訊く。
「年に一回か二回ぐらいですね。女神様が残した宝があるとかそういうおとぎ話みたいなの信じて入って来ちゃう不信心者がいるんですよ」
「動物などは引っかからないのですか?」
「それが引っかからないんです。森の中に狸とか猪とかいろいろといるんですけど聖地の周辺だけはまったくいなくて近寄らないみたいですね。動物の方が女神様のお力を感じてるのかもしれません。あ、じゃあ行きましょうか。舟で行くとすぐです」
話している内に船着き場について三人は舟に乗り込んだ。それから本当にわずかの間に舟は目的地についた。
船着き場から地上にあがるとそこは掘っ立て小屋で、外に出ると緑と土の匂いが一気に体の内側に入り込んでくる。
「もう、ここは聖地の一部なんですね」
何かを感じるのか、漓瑞が刻印の刻まれている自分の手をもう片方の手で握りしめながら目を細める。
「しっかしすごい森だな。人とか入ってこれるのか、ここ」
黒羽は周囲で好き放題に枝を伸ばし葉を茂らせる巨木達を見る。鬱蒼としたこの森ではすぐに迷子になってしまいそうに思える。
「意外と入って来れるんですよね、これが。ほら、あそこに石、見えるでしょう。あれがずっと森の外に続いてるからたどればすぐなんですよ」
言われて見てみれば地面に石を敷き詰めて舗装された名残があった。
「ちゃんと行き来がなされていたんですね」
「昔の王様が時々ここに遊びに来られていた女神様に供物を供えるために使われていた道らしいです。あれさえなければ入ってこれないんですけど、女神様のために作られた物なのでそういうわけにもいかないんですよね。で、奥に向かう道はこっちです」
イジュが舗装の名残をたどりながら先に進む。彼女を追っていると木の箱がくくりつけられている樹木があった。
「これが、結界の符ですね」
漓瑞が言うのにイジュが雨よけに箱に入れているのだと答える。そこからまた少し進むと急に視界が開けた。
目の前に広がるのは廃墟だ。石の柱が倒れて積み重なって木の蔓が巻きついているものがあちこちに散布していて、所々に崩れた赤茶色をした直方体の石も散らばっている。
きちんと舗装されていただろう地面も、床石が割れたり剥がれたりして土がむき出しになり、奥の方には石や柱が積み重なってちょっとした小山になっていた。
「かなり広いな。これ全部は一日じゃちゃんと周り切れねえよなあ」
「そうですね、あたし達も中に入るときは数人係でも一日では無理ですから。えっと、ここが中心部で、奥に舗装された道がまたあって、ここより狭い建物跡がいくつかあるんです」
これはそこそこの広さがある街らしかった。下手にうろついていると迷子になりそうな気がする。
「地図とかはねえんだったけか」
たしか藍李からそんな話を聞いたようなと黒羽が言うと漓瑞がうなずく。
「ええ。詳細は記さないことになっていますね。一通り案内してもらえますか。簡単に場所を覚えるぐらいなら出来ますので」
「はい! でも明日以降もおつきあいしますよ。あたしの仕事って一日一回符の点検するぐらいですから」
意気込むイジュに黒羽は困った。せっかくの申し出だが何が起こるか分からないので、そのときに彼女を巻き添えにしてしまうことになるのは避けたい。
「ついてもらえたら助かるんだけどな、細かい調査はあたしらだけでやらなきゃならねえんだ」
「そうなんですか……」
イジュが残念そうに肩を落とすので、黒羽はいたたまれずにその頭を軽く撫でる。
「わかりました。じゃあ今日は順路だけでもご案内します」
そうするとすぐに気を取り直したイジュが顔を上げてにっこりと笑った。
そんな明るい彼女になんとなしに温かい気持ちになりながら黒羽はその後をついていく。
瓦礫の小山を迂回して回った先に一本だけ残る柱の向こうは森だが、躊躇わずにイジュは入り込んでいく。ほんの数歩いけば舗装の痕が地面にあって、これなら黒羽でも覚えられそうだった。
「中の見回りは頻繁にするんですか?」
まったく迷うそぶりを見せないイジュに漓瑞が問いかける。
