第二十九話 人形姫襲撃事件
『波止場のにぎわい』亭に戻ろうと振り返った矢先のことだった。
すぐそばの角から落ち武者みたいなざんばら髪の男がぬうっと現れたのだ。
そいつはまるで顔見知りに「やあ」と挨拶するような、気軽ささえ感じられる動作でもって剣を抜いた。刃が振り下ろされる。
あまりにも唐突すぎた。
脳は危険を認識しているのに、体がついてきてくれなかった。
このままだったら私はなすすべもなく命を落としていたかもしれない。
そうならなかったのは。
(姫様、にげて!)
護衛として近くに隠れていたヴァルフのおかげだ。
彼は炎剣でもって通り魔に立ち向かっていた。
――ここから先の記憶は自分でも戸惑うくらいに鮮明だ。命の危機に瀕して集中力が極限まで高まったせいだろう。
ヴァルフの出現に通り魔はそれほど驚いてはいなかった。
そいつは平然と、それどころか黄色く汚れた歯さえ見せてにやついてみせたのだ。
剣と剣がぶつかり――不可思議なことが、起こった。
ヴァルフの燃え盛る刃が、ギチギチと音を立てて凍りついていた。
通り魔の剣は氷柱から切り出したように透明だった。普通じゃない。たぶん、魔法剣のたぐいだ。
けれども炎剣に勝ってしまうだなんて、いったいどれだけの魔力がこめられているのだろう。
ヴァルフの判断は早かった。すぐに剣を手放していた。
それでも遅かった。
わずかに柄に触れていた手先から凍結が広がった。
首から下を氷漬けにされて転がるヴァルフ。
ところで、通り魔は剣を右手だけで握っていた。
空いた左手は顔の高さに掲げられていたのだけれど、2度、手を開いて閉じる動作を繰り返した。
こういう脈絡のない動作は魔法発動のキーであることが多く、実際その通りだった。
虚空に光で縁取られた三又槍が出現する。
その切っ先が向かうのは――私。
ヴァルフは身動きがとれず、カジェロもサボテンくんもここにいない。
彼ら以外の人形はマルガロイドに連れてこなかった。
自分を守れるのはもはや自分しかいないのだけれど、私はここまで何もしてなかったわけじゃない。
可能な限り距離を取りつつ、黒いレースの手袋をはめていた。2年前からちょくちょくと改良を続けてきた自信作だ。複数の精霊の加護を編み込み、一般魔法の真似事ならこれひとつでこなせるようになっている。
各属性の魔力障壁を同時展開して槍を受け止めることにする。
性能の限界で目の前にしか生成できないけれど、30枚も重ねればまず破られることはない。もしもの場合があったとしても大丈夫だ。着ているワンピースは特別性、そこらの鎧にひけはとらない。
私は魔法を発動すべく身構えた。
――けれどその人物からすると、私は迫る死の気配に怯えて立ちすくんでいるように見えたらしい。
「危ねえ!」
逃げ惑う人々の中から飛び出したのは、ちょっと前に声をかけてきた赤毛の青年。どうしてこんなところに? 後をつけてきていた?
まさか。偶然通りかかっただけだろう。
そんなことよりも重要なのは、彼は私をかばうように駆け込んできていて、しかもその位置は魔力障壁の外側だったのだ。
私には、どうすることもできなかった。
「……ぐ」
光槍が薄手の革の鎧を貫く。
矛がその背中から半分ほど顔を出して、消えた。
赤毛の青年は仰向けに倒れた。胸に大穴が空いている。地面に赤黒い染みがひろがっていく……。
私には怯えたり声をあげたりする暇もなかった。
通り魔の、二の太刀が迫っていたのだ。
間一髪でかわしたつもりだっただけれど、遅かった。
左腕に鋭く熱い感覚。
切られていた。
赤い血がしたたり、しずくとなって落ちた。
痛みはなかった。神経が高ぶっていたからかもしれない。
通り魔は枯れ木のように乾いた肌にニイと下品た笑みを浮かべていた。
「随分といい服を着せてもらってるんだな。
仕留めたつもりだったが、太刀筋を逸らされるとは思っていなかった。
一筋縄ではいかなさそうだ」
実際のところ、先の一撃は私の背中を深くえぐっているはずだった。
そうならなかったのは、ひとえにワンピースに宿した風精霊のおかげだ。
「これも依頼だ。
お前に恨みはないが……いや、ないわけではないな。
フェリアがどんな顔をするのか楽しみだ。クク」
通り魔が言葉を重ねるたび、何も握っていない左手に魔力が集まっていくのが感じられた。どうやらさっきの光槍を再び生み出そうとしているらしい。
魔法にはいろいろとあって、詠唱が必要なものもあれば念じるだけですむものもある。
中には発声でもって魔力を練るタイプがある。喋る内容は雑談でも何でも構わない。通り魔が使っているのはこれだろう。
「お前の殺害についてはマルガロイド王家から黙認を得ている。治安騎士団どもなら来ないだろうよ。
――覚悟することだな、人形姫」
相手が剣だけならなんとかしのぎきれる。
向こうだってそれがわかっているからこそ魔法も使おうとしているのだ。
障壁を展開しながら斬撃をかいくぐるのは、ちょっと困難の度が過ぎる。
カジェロはすでに呼んでいるけれど、到着まで私が生きているという保証はない。
危機的な状況だった。
それにしても。
目の前で人が殺されて、自分自身も傷を負っているというのに。
どうしてこんなにも落ち着いていられるんだろう。
まるで心が鉄の壁でできているみたいだ。
剣と槍の両方を操る通り魔。どうやらフェリアさんに恨みを持っているらしい。
さっきの話に出てきた4番目の婚約者だろうか。やりたい放題の末に勘当されたことを逆恨みしている?
