邂逅
それは罰だったのだろうか。
いくつもの罪を重ねた。咎人としての道だ。贖罪と再興のためだけの人生だった。それは光も当たらぬ陰の道。伸べられる救いもなければ求める望みもなし、二度と拝むことも無いだろうと思っていた。
望みはとうに捨てたはずだ。はずだった。
どこで空いたのか、いつの間にか生まれていた僅かな隙間。陽を知らぬ咎にじんわりと浸透し容赦なく全ては色づいていく。
理解した。嘆く自分がいる中に、確かな暖かさがある事を。
「初めまして、になるかな。黒羽くん、私のこと分かる?」
彼女は告げた。
柔和な笑みだった。そして、それはこの世界の歯車を止める力を持つものだった。
第三区に所在を構える《慈生学園》、初等部から高等部までの一貫校でその規模は学生街・第三区のみならずラグーナ内でも有数であり、またここの卒業生は例に漏れず大成する、『未来の集積所』と揶揄されるまでには名前の通った学校でもある。
内部学生は初等部から高等部までエスカレーター式に進級していく。中等部から、高等部からの転入生はほとんど存在しない。初等部から中等部、中等部から高等部へと進む時々に試験を設けているが基本は慈生学園の教育カリキュラムに準じた試験内容だ。そのレベルは他校と比べるまでもなく高き壁であり、特に高等部入学試験はラグーナでの高校入試の最難関とまでされている。
中等部からの転入はごく少数ながら毎年存在する。しかし、高等部転入者は慈生過去六二年の歴史を振り返っても存在しなかった。
そう、存在しなかった。彼、伝説として後世まで語り継がれていくであろう『黒い白』と銘打たれた彼が現れるまでは。
季節は初冬に差し掛かり一面はゆっくりとした速度で冬の支度を始めていた。落ちて吹く風に巻かれる木の葉がその移る変化をまざまざと見せつけている。脇を抜ける風は身を冷やし、秋の終わりが身に沁みる。
「寒い……」
定期テストの答案をカバンに仕舞い込んで、黒羽十河は羽織ったブレザーを首元に押し当てて身を丸くする。
午後五時を回り自宅への帰路につく学生の波に乗る。周辺の学生は黒羽と同じような行動を取っており、それほどまでにも刺さる寒さであることを表している。
周辺にそびえる無機質なコンクリートビルや外見だけ綺麗に着飾ったちゃちなアパートなどがより温度を下げている気にもなってくる。道を外れれば木々が生い茂っているのだが、今の季節では寒さが二割り増しになるに違いない。
夕刻の太陽は空を焼き、漂う雲を焦がすだけでなく、第三区の見慣れた学生街も同等に染め上げていた。さながら、燃る業火のようだった。西に沈みゆく陽は朱く、それでいて淡くおぼろで。秋はセンチメンタルな季節というが太陽もまた、自身の輪郭もはっきりし得ないのだろうか。
何て想像を浮かべてみるが、「それはないな」と心で首を振る。
頭上を覆う天の蓋。
美しかった。もしや本物をも超えているかもしれない。
風が吹く。
長い髪を靡かせ、身を揺さぶらせる。染み入る感情は冷気によって凍えていった。どれだけ太陽が明るくとも地に落ちゆく傾き物に温暖を求める方が間違いか。きっと、届く熱は魅せるための色彩に注がれているのだろう。
「ああめんどうだ」
ちらりと横目で後方を伺い見ると流れる人波を自身が引き連れているかのようであった。前を向けば人を追う形となり少し気が楽になった。黒羽の横に立つ人はいない。それが余計にその印象を強く明瞭にする。
波はあくまで人、何ら変わらぬ日の常でそこに異分子が割って入る隙などなかった。
変わらぬ速度で歩みを進める。ああ、本当に面倒な一日になりそうだ。いや数日か。全く嫌な役回りを押し付けられたものだ。
ものの切り替えは恐ろしく早い質のようなので、とりあえず今日を生き抜くための第一手。
今晩の夕食はどうしようか。
嫌なことは続くと誰かが言っていたのを思い出した。予感はしていたが、まさかとは思わず心の中で重い悪態をつく。
目の前にいる少女は明らかに異分子だ。この場に姿を置いていることがイレギュラーで、今まで他人に侵入を許すことなどあり得なかったこの部屋に異分子が混ざっていることに耐えられない。
そのお陰が、一応身内に含まれる奴が部屋の隅で子兎のように丸まり身を震わせていた。