「いいえ。侵入者がいたときに点検するだけです。だけど一度は必ず道を覚えるようにしなければならないんです。このあたりはまだ瓦礫だらけで行き止まりとかがあるんですけど、奥の方はあんまり崩れてないんでわかりやすいと思います」
イジュの言うとおり奥へ進むとなんとか建物は形を保っていた。だがどれも木の根に抱かれたり草に覆われて荒廃している。
石橋の橋脚をくぐった先には左右に大きな岩壁があって、どちらにも首のない人物が彫り込まれ、巨人に迎えられている気分になる。
「あれって、砕かれてるのか」
見上げてみれば巨人の首から上は槌で打ち砕かれたようになっている。
「これちょっと恐いですよね」
イジュが見大きくうなずきながら道に横たわる木の根を飛び越えると、おさげにした三つ編みも一緒に跳ねる。
「黒羽さん」
妙に愛くるしいとその後ろ姿を和やかに見ていた黒羽は、漓瑞に呼び止められて振り返る。
「なんだ?」
「異様なものを感じます。なにがどうと説明できるわけではありませんが……とにかく奥へイジュさんをつれていくのはやめたほうがいいかもしれません」
透き通る白い肌を青ざめさせている漓瑞に、黒羽は先へ進もうとしているイジュを呼び止める。
「悪い、今日はここまででいい。引き返すぞ」
「はい……」
きょとんとした顔でいながらも素直にイジュは道を引き返そうとしてくるが、急に立ち止まった。
「どうした?」
「足跡! 足跡があるんです。おかしいなあ。半年は誰も入ってないはずなのに……」
黒羽はすぐにイジュの元に駆け寄る。
確かに舗装がはがれてむき出しになった地面には靴痕がある。だが予想した子供のものでなく大人のものだった。大きさからして男だろう。
ランバートだろうか。あるいは彼の腹心の部下であるカイルか。
「符がないと入れないんですよね」
後についてきた漓瑞に絶対だとイジュがきっぱりという。
そうなるとなおさら符術を得意とするアデルが怪しい。イジュはこの場にはおけないし先に藍李に連絡した方がいいだろう。
黒羽と漓瑞はそう判断し、不思議がるイジュを適当に言いくるめて来た道を引き返した。
***
支局に戻ったイジュは黒羽達と別れて自分の持ち場に戻る途中で首を傾げる。
「結局、聖地の調査って具体的に何するんだろう……」
妙な足跡や黒羽達の様子が気にはなるけれど、一介の支局員である自分には本局上層部の考えなどわかるはずがない。
「イジュ」
魔族監理課の近くを通りかかった時、声をかけられて足を止める。そこには三十ほどの男がいた。監理係の係長であるルークンだ。
「ルークン係長。お疲れ様です。……あの、何か?」
ルークンの表情がいつもより硬いことに期待を覚えて、イジュはじっと彼を見上げる。
「もしかして、両親の事件のことで進展があったんですか?」
六年前、両親は強盗に押し入ってきた魔族に殺害された。自分は母に寝台の下に隠されて無事だった。そして犯人はまだ捕まっておらず、事件を当時担当していたルークンは今でも熱心に捜査を続けてくれている。
「いや、違う。時間がかかってすまない。今日は本局の人達と出かけたんだな」
進展なしは馴れているが何度聞いても落胆してしまう。しかしイジュはすぐに気を取り直して笑顔を作る。
ルークンは忙しい中でもいつも懸命に両親の事件のことを考えてくれているのだ。
落ち込んだ顔をいつまでも見せているのは責めるようで申し訳ない。
「暇で書類の整理してたらうちの係長に案内を頼まれたんです。最初はすごく緊張したんですけど、本局の人、いい人達でした。黒羽さんっていう灰色の髪の人がすごくかっこよくて最初男の人かと思ったら、女の子だったんで驚いちゃいました。しかもあたしと同い年で妖刀持ちで本局員ってすごいですよね」
各支局の実力者がなる本局員ほど、とは思わないけれどもっと武術ができればいいのにと思う。
そうしたら同じ符術師であるルークンと一緒に監理係で犯人を追えたのに。
「そうか。ただ聖地の査察をしに来ただけなのか」
「具体的に何をするかは聞いてないですけど、明日からおふたりで聖地を回るそうです。あの、ルークン係長……?」
