花の庭園シュゼノー
純真無垢で透き通った風が、花の香りを纏い、優しく頬をくすぐって通り過ぎていく。水気を含んでいつつ、柔らかく甘い花の香りは私に、花を齧ると蜜の味がするかの様な錯覚を起こさせた。
「とっても綺麗ね、リーシャちゃんっ」
春色の花々がアシンメトリーに調和して咲いている景色を前に、私の隣に立つ少女の瞳はキラキラと輝いていた。少女にとっては幾度も目にした景色だろうが、それでもこの景色は少女の大好き、の一つなのだとその瞳から、声から、仕草の一つ一つから、眩しい程に伝わってくる。
セシリアからこの花咲き乱れるシュゼノーの街まで、私とウィルグは少女を含む商人の家族と護衛という形で共に移動して来たのだった。ただセシリアからシュゼノーまでの移動はウィルグが言った通り容易いもので、護衛とは言ってもほとんど名ばかりだった。この家族も、護衛なしで移動することもしばしばある様子だった。
ふと、少女の瞳に睫毛の影が映った。見る見るうちに瞳が潤んでいく。
「でもシュゼノーに着いちゃったら、リーシャちゃんとお別れになっちゃう」
少女の瞳から涙がぽろぽろと零れ出した。私は澄んだその涙に呼ばれる様に瞳が潤むのを感じながら、私より少しだけ背の高い少女に思い切り抱きついた。
「きっとまた会えるよ」
小さく呟いた声は少女にも聞き取れた様で、少女がそっと頷き返したのを感じた。
扉の横にあったベルを鳴らすと栗色のふわふわとした髪の女性が出てきた。
「あら、可愛らしいお客様ね。なんのご用事かしら」
「私、リーシャです。お願いがあるの」
見上げる私に女性は柔らかな笑みを浮かべていた。
「お話なら、中で聞きましょうか。どうぞお入りになって」
私は招かれるままに女性の家の、恐らく応接間なのだろう部屋の椅子にクッションを重ねたその上に座った。女性は私とウィルグを椅子に導いた後自分は座らずに、少し待つように言い置くと部屋の外に姿を消した。部屋に戻ってきた女性はテーブルに紅茶のカップを三つ置くと、優雅な仕草で席に付いた。
「さあ、お話を聞きましょう。紅茶もお飲みになって」
ウィルグが感謝の言葉と共にカップに口を付けたのを視界の端に捉えながら、私は女性に一通の便箋を差し出した。
「セシリアの街の、宿の女将さんにお願いしたの。読んで下さい」
女性は便箋を開き、手紙を取り出した。目を伏せがちにして手紙を読む姿は女性に良く似合っていて美しかったが、その表情から女性の思いを読み取るのは難しく、それ故なのか私は自分の鼓動が早まっているのを感じていた。紅茶のカップに手を伸ばし、紅茶を口に含む。その豊かな香りに少し緊張が和らいだ気がした。暫くして手紙を読み終えた様子で、女性はす、と視線を上げるとその瞳に柔らかな笑みを浮かべた。
「あの子の紹介だもの。もちろん、大歓迎よ。折角だから、場所をお貸しするだけじゃあなくて、ちゃんと場所を作りましょう。その代わりあの子が素晴らしいというあなたの歌を、私にも聞かせて」
その言葉と表情に安堵を感じて思わず笑みが零れる。すると女性は僅かに目を見開き、そして小さく笑い声を漏らした。
「しっかりしているのかと思ったら、笑うとこんなに可愛いのね」
髪を梳く様に撫でられ、私は心地よさに負けて思わず瞼を下ろした。暫くそうしていると不意に女性が口を開いた。
「あなた達、泊まる場所はもう決めていらっしゃるの?」
「いや、これから宿を探すつもりだが、どうかなされただろうか」
瞼を上げて見てみると女性からの視線を受けたらしいウィルグがそう答えていた。
「それなら、ここにお泊まりになるのはどうかしら。あなた達がシュゼノーにいる間に、いろいろお話もしたいもの」
「しかしリーシャならともかく、俺が女性の家に泊めて頂く訳にはいかない上、リーシャはしっかりしているように見えてもまだ幼いから、手の届くところに置いておきたい。有難いお言葉だが、遠慮させて頂こう」
「あら、大丈夫よ。二人一緒にお泊まりになって。滅多にない様な素敵なご縁だもの。大切にしなければ、勿体ないわ」
そして女性は小さく笑って付け足した。
「それにね、シュゼノーにあんまり宿は多くないの。行商人は取引先が決まっていれば、取引の間はそこに泊まってしまうことも多いから。シュゼノーで宿を探すっていうのはなかなか難しいのではないかしら」
女性はぽんぽん、と私の頭に手を置き、私と目を合わせて尋ねた。
「リーシャちゃんは、どう思う?」
「……お世話に、なります」
「しかしリーシャ」
困惑した様に上げられたウィルグの声を女性は可笑しそうな笑みを浮かべて遮った。
「本当に大丈夫よ。シュゼノーでは良くあることだし、私の取引先にだって男性の方々はいらっしゃるわ。皆さんお泊まりになるけれど、トラブルが起こったことはないし、もともとシュゼノーの家はそういうことを想定して作られているの。だから大丈夫」
どこか釈然としない表情をしていたウィルグだったが、少しして諦めた様に息をついた。
「暫くの間厄介になる」
「ええ、よろしくね」
微笑む女性につられ、私も頬が緩んだ。
大変遅くなりました……。