耳へ届くそれは実に明るく、躍然たる響きをまとわせた声音だった。微かな淀みもなく、軽やかに黒羽の全身を行き渡っていく。思わず聞き惚れてしまったほどに。
歯噛みをする暇もなく、違う意味で身動きがとれなくなっていた。
だが、こちらとは裏腹に向こうの様子は変化が生じる。返事がないことからより焦ってしまったのか、元々硬めだった表情は更に強張り、不安が混じった声音となっていく。淀みない、と表現した綺麗で通る彼女の声は自身の心情を鏡のように映し出してしまうようだ。
「わ、私は慈生学園高等部二年、麻乃明涙です。クラスは二組なんだけど覚えてない? えっと、体育とかで一緒なんだけど……」
徐々に尻すぼみで声が小さくなっていく。
麻乃は首から下がったペンダントを自身の手で弄び始め、目は少し泳いでいる。どうやら緊張が彼女のキャパを超えてしまったのだろう。確かに、このような辛気臭い場所で無言の圧力に掛けられたら誰もが言い知れぬ不安を覚えるのも無理はない。
「何、少し緊張してるんだ。それで、麻乃。君は目的があってここに来たんだろう。―――どのような理由かは知らないけれど、とりあえず要件を告げたらどうだ?」
これ以上黙っていたら焦りと緊張で手にしたペンダントを剃り壊しかねないので、黒羽はできる限り優しさでコーティングした声で、助け舟を出す。しかしどストレートであるのだが。
「うぇ、え、えーと、その黒羽くんって一人暮らししているんだねー、高校生なのにすごいなー」
下手くそにはぐらかされてしまった。
「いやここは俺の家じゃないよ。本来の場所は別のところさ」
はぐらかすということは、言いにくいことであるのは確かだろう。麻乃明涙は幸い、黒羽が名を知る数少ない人物だった。それ程ここに来た理由かは未だ掴めないが、記憶が確かなら危険な思考など持ち合わせていない少女のはずだ。
それゆえに「うわうわうわうわうわ、かっわいいー子! 君、お名前は?」などと数秒前までの緊張した面持ちはどこへやらで、奥で丸まっていた片割れ、怯えに怯えて震えに震えた小柄な少年へと興味、いや狂味を注いでいる様子に自身の記憶は正しかったのかと自問自答を繰り返さなければならない。
だが、明涙の幼子さながらな様子を目にしたら警戒など無意味だな、とあっさり決定づけることができた。どうしてかとても安心できたのだ。そして懐かしさもこみ上げ、微笑みが溢れていた。
「ねね、お名前は?」
さらに一歩、今までも十分に近かった顔をより近づけ、麻乃は少年に質問をする。いやあれは質問というより詰問、ある種の拷問とも取れる。少年は幾度か「せ、せい…」と名乗ろうとしているのだが、矢継ぎ早に繰り出される可愛い発言や、「お名前は?」だとか「何歳?」だとかにかき消されてしまう。この時の彼女は狼に類似していた。いや、そのものといってもいい。情報を追う狩人の実態は冷静さ皆無の狂人のようだが。
そもそも彼は対人に置いて少し欠陥を持ち合わせているのだからそんなに詰問しても結果は見えない。
少年の瞳は充血しきり、そろそろ決壊が危ぶまれてきたので「はいはい、そこまで」と二人の間に割り込む。少年と明涙、子兎と狼さながらの状況に無理やり終止符を打った。
黒羽は目を閉じ、眉間にシワを寄せながら文句をつける。
「なんだ、さっきの様子は。頼むからこの場で法に触れるようなことはしないでくれるか、麻乃。青少年の健やかな育成を蝕むようなことはダメだ」
あれは明らかに彼女のペースだった。それを崩されて、思うように事が運ばなかったのだ。さぞふてくされた眼差しを向けているだろうと、内心恐れながら目を開く。
そこには、小さく口を開き、惚けた、とは違うが心ここにあらずといった面持ちで黒羽を見上げる大きな双眸があった。
吸い込まれるといった表現は適切だろう。黒目はどこか遠い宇宙を思い浮かべさせられる。深い黒であるが暗さはなく、光を反射した瞳は煌煌としているが儚くもあり、点滅を繰り返していて目を離せない。それは青い天蓋を越えた先にあるはずの宙そのもの。
これまでは横顔を目にする程度でしかなかった。廊下をすれ違うとき、合同授業の際に教師が思いつきで決める席順で偶然近くに座ったとき、体育の時など、機会はそれなりに多かった。その時はただ、「年不相応だな」とだけが感想だった。