イジュはルークンの表情が険しくなるのを見て不安に胸をかきたてられる。
「俺は今から見廻りに行ってくる。……ご両親の事件のことは必ず解決するからな」
ルークン係長が頑なな声で言って立ち去る。
(なんだろう。すごく恐い)
イジュは不安をとりのぞかれるどころか余計に膨らませられて、しばらくその場で立ち尽くしてしまっていたのだった。
***
黒羽達は引き返してすぐに藍李に今日の報告の手紙を送り、その後第九支局内の客室に案内された。
「どうしましょう。女の子だって知らなくてひとつしか準備してないんですが」
そして黒羽の性別を訊いた女性局員が困り果てていた。
「別にかまわないですよ。あたしら親子みたいなもんなんで。なあ」
「ええ、まあ。そういうことなのでお気になさらず」
漓瑞がふたつの寝台の間に木枠の中に織物を貼った仕切りがあるのを確認して、うなずくと女性局員はほっとした顔で後で食事を持ってきますと去って行った。
「ちょっとは涼しくなったな」
黒羽は鎧戸の前に置かれた竹製の長机と、それに添えられている同じく竹製の長椅子に腰を下ろす。鎧戸の向こうの空は赤く、湿った風も少しは涼しい。
「そうですね。食事が終わったらお湯をもらってきましょうか」
漓瑞が黒羽の頬に汗で張り付いている髪をはらって彼女の隣に腰を下ろす。
「お前は全然汗かいてねえな」
彼の肌は見るからにさらりとしている。魔族ということもあるだろうが、それにしてもひとりだけ涼しげに見える。
「暑いんですけどね、これでも」
「全然そう見えねえけどな。…………ああ、それよりよ、聖地が変なのってどんなかんじなんだ? 魔族なら分かる変化なのか?」
あの場にいても自分はまるでなにも感じなかった。一緒にいたイジュも同じだった。
「たぶん、私にしか分からない変化だと思います。……やはり、内側は変質しているようですね」
漓瑞が左手の甲を上にして少し持ち上げる。そうすると刻まれている刻印から水が湧き出してその手に蛇のように絡みつく。
かつては媒体となる物が必要だったのに、今の彼はこの通りだった。
漓瑞は玉陽をかつて治めていたという神の末裔だ。
瘴気を神剣なしに浄化するという女神の力を持つがために、アデルに肉体を完全に神のものへと変質させられそうになっていた。
彼の人格が失われる前に救出したものの、なにかしらの変化があるらしい。
「なんか悪いとことかはないんだよな」
黒羽が焦燥を滲ませた青鈍色の瞳を向けると、漓瑞はふわりと微笑んでみせた。
「心配はいりませんよ。神のものなら悪影響は及ばさないでしょう」
言われてみればそうだが、どこかまだ不安が残ってしまう。
漓瑞の心配ないは以前の事もあってあまり信用できない。それにいつだって自分を心配させまいにと優しく微笑んでいるので、表情から何か読み取るのも難しい。
だが問い詰めることも出来ずに、黒羽は仕方なしに明日からの事を漓瑞と話す。
まずはイジュから行けなかった場所に続く道の目印を訊いて、あの足跡周辺を調べること。とにかく侵入者が何者なのかはっきりするまでは一緒に行動すること。後は状況判断でということになった。
話している途中に運ばれてきた食事も終えて、汗で汚れた体を拭こうとお湯を貰うことにした。
局員に尋ねれば掛け湯が出来る浴場があるということなので、ありがたくそちらを使うことにした。
「短いと楽そうだよなあ」
頭から湯を浴びてさっぱりとして部屋に戻った黒羽は、髪の水気をぬぐいながら漓瑞を見てぼやく。
別の浴場を使った彼の髪はすでに乾き始めていて、ほどよい湿り気に漆黒の髪の艶を増している。
対して自分の鉛のような鈍い光を放つ灰色の髪はまだ幾分重い。
「やりましょうか?」
面倒臭がってすぐに髪をぐしゃぐしゃにしてしまいそうな黒羽に、漓瑞が苦笑しながら申し出た。
「いや、自分で出来る……」
漓瑞が離叛する少し前、濡れた髪を乾かして櫛で梳いてもらったこと思い出しながら、黒羽は根気強く丁寧に水気を取っていく。
