花瓶と花
客の姿が少なくなった頃、どうやら宿の女主人だったらしい例の女性が紅茶と菓子を出してくれた。礼を言い、紅茶を口に含むと豊かな香りが身体を満たした。私はようやく一息つけた気がしてふぅ、と吐息を漏らした。
「疲れたか?」
向かいで同じく紅茶のカップに口をつけていたウィルグがそう問うた。私は頷いた。
「緊張してたから、疲れた」
「そうは見えなかったが」
ウィルグは笑みを浮かべて言った。私は胸に手を当てて、笑顔を返した。
「胸がどきどきしてるのが、ずっと聞こえてたの。声が震えなかったのが不思議なくらいだよ」
そう言って隣に置いていた竪琴に指を滑らせながら、思わず笑い声が漏れた。
「すごく楽しかったけど、ね」
「ああ。楽しそうだったな」
ウィルグのその言葉に、何故だか気恥ずかしさを感じて口元が曖昧な笑みを象った。
ふと視界の端に映った青色に引かれ目をやるとセシリアの物か、美しい花瓶に花が飾ってあった。白い縁から底に向かうにつれて青みが増していき、紺碧の部分には星を模したかの様に細かな金が散らされている花瓶。優雅な薄紅の大輪に、それを引き立てる様な蜜柑色の花、そして白い可憐な花が添えて挿されていた。
「これからどうするんだ。まだしばらくセシリアに居るのか?」
そう問いかけられて、私は意識をウィルグに戻した。
「一週間くらいのつもり。もう三、四回歌ったら、別の街に移動しようと思ってるの」
「どこに向かうんだ」
「セシリアに来た時と違って街に目的がある訳じゃないから、比較的移動が難しくない道を通って、近い街を転々と。でも移動のしやすさまでは私にはよく分からないから、叔父様に心当たりがあるならそこに行く」
ウィルグは考え込むような仕草で目を伏せ、やがて答えを見つけたようだった。
「セシリアからなら、シュゼノーだろう」
シュゼノーと聞いて私は再び花瓶の方へ目をやった。今度はウィルグも私と同じものを見たようだった。花の庭園シュゼノー。貴族が屋敷に飾るような花々を盛んに育てていて、シュゼノーの花は上品で香りが良いと名高い街だった。セシリアとシュゼノーの行き来が容易であるのなら、宿の女主人はシュゼノーに花を育てている知り合いでも居るのかもしれない。もしそうならば紹介状でも書いてもらおうかと考えながら、私は紅茶のカップに手を伸ばした。
「じゃあ、決まりね」
遅くなりました。