正面から、加え近距離で映る彼女は幼さの残るものだった。目鼻はすっと通り、口元は小さく慎ましい。肌は白く、だが一七歳という年齢に嘘のない、健康的な色合いでもあった。
肩で切り揃えられた黒髪は赤みがかっておりクセもなく余計な手は加えられていなかった。右側のもみあげは耳にかけて、先端に少し大きめの装飾をこさえたヘアピンを携えていた。それは大人らしくもあり、少女らしくもあった。ただとても彼女らしくある気がした。
お互いにらみ合うこと数秒。さきに我に帰った麻乃明涙であった。
「ああ、ごめん。ぼうっとしてた。何だか黒羽くんの声、慣れなくて」
「ついさっきまで言葉をかけていたんだけど、どうやら聞く耳は持ってなかったようだな」
「え、そうなの。うわ、ごめんね。ついつい我を忘れることがあって」
申し訳そうに頭を掻く麻乃。その様子があまりにも申し訳そうに見えたので、
「ほ、ほら。お前も聞かれたんだから、ちゃんと答えろ」
といたたまれなくなり、いつのまにか隠れていた少年を彼女の前に出す。
「え、っと……、そ、想真、ソーマです。年は一〇歳、たぶん日本人です」
律儀に質問に答えるソーマだが、そう言い終えたらそそくさと、今度はグリズリーの陰に隠れてしまった。その姿は愛らしく、しおらしく、無口で人見知りな少年そのもので。
ああいつもこんなだったら良いのにと、一人涙を目尻に貯める黒羽。
「へえ、日本人なんだ。私はてっきりEAだと思ってたよ」
ラグーナには外国人というジャンルは存在しない。百年前、ラグーナ完成時には多くの居住申請が送られてきた。それは日本国に留まらず諸外国全土に広まっていた。それもラグーナは全世界恒久の平和、その象徴として造られた。そこはあらゆる権利が擁護され、平等かつ安寧、そして安全安心の生活が送れる、人類のユートピアとされた。加えあらゆる保障が約束された一つの国に住むことはある種ステータスにもなったらしい。
従って転居を申し出る人々が増加し、このままではラグーナのキャパシティを大幅に超えてしまう。そこで開発者グループは日本政府、はては国連の合意のもと大規模な選定を行なった。
結果として日本国籍の人々が七割を占め、残りは他国人という意外なものに終わったため、各地で非難が殺到し、政府や開発者グループはその処理に追われた。それは僅か数ヶ月で収束へと向かいラグーンは無事滞りなく浮上。都市の住民となった人々は、ラグーナの存在定義の名の下に生活を行なった。ゆえに外国人という単語は廃れたということらしい。
あくまで自分とは違う国籍の出身、単なる記号としての違いであり、いわゆる性別の延長線として考えられた。『既に外の国の人間ではない』ということらしい。
とある資料室で目にした本の内容である。記されていた日付からラグーナ創成期に当たる資料だったため今を生きる若者に外国などとは分からないだろう。
ちなみに、EAとは欧米タイプ(Europeans and Americans)の略称である。だがこの略称の正式名を知る者は、ラグーナ内にほとんど存在しない。素朴な疑問として教師などが質問されると「上のお偉いさんが決めたんだ」と我関せずの一点張りである。そうだろう、彼らもそう教えられてきたのだから。
「ソーマくんかー、かっこいい名前だね」
えへへ、と口角を緩める麻乃。彼女はここに来て様々な表情をする。普段校内で見るものとは全くと言っていいほど異なったものだが、そのどれもが紛れもなく彼女のものなのだなと、何となくであるが感じる。
「ソーマくん、きっと将来有望だよね! このキレイなブロンドの髪とか、青い瞳とか、顔のパーツとか!」
お人形さんみたい……、とうっとりとした眼差しでソーマを見つめる麻乃。少しずつ鼻息が荒くなり始めているので、また狂人の再来だろうか。あの勢いをまた止めるのは文字通り骨を折ることになるかもしれない。面倒な事が起こると直感じみた閃きが頭を掠め、早急に二人を離すことにする。
「はいはい、黒羽が間に入りますよっと。ふーいいかな、麻乃。そろそろはぐらかすことなく話してもらおうか?」
子供のように不貞腐れていた彼女の様子が強ばった。いや表情に変化はなく、心が強く緊張したのだろう。唇を突き出したまま目を交わす二人。