切りたい気持ちもあるが子供の頃からの思い出などもあるので当分は伸ばしたままだ。
「よく出来ました」
終わると漓瑞が黒羽の髪に指を通して楽しげにくすくすと笑う。
子供扱いはいつものことだし、何も変わらないこことが心地よくて黒羽は漓瑞と視線を交わして笑みを作る。
「なあ。全部終わったらさ、藍李に頼んでお前も玉陽に帰らせてもらおうぜ。やっぱりお前がいないとなんか足りない気がするんだ。あの場所だけじゃなくて、お前がいてあたしの故郷なんだと思う」
大切なひとたちと、物心ついた頃から馴染んだ景色と空気。目を閉じずとも鮮明に思い出せる。
その中から漓瑞の姿がなくなるのは、胸の奥が心細さで締め付けられる。
「できるなら、お前と一緒に帰りたいな」
願いを口にすると、漓瑞がふっと笑顔を消してしまう。
「……これは罰です。私は皇家の最後の人間として間違ったことをしたとは思っていません。ですが監理局に宣誓した女神への忠誠をを破ったことは紛れもなく罪です。そう容易く許されるものではありません。そして女神の代行者である神剣の宗主として、藍李さんも一度決定を下したことを簡単に翻すことはできません」
曖昧に期待をもたすことない言葉は、子供に対するものではなかった。
漓瑞は時々自分を子供扱いするけれど、けしていつもそうではない。まだまだ彼から見ればおさないのだろうけど、でもそれだけではないのだ。
いつまでも子供のように甘えていたい気持ちと、もっとしっかりして大人に見られたい気持ち。
噛み合わないふたつの思いを持て余す黒羽は、椅子の上で抱えた膝に顎を乗せる。
「悪い、あんまりそういうことはちゃんと考えてなかった」
ただできるだけ近くで一緒にいられたらという単純なことしか頭になかった。
こういう直情的な所は全く成長していなくて、少し嫌になる。
「いいんですよ。あなたはそういう素直なままで」
素直というより単に頭が悪いだけではないのだろうか。
そんな自虐的な事を考えつつ、黒羽は漓瑞に頭を撫でられて目を細める。
今なら多分に藍李の気持ちが分かる。こういうのはとても気分が落ち着く。
「もうお休みなさい。明日は早くから出ましょう」
落ち着きすぎて眠たくなりあくびをすると漓瑞に寝台へうながされた。
黒羽は側に立てかけて置いてある冥炎を寝台の側に置き直し、大人しく横になることにする。薄い上掛けを羽織ってすでにうつらうつらしながら、今日は寝ないのかと漓瑞に問うてみる。
「ええ。今日は眠れそうにないので。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
頻繁に眠りを必要としない魔族の漓瑞にそう返して、黒羽は目を閉じる。
そして彼女はすぐに眠りについたのだった。
***
黒羽の静かな寝息をききながら漓瑞はため息をつき、自分の胸の辺りを押さえる。
半分人の血を引いている自分には、神剣の血族と同じように腐蝕が起こっていた。
もはや残り一年生きられるかどうかすら危うい状態で頻繁に吐血していたが、肉体を変質させられかけてからは血を吐くことも体の内側が傷むことはなくなった。
しかし、腐蝕がなくなったわけではない。最初に血を吐いた以前のざらついた違和感が確かに内側にある。
あの時意識を深い場所へ引き込まれ霧散しかけながらも、黒羽の声にわずかに自我を留めた自分に呼びかける声があった。
――今、もう一度外へと戻ってもその肉体はすぐに朽ちるでしょう。我らの時にして瞬くより早く、人の時にしてもささやかな間でもあちらに戻りたいのなら行きなさい
あれは、自分の祖先という神の声だったのだろうか。
死期は数歩だけ先に進んだだけでその背中はよく見える。追いつくのはそう遠くない未来。五年、いやそれより短いだろう。
とにかく吐血が始まる前には黒羽には伝えなければならないが、と漓瑞は黒羽の眠る寝台の側に寄りそこに静かに腰をかけた。
呼吸から感じるとおり深く眠っていて、起きる気配どころか身じろぎすら彼女はしない。
