第三十五話 その三 幕切れ
フィルカ視点
アスクラスアの足を地面と融合させる。その上で尋問なり拷問なりを行う。
それが俺の狙いだった。
結果は、といえば。
眼前にうす高く積もる青い砂の山。
かつてアスクラスアだった"もの"だ。
思いがけない事態だった。
錬金炉が俺の制御を離れ、異常な高出力状態に陥った。
石化はアスクラスアの足だけにとどまらなかった。
腰、胸、肩、両腕、首、顔――全身が岩石に変わっていく。
さらに。
アスクラスアの彫像が出来上がったかと思いきや、数秒の間をおいて砂と化してしまったのだ。
俺はアスクラスアを殺したのだろうか。
……不思議と実感がなかった。むしろ取り逃がしたような心地さえする。
(魂のみで脱出を図ったのではないかと。かの人物にとって肉体は換えの利く容れものに過ぎないのでしょう)
アスクラスアがいなくなったおかげか、カジェロは力を取り戻していた。
(これは直感めいたものなのですが、賢者はわたしに近い存在なのではないかと)
つまり精霊か何かということだろうか。それならばあの不思議な力と知恵の数々も説明がつく。
(カジェロ、他になにか判っていることはないか? 奴とはなにか因縁があるのだろう)
(確かに向こうはこちらを見知っているようでした。ですがわたしの記憶が正しければ初対面かと……)
(本当か? さきほどの苛立ちぶりからすると信じ難いものだが)
まるで一万年前からの怨敵を目の前にしたかのようで、普段は冷静なカジェロからはとても考えられない様子だった。
(自分自身でも疑問に思っております。なぜあれほどの敵愾心を抱いてしまったのか、理由がまったく浮かばないのです)
(そうか……)
これ以上は追及しても無駄のようだ。
カジェロが真実を話しているかどうかはわからない。なにか隠しているかもしれない。そうだとしても、だ。踏み込んだところでうまくいなされるだけだろう。相手はカジェロだ。
なら、今はこれでよしとする。未知に固執しすぎないことも天才の度量だ。
別の機会に別の角度で切り込めば明らかになるかもしれない。その時を待つことにする。
他に現時点でできることといえば、砂を持って帰るくらいだろうか。後で分析してみよう。
* *
これ以上牢屋に留まる理由はなかった。
俺は"相乗り"しているカジェロの力を借りて脱出する。
両手の錬金炉は暴走のせいで壊れてしまっていた。とくに右手は動かなくなっていた。早く帰って治療しなくてはならない。
左腕を薙ぎ払う。
ただそれだけのことで鉄格子はひしゃげて折れ曲がった。
人ひとりが容易に通れる空間が生まれる。
外に、出た。
駆ける。風が後を押す。馬に乗っているよりも早く感じられた。
洞窟の角を曲がった先にローブを纏った男が歩いていた。組織の構成員だろう。
音もなく、一瞬で距離を詰める。その頭を掴む。魔力を流しこんで気絶させる。
(深層意識にわたしの使い魔を潜ませておきます。彼らは知らず知らずのうちに我々に利益となる行動をとるようになるでしょう)
(便利な力だな。さすが"誘いて惑わす万魔の王"か)
(その名をどこで……いえ、賢者がそう呼んでいましたね)
(ただ者ではないと思っていたが、かの有名な精霊だったとはな。光栄な話だ)
別名、"祟りて呪う魑魅魍魎"。
最悪にして災厄の邪霊。
……150年ほど前のことだ。東の小国ネフィルにおいて狂気に駆られた神官が"誘いて惑わす万魔の王"を召喚したという記録が残っている。かの国の王は民を想い善政を敷いたことで知られていたが、一夜にして無慈悲な虐殺者へと変わり果てた。裏切りの恐怖に駆られ、それまで国を支えていた忠臣たちを次々に処断していった。浮気を疑うあまりに王妃の首を刎ねて後宮に火を放った。最後はそのような凶行に走った己を恐れて首を吊ってしまったという。それから一年と経たずにネフィルは滅亡した。
(……恐ろしくはないのですか? わたしは今すぐにでもフィルカ様の心を壊し、その体を奪い取ることができるのですよ)
(だが実行するまい。アルティリアにとって俺は有用だからな。
逆に、危害を及ぼすようならば躊躇なく手を下すのだろう?)
(勿論です。わたしの世界はお嬢様を中心として回っておりますので)
(なるほど。愛だな)
……それは俺自身にとっても思いがけない単語だった。
錬金術一辺倒、同年代と比べればあまりにも色気のない人生を送ってきた。そんな俺が愛などという言葉を吐いたのだ。似合わないにもほどがある。
だが口に出してみると案外これがしっくりくる。
真実のひとかけらに触れているのではないだろうか。
少し前の会話を思い出す。
――優しい子だな。ますます惚れてしまいそうだ。
――でしたらフェリア様が最大の敵となるかと。
違う。
俺にとって一番の恋敵となりうるのは、決して妹などではない。
(深い愛だ。これは負けていられない)
(随分と異なことを仰います。わたしがお嬢様に抱いているのは深い敬意と忠誠かと)
(ならば考えてみるがいい。
アルティリアとていつまでも少女のままではあるまい。人の生は長い数日と短い数年の繰り返しだ。すぐに大人になる。いずれ誰かのところに嫁ぐだろう。おまえはそれを眺めているだけでいいのか?)
(その人物がお嬢様にふさわしいのであれば祝福することもやぶさかではありません)
(ふさわしくなければ排除する、か。
『そもそもふさわしい者などいるはずがない』とも聞こえるが、どうだろうな)
あるいはアルティリアをかけてカジェロと決闘する未来もありえるかもしれない。
相手は古代の神々と並ぶほどの力を持つ精霊だ。
天才が全身全霊でもって挑むのに不足はない。
俺はカジェロから借りた力でもって洞窟内にいた奴らを次々に打ち倒していく。脱出は容易に達成されるだろう。
問題はもはやそこにない。
重要なのはこの戦いを通して少しでも多くカジェロの力について把握することだ。どう立ち向かい、どう打ち破るか。その手がかりが欲しかった。
ああ、そういえば。
さっき曲がり角に差し掛かった時、不注意で人にぶつかってしまった。ロキソナ教の象徴色である青と白の僧衣を纏っていて、顔はというとオークのような鼻が印象的だった。俺が猛烈な勢いで走っていたこともあり、男はその巨体にもかかわらず綺麗な放物線を描いて吹っ飛び、床に頭を打ち付けた。そのままぴくりとも動かなくなった。
(……殺してしまった、か)
(いえ、昏倒しているだけかと。
それよりフィルカ様、この人物だけは連れて帰るべきかと)
(理由を教えてくれ。この肥満体を運ぶ労力に見合った成果が得られるのだろうな)
(勿論です。
ロキソナ教大司教プロフエン。
彼は一連の事件の首謀者なのですから)
意外だった。
意外すぎた。
これが小説や戯曲なら、首謀者は最後の最後で強敵として現れていたところだっただろう。
それが、こんなにもあっけなく決着がついてしまうとは。
ただただ眼をぱちくりさせるしかなかった。
フィルカとカジェロの話はここで一区切り。
次回、賢者の誘惑に負けてしまった少女の話。