第五十四話 綾織の女王
人形たちの放たれた火炎魔法は、まだ、私に届いていない。
なぜならカジェロが庇ってくれたから。
自らの身も顧みずに前へ出て――炎に、包まれた。
黒いボルサリーノ帽が燃え、灰へと変わる。
『お嬢様、どうか、お逃げ、ください……』
苦しげな声。
彼が追い詰められているのは、私のせいだ。
私があまりにも軽率に動いてしまったから。
何の考えもなしに城塞の外に出てしまったから。
トゥルス兄様からは「会議室で見ているだけでいい」と言われたのに。
私は何もしなくてよかったはずなのに。
アイデンティティがどうのこうのと下らない自意識に囚われて。
「この程度のことなら何とかなる」と無根拠な自信に突き動かされて。
結果。
カジェロは消滅の危機に瀕していた。
私の愚かさのツケを背負わされ、この世から消えてしまうかもしれない。
いやだ。
身勝手なワガママなのは自覚している。
まるで子供みたいにダダをこねているのも分かってる。
けれど――
いやだ。
みとめたくない。
そう強く思った瞬間。
かつてないほどの激痛が、私を襲った。
「 !」
言葉にならない。
まるで獣のような絶叫が、私の口から飛び出していた。
その痛みはまるで脳髄が爆ぜたかのようで。
あるいは。
目や鼻や口に、内側から何万何千本の針を突き立てられたかのようで。
視界がスパークした。
脳神経が焼け焦げた。
真っ白な閃光のなかで、まるで早回しのフィルムみたいに今日までのことが頭をよぎる。
原作よりもずっと早いエルスの登場、さらには伯爵の来訪。
マルガロイドへの留学。
フィルカさん、フェリアさんとの出会い。
私への刺客、そして賢者との対決。
人形魔法の喪失。
お父様の失踪と、ウイスプ領への帰還。
たくさんのことがあった。
たくさんのことがありすぎた。
ずっと我慢していた。
心が強いふりを続けてきた。
けれど、もう限界だ。
虚勢がわりの攻撃性も品切れだ。
どこで道を間違えたのだろう。
前世の記憶を取り戻した時、私はもっと希望に満ちていた。
「原作を知っている」というアドバンテージ。
それを生かして我が身の破滅を回避しようとした。
けれど、未来を変えようとした結果はこの通り。
原作にはなかった大事件が次々に起こり、私の平穏は遠のいていく。
人形魔法というすごい力を持ってはいたけれど、むしろそのせいで面倒事を引き寄せる始末。
こんなはずじゃなかったのに。
こんなはずじゃ、なかったのに。
――だったら書き換えてしまえばいいのよ。
ふと、そんな声が聞こえてくる。
――所詮、この世は人形芝居だもの。気に食わないなら、話の筋を書き換えてしまえばいいでしょう?
――貴女にはそれができるわ。それが許されているの。
――だって、もともとこの世界の外側からやってきたのだから。
その声は。
心の内側から聞こえてくるその声は。
……他ならぬ、私自身のものだった。
* *
意識を取り戻す。
目を開く。
目の前で起こっていることを受け止める。
カジェロが燃えている。消滅させられようとしている。
――認めない。
私は右腕を振るう。
カジェロに絡みついた、死という因果の糸をひきちぎる。
道理も条理も知ったことか。
森羅万象、一切合切すべてこの場に跪け。
平伏しろ、許しを乞え。
すべては私の思うままに、望むままに。
それがほんとうの人形魔法だ。
左手を掲げる。
ただそれだけで何千発もの火炎魔法が一瞬にして消滅する。
簡単なことだ。それぞれに関わる運命の綾織を断ってしまえばいい。
「なんと……!」
足元で驚愕の声をあげたのは、人形騎士の――もう名前など覚えていないしどうでもいい。
歯向かった者にくれてやる慈悲はない。おまえなど私の物語に最初から存在しなかった。そういう風にしてしまおう。
私はその青いマフラーの人形騎士に手を伸ばす。
不要な駒を盤上から取り除くように。
余分な役者を舞台から降ろすように。
でも、その指が届く前に。
「やれやれ、キミは本当にジッとしていられない子なんだねえ、アルティ。パタパタと走り回るのは可愛いけれど、ちょっとよくないところに踏み込んでいるじゃないか」
ポンポン、と頭を撫でられて――私はふと我に返る。
まるで真っ暗だった部屋に明かりがついたかのように、私自身の意識がはっきりしてくる。
あれ?
さっきまで、私は何をやっていたんだろう?
因果の糸、ほんとうの人形魔法……数秒前まで当たり前に分かっていたことが、まるでド忘れのように理解できなくなる。
「なんだか混乱しているみたいだけれど、ボクとしては怪談話のエンディングみたいに曖昧なまま終わらせておきたいかな。
間違っても考え込んだり追及しちゃいけない。アルティが思う以上に人形魔法ってのはキケンな代物なんだ。
だから――ここから先は、ボクが引き受けよう」
そして。
トゥルス兄様は私を庇うように、その前に出た。