まだあれから一月あまり。急激な環境の変化についていくのに精一杯な黒羽に今このことを告げるのは躊躇われた。
「どうしてあなたは変わらないんでしょうね……」
答えが返ってこないと分かっていながら漓瑞は黒羽に問いかける。
もうこれが最後だろうと黒羽の寝顔を眺めた夜。あの日と同じように安心しきって黒羽は眠っている。
確かに自分は裏切ったのに。
あげくに追いかけてきた黒羽が負傷し、すぐに治療しなければ助からないと分かっていながらもその場に放置したのに。
なにも変わらない。変わらず、自分に甘える仕草を見せて、一緒にいるのが当然だと思っている。
「……結局は、逃げているだけですね」
自分はまた彼女を裏切る。その瞬間の黒羽の顔は見たくなかった。
「…………」
何かを言いかけて、漓瑞はやめる。口を噤んだときには一瞬浮かんだ言葉も感情も、全部奥底へと仕舞い込む。
そして罪悪感に黒羽の側にいることが落ち着かなくなり、窓辺に立つ。
夜気はほどよい涼しさがあるが湿り気は変わらない。空は晴れて見えるが、細い弓月や星がじんわりと滲んでいてうっすらと雲がある。
明日は雨だろうかと夜空を見ながらしばらく佇んでいると、緊急事態を知らせる警鐘が鳴るのが聞こえた。
それと同時に条件反射で黒羽がすぐに起き出す気配がする。振り向くと彼女は薄暗い中でも冥炎を手に取りすでに腰に差していた。
「なんだろうな」
すでにさっきまで熟睡していたとは思えないしっかりした口調と顔で髪を縛りながら黒羽が言う。
「私たちが関わる事ではないのではとは思いますが……」
夜に妖魔が出たり魔族が何かしでかすことはままあるので支局の通常業務の範囲だろうと思うが、警鐘が鳴るということは現場の局員では手が足りないということだ。
そこそこ大きな事件なのかもしれない。
「何があったか聞いてくるか。またアデルが何か仕掛けてるのかもしれねえしな」
「誘拐事件等の報告は聞いてはないので大丈夫だと思いますが、念のために聞いてきた方が良さそうですね」
黒羽の意見に漓瑞は同意してふたりで廊下に出る。
客室は教務部のすぐそばで事情はすぐに掴むことが出来ず、監理部側へと出る。途中にある医務部にイジュの姿があって、ふたりは足を止めた。
「あの! ルークン係長の容態は!!」
医務部の局員に詰め寄るイジュの声は震えていた。
「……今はなんとも。とにかく落ち着いて。部長も全力を尽くしていますから」
重々しい口調の医務局員の言葉にイジュが顔を覆い、嗚咽をこぼし始める。局員は廊下に置かれている長椅子へと彼女を促して仕事に戻っていった。
どうやら彼女の親しい人間が負傷し危うい状態らしい。
「イジュ!」
黒羽がイジュに駆け寄り、彼女の前に屈んでその背をさする。漓瑞は彼女の後ろに歩いてついていった。
「あ……黒羽さん、あの、あ、っ…………」
ずいぶん混乱しているのか、まともに喋ることも出来ずイジュはそのまま黒羽の肩に顔を埋めてまたわんわんと泣き始める。
(イジュさんに事情を聞くのは無理そうですね……)
漓瑞は周囲に視線を巡らせなにか事情を聞ける人を探す。そして通りがかった局員を捕まえた。
「強盗殺人だそうです。現場近くに居合わせた監理係の係長が負傷されて犯人の魔族は逃走中だそうです…………ああ、イジュさんですか。たしか六年前にご両親が魔族に強盗殺人で亡くされて、まだその犯人も捕まってないんです。その関係で係長とは懇意にされていて。いやだわ。昔の事件と関係あるのかしら」
言いながら眉宇を曇らせて局員がイジュに視線をやり、漓瑞もそちらを見る。
監理係志望の動機はごくごく単純なものだったようだ。
「ありがとうございます。係長のご家族などは?」
「三年前に亡くなられた奥様しか家族はいないので、同僚の方々はみんな犯人を追っているところでしょうし……」
そうなるとイジュしか今は付き添える人間はいないということだ。事件は聞く限りはこちらには関係のなさそうだが。
漓瑞は今はイジュの隣に座ってその肩を抱いてやっている黒羽にひっそりとため息をついて椅子の端に腰を下ろした。