そんな推理を立てる余裕まであった。
ワンピースに精神力強化でも付与していただろうか。
覚えがない。まあいい、細かい話はあとだ。
時間を稼がないといけない。
そしてその手段はすでに思いついていた。
通り魔がぺらぺらと語りながら魔法を編んでいる間に、私も私で準備を進めていたのだ。
曲芸みたいなものだけど、間違いなく相手の動きは止められる。
うまくいけば魔法剣を無力化、あるいは奪ってしまえるかもしれない。
やるだけの価値は十分ある。
やっぱり最後に頼れるのは自分の得意技だ。
「噂に聞く通りずいぶんと子供離れしている。
すこしは怯えた表情を見せたらどうだ」
「もうしわけありません、下衆に向ける愛想は持ち合わせておりませんので」
ついつい強い言い方になってしまう。
特有魔法を使う時はどうにも自制のタガがゆるみがちだ。
表情も、たぶん、ひどく嗜虐的なものになっていることだろう。
……そろそろ何をするつもりか話しておこう。
たとえば、私の首のペンダント。
ここには水精霊を宿っているけれど、方法としては人形魔法の応用に過ぎない。錬金術との合わせ技だ。
本来なら魔法糸やら魔法陣やら錬金炉やらの準備が必要だ。
けれど、そのほとんどを省略できる最高の供物がここにある。
意図せずに流された術者自身の血液。
しかも私の場合は古くから続いた魔法使いの家系、その魔法的濃度は普通の人間の比じゃない。
いま、通り魔の剣は私の血に濡れている。
詠唱もすでに心の中で済ませている。
条件は揃っていた。
あとは、ただ、意思を込めて何らかの言葉を発するだけ。
「さっきは私の服をほめていただきましたけれど、その剣も素敵ですね。
透明で、きれい。
――だから、それ、くださいな」
瞬間。
真夏で日陰もさしていないのに、ひどく冷たい風が吹き抜けた。
人々の狂乱もぴたりと収まり、嘘くさいまでの静寂が訪れていた。
重々しく禍々しいなにかがすべてをおしつぶすように満ちていた。
精霊だ。
向かうべき体を探す"それ"を私は導く。
通り魔の剣。
大層な魔法が施してあるみたいだけれど、幸い、ヴァルフの剣と打ち合ったときにかなり消耗してしまっていたらしい。
精霊はすぐさまその剣を自らのものとしてしまった。
「な、なんだっ……!」
通り魔が戸惑うのも無理はない。
今や彼の体は勝手に動き出していた。
魔法発動のために挙げつつあった左手は右手とともに剣を握っている。
その刃は自分自身の首に向けられていた。
この精霊はよほど格の高い存在らしい、いともたやすく通り魔の体を支配下に置いてしまっていた。嬉しい計算外だ。
「だめ、殺さないで。カジェロに渡して色々聞き出してもらうから。
とりあえずそいつはすみっこにでも立たせておいて」
こくこくと通り魔はうなずく。
本人の意思はおかまいなしだ。
『波止場のにぎわい』亭の入り口のそばでピンと背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとった。
さて。
1つ問題は片付いた。
けれどまだ終わりじゃない。
私をかばって斃れた赤毛の青年。
このまま死なせるのは、嫌だった。