序
狼に似た巨大な獣の陶磁器を思わせる滑らかな表皮が、月明かりに照らされ光沢を放つ。
咆哮を上げて巨体を揺らすその獣は人の負の感情より生まれる瘴気が凝った、『妖獣』とよばれるものだ。
玉陽国城藍州西部の国境近くにある小さな農村の牛舎はその妖獣の長い尾で薙ぎ倒され、畑はがっしりとした大木の幹の如き足で荒地へと変えられてしまっている。
「走らないでください! 慌てなくてもまだ妖獣はここまで来ません!」
妖獣の出現に着のみ着のままで避難する付近の住民達をまだ被害にあっていない畑に誘導するのは人外監理局、妖魔監理課城藍係の局員達である。
そこへ木が砕ける音が響いて、人々の足を止めた。松明の明かりに揺れる住民達の表情に落ちる不安の影が濃くなる。
「室長は大丈夫ですかね」
後方にいた局員が隣にいる十代の半ばほどの、たおやかな少女に問う。
「大丈夫でしょう。彼女ならそこまで苦戦するほどでもないはずです」
そう答える少女の性別を感じさせない音程の声は美しく繊細だ。
「いや、そうなじゃなくて。室長のことだから余計なものまで燃やしちまったりしそうだなあと思って」
局員は冗談めかして笑うが次第に乾いたものに変わり、最後には二人の間に重々しい沈黙が流れた。
「……少し様子を見てきますので後を頼みます」
少女が硬い表情でゆったりとした袖口から小ぶりな鞠を取り出す。彼女の左の手の甲には他の者達にはない複雑に蔓草が絡み合う文様が刻まれている。
それは人と同じ姿でありながら人を超えた身体能力を持ち長命な魔族の証だ。
胸元まで流れる絹糸の髪と同じ色の漆黒の瞳で少女は妖獣が蠢く背後の闇を見据える。
崩れ、さらに打ちつけられたのか粉砕した小屋だったらしきものが薄青の炎に呑まれる。一瞬で残骸は灰燼になって姿をなくし、そこから人影が動いた。
そこにたたずむ人の姿を確認して少女は爪先で地を蹴り、跳躍した。
***
元は小屋だった木片に埋もれていた城藍係第一室室長、黒羽はふらりと立ち上がる。
その背丈は高いが男にしてはやや線が細い。
二十歳かそこらのまだ幼さが残る顔は、切れ長の目に通った鼻梁と整っていて、初夏の新緑に似た清涼な雰囲気が漂う。顔つきは誰が見ても美青年だが一応女である。
「いってえな、畜生」
少年のような声音でつぶやいて黒羽が愛刀の柄をきつく握り締める。そうして霊力を流し込んでやれば刃は月光に似た青白い炎を生み、あたりの木片をに喰らいついた。
刀身に青白い炎を纏うこの刀は冥炎という。妖魔と同じように人の瘴気から生まれたもので、妖刀、あるいは魔剣と呼ばれる。
妖刀や魔剣は属性を持ち使い手の霊力を糧に強大な力を発揮するのが、どれだけ霊力を流し込もうと浄化の力しか発しない普通の刀剣との大きな差異だ。この冥炎は名の現わすとおり、炎に属し青白い波状の炎を発するのが特性である。
強大な力故に局員でもごく一部の霊力の高い者にしか扱えない特異なものだ。
「さあ、終いにするぞ」
黒羽が軽く頭を振れば髪紐が千切れ、背の半ばまである振り落とした灰と同じ色の髪が散る。
多少邪魔だがそれにかかずらってる暇はない。こちらが無事だときづいた妖獣がもうすぐそこまで来ている。
黒羽はもとより鋭い目をさらに吊り上げて刃を構え、地を弾きただ猛然と駆ける。
妖獣の咆哮が初夏の湿り気を帯びた空気を震わせる。
その顎門を眼前にして跳んで刀身を振り、燃ゆる弓月を描いた黒羽は太い首を打ちつけて舌打ちする。
獣に傷はほとんどない。
噴出した力の反動で後方に吹き飛ぶ黒羽の青みがかった灰色の瞳が、妖獣の背後にいる少女を映す。
「漓瑞!」
すでに獣の陰になって見えなくなった少女の名を呼んで冥炎を宙に振り下ろす。
刀身から解き放たれた炎は灼熱の奔流となって妖獣を打ち叩き、さらに勢いのまま全てを燃やし尽くそうと押し進む。だがその流れを阻むものがあった。
瀑布に似た壁である。
壁に炎が当たり弾ける。
後にはわずかに湯気が立ち上り、もやが晴れる頃に現れた妖獣の表皮に元のすべらかさの名残はまるでなく、ぼこぼこと泡立ち爛れていた。
「しぶといですね」
いつの間にか黒羽の横に立っていた少女、漓瑞が眉をひそめて言いながら水をすくうように両手を差し出す。
妖獣のすぐそばの空中に水球が生まれ、それはそのまま漓瑞の手に流れ込んで鞠の形をとる。しかしすぐに墨になり地に落ちた。
魔族は個々に特異な能力を持ち、漓瑞のそれは物を液化して霊力を吸収するという珍しいものだ。
「もう一太刀ってところだろ。避難は済んだのか?」
「ええ。怪我人も大きな混乱もありませんでした……」
黒羽が唸り声を上げながら体を引きずって近づいてくる妖獣に軽く妖刀を振って止めを刺した。骸は残らず、黒い砂塵が舞って闇に溶ける。
「にしてもこいつ本当に赤海と紫山の奴と同型か? 明らかに強さが違うだろ」
ここ一月半の間に巨大な妖獣がこの城藍州の他にも二州で現れた。外見の特徴は同じだが、妖刀ではなくとも先の二体は滅することが出来ている。
「力を増すという事例もないこともないですが……。いずれにせよ研究課に任せるしかないでしょう。
漓瑞がわずかに煤の残る手を払いながら刀を納める黒羽を見やり、おもむろに袂から髪紐を取り出してその髪に触れる。
「ん、自分でやる」
黒羽は漓瑞から髪紐を受け取り適当に髪をまとめてもたもたと結んだ。鏡がないのでちゃんとできているか気になったので漓瑞に訊いてみると苦笑が返ってきた。
「結び目がいびつですが、解けはしないでしょう」
「お前は男のくせに細かいよなあ」
実のところ漓瑞は紛れもない男である。背丈は黒羽よりもほんの少し低く、柔和な表情から立ち居振る舞いまで隙なく良家の可憐な令嬢に見える。
姉の喪に服しているということだそうだ。
玉陽では若くして死んだ兄弟と同じ格好をして一月ほど過ごし、少しでも寿命を分けてやるという慣習がある。
しかし漓瑞は実に五十年近くはこの格好らしい。長ければ三百年近く生きる魔族でありながら、二十足らずのうちに亡くなった姉を悼んでもうしばらくはこの姿でいるということだ。
「あなたは雑すぎるとおもうんですけどね……」
言いながら漓瑞が妖獣が消えたあたりを見やる。
「どうした?」
表情の険しい漓瑞に黒羽はわずかに不安を覚える。
「いえ、なんでもありません」
かぶりを振り、柔らかく微笑んで漓瑞が戻りましょうと歩きだす。
少し歩調の速い彼においていかれないように、黒羽も大またでそのあとを追った。