「ふうん、そこまで話しにくいことなのか。わざわざここに来たからには、それなりに訳ありなんだろうが。こっちも無言でいられたら対応に困るんだけども」
彼女は訳ありだ、それは今の様子やこれまでで予想できる。ならばこそ、何故麻乃明涙は黒羽十河に力を借りようとしたのか。偶然であるはずがない。クラスは隣であるが接点はなし。会話も今回に至るまで一度もなし。思い当たる点一切なし。
しかし彼自身があまり社交的な性格を(あくまで学校内では)していないため、彼と接点のある人間など数える程であった。むしろその可憐な美少女たる麻乃明涙が懇願すればそこらの脳筋どもなら喜んで手を貸すだろうに。
「(そんな性格ではなさそうだよな……)」
ならば、何故この黒羽十河のもとに来たのか。考えられること、それは、
「麻乃。お前か、ここ最近俺を付きまとっていいたのは。登校の時から帰宅途中までほぼ毎日びっしりと。最近は下校時の視線が感じなかったから油断したが。どうしてだ?」
麻乃明涙が黒羽十河の素性について調べ、それを承知の上でここに現れたということだ。
場が凍てつき、ソーマの息を呑む様子が空気を伝ってくる。これが何を意味しているか判断できているようだ。
「………」
無言であった。俯き、一言も発さないそれが肯定の意であると理解した。
言葉をかけようとした瞬間、微かに小さな肩が震える。泣いているのか怯えているのか、焦っているのか。次第に頭も振り、そして体へと。腕を抱いて身悶えでもしているかのようだ。相手の異様な光景に不安と若干の恐怖を覚える。同学の友にまさかとは思っていたが。
「もしそうならば、こちらも対策に応じなければいけないな。手荒な真似はしたくないんだ、お前が素直に従ってくれたら余計な危害は加えない」
そこまで口にしたところで黒羽は次の言葉を止められた。彼女が突き出した右の手の平からストップの念が込められていて。それが風を切るかのような勢いでもあったため、思わず次の文字を喉の底に飲み込むことになってしまった。
麻乃はもう一方の手で胸を押さえ、苦しそうに肩で息をしていた。顔は紅潮しており、あまりに苦しそうなものだったため、敵意は三割含むがそれでも心配してしまったほどだ。
おい、と声をかけたが「うん、大丈夫。ちゃんと自分の口から伝える」と息絶え絶えな様子で宣言する。
大きく息を吸い込むこと三回。なんとか息を整え、拳を強く握り締め決意を固める奇しい少女。なにせ、固めたかと思えば「いや、でも」などと頭を押さえまた拳を固める。そのサイクルが五,六度行なわれたとき、改めて強く記憶に刻み込んだ。麻乃明涙には『美』ではなく『奇』のつく少女だったのだと。
長い長いサイクルだった。脳内での闘争を終え、疲弊した顔でこちらに向き直す麻乃。その顔には未だ納得できないけど仕方がないといった気持ちが表れている。
だいぶ待ちくたびれたソーマは完全に緊張感を失い、お茶を淹れ、その肴としてこちらを眺めている。少しも油断できない状況であることが分からないのかと心の中で文句を言う黒羽は、目を向けることなく神妙な顔で彼女の次の言葉を待ち構えていた。
「はあ、わかった、言うよ。言います。確かにここ最近学校内で君を見ていたのは私。それに私新聞部でしょう、少しばかり調べ物は得意でね。簡単ながら黒羽十河についても分かっちゃった。それを見越した上で、お願いなんだけど」
一つ区切りをいれすうっと息を吸い、本核となる部分を告げた。
「分かったんだ。私には、き、君が必要なだって。黒羽くんがいい、いや黒羽くんでないとダメなんだって。どうかお願い、わ、わたし、私と! ずっと……、一緒にいてください。離れることなく、私を、ずっと一緒に……」
「……………………、は?」
後ろからは「おお」だとか聴こえてくるが分からない、聞く耳を持てない。その衝撃は耳を突き抜け直接脳を揺らす。一連の記憶を問答無用に頭から振い落された。先ほどの言葉が何を意味しているかを瞬時に理解することが出来ない。あまりにも唐突すぎて。話の文章がどこか飛んでいるんじゃないかと思い違うほどに。
ただ一つ、これだけは明確に頭に残った。居るはずのない微笑む天使が舞い降りたそのときは、首根っこ掴んででも外へ放り出すこと。そう、未来へ託す知恵だった。