第四十四話 その二 予兆
フィルカ視点です。
最近外はかなり涼しくなってきたとはいえ少し動けばすぐにボロが出る。
俺は汗ダルマになって錬金術アカデミーの工房に転がり込んだ。上着を脱ぎ捨て、水分を吸ったそばから乾いていくタオル(1年前に発明したもの。分厚いのが難点)で全身を拭いていく。
脱水のせいか頭が重たく視界が定まらなかった。俺は保冷箱(2年前、俺が小型化と量産化に成功した)に手を伸ばす。中にはアルティリアがこれまで作ったブルーポーションが山のように詰められていた。片っ端から飲み干していく。体液が補われ、それに伴って呼吸も落ち着いてくる。
(たかだか俺様一本を運んだだけじゃねえか。ひ弱すぎんだろ)
入口のあたりに放り出されていたワイス殿がガタガタと不満げに体を揺らした。
(ったく。帝国じゃあ荒事もあるかもしれねえ。足だけは引っ張んなよ)
言い方こそぶっきらぼうだったが、そこには気づかわしさの成分が間違いなく含まれていた。カジェロもそうだが、精霊というのはみな素直ではないのかもしれない。
(ワイス殿、安心するがいい。
体力増強剤ならば試作品も含めて36種類はある。飲み合わせと内服間隔を調節すればそこいらの男にひけは取らん)
一歩間違えれば全身の筋肉がぐずぐずに溶けてしまうのが難点だが、そのときの治療薬もすでに開発してある。準備は万全だ。
(おいおい、まっとうに鍛えようって発想はねえのかよ)
(俺を誰だと思っている。空前絶後の錬金術師、フィルカ・ルイワスだ。
天才ならば天才らしく、並々ならぬ方法でもって結果を得るべきだろう)
(……伯爵もたいがいだが、おまえさんもおまえさんでアレだな。
ったく、ラスティユやマルアを思い出すぜ。どうして毎度毎度、人の話を聞かねえヤツばっかり集まってきやがるんだ。
賢い俺様でもさすがに理解できねえ)
ワイス殿は嘆息した。
ところで俺が青息吐息になりながらもワイス殿を運んできたのには理由がある。
短く表すなら意見を貰うためだ。
アルティリアから下された命令――他人の記憶の操作。
その実現にあたり、似たような力を持つワイス殿にここまでの研究成果を見てもらうことにしたのだ。
しかしながら。
さきほどのワイスの言葉は少々聞き逃せなかった。
歴史を嗜む者としてはぜひとも詳しく聞いておきたい。
(ワイス殿はラスティユ姫やマルア女王と会ったことがあるのか?)
2人とも精霊を使役する力を有していたという。ワイス殿とかかわりがあったとしてもおかしくない。
だが返ってきたのは想像以上の内容だった。
(ラスティユの方は眺めていただけなんだがよ、マルアなら抜群に詳しいぜ。なにせ俺様、当事者だしな)
常人ならここで呆然とするところだろう。
だが俺は違う。万古無前の天才だからだ。
ワイスの言葉を手掛かりとして記憶の星空を眺めまわす。
例えるならば星座を見出したときの感覚。点と点が結びつき、ひとつの答えを描き出す。
(なるほど、そういうことか。
800年前、帝国の第二皇女マルアが継承権争いを避けて海を渡った時、その手には精霊を宿した盾があったという。
……それがワイス殿なのだな)
(さすがは自称天才、話が早くて助かるぜ。
マルガレア王家の紋章って翼の生えた丸い盾だろ。アレ、俺様なんだよな)
(ほう、我々マルガロイド国民は知らず知らずのうちにワイス殿を崇め奉っていたわけか。面白い話だ。
ならば1つ質問させてほしい。
かの盾は"まばゆき光輪を纏い魔物を切り裂"き、"陽光の如きヴェールでマルア女王を守り抜いた"とのことだ。
ワイス殿は光精霊なのか? 氷精霊とばかり思っていたが……)
するとワイス殿は軽く刀身を持ち上げて、戻した。肩をすくめたつもりなのかもしれない。
(最初におまえさんの勘違いを正しておいてやるとするか。
属性分類なんざ人間どもが勝手に作っただけのモンだ。現実がそんなキレイな枠におさまるわきゃねえだろ。
光と氷、どっちも俺様だ。
つうか顕現させる時の名前次第だな。"穢れ祓う煉獄の鋼"なら炎精霊、"清浄なる湖の蒼眼"なら水精霊って呼ばれてただろうな。
ま、本質は氷じゃねえのか。今の俺様は力に縛りがねえんだよ。アルティのやつ、名前も呼ばずにそのまま現世に引っ張り込みやがったからな。これで体が剣じゃなきゃ、もっといろいろできたんだがな。
ま、愚痴ってもしかたねえ。
ちなみに記憶を読む力だけどよ、盾だったころもバンバンに使いまくってたんだぜ。マルアのヤツはうまく隠し通してたけどな)
(女王は人の心を見抜くことに長けていた――魔眼の持ち主だったという話を聞いたことがある。
だが真相は別にあったわけか)
(そういうこった。
さて、今度は俺様から聞きてえんだが、今日のアルティ、ちょっと妙じゃなかったか?)
俺は一も二もなく頷いていた。
先の会議を思い出す。
まるで絶対の裁定者を前にしたかのような威圧感。気づけば額にはびっしりと汗が浮かんでいた。彼女が俺の弟子だった日々が嘘のように感じられるほどだった。
(ラスティユもマルアもそうだった。ある時を境に豹変しちまうんだ。
年相応のガキっぽいところが消え失せて、大人でも老人でもねえ、何か別のおっかない存在に成り果てちまう。
俺様としちゃあ好みド真ん中なんだが……このままじゃまずいかもしれねえ)
何が困るというだろう。
俺もワイス殿と同じ意見だ。以前よりも今のアルティリアのほうがずっと魅力的に見える。
すべてを己の色に染め上げようとする強い意思、あの気高い瞳はどんな宝石よりもきらびやかだった。
だから問わずにいられなかった。
どういうことなのか、と。
ワイス殿は少しの沈黙のあと、苦々しげに語り始めた。
(前の2人はどっちも狂い死にしてるんだよ。表向きは暗殺だってことにされてるがな。
夜中に頭が痛いだなんだのと叫びだして、のたうち回って――ろくでもない最後だったよ。
このまま行くとアルティも同じ道かも知れねえ。
フィルカ、おまえさん天才なんだよな。
ラスティユとマルアがそうなった原因を一緒に考えちゃくれねえか。
心配しすぎかもしれねえが、アルティにはあんなひでえ終わり方をしてほしくねえんだ)
断る筈がなかった。
アルティリアが大切だという気持ちは今も変わっていない。
同時に。
思いがけず歴史の謎に挑むこととなり、不謹慎ながらも胸を躍らせていたからだ。
そういえば。
会議が終わった直後。
アルティリアは右手をこめかみに当てて、呟いていた。
――痛いわ。